2015年10月18日

小説「魔女の宅急便」

「健やか」



評価:★★★★   4.0点

この少女の物語を読むと、「健やか」という言葉が浮かんできます。
同時に微笑ましい気持ちで、心が暖かくなっていきます。

小さな魔女「キキ」の物語は、そのまま少女の成長譚です。
少女達にとっての魔法とは、マンガやアニメを通じて一つの夢として定着した感がありますが、この物語の魔法は従来と一線を画す性質を持っているように思います。

かつての物語の魔法とは、社会的な女性の役割・規則が因習的に要求された時代においては、そのルールを越えた夢・希望としてあったのではないでしょうか。

しかしこの物語にあっては、魔法とは少女が女性になるための、人が大人になるための必須の能力として描かれているように思います。

「キキ」の魔法とは、ほうきに乗って空を飛ぶ力です。
その力は、ほうきとともに母親から受け継いだ力でした。
それは母から娘に伝えられる文化が、少女のバックボーンになっていることを示しているでしょう。
しかし母からもらったほうきは折れてしまいます。
これは家庭内で受けた魔法=「教育・シツケ」だけでは、対応できない状況が在るということの現れではないでしょうか。

それからキキは、自分の作ったほうきに乗っていろいろな荷物と人に出会って行くうちに、物語の最後には母からもらったほうきと同じくらい上手に飛ぶようになります。
少女達が大人になるという事は、家庭から引き継いだ力を基にして、さらに社会の様々の状況に対することで自らの対処法を作り出すということに、他なりません。
そしてまた、この自分の能力を元に積極的に社会と関わり、成長していくという考え方はとっても現代的だと思うのです。

最近の心理学の知見では、人は誰かのために役に立つことを幸福と思うという結果が出ているそうです。

であれば人は男女関わらず、まず一人で生きる力が無ければいけません。
なぜなら、そうでなければ誰かの役に立つどころか、誰かに迷惑をかけてしまいますから。
自立がもしできたら、さらに社会にその力を還元することで誰かの役に立つことができます。
社会に自分の力を還元するというのが、働くということです。

ここにおいて、人が幸せに生きるという循環が完成することになります。

つまりキキが自分の能力を元に、仕事をして人に喜んでもらうことで自分も幸福になり、更にキキの能力が高くなり、更に皆によろこんでもら得るという好循環です。

この好循環に入ることを成長と呼ぶのではないでしょうか。

そういう意味で、この物語は「健やかな成長物語」だと思いました。

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ラベル:角野 栄子
posted by ヒラヒ at 20:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月30日

大藪春彦『野獣死すべし』戦後の焼け跡から生まれた反権力の化身!

このヒーローを殺すな!



評価:★★★★★  5.0点

伊達邦彦。この英雄の物語は天才作家、大藪春彦の手によって創造され、昭和の男達を熱狂させた。

大藪春彦の小説の中には、直截な男たちの欲望が渦巻いている。
金・女・力を奪取する飽くなき闘争が、小説の全編を覆い尽くしている。

これは端的に、焼け跡から出発した戦後日本の欲望であり、大藪春彦の小説群はそのまま欲望の「イコン=聖像」として在った。その正邪を超えた、なりふり構わぬ、阿修羅のごとき姿は、正に「野獣」であり、それこそ時代が求める「英雄」であった。

しかし、この作品は処女作であるだけに、後年の欲望まみれの小説に較べまだナイーブだ。
それゆえ計らずも、このヒーローが成立した背景が、その精神の苦悩も含め透過して見える所が魅力となっている。
即ち陽炎のように主人公の周りにまとわりついている、戦争の災禍。
その傷と痛みを経験した人間が持たざるを得ない業が、剥きだしで表現されているのだ。

結局、この主人公は少年期に死と暴力の中に常駐したが故に、戦闘中の狂気を自らの日常としてしまった。
少年は長じて、自らの狂気を飼いならし、その狂気をテコとして、己を狂気に駆り立てた社会・国家から全てを取り戻そうと戦い続ける兵士となる。

何者も信じず、ただ自らの力だけですべてを強奪しようという兵士の姿は、それは平時においては「狂気」と呼ぶべきだろう。
しかし、戦後の日本においてこの「狂気」は遍く在ったのである
それゆえ、その「狂気」を経済に向けた日本人は「エコノミック・アニマル」と呼ばれたのだ。

つまり主人公の戦いの軌跡は、形はどうであれ、戦争の喪失を埋めるための飽くなき闘争だ。

この作家は、この作家の小説群は、大衆の欲望に殉じた。
大衆の欲望とシンクロし、その欲望の吐け口として存在した大衆作品は、往々にして文学的な価値を認められない。
そして、ついには消え失せて行く運命を迎えがちだ・・・・・事実あれほど並んでいた大藪春彦の小説は、今や探す事の方が難しいほどだ。

大藪作品もやはり、大衆を熱狂させ時代とともに消えていったベストセラー作家と、同様の道を歩んでいると認めざるを得ない。

しかし、それでいいのだろうか?

もう一度言うが、この作品は戦争を経た少年が、死ぬまで狂気と共に生き続けなければならない事の証明だ。
その戦争を経た人間の欲望が、いかに強いか。またその充足の闘いが、いかに激烈かの証明だ。
戦争がもたらす狂気と、戦争が奪う日常を取り戻す闘いが、かくも深く激しい事を圧倒的な物量で語っているのだ。

戦後の繁栄の元に戦わなくともよくなった現代人が、何者を踏み台として今日在るのか、この小説によって明らかになるはずだ。

また同時に、戦争の傷がどれほど人を歪ませるか「主人公」を通し理解できたなら、現在進行中である政府の「戦争への道」を阻止すべきだと考える人々が、増えるに違いない。

かろうじて、今なら・・・・まだ間に合う・・・・・・まだ読める・・・・・・一人でも多くこのヒーローの闘いを追ってほしい。
戦争を少年期に経験した作家の作品は、必ずその痕跡を残し戦争の悲惨を伝えるものだ。
しかし、この作品ほど戦争の狂気を示して、人間の人格を浸蝕しうるかを直截に伝えた例を知らない。
それは感情を排して行動で語る、ハードボイルドの様式で戦争の傷を描いた事によって、戦争の持つ悪魔的な力が文章に宿ったように思える。

それゆえこの小説を読む事は、日本人の義務ですらあると思う。

戦争が日本にどれほどの痛みを生ぜしめ、戦後日本がどれほど苦しい戦いを成したか、この男の行動を追うことで追認すべきなのだ。

関連レビュー「映画:野獣死すべし」:http://hirahi1.seesaa.net/article/418242747.html

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ラベル:大藪春彦
posted by ヒラヒ at 19:00| Comment(0) | 文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月19日

奔馬―豊饒の海・第二巻

三島由紀夫という仮面



評価:★★★★★  5.0点

三島由紀夫について、個人的に一つの問いを持ってきた。
彼が同性愛者としての性向を持っていたのではないかという疑念である。
その疑念は「豊饒の海」四部作、とりわけこの「奔馬」を読むことで培われ、何度か読み返すうちに確信に近く、私には感じられている。

実際、彼が頭脳は明晰であったものの、肉体的な脆弱を劣等感として持ち結果として創作に向かったという考察は、多くの研究者が言及する。
そう思ってみれば、三島とは自らの肉体的虚弱さを糊塗するためにその作品を生み出したに違いない。
であれば、その作品に「仮面の告白」があるように、彼=平岡 公威として生まれた「実の姿」を隠ぺいするための仮面として三島由紀夫が必要とされたのであろう。

確かに、彼の文学の根幹をなす古典的構成であるとか、人工的虚構世界であるとか、秘匿された欲望の指し示すのは、その作者の真実から乖離するために築き上げられた王国であるように思われる。
さればこそ、三島が太宰治の露悪的なまでの自己懺悔に対して、拒否反応を示したのも当然であったろう。

結局、三島は己の虚弱を、文学という虚構世界の確立の内に隠匿しようとした。
しかし同時に、現実でもその肉体の弱さと格闘し克服しようと、その肉体をボディービルで改造する。
ついには、鍛え上げた肉体の自信でもあったろう、国家にその身命を捧げるために「盾の会」を結成し、若者たちと軍事訓練を行うようになる。

この右翼的殉国の兵士という三島の理想自我とは、その人生における劣等感の対極であることが了解されるであろう。

また、この理想像が男性ジェンダーの究極というべき英雄像であってみれば、過去の劣等感の本質が己のジェンダー不安にあったと見るべきである。
こういう、ジェンダーに対する恐れは、しばしば同性愛的傾向をその人物に与えはしまいか・・・・

個人的には、ボディービルから「盾の会」の現実的行動が進むにつれ、彼の文学から「魅力=虚構力」が喪われていくと感じている。
それは己の虚弱さが現実で克服され得れば、文学的虚飾が不要になるとも言わんばかりである。

代わって、後期の彼の作品は己の目指す理想自我を、臆面もなく表白する作品としてありはしまいか。

例えばこの作品において主人公の右翼少年は、国家的な大義と信ずるモノのために殉死する。
その場面の三島の描写が、何と艶めかしい事か。
神々しく、静謐で、光輝にあふれ、凛として、しかし何よりもエロスに満ちている。
私はかって、ここまで神聖とエロスが融合した文章を読んだことがない。

実際この二巻目の「奔馬」こそ、彼が現実に四谷防衛庁で成就した行為であり、それは自ら為す行為のシュミレーションである。
この作品の本質は、三島が自らの欲望を現実に満たす前の、マスターベートとしてあると感じられてならない。
この作品において初めて三島は、今まできらびやかな修飾で秘してきたその本質を、一瞬の閃光のうちに曝け出した。

これは三島由紀夫という仮面が外れ、彼=平岡 公威の欲望が迸った瞬間に違いない。

私は、この四部作「春の雪」を若き日の平岡 公威の夢、そして「奔馬」が平岡 公威の最後の夢だと考えている。
そして、その目的、理由がどうであったとしても、「春の雪」、そして「奔馬」を文学作品として愛している。

なぜなら晩年の作品群の中では、飛び抜けて文章による芸術度=文芸度が高いと感じるからである。

この古典的美、風格、霊性は三島としての文学者の力ゆえに為し得た頂点とすら思える。

それは、この作品が隠された遺書として著されたものだからであろう。

しかし、この巻のラストシーンを描く事で、すでに三島は文学世界から消え去ってしまった・・・・・・

これ以降の三巻・四巻の無残な文章を見るとき、文学に対する情熱が少しも感じられず、哀しくなるのだ。

関連レビュー「地獄に堕ちた勇者ども」:hirahi1.seesaa.net/article/440749343.html

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posted by ヒラヒ at 19:00| Comment(0) | 文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする