2023年08月12日

オスカー映画『ピアノ・レッスン』女流監督の傑作女性映画は実話だった⁉/感想・解説・考察

原題 The Piano
製作国 オーストラリア
製作年 1993年
上映時間 121分
監督 ジェーン・カンピオン
脚本 ジェーン・カンピオン


評価:★★★★  4.0



1993年公開のこの『ピアノ・レッスン』は、女流監督ジェーン・カンピオン の個人的な経験を含む、深い思いが込められた力作だと感じました。

この美しい映像で表現された物語は、女性が生きるという事に社会が強いてきた問題を、詳細に鋭く糾弾しています。
そのメッセージは、批評家と観客の心に響き、93年度のカンヌ映画祭パルム・ドール、アカデミー賞の他、多くの映画賞を獲得しました。
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<目次>
映画『ピアノ・レッスン』簡単あらすじ
映画『ピアノ・レッスン』感想
映画『ピアノ・レッスン』考察/ジェンダーとしてのピアノ
映画『ピアノ・レッスン』解説/母の実話

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映画『ピアノ・レッスン』あらすじ


19世紀半ば、スコットランドに住むエイダ(ホリー・ハンター)は娘フローラ(アンナ・パキン)と一台のピアノとともに、父の決めた結婚相手であるニュージーランドのスチュワート(サム・ニール)のもとに嫁いだ。エイダは言葉がしゃべれず、ピアノを弾く行為が彼女の言葉代わりだった。しかし、夫スチュアートはピアノをエイダが上陸した浜辺に置き去りにし、彼女が懇願しても運ぼうとしなかった。夫に代わって、そのピアノを運んだのは、マオリ族の入れ墨をを掘ったベインズ(ハーヴェイ・カイテル)だった。彼はスチュアートと交渉し、自分の土地とピアノを交換した。エイダは自分のピアノを勝手に処分した、夫の行動に怒ったが、夫は土地の方が大事だと取り合わなかった。そんなエイダにべインズは、ピアノを教えてくれればピアノを返すと提案する。ピアノを取り返すために、いやいやレッスンを始めたエイダだったが、べインズの目的はピアノのレッスンではなく、エイダ自身だった。べインズの求めはレッスンを重ねるにつれ、エスカレートし、それに刺激されエイダも彼に応じるようになる。その2人の関係はスチュワートに知られ、悲劇が起きるー
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映画『ピアノ・レッスン』予告

映画『ピアノ・レッスン』出演者

エイダ・マクグラス(ホリー・ハンター)/ジョージ・ベインズ(ハーヴェイ・カイテル)/アリスデア・スチュワート(サム・ニール)/フローラ・マクグラス(アンナ・パキン)/モラグおばさん(ケリー・ウォーカー)/ネッシー(ジュヌヴィエーヴ・レモン)/ヒラ (トゥンギア・ベイカー)/牧師 (イアン・ミューン)/船長役 (ピーター・デネット)/マナ (クリフ・カーティス)/エイダの父 (ジョージ・ボイル)/エンジェル (ローズ・マクアイバー/タフ(ミカ・ハカ)
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映画『ピアノ・レッスン』感想


この映画の映像と、テーマ曲の美しさに心打たれます。
それと同時に、押しつぶされるような空気感と、ヒリヒリするような痛みをも感じました。

本作を最初に見たのは、日本公開時の映画館で、その時の感想は、美しいけれども不思議なムードの「恋愛映画」という印象でした。
例えば『タイタニック』のような恋愛映画の王道を思い浮かべれば、この違和感は分かっていただけるのではないでしょうか・・・・・
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その印象は、恋人役のハーベイ・カイテルがむしろ悪役顔というのも、恋愛映画としてはいかがなものかと・・・・・
しかし、この映画を見た時に、最も印象に残ったのもハーベイ・カイテルの凄みのある佇まいで、個人的にはこの映画以来彼のファンなのですが・・・・
関連レビュー:悪役ハーベイ・カイテル
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いずれにせよ、恋愛映画としては、その曖昧なイメージのまま30年近く経ってしまったのです。
しかし、ある日この映画のテーマ曲を耳にして、やはりメロディーが美しいと感じ、この映画のビジュアルの美しさも思い起こされ、をもう一度しっかり見てみようと思ったのです。

しかし、再鑑賞をしたものの、やはり恋愛映画としての曖昧な印象は変わりませんでした。

やはり、本来「恋愛ドラマ」が持つ、恋愛相手との間に生まれるロマンチックな情緒や、恋の切なさが十分描かれているとは思えませんでした。

そもそも恋愛映画とは、恋愛に全人生を没入させる「恋愛至上主義」こそ、その本質であるはずです。
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それから言えば、この映画ではセクシャルなエロスは感じても、恋愛感情が主体の物語が展開されているとは、どうしても思えないのです。

事実ストーリーを追えば、彼女を愛したベインズは、ヒロインのエイダが自分を愛さないと自覚し、彼女との関係を断ちます。
そしてその後、アイダがべインズに執着し始めているように見え、恋愛ドラマとしてはどこかチグハグに感じられます。

そんなことからも、この映画が指し示すのは男女の恋愛ではなく、別の解釈があるのではないかと思うようになりました。

別の解釈を探して、再度この映画を見た時に、ヒロインのエイダの「意思の強い女性が運命に果敢に立ち向かう姿」が、かつて一世を風靡した古典映画『風と共に去りぬ』のヒロイン、スカーレットにさえ重なって見えるようになりました。
関連レビュー:世界初の女性映画!?
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個人的には、この映画はヒロインの生きざまを描いた「女性映画」として見るのが、最も収まりが良いと思います。

そう捉えたときに、初めてこの映画の各ピースが、見事にテーマに収れんしていくのです。

そう考えた理由を、以下の解説で書いてみましたので、ご確認いただければ幸いです・・・・・・
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映画『ピアノ・レッスン』解説

ピアノの意味するもの

個人的には、この映画を読み解くカギは、「ピアノ」にあると思います。

映画の原題『The Piano』は、無理に訳せば「そのピアノ」となり、それは「特定のピアノ」を指すものです。
この映画の中の「そのピアノ」とは、ヒロインのエイダを示していると個人的には考えています。

それはピアノという楽器そのものが、「女性性=ジェンダー」の象徴に他ならないと思えるからです。

あるピアニストはピアノという楽器を、西洋音楽の理論や体系を、正ににそのまま構造化したものであり、その音楽理念から逸脱することができない、いわば音楽メソッドの奴隷のような存在だと、言っていました。
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映画では、エイダは6歳ごろ自分の言葉を捨て、その代わりにピアノを言葉にしたと語られています。
それが意味するのは、彼女は幼少期から自分本来の言葉を話すのを止め、ピアノが表す「音楽メソッド=社会的規則=ジェンダー」に則った言葉を話すようになったのだと解釈しました。
エイダが流麗にピアノを弾く姿に、社会的規範に無意識に従う「ジェンダーの奴隷」の姿を見てしまったのです。

その証拠に、この映画のあらゆる要素は、虐げられる前時代の女性の記号で満ちています。
例えばエイダは、父の一存で、スコットランドから遠くニュージーランドの見知らぬ男に嫁がされます。
それは、家父長制の下、女性たちが家の財産として、恣意的に扱われたことを示しています。
ヒロインのエイダはシングルマザーであり、その娘の父はエイダから去って行ったと語られています。

それは、女性が社会的に求めらる「産む性」として存在し、更にその加重な子育てを課される「母」であることを示しています。

そんなエイダを迎えた夫のスチュワートは、最初彼女にピアノを与える事すら許しませんし、更に土地と引き換えにそのピアノを第三者に与え、家族なんだ協力しろと怒鳴ります。
それは、社会がエイダに押し付けた言葉「ピアノ=ジェンダー」すら認めないという、夫スチュワートの傲慢であり、更には妻としてその「ジェンダー」を切り売りしろと求めていることを示しています。

また、劇中でのスチュワートは、決して悪い人間として描かれてはいませんが、しかし善良な彼が妻に求めたのは、自らの欲望を果たすための娼婦としてのエイダだったと思えます。

「ジェンダー=良き妻、良き母」としての自分に価値を見ず、その欲望のはけ口としてのみ自分を見る、そんな家父長的な夫をエイダが愛せなかったのも当然でしょう・・・・・・
しかしエイダは、劇中のもう一人の男性ベインズによって、真の自分を発見するのです。

このべインズのキャラクターも、周到に配置された、効果的な人物だと感じました。

まずは、このべインズが、「白人=文明人=征服者」でありながら、ニュージーランド原住民マオリ族と同化しているという点です。
それが意味するのは、彼が「文明」という名の「征服のための道具」を捨て、より自然に近い存在に変化を望んだ存在だという事です。
そんなべインズの姿は「文明=ジェンダー」が、人間が生まれながらにして持つ本質ではないと、気付いた結果だと思えます。
それゆえ彼は、最初「ピアノを弾くエイダ=ジェンダーとしてのエイダ」に惹かれたものの、時と共に「エイダ自身=エイダ本来の人格」を求めるようになり、それはエイダの「肉体=生得的な自然物」を求めたことで表されています。
生まれながらの自分を愛してくれる、べインズに巡り合ったことで「ジェンダーとしての自分」から、「本来の自分」になれる事を知りエイダは生まれ変わったと言えるでしょう。

翻って見れば、女性たちが自らの価値を問い直すときに、性的欲望の肯定が叫ばれてはいなかったでしょうか?

関連レビュー:性の解放宣言
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エイダはそんな自らの欲望を肯定し、ジェンダーから自由になった時、ジェンダーの象徴であるピアノを捨てる決意をするのも、自然な行動でしょう。

しかし、そのピアノを海に投入しようとした時、起きたことこそ『ピアノ=ジェンダー』がどれほどエイダを支配し、縛って来たかを象徴するシーンに他なりません。

いずれにしてもエイダは、ジェンダーから自由になり、自分の言葉を話し始めたと、この映画では語られていると思います。

実はカンピオン監督のインタビューを聞くと、この映画のジェンダーとそこからの解放を描いた物語には、モデルとなった人物がいたようで、その点を下で書かせていただきます。
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映画『ピアノ・レッスン』考察

映画のモデル

この映画のエンディングで、『エディスに捧げる』と献辞が送られています。

このエディスとは、監督ジェーン・カンピオンの母、エディス・カンピオンを指しています。
この映画は母エディスに捧げられた作品であり、この主人公エイダのキャラクターには、母のイメージが投影されていたのです。

カンピオンの母、エディスは、その夫リチャード・カンピオンを伴侶とし、ジェーンとアンナという二人の娘をもうけました。
そのカンピオン夫妻は、ニュージーランド演劇界の重鎮であり、エディス自体も舞台女優として輝かしい経歴を誇る存在でした。
エディス・カンピオン MBE(本名ビバリー・ジョーゼット・ハンナ、1923年12月13日 - 2007年9月16日)は、ニュージーランドの俳優、作家、劇団ニュージーランド・プレイヤーズの共同創設者である。Edith_Campion_in_1946.jpgカンピオンは1953 年に夫のリチャードとともにニュージーランド プレーヤーズ シアター カンパニーを設立し、彼女の遺産の一部を資金に充てました。彼女は当カンパニーが上演した多くの作品で数多くの主役を演じ、1950年代までにはニュージーランドの傑出した女優の一人とみなされていた。1959 年、カンピオンは大英帝国最優秀勲章のメンバーになりました。(写真:1946年のエディス・カンピオン)

しかし、その華々しい業績の影で、夫婦関係は崩壊しており、夫リチャードの度重なる女性スキャンダルにより、その精神は変調を来たし始めます。

そして鬱状態に追い込まれたエディスは、その人生で何度も自殺を試みるようになって行きます。

娘であるジェーン・カンピオン監督は、そんな母を見て1995年のインタビューで「完全な絶望に近づくのは本当に怖かった」と語っています。

母の自殺未遂は、この映画の脚本を描いている時にも起こり、その時に娘ジェーンは『そんなに死にたいなら、今度は私が手伝う』と母に告げたと言います。

すると母エディスは、再び生きる事を決意したというのです・・・・・・・・・

ジェーンの最初の脚本は、ピアノと共に沈む主人公エイダの姿で終わっていたのを、母の決意を受けて書き換えられたと語っています。

それを知ってみれば、この映画は、母を苦しめた「家父長的世界観」が強いた、女性ジェンダー」を生きることの現実を語っていると感じます。

母の世代、その過酷な人生を「ピアノ」に仮託し表現したのだと思います。

そして当初は「ピアノ」を海に沈めることで、「女性ジェンダー」に苦しめられ殺される、歴史上あまたの女性鎮魂を描いたラストだったのでしょう。

しかし母の決意を受けて、書き換えられたラストでは「女性ジェンダー」から真に自由になって、自らの意志によって再生を果たす女性像を、鮮やかに描いて感動的です・・・・・



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2018年12月19日

オスカー受賞映画『シャイン』ジェフリー・ラッシュの天才音楽家の実話/あらすじ・感想・解説・批判・ネタバレ・ラスト

ウソとホントとドラマとドキュメント

原題 Shine
製作国 オーストラリア
製作年 1995
上映時間 105分
監督 スコット・ヒックス
脚本 ジャン・サルディ
原案 スコット・ヒックス



評価:★★★  3.0点



この映画は結構強烈です。
親子関係が複雑な方には、いかがなもんかと・・・・・ 

しかし、そんな天才ピアニストの苦しみから、精神疾患を得た姿をジェフリー・ラッシュが鬼気迫る姿で演じ、アカデミー主演男優賞に輝いたほか、各国の映画賞を受賞しました。

その演技は一見の価値があります。

そんな力のある作品だと感じつつも、個人的な評価が3.0の理由は・・・・・・・また、のちほど。

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映画『シャイン』ストーリー


オーストリア、メルボルンの激しい雨の晩。一軒のワイン・バーで店員のシルヴィア(ソニア・トッド)は全身ずぶ濡れで店を訪ねたデイヴィッド・ヘルフゴッド(ジェフリー・ラッシュ)の面倒を見る。そして、精神的に病んだ彼を送リ届けた――

時はさかのぼり、デイヴィッドの少年時代(アレックス・ラファロヴィッツ)。ユダヤ人一家でスパルタ教育の父ピーター(アーミン・ミューラー=スタール)から、ピアノを叩きこまれたディヴィッドは、地元アデレードの音楽コンテストに参加していた。父ピーターはアウシュビッツ収容所に入れられ、彼の夢だった音楽家を断念したが、その道を息子に託していた。コンテストでは優勝は成らなかったものの、審査員のローゼン(ニコラス・ベル)に才能を認められ、彼の下でレッスンを始めた。その評価は高くなりリチャードが十代(ノア・テイラー)の頃には、州の音楽コンクールに優勝するまでになり、アメリカの音楽留学に招待される。デイヴィッドは家族の助けもあり留学を志すが、父ピーターだけは「家を出るのは、家族を破壊することだ」と言い張り、留学を許さず暴力をふるった。落ち込んだディビッドは、地元の小説家キャサリン・プリチャード(グーギー・ウィザーズ)と知り合い親交を深めた。そして再び、デイヴィッドはイギリスの王立音楽院への留学のチャンスを得た。再び強硬に反対する父ピーターに苦しむデヴィッドだったが、キャサリンの励ましもあり家出のように故郷を後にした。ロンドンの王立音楽院ではセシル・パーカー教授(ジョン・ギールグッド)に師事したデヴィッドは、愛弟子として鍛え上げられその才能を開花させていった。そしてデヴィッドは、その将来を賭けたコンクールの演奏曲に、幼少時代から父に将来弾きこなせと言われていたラフマニノフのピアノ協奏曲第3番を選ぶ。激しい特訓の末、コンテストでこの難曲を完璧に演奏したデイヴィッドだった。
しかし、その直後彼はピアノの前に崩れ落ちた。彼の精神の限界を超え発狂してしまったのだ。

それから10数年をイギリスの精神病院で過ごしたデイヴィッドは、オーストラリアに戻れるまで回復したものの、父ピーターは彼を迎え入れず、病を再発した彼はオーストラリアの精神病院に入院する。そこで彼の音楽的才能を知る女性に出会う。彼女はデヴィッドを自宅に連れ帰ったものの、その病は彼女の力だけでケアできる状態ではなく、彼をホテルの一室にあてがった。しかし、デヴィッドはしばしば外へとさ迷い出て行く。
そして冒頭のレストランへもそんな時に立ち寄ったのだった・・・・・

映画『シャイン』予告

映画『シャイン』出演者

デイヴィッド・ヘルフゴット(成人期ジェフリー・ラッシュ:青年期ノア・テイラー:少年期アレックス・ラファロウィッツ)/ピーター・ヘルフゴット(アーミン・ミューラー=スタール)/ギリアン(リン・レッドグレイヴ)/セシル・パーカー(ジョン・ギールグッド)/シルビア(ソニア・トッド)/キャサリン・プリチャード(グーギー・ウィザーズ)/べン・ローゼン(ニコラス・ベル)

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映画『シャイン』感想


これは、「巨人の星=スポ根・ピアノ版」です。(ホント・・・ダト・・・オモウ)

ちゃぶ台がバンバン飛び交います(ウソ・・・ですが、外国にちゃぶ台があったらやってるなト・・・・)

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アウシュビッツを生き延びたポーランド人の父親、自分の音楽の夢を子供に仮託して千本ノックならぬ千本ピアノの大特訓(ウソ・・・・・タブン近い事はしたと思うんですが・・・・実際には描かれません)

その甲斐あってコンクールにも勝って、海外留学の道も開けるのだが「父を乗り越えてから行けと」ばかり、息子を手元に置きたがる父(ホント。どうもアウシュビッツのトラウマもあり、家族離散がイヤ?)

ついに風呂桶で「ウンチ」する息子!(ホント)

濡れタオルでシバキまくる父!(ホント)
ヒッシトばかりに抱きしめ「愛している」という父!(ホント)

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ついに家を出る決心をする息子に放つ、父の捨て台詞「お前はこの家族を捨てたんだ!そのドアを出たらもう戻る所はない!」(ホント)

泣く明子ね〜ちゃん(もちろんウソ・・・でも、姉妹はそんな顔をします)
父を捨てても選んだ海外留学、ピアノ虎の穴(ウソ)、そのコンクールで、ついに手にした栄冠!(ホント)


しかし、そのコンクールで超難曲ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第三番」を弾き終えた直後、崩れ落ちる息子!(ホント)
ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第三番」

そして、精神を病んだ息子は「裸の大将」のようなシャベリに(ホント)
 
入院加療のすえ、ハッキリとした説明も無くオバチャンと退院するのだが、またハッキリとした理由も語られず一人暮らしに(ホント)

そして雨の晩一人でフラフラしていて見つけたバー(レストラン?)でピアノを見つける息子、だがその日は帰る(ホント)

また別の日にそのレストランに行き、ピアノで「クマンバチの飛行」バカッぱやバージョンを弾くと、みんなブットブ!(ホント)
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ウケたので有名になって、結婚もする(ホント)

最後は墓参りに行くけど、その墓が父親の墓だったので、あ〜〜〜死んじゃってたの?(ホント)

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という感じの映画で、この息子は実在の人物、デイヴィッド・ヘルフゴット。(ホント。実在の人物)

オーストラリアではチョ〜ゆうめいなんだろうナ〜と想像をした。(ソウゾウ)
ちなみに映画の中の曲は本人サン演奏(ホント)

こんな事で・・・・・うるさいほど(ホント・ウソ)と書かせて頂いたが、伝記モノの映画で存命の人物を描く場合、往々にして誠実に真実を伝えようとするあまり、羅列的な説明になりがちになって、ドラマとしての強さが無くなると思う(ソウ思った)
でも、ホントのホントって何?って思う(オモッタ)

この映画にしてから、主人公の家族(姉妹)から文句が出て「オト〜サンはこんな悪者じゃない」って内容の本が出たらしい(ホント)

そんなこんなで、ホントってホントにホント?
 
そう思えば、この映画のテーマ「子供は親という不可避の運命を背負って生まれ、その一人一人違う運命を最終的に肯定することで輝く=シャイン」というお話ならば(たぶんホントだと思う)、何も事実にコダワリ過ぎる必要もないかなっと・・・・
 
いっその事、ドラマとして「テーマの真実」を伝えた方が、うまく伝えられるのではないかなと・・・・そう思った(オモッタ。ホント)

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映画『シャイン』解説

映画の個人的評価

この映画は実在のオーストラリア・ピアニストを描いた作品です。

しかしその内容は、イタリア映画『父/パードレパドローネ』と同様に父と息子の対立関係を描いて、強いインパクトを持って見る者に迫るものです。
関連レビュー:父と息子の厳しい関係
『父/パードレパドローネ』
イタリアの巨匠タビリアーニ兄弟の作品
イタリア人言語学者の実話


また、アカデミ賞―で主演男優賞に輝いたジェフリー・ラッシュの演技も特筆すべきものだと感じました。
この『シャイン』と、第83回アカデミー作品賞で4冠を獲得した『英国王のスピーチ』によって、ジェフリー・ラッシュの演技力は世間に認められたというべきかと思います。
関連レビュー:ジェフリー・ラッシュの名演
映画『英国王のスピーチ』

英国王ジョージ6世の実話映画
ジェフリー・ラッシュとコリン・ファース共演


しかし――
それでも――

上の感想でも書いたように、映画ドラマとした場合往々にして抜け落ちる情報が有るもので・・・・

この映画もまた、評論家やその家族から事実と違うということで厳しく糾弾されているようです。
たとえば、主人公の妹マーガレット・ヘルフゴットが、その著書(右)で主張するのは、父とディヴィッドの関係は良好だったし、敵対していなかったというモノです。

そしてまた、マーガレットの主張にもかかわらず、その家族が言うのは映画に描かれた父ピーターの姿に違和感を感じなかったというモノです。
ここには、家族、血族の持つ、メンバー相互の愛憎の濃淡やシガラミも感じたりします。

つまりは、そんな一例を見ても現実を描くことの難しさを思わずにはいられません。

映画という、ビジュアル=映像が主体のメディアで、言葉で解き明かす事ですら困難な、そんな複雑で微妙な事情を説明しきれるものでしょうか?

結局は、説明量の少なさから、単純なドラマとして再構築せざるを得ないのではないでしょうか。

やはり映画は現実から離れたフィクションとして成立させるべきではないかと思ったりして、評価3とさせて頂きました・・・・・

>
関連レビュー:映画と伝記の関係
『アメイジング・グレース』
イギリス奴隷貿易の廃止の闘い
『アメイジング・グレース』名演紹介

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映画『シャイン』解説

デイヴィッド・ヘルフゴット本人の紹介

ヘルフゴットのオスカー受賞式での演奏


ヘルフゴットのドキュメンタリー映画『デイヴィッドとギリアン 響きあうふたり』予告編



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以下の文章には

映画『シャイン』ネタバレ

があります。
(あらすじから)
助けてもらった翌晩、再びバーのドアを叩いたデヴィッド。
突然ピアノの前に座ると、超絶的な速さで「くまん蜂の飛行」を引き聞く者の度肝を抜いた。

そんなデイヴィッドのピアノの腕を見込んで、彼は店の専属ピアニストとなり大評判となる。それは新聞報道として広まり、ある日父も訪ねて来た。しかし父を許せなかったデヴィッドは彼を追い返した。
そんなある日、シルヴィアは星占い師のギリアン(リン・レッドグレイヴ)を紹介し、二人は恋に落ち、愛し合い、結婚する。

映画『シャイン』結末・ラスト

妻の励ましを受けデイヴィッドはついにコンサート・ピアニストとして復活した。
しかしそのコンサート会場には、父の姿はなかった。
彼は妻とともに死んだ父の墓を訪れたところで映画は終わる。
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2016年09月17日

『レイルウェイ運命の旅路』日本軍収容所の英国兵の実話/感想・ネタバレ・あらすじ・解説

贖罪と救済の唯一つの方法



評価:★★★★   4.0点

この映画は、戦争経験者がそのPTSD(心的外傷後ストレス障害)を克服する道を示した、感動の物語です。
ここには戦争従事者であればこそ語れる、真実の救いの道が、一筋の光明の如く輝いていると思います。

<レイルウェイ 運命の旅路あらすじ>
1980年イギリス、エリック・ローマクス(青年期エリック・ローマクス/戦後コリン・ファース)が列車に乗った時に旅行中のパトリシア(ニコール・キッドマン)に出会い結婚する。二人の結婚生活は、エリックの異常な行動を見たパトリシアは、その原因を知るため第二次世界大戦をエリックと共に戦い日本軍捕虜となった、戦友フィンレイ(ジェレミー・アーヴァイン/戦後ステラン・スカルスガルド)に会う。フィンレイが語ったのは、「戦争は痕跡を残す」という事実だった。エリックは捕虜として、クワイ河を渡るタイとビルマを結ぶ泰緬鉄道の建設に従事させられ、さらにスパイ容疑を受け厳しい拷問を経験していた。その収容所で通訳をしていた日本人・永瀬(青年期・石田淡朗/戦後・真田広之)がまだ生きていて、タイで戦争体験を伝える活動をしていたると知った。エリックは自らの過去を清算するため、永瀬を殺す決心をし一人タイへと向かう・・・・・・・

(2013年/オーストラリア・イギリス/2013/116分/監督ジョナサン・テプリツキー/脚本フランク・コットレル・ボイス、アンディ・パターソン/原作エリック・ローマクス )


雑誌『エスクァイア』の1995年度ノンフィクション賞を受賞した、エリック・ローマクスの自叙伝『TheRailway Man』を映画化したものです。戦争体験者だから語れる言葉に満ちています。




この映画の舞台は第二次世界大戦中、泰緬鉄道建設にあたり、1942年から1943年にかけて、タイ・ビルマ間の鉄道建設予定地で、日本軍が、鉄道建設に従事した連合軍の捕虜やアジア人労働者多数を動員し、多数の死亡者を生じせしめせた歴史的事件を背景としています。
この泰緬鉄道の工事中に、約1万6千人の連合軍の捕虜が、飢餓と疾病と虐待のために死亡したとされ、アジア人労働者の死亡数も、約4万人 - 7万人と推定されているようです。
参考:Wikipedia "泰緬鉄道建設捕虜虐待事件"

この泰緬鉄道の建設を描いた映画は1957年公開の英・米合作映画、第30回アカデミー賞作品賞受賞した、名匠デヴィッド・リーン監督作品の「戦場にかける橋」があまりにも有名です。
この下の動画を見ただけでも、デヴィッド・リーン監督の絵作りに感動します。
この映画は、戦争の無為さを表現した名作だと思います。

テーマ曲『クワイ河マーチ』はあまりにも有名



そんな何度も映画として表現されてきた、泰緬鉄道の建設に使役されたイギリス軍捕虜の体験談を描いた物語です。
コリン・ファースが演じる捕虜時代のPTSDに苦しむ主人公の姿が、迫力を持って迫ってきますし、加害者側の日本人を演じる真田広之も、誠実な贖罪の心を表現して地味ながら心に沁みる姿を見せます。
さらには、ニコール・キッドマンが戦争従軍者の妻を演じ、家族にまでその影響が及ぼされる深い苦悩を表します。

結局、この映画の前半が語ったのはたとえ勝利者の側であっても、戦争に参加させられた人間は、かくも深くその精神とついは人生をも破壊されるのだと語っていると思います。

関連レビュー:日本軍捕虜収容所の映画
『戦場にかける橋』
反戦映画の古典的名作
アカデミー賞受賞作

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!!!!!!!以下ネタバレが有りますご注意下さい!!!!!!!!
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そして、被害者と加害者が戦後40年を経て、直接対決をするシーンの二人の表現力は凄いとしか言いようがありません。
特にコリン・ファースの発する殺気は慄然とする迫力があり、それを受ける真田も静かな諦念を示してリアリティーに満ちたものです。

しかし、この二人の対峙は結局、加害者が贖罪のために生きてきたという真実を、被害者が認めさらに許したとき、初めて被害者にも心の平安が生まれ、彼の戦争が始めて幕を下ろしたのです。
このラストで示された、相互に交わされた手紙の言葉は、聞くものの心を強く打つものです。
現実に傷つけあって、苦悩の元凶である敵を、現実世界において許しえたのだという真実を伝えることこそ、この映画の目的だったと信じます。

そして、さらに敵を許すこと以外、自らの苦悩から救われる道も無いということを示した、奇跡の映画だと思います。
結局、贖罪と救済の唯一つの方法は、敵を許すこと以外に道がないと語っていると思うのです。


また、この映画は戦争というものが、どれほど酷く人の人生に傷跡を残すかを語っており、この経験をした人々は敵を許してでも「争い=遺恨」を減らす方向で努力せざるを得ないという真実だと思うのです。

戦争体験者が徐々に少なくなると同時に、国家間の対立が強くなり、右翼的な言動が増えて来たのは、戦争がどれほどの根源的な被害を生むかを知る人々が、年々亡くなられて行くのと無関係ではないように思います。

だから今こそ、ぜひ戦争の痛みの実話物語をその眼で確かめて、戦争が「絶対悪」だと認識してほしいと思うのです・・・・・・

映画「レイルウェイ 運命の旅路」原作者の妻が語る真実とは


関連レビュー:日本軍捕虜収容所の映画
『不屈の男 アンブロークン』
収容所の不屈の男
アンジェリーナ・ジョリー監督


関連レビュー:日本軍捕虜収容所の映画
『戦場のメリークリスマス』
捕虜収容所の東西対決
大島 渚 監督


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