2018年11月01日

アカデミー賞映画『オール・アバウト・マイ・マザー』母の愛を求める迷子/感想・ストーリー・解説・意味

「我が母に関する全て」

原題 Todo sobre mi madre
英題 All About My Mother
製作国 スペイン
製作年 1999年
上映時間101分
監督ペドロ・アルモドバル
脚本 ペドロ・アルモドバル


評価:★★★★   4.0点

このスペイン映画は、派手さは無いけれども実直な、作家の良心が伝わる作品だと感じた。
ただ真正面に映画のテーマに向き合い、真実を求め、客観的に、記録しようとすればこの映像表現になるのだと思う。
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映画『オール・アバウト・マイ・マザー』簡単なあらすじ

移植コーディネーターのマヌエラ(セシリア・ロス)は、マドリードで女手ひとつで作家志望の息子・エステバン(エロイ・アソリン)を育てた。その息子の誕生日に、大女優ウマ・ロッホ(マリサ・パレデス)の「欲望という名の電車」の舞台を観に行く。終演後ウマ・ロッホにサインをもらおうと道路に飛び出した息子は自動車事故で死ぬ。マヌエラは息子の死を告げるため、息子を身ごもった時に別れた夫をバルセロナへ探しに来る。そこで、マヌエラは、性転換した明るいゲイの娼婦・アグラード(アントニア・サン・フアン)、エイズの相手と恋に落ちエイズに罹患し妊娠した純朴なシスター・ロサ(ペネロペ・クルス)、そして女優ウマと出会い息子の話をすると、ウマに付き人になって欲しいと頼まれる。ウマの側にはウマのレズビアンの恋人で麻薬中毒の若手女優・ニナ(カンデラ・ペニャ)もいた。シスター・ロサ(ペネロペ・クルス)は、母(ロサ・マリア・サルダ)と折り合いが悪く病状も悪化したためマヌエラが同居し面倒を見る。ロサの元恋人とは実はマヌエラの元夫だったのだ。まもなく赤ん坊が生まれ、そしてそれぞれの人生が変転を迎える・・・・・・
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映画『オール・アバウト・マイ・マザー』予告


映画『オール・アバウト・マイ・マザー』出演者

マヌエラ(セシリア・ロス)/ウマ・ロッホ(マリサ・パレデス)/シスター・ロサ(ペネロペ・クルス)/アグラード(アントニア・サン・フアン)/ニナ(カンデラ・ペニャ)/ロサの母(ロサ・マリア・サルダ)/ロサの父(フェルナンド・フェルナン・ゴメス)/エステバン( エロイ・アソリン)/ロラ(トニ・カント)

映画『オール・アバウト・マイ・マザー』受賞歴

アカデミー外国語映画賞/カンヌ国際映画祭 監督賞/ールデングローブ賞 外国語映画賞/英国アカデミー賞 監督賞、外国語映画賞/セザール賞 外国映画賞


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映画『オール・アバウト・マイ・マザー』感想



この映画は喪失の痛みに満ちている。
主人公は息子を喪った母親だ。
主人公は息子の死を告げるため、息子の父親を探す。
その父親はオカマながら、見境なく欲望を撒き散らすロクデナシだ。
その主人公と旧知の友が、男根と女性の体を持つドラッグクィーン。
主人公の息子が愛した女優は、レズビアンで交際相手と不安定な日々を過ごす。
そして主人公が助ける、修道女もまた喪失に向かう。
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実はこの映画の登場人物は「女性」か「女性になりたい男=ドラッグクィーン」だ。
唯一の男である息子は、登場そうそう死んでしまう。
小説家志望の彼が「我が母の全て」という文章を書き終えずに。

allabo.jpgなぜなら、この青年には理解できないのだ。
母親の全てを告げられていないのだから。
父親が誰で今どうしているのか
知らないのだから。
母親がかつて何を愛し、何に傷ついたか。
何を求め、何を犠牲にしたか。

多かれ少なかれ、そんな不可知の関係が、全ての母と子の間に闇としてあるだろう。

さらに根源的なことを言えば・・・・・
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母と子は、本来完璧に一つの命だった。
一つの命だったという事実は、あらかじめ別離が約束されていることを意味する。
母と子は一心同体の蜜月から、永遠の別れを経験するのだ。
一つの命を裂くときに、流れた血の量だけ、人は人を愛するだろう。


この映画を見るとき、愛を求めるという希求が「欲望という名の電車」で語られるように、かつて住まいした楽園を追放された者たちの、狂おしい衝動であることがわかる。
all-about-3.jpg人が生まれる時に必然として課せられた
「楽園からの追放」が、全ての人に愛を生む。
そう思えば、全ての愛は母の喪失より生じるであろう。


かくのごとくに「我が母に関する全て」を決して二度と、回復しえない運命であるがゆえに、「私の母に関する全て」を求めて全ての生命は彷徨せざるを得ない。
決して見つからない、母との完全な統合という「楽園の道」を探して。

彷徨し愛を求め、ついに人は気づくのだ、命を宿すことこそが「喪われた楽園」と近似であることを。
それゆえ女たちは「母」となる。

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男たちの中でも繊細な、幼子のような感受性を持ってしまった者は、楽園の喪失に耐えられなくなって、どうしようもなく女を演じる。

そして「母」になることを楽園の代償とすることを潔しとしない女たちは、永遠の喪失の鏡像(女性の恋人)を見て、自らを愛するだろう。

全ての命が捜し求める「私の母に関する全て」は、永遠に不可知であるがゆえに新しい「命」を紡ぐのだ。
その新しい命が、新しい可能性が、いつか完璧な楽園を創生する日を信じて。

そんな命の「理」を、誠実に描いた作品だと思う。
『オール・アバウト・マイ・マザー』テーマ曲


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posted by ヒラヒ at 18:21| Comment(5) | スペイン映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月26日

映画『ブランカニエベス』モノクロ・サイレントの意味/感想・あらすじ・解説

ノスタルジーを映像化した傑作

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評価:★★★★   4.0点

この映画は、モノクロ映画で、しかもサイレントだ。今この時代にそんな旧弊な表現形式をとる必要があるのかという疑問を持たざるを得ない・・・・・・
その考察を進める前に、イキナリだが、飲食店に入って困ることの一つに、BGM音楽がある。
このバックグラウンドミュージックというヤツに、結構な頻度でジャズが使われているのである。
しかし、ジャズ好きの人間からすると、例えばマイルス・デービスなどが流れてきたりした日には、おちおち食事もしていられないし、会話すらしずらい。
なぜなら、ジャズというのはメイン・テーマの後にプレーヤーが、楽譜なしで即興で演奏を繰り広げる音楽なので、綱渡りのような不安定さリスキーさが身上であり、聴いていてハラハラしてしまい、聞き流せる類のモノではないのだ。


だから突然、上のような演奏がラーメン屋で流れてきたりすると、ラーメンが鼻から出てくるぐらいビックリする。
だが、そのことを周囲の人間に訴えてみてもあまり賛同を得られない。
たぶん、現代のロック・ポップスを聞きなれた耳には、ボーカルの入っていないジャズは、聞き流せる部類の音楽なのだろう。
つまり、表現様式が違えば人によって受け取り方が、これほど違うという良い例ではないだろうか。

前置きが長くなったが、映画である。
この映画は、モノクロ映画で、しかもサイレントだ。
つまりは、ジャズ同様、今の流行ではない表現様式を敢えて取っているのである。
しかし、ジャズはそれでも現役の表現様式で、楽器だけで演奏することに必然性がある。
しかしこと映画に関して言えば、モノクロはまだしも、サイレントは、現代の映画としては既に死んだ表現だと言わざるを得ない。

なぜなら、サイレントは映画のドラマを伝えるには、あまりに効率が悪い。
現代の映画のほぼ100%がトーキー(音声入り映画)で発表されている事を考えても、どれほど無理がある表現形式か知れようというものだ。
そんな死んだ表現を、敢えて引っ張り出してくる以上、そこにはサイレントでなければならない必然性が必要であるだろう。

実を言えば、「アーティスト」というフランスのミシェル・アザナヴィシウス監督が2012に作ったアカデミー賞を取ったモノクロ・サイレント映画があった。

この映画は世評が高かったが、個人的には怒りを覚えざるを得ない作品だった。
それは、詳しくは「アーティスト」レビューを見て頂きたいのだが、表現者たる者は自らの思いを観客に伝達するために、最も効率のよい表現手段を選択しなければならないという基本前提に立った時、『アーティスト』のサイレントはサイレントの様式でなければならない必然を、その物語に持っていないと思えたからだ。
関連レビュー:現代のサイレント映画
『アーティスト』
オスカー受賞の現代サイレント映画
この映画はレイプか?

それでは、なぜ「アーティスト」が撮られたかといえば、そこには監督の「ボク、サイレント映画なんか撮れちゃうんだよ、イカシテルデショ」という、利己的な功名心しか感じられなかったから怒りを感じたのである。

そこで、この映画である。
物語はグリムの「白雪姫」を、20世紀初頭のスペインを舞台に置き換えた、ノスタルジックな映画だ。
しかし正直に言えば「アーティスト」の二の舞になるのではないかと恐れていた・・・
ブランカニエベスあらすじ
1920年代のアンダルシーア地方、闘牛士アントニオ・ビヤルタ(ダニエル・ヒメネス・カチョ)は絶大な人気を誇るマタドールだったが、ある日の闘牛で瀕死の重症を負ってしまい、四肢付随になってしまう。その身重の妻カルメンは、ショックで娘を早産し、息絶えてしまう。失意のアントニオを、看護婦エンカルナ(マリベル・ベルドゥ)が看病するうちに、二人はついに結婚することとなる。しかしエンカルナの目的はアントニオの財産であり、生まれた女の子カルメンシータ(マカレナ・ガルシア)とその父親アントニオは、女帝のようなエンカルナに支配される。そしてついにアントニオはエンカルナにより殺され、カルメンシータも襲われる。カルメンシータは川で溺死したかと思われたが「小人の闘牛団」に救われ、そこで女闘牛士として人気を博す。しかし、そんなカルメンシータを毒リンゴをもったエンカルナが狙うのだった・・・(2012年/スペイン/パブロ・ベルヘル監督)

そういうこの物語を、サイレントにする必然性があったのかという問いの答を得ることこそ、このレビューの本旨である。

結論から言えば、私はこの映画が「サイレントで撮られる必然性がある」と信じる。

それは、この映画のビジュアルが真実、見事だからだ。
それは、従来の白黒銀鉛フイルムで撮影し、慎重にネガからプラチナ印画紙に焼き付けたような、陰影の深さと諧調の見事さで永遠を保持したような画像が、見る者の心に戦慄を呼びはしまいか。
このアート写真を積み重ねたような、見事な映像の集積を逃さず観客に提示するには、言葉は間違いなく邪魔者だろう。
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さらに撮影技法で言えば、サイレント時代には決してなかった手持ち撮影の技術を使用している点も、ただ過去のサイレント映画を模倣するだけではない、サイレントの表現の革新を求める気概が感じられて好ましかった。

また、サイレントである必然を感じたのは、この物語が「白雪姫」に姿を借りてはいるものの、ノスタルジーの物語だと思えるからだ。
この映画は闘牛と闘牛士の物語だが、現代スペインでは今は闘牛が下火になり、セビリア州では闘牛禁止を決定するほど世間の反対意見も強い。それはまた、「小人の闘牛」という障碍者の見世物化も今では困難な催事であるに違いない。
つまりは、この映画の闘牛や障碍者の見世物とは過去のスペインの「旧き良き時代」の象徴なのである。それは、決して褒められたものではないかもしれないが、しかしその民族が過ぎ去った過去に郷愁を感じることをどうして責められよう。
そして、実は全ての20世紀を経た民族にとっては、ノスタルジーとは「華やかな郷愁の香」と「苦い世界戦争の傷」の二つを持つものだったはずだ。
更に言えば、スペインにとっての20世紀はフランコのファシズムとの戦いだった事を思えば、それゆえ、ノスタルジーを語る時どこか口ごもりはしないだろうか・・・・・・・・
この映画では、そのノスタルジーを生む「旧き良き時代」の姿が、決して明朗快活な存在ではない事を十分認識しているがゆえに、「沈黙=サイレント」するのである。

この映画のラストで、旧きよき時代に殉じ、自らをその時代に封印したような主人公が涙を流す。
その涙を見るとき、サイレント映画のようにその時代を美しく輝かせ人々を魅了した「モノ」が、いつしか古びて消え去っていく運命にあることに対して、沈黙を持って惜別の意を表しているような切なさを持つ。

この映画は、そういう意味でサイレントとモノクロでなければ、決して成立しなかった作品であると信じる。
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というのが、この映画の評価なんですが・・・・
実は冒頭のジャズの演奏を聴いても、
聞き流せる人がたくさんいるように、
このサイレントという様式を許容しえ
ない人も必ずいると思います。
上手く言えませんが、芸術表現と言う
のは、そんな作品と鑑賞者の間に響きあう「モノ」のような気がします。



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posted by ヒラヒ at 23:18| Comment(4) | TrackBack(0) | スペイン映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする