2016年09月25日

傑作映画『パンズ・ラビリンス』これこそ真のファンタジー!/ネタバレ感想・解説・あらすじ・ラスト意味

ファンタジーの復権



評価:★★★★★  5.0点

ディズニーの罪というモノがある(と勝手に私は思っている)。
童話、おとぎ話を万人向けに加工し、口当たりの良いドラマに仕立て上げた のはまだしも、そのドラマツルギーにアメリカ的な「勧善懲悪=理性」を安易に持ち込んだことによって、本来の童話の持つ潜在的な力を喪わせたことだ。

『パンズ・ラビリンス』ストーリー


1944年のフランコ将軍のファシズム政権下のスペイン。反フランコのパルチザンは山奥で抵抗を続けていた。母カルメン(アリアドナ・ヒル)に連れられて、おとぎ話が大好きな少女・オフェリア(イバナ・バケロ)はフランコ軍のビダル大尉(セルジ・ロペス)の対パルチザン駐屯地にやってきた。ビダル大尉と母が結婚し、母はビダル大尉の子を宿していたからだ。ビダル大尉はオフェリアを嫌い辛く当たる。一方、小間使いのメルセデス(マリベル・ベルドゥ)はパルチザンの協力者でオフェリアを可愛がる。そんなある晩、山羊の頭と体をしたパン(牧神)が現れ、オフェリアは魔法の王国の王女モアナの生まれ変わりだと告げる。そして満月の夜までに三つの試練に耐えられれば、両親の待つ魔法の王国に帰ることができると語った・・・・・・現実世界ではゲリラ軍とフランコ軍の激烈な戦いが始まる・・・・・・。

『パンズ・ラビリンス』予告


(スペイン・メキシコ/2006年/119分/監督・脚本ギレルモ・デル・トロ)

『パンズ・ラビリンス』受賞歴


第79回米アカデミー賞で撮影賞、美術賞、メイクアップ賞
第60回英国アカデミー賞で外国語映画賞

BBC選出『21世紀最高の映画』第17位:⇒リンクはこちら


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『パンズ・ラビリンス』感想・解説

ファンタジーの意味


おとぎ話=ファンタジー」とは本来、人々の集合的な無意識の集積の果てに形成・改変された童話物語は、 どこか、不合理さや矛盾、猥雑さや不道徳さを含んだ、決して美しく正しい 話ではない。


例えばシンデレラの原典では、ガラスの靴を履くために継母が娘達の足を切るし、赤ずきんでは騙されておばあさんを、ワインと干し肉として食べる。
そんなオドロオドロしい世界観は、狸がおばあさんを殺し鍋の具材にしおじいさんに喰わせる「かちかち山」で分かるように、日本の「おとぎ話」にも共通する物語世界である。

本来このように、キリスト教的「真・善・美」の体系からこぼれ落ちた「禍々しい淀み」が凝固した、不可視の魂や霊の結実した物語として「おとぎ話」はあったのである。
それであればこそ、人々は否定しようのない正義や、強い抑圧から逃れるための、一種の安全装置として、おとぎ話を伝承してきたのだ。
童話のオリジナルに近ずけば、近ずくほど、暗闇の持つ混沌に満ちた力を見せるのはそういう理由による。

この映画は、その原初的な「ファンタジー物語」の強さを、現代に示して見事だと思う。

更に、フランコ政権下のスペインを舞台に選んだ事によって、現実社会の抑圧としてのファシズムが「男系(男性)的な理性世界」であり、その世界を保持するためには「禁欲的人工世界」によって、自然界の持つ曖昧さ「情」や「愛」を拒絶して成立すると語られているように思われる。panz.jpg

またその対比として、女たちの存在を支える物が「自然界」の持つ「感情的 呪術力」にあり、その自然界に対する感能力によって「人工世界」に収まらない事を鮮やかに、示していると感じた。

この「おとぎ話」に代表される「自然界の聖霊=呪術」に連なる力こそ、近代に確立した男性的な理性という名の人工楼閣を突き崩す最も有効な武器ではないだろうか。

そういう意味でこの映画は、行き過ぎた近代合理が「理論」を強く築けば築くほど失っていく、「世界」を構成する自然界の諸要素の反撃を力強く表現して、見事な物語というべきであろう。

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以下の文章には

『パンズ・ラビリンス』ネタバレ

があります。ご注意ください。

ただしこの映画で注意が必要なのは、歴史的事実とファンタジー世界が混在しているため、ややもすると現実世界を描いた物語で、幻想部分は少女の病的な逃避だと解釈されかねない点である。

このDVDのタイトルにすら「幻想に逃げ込む云々」と書いてあったりするので困りモノなのだが、そう捉えてしまえば、このファンタジー世界は少女の妄想となり、ラストの解釈が間逆になってしまう。
この映画の最後に少女は、現実世界により殺される。
そして、そこにファンタジー世界が現れ、彼女は無事全ての試練を乗り越え、ファンタジー世界の王女として玉座に迎え入れられ栄光の内に終わるのである。

『パンズ・ラビリンス』ラスト・シーン



【意訳】声:わが娘よ。/オフェリア:お父様/王:お前はお前の血を流すことを厭わず、無垢なるものを選んだ。それが最後の、最も重要な試練だった。/パン:ほんとうに、あなたは立派に選ばれました。王女陛下。/妃:私の元に来て、あなたの父の横に座りなさい。王は本当に長い間あなたを待ったのですよ。(ナレーション)こうしてお姫様は、彼女の父の国に戻って行ったそうです。彼女は正義と寛容の心で、何世紀も国を治めました。彼女は王国の臣民によって、愛されました。そして彼女は去った後、地上にわずかな痕跡を残しました。それは見える人にだけ見えるのです。

このラストを死に行く少女の妄想だと見れば、たちまち現実世界に適応できない少女の悲劇の物語として終わり、たちまちファンタジーの栄光、自然界の精霊は、雲散霧消してしまうだろう。
断じてこの物語は、現実に殺された少女の物語ではなく、ファンタジー世界で王女となる栄光の物語なのだ。
実際よく見てみれば、劇中でマンドラゴなど幻想世界の事物が、明らかに現実世界を侵食しているところから見て、ファンタジー世界が現実を覆っている、つまりは「ファンタジーが現実世界より優位にある物語」と見るべきだ。
また、この監督の南米的な感覚を持ってすれば、ファンタジー世界と現実世界とは、むしろ自然な感性として並存し、さらにはファンタジーの優越を感じている世界に生きて来ただろう。

幻想世界こそが主体として在る物語だからこそ、この映画のラストは「おとぎ話」の結びの言葉「happy ever after(それからは永遠に幸福でした=めでたしめでたし)」を示し、この少女はファンタジー世界という、もう一つの永遠の世界において戴冠を受けるのだ。

それゆえこの映画はファンタジーとして、完璧な作品となるのである。
「パンズ・ラビリンス」の美しい曲「パンズ・ララバイ」by Erutan

この映画の童話としての完成度の高さを考えたとき、この映画をRー12などという規制の網に入れて、子供たちの目から自然界の持つ神秘を隔てなければならない事こそ、現代文明の衰弱を示す物に違いない。

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