エイダ・マクグラス(ホリー・ハンター)/ジョージ・ベインズ(ハーヴェイ・カイテル)/アリスデア・スチュワート(サム・ニール)/フローラ・マクグラス(アンナ・パキン)/モラグおばさん(ケリー・ウォーカー)/ネッシー(ジュヌヴィエーヴ・レモン)/ヒラ (トゥンギア・ベイカー)/牧師 (イアン・ミューン)/船長役 (ピーター・デネット)/マナ (クリフ・カーティス)/エイダの父 (ジョージ・ボイル)/エンジェル (ローズ・マクアイバー/タフ(ミカ・ハカ)
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この映画の映像と、テーマ曲の美しさに心打たれます。それと同時に、押しつぶされるような空気感と、ヒリヒリするような痛みをも感じました。本作を最初に見たのは、日本公開時の映画館で、その時の感想は、美しいけれども不思議なムードの「恋愛映画」という印象でした。
例えば『タイタニック』のような恋愛映画の王道を思い浮かべれば、この違和感は分かっていただけるのではないでしょうか・・・・・その印象は、恋人役のハーベイ・カイテルがむしろ悪役顔というのも、恋愛映画としてはいかがなものかと・・・・・
しかし、この映画を見た時に、最も印象に残ったのもハーベイ・カイテルの凄みのある佇まいで、個人的にはこの映画以来彼のファンなのですが・・・・
いずれにせよ、恋愛映画としては、その曖昧なイメージのまま30年近く経ってしまったのです。
しかし、ある日この映画のテーマ曲を耳にして、やはりメロディーが美しいと感じ、この映画のビジュアルの美しさも思い起こされ、をもう一度しっかり見てみようと思ったのです。しかし、再鑑賞をしたものの、やはり恋愛映画としての曖昧な印象は変わりませんでした。
やはり、本来「恋愛ドラマ」が持つ、恋愛相手との間に生まれるロマンチックな情緒や、恋の切なさが十分描かれているとは思えませんでした。そもそも恋愛映画とは、恋愛に全人生を没入させる「恋愛至上主義」こそ、その本質であるはずです。
それから言えば、この映画ではセクシャルなエロスは感じても、恋愛感情が主体の物語が展開されているとは、どうしても思えないのです。事実ストーリーを追えば、彼女を愛したベインズは、ヒロインのエイダが自分を愛さないと自覚し、彼女との関係を断ちます。
そしてその後、アイダがべインズに執着し始めているように見え、恋愛ドラマとしてはどこかチグハグに感じられます。
そんなことからも、この映画が指し示すのは男女の恋愛ではなく、別の解釈があるのではないかと思うようになりました。別の解釈を探して、再度この映画を見た時に、ヒロインのエイダの「意思の強い女性が運命に果敢に立ち向かう姿」が、かつて一世を風靡した古典映画『風と共に去りぬ』のヒロイン、スカーレットにさえ重なって見えるようになりました。
個人的には、この映画はヒロインの生きざまを描いた「女性映画」として見るのが、最も収まりが良いと思います。
そう捉えたときに、初めてこの映画の各ピースが、見事にテーマに収れんしていくのです。
そう考えた理由を、以下の解説で書いてみましたので、ご確認いただければ幸いです・・・・・・
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個人的には、この映画を読み解くカギは、「ピアノ」にあると思います。映画の原題『The Piano』は、無理に訳せば「そのピアノ」となり、それは「特定のピアノ」を指すものです。
この映画の中の「そのピアノ」とは、ヒロインのエイダを示していると個人的には考えています。それはピアノという楽器そのものが、「女性性=ジェンダー」の象徴に他ならないと思えるからです。
あるピアニストはピアノという楽器を、西洋音楽の理論や体系を、正ににそのまま構造化したものであり、その音楽理念から逸脱することができない、いわば音楽メソッドの奴隷のような存在だと、言っていました。
映画では、エイダは6歳ごろ自分の言葉を捨て、その代わりにピアノを言葉にしたと語られています。それが意味するのは、彼女は幼少期から自分本来の言葉を話すのを止め、ピアノが表す「音楽メソッド=社会的規則=ジェンダー」に則った言葉を話すようになったのだと解釈しました。
エイダが流麗にピアノを弾く姿に、社会的規範に無意識に従う「ジェンダーの奴隷」の姿を見てしまったのです。
その証拠に、この映画のあらゆる要素は、虐げられる前時代の女性の記号で満ちています。例えばエイダは、父の一存で、スコットランドから遠くニュージーランドの見知らぬ男に嫁がされます。
それは、家父長制の下、女性たちが家の財産として、恣意的に扱われたことを示しています。
ヒロインのエイダはシングルマザーであり、その娘の父はエイダから去って行ったと語られています。
それは、女性が社会的に求めらる「産む性」として存在し、更にその加重な子育てを課される「母」であることを示しています。
そんなエイダを迎えた夫のスチュワートは、最初彼女にピアノを与える事すら許しませんし、更に土地と引き換えにそのピアノを第三者に与え、家族なんだ協力しろと怒鳴ります。それは、社会がエイダに押し付けた言葉「ピアノ=ジェンダー」すら認めないという、夫スチュワートの傲慢であり、更には妻としてその「ジェンダー」を切り売りしろと求めていることを示しています。
また、劇中でのスチュワートは、決して悪い人間として描かれてはいませんが、しかし善良な彼が妻に求めたのは、自らの欲望を果たすための娼婦としてのエイダだったと思えます。
「ジェンダー=良き妻、良き母」としての自分に価値を見ず、その欲望のはけ口としてのみ自分を見る、そんな家父長的な夫をエイダが愛せなかったのも当然でしょう・・・・・・しかしエイダは、劇中のもう一人の男性ベインズによって、真の自分を発見するのです。
このべインズのキャラクターも、周到に配置された、効果的な人物だと感じました。
まずは、このべインズが、「白人=文明人=征服者」でありながら、ニュージーランド原住民マオリ族と同化しているという点です。それが意味するのは、彼が「文明」という名の「征服のための道具」を捨て、より自然に近い存在に変化を望んだ存在だという事です。
そんなべインズの姿は「文明=ジェンダー」が、人間が生まれながらにして持つ本質ではないと、気付いた結果だと思えます。
それゆえ彼は、最初「ピアノを弾くエイダ=ジェンダーとしてのエイダ」に惹かれたものの、時と共に「エイダ自身=エイダ本来の人格」を求めるようになり、それはエイダの「肉体=生得的な自然物」を求めたことで表されています。生まれながらの自分を愛してくれる、べインズに巡り合ったことで「ジェンダーとしての自分」から、「本来の自分」になれる事を知りエイダは生まれ変わったと言えるでしょう。
翻って見れば、女性たちが自らの価値を問い直すときに、性的欲望の肯定が叫ばれてはいなかったでしょうか?
エイダはそんな自らの欲望を肯定し、ジェンダーから自由になった時、ジェンダーの象徴であるピアノを捨てる決意をするのも、自然な行動でしょう。
しかし、そのピアノを海に投入しようとした時、起きたことこそ『ピアノ=ジェンダー』がどれほどエイダを支配し、縛って来たかを象徴するシーンに他なりません。いずれにしてもエイダは、ジェンダーから自由になり、自分の言葉を話し始めたと、この映画では語られていると思います。
実はカンピオン監督のインタビューを聞くと、この映画のジェンダーとそこからの解放を描いた物語には、モデルとなった人物がいたようで、その点を下で書かせていただきます。
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この映画のエンディングで、『エディスに捧げる』と献辞が送られています。
このエディスとは、監督ジェーン・カンピオンの母、エディス・カンピオンを指しています。
この映画は母エディスに捧げられた作品であり、この主人公エイダのキャラクターには、母のイメージが投影されていたのです。カンピオンの母、エディスは、その夫リチャード・カンピオンを伴侶とし、ジェーンとアンナという二人の娘をもうけました。
そのカンピオン夫妻は、ニュージーランド演劇界の重鎮であり、エディス自体も舞台女優として輝かしい経歴を誇る存在でした。
エディス・カンピオン MBE(本名ビバリー・ジョーゼット・ハンナ、1923年12月13日 - 2007年9月16日)は、ニュージーランドの俳優、作家、劇団ニュージーランド・プレイヤーズの共同創設者である。
カンピオンは1953 年に夫のリチャードとともにニュージーランド プレーヤーズ シアター カンパニーを設立し、彼女の遺産の一部を資金に充てました。彼女は当カンパニーが上演した多くの作品で数多くの主役を演じ、1950年代までにはニュージーランドの傑出した女優の一人とみなされていた。1959 年、カンピオンは大英帝国最優秀勲章のメンバーになりました。(写真:1946年のエディス・カンピオン)
しかし、その華々しい業績の影で、夫婦関係は崩壊しており、夫リチャードの度重なる女性スキャンダルにより、その精神は変調を来たし始めます。そして鬱状態に追い込まれたエディスは、その人生で何度も自殺を試みるようになって行きます。
娘であるジェーン・カンピオン監督は、そんな母を見て1995年のインタビューで「完全な絶望に近づくのは本当に怖かった」と語っています。母の自殺未遂は、この映画の脚本を描いている時にも起こり、その時に娘ジェーンは『そんなに死にたいなら、今度は私が手伝う』と母に告げたと言います。
すると母エディスは、再び生きる事を決意したというのです・・・・・・・・・ジェーンの最初の脚本は、ピアノと共に沈む主人公エイダの姿で終わっていたのを、母の決意を受けて書き換えられたと語っています。
それを知ってみれば、この映画は、母を苦しめた「家父長的世界観」が強いた、女性ジェンダー」を生きることの現実を語っていると感じます。母の世代、その過酷な人生を「ピアノ」に仮託し表現したのだと思います。
そして当初は「ピアノ」を海に沈めることで、「女性ジェンダー」に苦しめられ殺される、歴史上あまたの女性鎮魂を描いたラストだったのでしょう。しかし母の決意を受けて、書き換えられたラストでは「女性ジェンダー」から真に自由になって、自らの意志によって再生を果たす女性像を、鮮やかに描いて感動的です・・・・・