2016年08月23日

『月のひつじ』それぞれのアポロ計画/あらすじ・感想・解説

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評価:★★★★   4.0点

え〜まいど馬鹿馬鹿しいお笑いを一つ・・・・・
この間ある社長さんと話していて、仕事は何ですかとお尋ねしました所、飛行機の製造に関わる仕事だというので、それは大変なお仕事ですね、機体関係ですか?いいえ。エンジン関係?いいえ。コンピューター関係?いいえ。
じゃぁ〜なんなんですってぇ〜と、結局の所、飛行機の床を作ってるって話でして・・・・・こちらとしても、肩透かしってんでしょうか、な〜んだ床か・・・・・・ってガッカリしたりして。

ま〜それはそれとして、アポロ計画っていうものがありまして、これはアメリカとソ連が角突きあわせている「冷戦時代」に、ソ連のガガーリンが先に宇宙に行っちゃったモンで、ヤンキーさん達の焦ったの焦んないのって、焦ったんですがね。
それで、アメリカとしても負けチャられなイッテンデ、時のケネディー大統領が、あっちは地球の周りを回ったってんだったら、こっちは月に行ってやら〜ベラボウメって言う訳でして。
1969年7月には、いよいよ最初の月面着陸へ向けてアポロ11号が発射されるという、世紀の大イベントというヤツで、いよ〜大統領!

冗談抜きで、このときには世界中がドキドキして、日本でも特別番組が組まれたぐらい。真夜中だというのにTVにかじりついたりして、な〜に当時の白黒TVじゃよーく見えやしないんですがね。

ま〜考えて見ればこのアポロ計画の主役は、NASAのあるヒューストンで、この計画の大スターはアームストロング船長なんかの宇宙飛行士達なんですよね。
でも、この前たまたまTVで見た映画がナカナカ良かったんです・・・・『月の羊』って題名はど〜いう意味かよく分からないんですがね、原題は「The Dish=お皿(パラボラアンテナの別名)」と言いいましてね。
ひょんなことから、オーストラリアの片田舎のパラボラアンテナが、アポロ計画で重要な役目を仰せつかるというお話なんですが・・・・・・
あらすじ
1969年7月世界初の月面着陸へ向けて、アームストロング船長ら宇宙飛行士を乗せたアポロ11号が、アメリカヒューストンから打ち上げられた。その月面着陸の瞬間を世界中に生中継するため、衛星中継基地をアメリカ国内に準備していた。しかし、打ち上げスケジュールが遅れたために、電波をキャッチすることが出来るのが地球の南半球側になってしまった。そこで白羽の矢が立ったのが、オーストラリアの田舎町パークスにそびえ立つ巨大なパラボラアンテナであり、世紀の瞬間が放送されるか否かはアンテナ施設に勤めるオーストラリア人3人、所長クリフ(サム・ニール)、電子機器担当グレン(トム・ロング)、アンテナ操作担当ミッチ(ケヴィン・ハリントン)、とNASA職員のアル(パトリック・ウォーバートン)手に委ねられた。(2000年/オーストラリア/ロブ・シッチ監督)

正直、言いましてね、あっしらみたいなものでも、いままで散々アポロの映画を見てるじゃありませんか。
それに較べりゃ、圧倒的に細け〜、小っぽけな〜、せせこましい、え〜言っちゃ悪いけどNASAが自動車工場のような大企業だとしたら、まるで隣の町工場みたいな話でしてね・・・・・正直、地味な話だな〜と思いました。


そんなこんなで、映画の登場人物も、所詮は枝葉の仕事だとかハスに構えたり、とどのつまり田舎町の施設だとか自嘲してみたり、ど〜せNASAなんか俺達を馬鹿にしているだろうと拗ねてみたり・・・・ど〜にも煮え切らないアンバイなんで、見ていてイライラしたりして。

ところが、話が進むにつれて、皆の心に矜持、プライドってんですか、そいつが見えてくるわけです。
そりゃ〜俺達はアポロの枝葉の、取るにたらね〜仕事かも知れね〜が、俺たちがいなくちゃアポロは月に届かないんじゃねぇのか!べらぼうめ〜という・・・・・・それはねぇ、落語で言うところの熊さん八つあんのような庶民の営みに対する、愛情とか、執着とか、つまりはテメエの生活に対して真正面から取り組む、そんな名もなき人々が大きな仕事を支えてるんだという姿に、思わずホロリと。

正直ね、もっとドラマチックにも作れると思うんですよ、よくよく調べたらこのパークス天文台って「アポロ13号」の事故の時にもずっと電波を追尾し続けたとか・・・・でもねそこを敢えて押さえて、脇役としての分を守って語っているところなんぞ、8代目桂文楽の落語を聴いているような粋な心持がしました。

そんなこんなで、ここで描かれるのは花形以外の人々にも、等しく役割があり、その仕事を全うすることで大きな仕事が完成するという誇りだったんでしょう。
それは、そのまま、庶民の誇りなんですな。
そんな一般大衆、一人一人の人生に輝きがあることを描いた、本当にいい話だと思いましたね。

そんな誰もが秘めた耀きを持つ様子を、一句
名月や いずれの胸にも 名月や
おそまつ。
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あイケね!忘れてた!
あの、飛行機の床を作ってる社長さんのことです。
この映画を見て反省しましてね、飛行機の床が抜けちゃ飛べません、大事なお仕事ですな〜なんてヨイショしに行きました。
そ〜したらさすが大人、何も言わずにお酒の準備とは恐れ入りましたがね、なかなか良い心持になったところでこの映画の話になりまして、いい映画なんだが題名が良くない「月のひつじ」とは、腑に落ちないと申しました。
そ〜したところ、そのお方が申しますには「飛行機に床がなければ飛べないように、アポロにもアンテナがなければ帰れません。」
つまりは「月のひつじ(必濡)」品という・・・・・・

ま〜あまり良いオチではありませんが、アポロと飛行機だけにキレイに落としたくないということでご勘弁願います。

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posted by ヒラヒ at 17:12| Comment(4) | TrackBack(0) | オーストラリア映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月26日

マッドマックス

神話になったヒーロー



評価:★★★★★  5.0点

この映画シリーズによって、文明崩壊後の弱肉強食の暴力が支配する世界観が、ビジュアルイメージとして定着された。
この映画の製作年代は冷戦の真っ只中の、ある種閉塞感を持った世界情勢であった。
そんな硬直した世界をリセットしてリロードするという荒業は、どこかシュミレーション・ゲームめいて刺激的だった。

映画は第一作目の文明社会において、主人公は暴走族により家族を失う。
これは、近代文明が作り出した暴力的な組織支配によって、抑圧された個人の象徴である。
それはこの主人公が警察官という公的組織に居ながら、復讐という個人的理由のために組織を脱することでも明らかだ。
この一作目は全シリーズのプロローグを成す物であり、主人公は文明社会を焼き尽くす復讐者となり、機械文明(暴走族)に対する、徹底的な容赦ない戦いを繰り広げる。

そして第一作目のラスト、暗闇を走る主人公。
自らの所属すべき場所を裏切った主人公は、自ら滅びざるを得ない。
すでに主人公は亡者となっているのだ。
その証拠に、通常の物語原型として考えれば、王座に着こうとする英雄には伴侶=姫が必要とされるのに、その後のシリーズで主人公の前にヒロインは現れない。
死者に伴侶は必要無いからである。

つまり彼はすでに文明に復讐する鬼神=魂魄となって、その後の第2作、3作を戦い抜く。
そして回を重ねるごとに、文明の痕跡が少なくなっていくのは、主人公の戦いが確実に文明を崩壊に至らしめたことの証左であるだろう。
第三作目に至っては、すでに悪役マスター・ブラスターに見られるごとく、文化と権力が乖離して存在していることが示される。
全ての文明の基礎は権力が力の正当性を記録させるという、権力と文化の強制的一体化を必要とするならば、もうこの時点で過去の文明が滅亡していることが、明確に表されている。

それゆえ3作目サンダ―ドームのラストは、すでに文字という記号すら持たない、文明を失った幼い子供たちが、新たな神話を語る事で終わる。
過去の文明はこの鬼神となった主人公によって、焼き尽くされたのである。
それゆえ、鬼神は新しい文明の担い手=子供達によって永遠に神として崇められることとなるのだ。

それは結局、文明というものが持たざるを得ないある種のデザインが、全ての意匠がそうで有るように、最終的には機能不全に陥ったとき、一度全てのデザインをリセットしない限り、新たな文明を創造し得ないという真実を現しているだろう。

繰り返しになるが、英雄=ヒーローとはしばしば社会構造的なな閉塞を、理非を超越した超人となって壊滅させうる存在だ。
そしてまた、全てを焼き尽くすがゆえに己の命も喪わなければならない。
それゆえ、全てを原初に戻すと同時に、原文明と運命を共にする存在となる。

この映画の主人公は以上のように、神となって旧文明との黙示録戦争に勝利し、新たな文明の芽を育んで、旧文明に殉ずるのである。

これほど完璧に、英雄譚を語りえた作品を、私は知らない。

実際、その後「文明崩壊後の世界」という設定が繰り返し映画で描かれているが、このオリジナルの物語の神話構造の強さは、特筆されるべきであろう。
この映画の世界は、よくよく見れば、昨今のCGを多用した映像に比べれば、車の数や壮大なアクションというスケール感では、到底及ばないかも知れない。

しかし、特に映画館で見れば分かる通り、圧倒的な迫力と、強いリアリティによって、この架空世界を真実とする説得力を獲得している。
その力は、CGではない生身の人間が格闘する姿や、オーストラリアの大地を圧倒的なスピードで走りぬける車やバイクの、本物だけが表現できる力によるだろう。
その力があればこそ、このSFとも呼べないB級映画にして、映画の古典、永遠の傑作となり得たと思うのである。

正直オリジナルの完成度の高さを思うとき、リメイクされたという新たな物語を見ることを、今はまだ肯んじ得ないでいる。

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posted by ヒラヒ at 17:56| Comment(0) | TrackBack(0) | オーストラリア映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする