2018年03月25日

映画『終着駅トルストイ最後の旅』理想と悪妻の知性/感想・あらすじ・ラスト・解説・ネタバレ結末

逃亡者としてのトルストイ

原題 The Last Station
製作国 イギリス・ドイツ・ロシア合作
製作年 2009年
上映時間112分
監督 マイケル・ホフマン
脚本 マイケル・ホフマン
原作 ジェイ・パリーニ『終着駅 トルストイの死の謎』


評価:★★★★    4.0点



一世を風靡し、歴史をも変えたある科学的知見があった。
それを「唯物論」という。
このマルクスとエンゲルスが論じた弁証法的経済学は、最終的に共産主義革命となって、20世紀の社会を大きく揺り動かした。
しかしそこには、旧約聖書にある「バベルの塔」のごとく、神に許されない不自然さがあったようにも思う。
この映画は、そんな近代に打ち建てられた「バベルの塔」に、逡巡する近代の知識人の姿を描いて秀逸だと感じた。

映画『終着駅トルストイ最後の旅』ストーリー

1910年のロシア、ロシアの偉大な文豪レフ・トルストイ(クリストファー・プラマー)の最後の年。
thelast-Bulg.pngモスクワでは青年ワレンチン・ブルガコフ(ジェームズ・マカヴォイ)が、トルストイ協会の面接を受けていた。協会の幹事ウラジミール・チェルトコフ(ポール・ジアマッティ)の面接により、ブルガコフはトルストイの秘書として採用された。
Thelast-cheru.pngそんなブルガコフにチェルトコフは、トルストイの50年連れ添った妻ソフィヤ伯爵夫人(ヘレン・ミレン)に注意しろと語り、彼を困惑させた。

ブルガコフがトルストイの住む共同体に着いてみると、多くの若者たちがトルストイを崇拝し共同体で暮らしていた。
ワレンチンはその中で、トルストイ夫婦の秘書として生活し、2人と親しくなっていく。
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しかし妻ソフィヤは、トルストイが独自の彼の霊的な理想と禁欲主義に基づき、爵位や財産、家族など個人の私有財産を捨て、菜食主義の共同体で生きていることに反対で、共同体の弟子たちから煙たがられていた。
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そしてある日、ソフィアはトルストイが弟子チェルトーコフから、その小説を共有財産とするため「作品の著作権をロシア国民に与える」という遺書への署名を求められていることを知った。
ソフィアは、チェルトーコフの元に駆けつけ怒りを爆発させた。チェルトーコフとソフィヤの話し合い物別れに終わり、彼女は家族のためにその財産を守ると宣言する。ソフイアは一人で戦うが、それは夫トルストイと娘サーシャ、そして信奉者たちにとって意に添わないものだった。チェルトコフは彼女の行動はトルストイを傷付けると警告する。

Thelast-misha.pngそんな2人に挟まれ、青年ブルガコフは板挟みとなる。そんな中でも、ブルガコフは、共同体に参加している娘マーシャ(ケリー・コンドン)に恋をし、夜を共にするが、彼女の従来の貞操観念に捕らわれない考えに困惑した。

しかし、ソフイアとチェルトコフの争いは止むことなく、ついに82歳のトルストイは、新たな遺書にサインをすると真夜中に1人家から逃げ出した。
それを知ったソフィアは、絶望のあまり自殺を図る・・・・・・・

映画『終着駅トルストイ最後の旅』予告


映画『終着駅トルストイ最後の旅』出演者

ソフィヤ・トルストイ(ヘレン・ミレン)/レフ・トルストイ(クリストファー・プラマー)/ワレンチン・ブルガコフ(ジェームズ・マカヴォイ)/ウラジミール・チェルトコフ(ポール・ジアマッティ)/サーシャ・トルストイ(アンヌ=マリー・ダフ)/マーシャ(ケリー・コンドン)/ダシャン(ジョン・セッションズ)/セルゲンコ (パトリック・ケネディ)


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映画『終着駅トルストイ最後の旅』感想・解説



近代を揺るがした、マルクスとエンゲルスの教義の基本は、経済的=社会的な富の蓄積によって、社会的な制度=政治体制が変化するというものだ。
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そして当時の欧州の歴史的段階は、富を一部資本家が独占する段階を過ぎ、労働者大衆が等しく富を教授すべき時であり、仮に資本家が自ら富の配分を為さない場合は、革命という手段も止む無しと論じる。

その理論に立って、レーニンはロシアに共産主義革命を起こした。
この映画は、そのロシアの帝政末期、ソビエト革命の前夜に生きた文豪トルストイの物語である。

その晩年のトルストイが、理想を求めて建設した「コミュニティー=共同体」の姿とは、まさに共産主義的モデルだと感じた。

そして現実の文豪トルストイの果たした役割とは、近代と、それ以前の、知性の橋渡しだったように思う。

トルストイ紹介


レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ(露:Ru-Lev Nikolayevich Tolstoy.ogg Лев Николаевич Толстой, Lev Nikolayevich Tolstoy, 1828年9月9日〔ユリウス暦8月28日〕 - 1910年11月20日〔ユリウス暦11月7日〕)は、帝政ロシアの小説家、思想家で、フョードル・ドストエフスキー、イワン・ツルゲーネフと並び、19世紀ロシア文学を代表する文豪。英語では名はレオとされる。代表作に『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』など。文学のみならず、政治・社会にも大きな影響を与えた。非暴力主義者としても知られる。
<トルストイ本人の記録映像>

(中略)精神的な彷徨の末、宗教や民衆の素朴な生き方にひかれ、山上の垂訓を中心として自己完成を目指す原始キリスト教的な独自の教義を作り上げ、以後作家の立場を捨て、その教義を広める思想家・説教者として活動するようになった(トルストイ運動)。その活動においてトルストイは、民衆を圧迫する政府を論文などで非難し、国家と私有財産、搾取を否定したが、たとえ反政府運動であっても暴力は認めなかった。当時大きな権威をもっていたロシア正教会も国家権力と癒着してキリストの教えから離れているとして批判の対象となった。また信条にもとづいて自身の生活を簡素にし、農作業にも従事するようになる。そのうえ印税や地代を拒否しようとして、家族と対立し、1884年には最初の家出を試みた。( ‎Wikipediaより)

トルストイ以前、即ち前近代には、かつての全世界の森羅万象が神という絶対者によって成立したものだと信じていた。
当時の人々は、総ての運命を「神の思し召し」として受け入れ、ただ敬虔であれば救われた。
The-last_Tolstoy_and_wife_1910.jpg
しかし、人々の前からいきなり神が消滅し、世界の運命は人類自身に全ての責任があると告げられたとき、人々は迷い子のように不安におののくことになった。

近代における苦悩の本質を、例えばニーチェは哲学で、マルクスは経済学によって、救済しようと格闘した。
しかし、そんな学究的な理論を解し得ない庶民大衆に対して、近代の救済を提示した者こそトルストイではなかったか。(右:現実のトルストイと妻ソフィア)

トルストイは、その救済を「小説」という形式で描き得たからこそ、この時代における寵児として存在したに違いない。

実際、現在から見れば奇異に感じるかもしれないが、トルストイはこの映画にも出てくるように、当時はマスコミに追いまくられる、大スターだったのだ。

これはメディアの発達もさることながら、トルストイが発するメッセージがどれほど時代に必要とされたかの証明であったろう。
The-last_Tolstoy&wife_film.jpg
トルストイは人々の希望として、人々を導く光として存在した。
しかし、その光の指し示す方向はあまりに「理性」に偏っていたかもしれない。

この時代における人間の知性は、神に対抗するかの如く「理想的」で「教条的」だ。
結局世界を「理詰め」に解釈していった先に、数学的な公理として「社会」や「人間」を記号化して人類の営みを成立せしめようとしはしなかったか。

それら、理性的数値として追及された人間は、最終的に国家という集合的利益追求集団に収斂せざるを得なかった。
しかしその「近代国家」が一個の人間にどれほどの犯罪的行為を強いたかを考えれば、あまりにこの「理性的世界」の有り様は、機械的で人間性を無視した社会体制であったかと問わざるをえまい。

端的に、ロシア革命の先に生まれた「ソビエト連邦」という壮大な実験が失敗に終わったのも、この「人工的な理想」が個人の欲求を否定する形でしか成立し得なかった事に因るであろう。

この近代における「人工的理性」と「人間性=生命の欲望」の板挟みになった人物こそ「トルストイ」その人であったと、この映画は告げている。
the-last.jpg彼の妻が「愛」を叫ぶとき、それは生物学的な必然を、神が与え賜えた人間性の表出を求めているのだ。
また彼の信奉者たちが「理想」を高く掲げるとき、神なき世界を人知によって「再構築」せざるを得ない、社会的必要を説いているのである。

つまるところ、世界三大悪妻の汚名を着せられたソフィアこそ、災難だったろう。
彼は夫の「非人間的な理想」を前に、夫の「人間性の回復」を求めたに過ぎない。

そもそも、人は人しか愛せないという、自明の理を「トルストイ=非人間的理想主義者」に訴えたのが、ソフィアだった。
つまり、ソフィアの行動は愛から発し、それだけ強く愛を求めなければトルストイを取り戻せないほど、遠くに彼が離れてしまったという事実を示すものだったろう・・・・・・

その両者の間「人間性と人工的理想社会」の中間で逡巡したトルストイは、ついに逃亡せざるを得なくなるのだ。
この映画は、そんな神的世界の崩壊後を生きる、近代そして現代にまで連なる、人類の苦悩をトルストイに仮託して描き見事だと思う。

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以降の文章には

映画『終着駅トルストイ最後の旅』ネタバレ

があります。ご注意ください。

しかしソフィアの自殺は、未遂に終わった。
旅を続け著作に励む老齢のトルストイは、ついに病を発した。
Thelast-koch.png

ソフィヤはトルストイのいるアスターポヴォ駅へ向け、列車でロシアを横断する。
トルストイの信奉者チェルトコフは、その死を荘厳なものとするため、ソフィアをトルストイに会わせまいとする。
TheLast-hold.png
しかし、秘書のブルガコフは、人間トルストイはソフイアに会いたがっていると涙ながらに訴えた。

映画『終着駅トルストイ最後の旅』ラストシーン

トルストイは、傍らのソフィアに看取られながら、アスタポーヴォ駅・駅長舎で83歳の生涯を閉じた。
Thelast-last.jpg

映画の最後は、次の一文で閉めくくられる。
「1914年。ロシア上院はトルストイの全仕事の著作権を、ソフィアに復権せしめた。彼女が最愛の我が家で死んだ5年後の事である。」



posted by ヒラヒ at 17:48| Comment(0) | TrackBack(0) | ロシア映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月26日

映画『戦艦ポチョムキン』革命的モンタージュの雄叫び/あらすじ・感想・ネタバレ・解説・ラスト

革命の雄叫び



評価:★★★   3.0点

この映画を見て、明治文学界の革命者「二葉亭四迷」を思い出しました・・・・・
正直この作者の「浮雲」を読んでも面白いとは思わないのですが、日本文学が話言葉を持ったという「言文一致」を始めて世間に問うた、ただ一点で歴史的な価値を不動のものとしました。

この映画も、映画として「面白い面白くない」はともかく、今となれば映画の歴史の中で必ず言及される古典作品です。


戦艦ポチョムキン・あらすじ

ロシア・ロマノフ王朝末期の1905年6月には、労働者ゼネスト、農民の暴動、反乱が相次ぎ、革命の声が軍隊の内部にまで高まって来た。ここ戦艦ポチョムキンでも、食料に蛆が湧いているのを見て、水兵たちの怒りが爆発した。しかし先任士官ギリヤロフスキーは水兵たちに、腐肉のスープをテーブルに並べた。だが、怒りに燃える水兵は手をつけない。非常呼集が掛けられ、甲板に整列した水兵に艦長ゴリコフ(V・バルスキー)は、スープに満足していない者に罰を与えろと命じ、兵達は動揺した。しかし命令に従わず抵抗する水兵たちにギリヤロフスキーは水兵を射つよう命令した。水兵ワクリンチュク(A・アントーノフ)は「兄弟たち、誰を射つつもりか!」と叫ぶと銃はおろされた。更に自ら発砲しようとするギリヤロフスキーに対して、水兵たちは一斉に蜂起した。艦長・軍医・士官は海に投げこまれ、船を水兵が占拠したが、指導者ワクリンチュクも命を落とした。ポチョムキン暴動のニュースはオデッサの町中に広がり、民衆の心を大きく揺り動かした。そしてオデッサ市街でも、人々が蜂起し暴動が発生した。そんな大衆に向けて容赦ない官憲の武力鎮圧が行われた。一方、ポチョムキン号には、黒海艦隊が反乱鎮圧のため差し向けられたという情報が入る。水兵たちは激しい討論の末、徹底抗戦に意見は決した。そして、夜になり、黒海艦隊艦隊が姿を見せる・・・・・・

(英語題 Battleship Popemkin/製作国ソ連/製作年1925年/上映時間66分/監督セルゲイ・M・エイゼンシュテイン/脚本セルゲイ・M・エイゼンシュテイン、ニーナ・アガジャノヴァ・シュトコ)

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戦艦ポチョムキン・感想・解説
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戦艦ポチョムキン・作品解説
セルゲイ・M・エイゼンシュテインが、第一次ロシア革命と呼ばれる一九〇五年革命のなかの、歴史的事件“ポチョムキン号の反乱”をテーマに製作したもの。彼は監督・シナリオ・モンタージュを担当し、《リズミック・モンタージュ》と《音調モンタージュ》は特に有名である。シナリオはニーナ・アガジャノヴァ・シュトコがエイゼンシュティンに協力している。撮影はエドゥアルド・ティッセ、音楽はニコライ・クリューコフ、録音はイ・カシケヴィッチ、美術はワシリー・ラハリスが担当した。なお、助監督にグリゴーリ・アレクサンドロフがついている。出演はア・アントーノフ、グリゴーリ・アレクサンドロフ、ウラジミール・バルスキーらのほかに、エイゼンシュティン自身が神父役で出演している。(キネノートより引用)


potyomu-po1.jpgけっきょく映画技術としては、その後格段の進歩を遂げているので、コマ割りにしても、カメラアングルにしても、古いイメージは否めません。
正直言えばオデッサの階段のパニックシーン以外は、今の眼から見れば、それほどタイトな映画ではありません。

正直、この映画を映画館で上映して、スターウォーズと同じ値段を取ろうとすれば、あまりの面白くなさに、暴動が起きかねないでしょう。

しかし映画技法パイオニアとしての歴史的価値を考えれば、映画として面白い面白くない以前に、既に「浮雲」同様の不動の位置を占めている点は認めざるを得ないと思います。

その歴史的な「表現力の向上」を検証するために、この映画より更に古い映画をテキストとしてご覧下さい。
1903年エドウィン・S・ポーター 監督「大列車強盗(The Great Train Robbery)」

エジソン社が製作の世界初の西部劇。ラストシーンで銃を向けられた観客達は、劇場から本当に逃げ出したのだと言う。これも間違いなく歴史的映画遺産。

上の「大列車強盗」では、カメラが据え置きで移動しないのはともかく、ズームとパンが無く、更にカット割が基本的にありません。
つまりは舞台を見る観客の視線で固定され、舞台下の観客の目線をカメラが肩代わりしているのです。
つまり、エイゼンシュテイン以前の映画カメラは、傍観者、客観的視座として位置し、それを見る観客は客観的第三者として見ること以外できない、撮影方法だったと言えるでしょう。

まずは、そんな上の定型の映像イメージで、頭を一杯にして下さい。
いいでしょうか、大丈夫でしょうか、では次の動画をご覧下さい。
エイゼンシュテイン・モンタージュの名場面「オデッサの階段」


いや〜スゴイ、すごい、凄いとしか言いようが無い!
potyomu-shout.jpgカメラはロングから、カットが入って強調したい対象に切り替わり、「状況の説明=客観的説明」と「人物の目線=主観」が交互に切り替わり、映し出され、あまつさえカメラが(ジリジリとではありますが)移動さえします!
とりわけ、現代ですら通用する大胆なアップは、叫ぶおばちゃんの迫力も相まって、夢に出そうな迫力ではないですか。


potyo-pos2.jpg「大列車強盗」が川の向こうの火事だとすれば、「戦艦ポチョムキン」は火事の真っ只中にいる人間の、主観的体験を語るべき視線にまで進化を遂げていると感じます。

四コママンガを見ていた子供達が、手塚治虫のコマが自在に大きさを変える、ストーリーマンガを始めて見た時に匹敵するぐらいの、表現における革命的な事件だったに違いありません。

そういう意味で、当時の衝撃の深さを、多少なりとも追体験して頂けたのではないでしょうか?

そんな映画史に残る革命的な作品のですが、実は題材も「ロシア革命」なのでした。


映画として、現代の目から見れば「面白い」とは言い難いこの映画ですが、個人的に感動したのは、技術を越えた勢い、迫力、パッションが、サイレントでありながらこれほど伝わってくるという事実でした。
potyo-poster.jpgこれは真に奇跡的なことではないでしょうか。
しかも役者は、あのスゴイ叫び声を上げるオバチャンも含め、数人を除きほぼシロートだそうです。
それでこの表現力はどうした事でしょう。

この映画の製作年は1925年で、ポチョムキン号蜂起から20年目、ロシア革命から数年後の作品です。
そう考えれば、ロシア共産革命はツイ昨日の事です。

これはその共産主義の理想を反映した、間違いなくプロパガンダ映画です。


しかし、通常のプロパガンダ映画と違うのは、監督も出演者も自分達の伝えようとする「共産主義」を、絶対的正義と信じて、信念と確信をこの映画に注ぎ込んだことだと思うのです。
ここには、共産主義に対する絶対の自信と、誇りが、満ち溢れていると感じます。

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権力者を庶民大衆が打倒した、世界初の共産革命が意味したものは、労働者達の労働者達による労働者のための国家が生まれたという事実でした。

皇帝でもなく、資本家でもなく、労働者が権力を得ると言う事は有史以来初の出来事であり、ロシア民衆にとっては真に誇るべき、理想であり、理念の現実化でした。
それはアメリカの民主主義に比べても、先進的でより民衆にとって価値をもつ政治体制だと、多くの進歩的な人々が信じていたのです。

そしてそれを自らの血と引き換えに、現実化したロシア民衆にとっては、世界中に共産革命を誇るべき歴史的事件だったのです。

つまり、自分達の勝利の雄叫びがこの映画であり、その喜びと開放が、この映画の凄まじいばかりのパワーとなって奇跡的に結実していると思うのです。

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それはたとえば、オデッサの階段以外の間延びしたシーンでも、人物が現れた瞬間に画面がエネルギーで満ち溢れるように活気を帯びるのが、何よりの証拠だと思うのです。


この映画が伝える熱気こそが、ロシア民衆が革命を信じていたという歴史的証拠物件だと言えるでしょう。

そして、更に大胆に推論を推し進めれば、ソヴィエト連邦、共産主義革命の勝利という、ロシア人民にとっての主観的な大事件の感動を、この世に余すことなく表現したいというエイゼンシュタインの強い意志が、これほど革命的なモンタージュを生み出したのではないでしょうか・・・・・・・・

だとすれば「ロシア革命」は「世界初の共産主義国」を生み出しただけではなく、「近代映画表現」も生み出したのだと言わせて頂きます。

Potem-odesa.jpg


しかし、歴史は進みソヴィエト連邦は崩壊し、映画の表現はカメラの進化と共にとどまる所を知りません。
例えば、今の技法を使ってこのオデッサのシーンを撮影すると思えば、あの技法や、この技法で、もっと見栄えの良いものになるのは間違いないでしょう。
そんなことで現代の目線での映画としての面白さは★1・・・です。
映画史的価値と歴史資料的価値で★2・・・です・・・・・悪しからずご了承下さい。
ケビン・コスナー主演『アンタッチャブル』オデッサ階段シーンへのオマージュ
スローモーション・ズームアップ・マルチカメラ・俯瞰・アオリ・・・いやあ〜ここまで表現技術は進んだのかと感心しますが、その歴史的一歩はこの映画のモンタージュにあるのです・・・

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以降
戦艦ポチョムキン・ネタバレ
戦艦ポチョムキン・ラストシーン
を含みますので、ご注意下さい。
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黒海艦隊艦隊が姿を見せ、マトウシェンコの命令で、ポチョムキンのマストには「われらに合流せよ」の信号旗が上げられた。
いよいよ艦隊は射程距離内に入り、戦いか、死か、緊張した一瞬がながれ―
戦艦ポチョムキン・ラストシーン

【意訳】「我らと連帯せよ」とシグナルを送れ/連帯・・・我らと!/敵は射程距離内に入った/皆は一人のために/一人は皆のために/発砲?/兄弟よ/同士を賞賛する声が響く/戦艦ポチョムキンは自由の赤旗を掲げ艦隊に合流した/

この映画の、出演者の表情の生き生きしているのを見ると、やはりこの当時のロシア人にとって「ソヴィエト連邦」とは理想の王国だったように感じられてなりません・・・・って・・・・私がプロパガンダに乗せられたんでしょうか?


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posted by ヒラヒ at 17:40| Comment(4) | TrackBack(0) | ロシア映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする