2020年01月27日

映画『ダンサーインザダーク』これはハリウッド讃歌である!/感想・解説・受賞歴・ミュージカルと現実

映画『ダンサーインザダーク』(感想・解説 編)

原題 Dancer in the Dark
製作国 デンマーク
製作年 2000年
上映時間 140分
監督 ラース・フォン・トリアー
脚本 ラース・フォン・トリアー


評価:★★★★  4.0




この映画は世界中で、賛否両論を生んだ作品だ。
その批評を見れば、救いのない「鬱映画」として捉えるか、過酷な現実に対する「救済」を見出すかに、分かれるだろう。

その両者にあって、個人的には、この映画が現実に苦しむ者の「救済」を描いていると信じている。

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<目次>
映画『ダンサーインザダーク』予告・出演者
映画『ダンサーインザダーク』感想
映画『ダンサーインザダーク』解説/現実世界の救済とは?
映画『ダンサーインザダーク』解説/宗教と芸術の違い

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映画『ダンサーインザダーク』予告


映画『ダンサーインザダーク』出演者

セルマ(ビョーク)/キャシー(カトリーヌ・ドヌーヴ)/ビル(デヴィッド・モース)/ジェフ(ピーター・ストーメア)/ノーマン(ジャン=マルク・バール)/ジーン(ヴラディカ・コスティック)/リンダ(カーラ・シーモア)/オールドリッチ(ジョエル・グレイ)/サミュエル(ヴィンセント・パターソン)/地方検事(ジェリコ・イヴァネク)/ブレンダ(シオバン・ファロン)/ポーコルニー医師(ウド・キア)/医師(ステラン・スカルスガルド)

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映画『ダンサーインザダーク』感想


この映画に関しては、冒頭でも書いた通り、世間で言われている『鬱映画』との評価には賛同しかねる。

しかし正直に言えば、始めてこの映画を見たときには、打ちのめされ、息苦しく、精神的な負荷の重さに耐え兼ね、再び見る気力を奮い起こせなかった事を告白せねばならない。
どれほど「つまらない」映画でも、少なくとも2度は見る事を習いとする私がである。

その初見の衝撃は、かつて見た反戦映画『ジョニーは戦場に行った』や、ホロコーストの悲劇を描いた『ソフィーの選択』と匹敵する、強い負力を伴い胸に迫った。
関連レビュー:肉塊となった青年の絶望
映画『ジョニーは戦争に行った』
映画史に残る、「超絶鬱」反戦戦争!!
監督ドルトン・トランボの渾身のメッセージ

関連レビュー:メリル・ストリープ主演の鬱映画
映画『ソフィーの選択 』
アカデミー主演女優賞を獲得したホロコースト映画
徹底的に救いの無い


この映画『ダンサーインザダーク』は、それらブラックホール映画と同じく、禍々しい闇を湛えているように思われ、再び近づくことをためらわせた。
そして、そのまま二度と見なければ、この映画は女性を苛め抜き被虐美を追及すると言えば聞こえが良いが、単に監督のサディズムを満たすために作られた作品だと、片付けていたとも思う。

しかし、ラース・フォン・トリアー監督のもう1本の鬱映画『奇跡の海』を見て、自分の解釈が誤りだったのではないかと、気付かされた。
関連レビュー:ラース・フォン・トリアー監督の鬱映画
映画『奇跡の海』
世界中の映画賞を獲得した感動作
現実にのたうつ人間に訪れた奇跡とは?
なぜならその映画は、可憐なほどの「信仰心」に溢れていたからである。

この『ダンサーインザダーク』も、『奇跡の海』同様、地獄のごとき現実にのたうち回る女性を描き、観る者を憂鬱にする。
だが『奇跡の海』のように、その過酷な現実の救済策として、神の恩寵や宗教的救済が示されない。

つまり、この映画は一見明瞭な救済が見当たらず、そのサディスティックな刺激のみ受け取ったがゆえに、初見ではこの映画の真意を発見できなかったのではないかと、自身の速断を危ぶんだ。
それゆえ、この作品にも「救済」が潜んでいるのではないかと不安になり、私は二度目の鑑賞を決心した。

すると、やはりこの映画にも『奇跡の海』と同様「救済」を見い出したのである。
しかし、ここには『奇跡の海』の「宗教的な救済」とは違う、「現実的救済」が描かれていると思え、その点にこそこの映画の真価があると感じた・・・・・
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映画『ダンサーインザダーク』解説

現実世界の救済とは?

主人公セルマは『奇跡の海』のヒロイン同様、不条理に満ちた現実の中で、次から次へ襲い来る不幸にもがき苦しみ、それを耐え続ける。
それは愛する者に対する献身ゆえに、その苦しみの渦中にあえて身を置き受難に耐える姿は、自己犠牲によって最愛の存在の安寧を願う、一種の「お百度参り」のような祈りの形に相似と見える。

『奇跡の海』ではその「現実世界の献身=祈り」に対して、「神という救済」が描かれ、愛する者に奇蹟をもたらした。
対して、この映画ではそれら「宗教的な救済」は現れない。

その神の代りに描かれている、現実世界の中から主人公セルマが見出した「現実的な救済」こそ、「ミュージカル映画」だった。

この『ダンサーインザダーク』の主人公は、自らの全身全霊を放り込むかのように犠牲にして、息子ジーンの失明を救うために全てを捧げた。
その苦しく過酷な現実の描写。
それは、ラース・フォン・トリアーの提唱で生まれた「ドグマ95」的な、手持ちカメラのドキュメンタリー風の手法で、その苦しみをよりリアリティーに富んだ映像とすることに、この映画では成功している。
<セルマのビル殺害シーン>

そんな過酷な現実描写に較べ、ミュージカルシーンの描写の、何と安定して華やかな事か。
この映画の主人公セルマは、現実から裏切られ、現実に攻撃され、現実に絶望した時、その空想の中で輝かしいミュージカルが始まるのである。
<法廷でのミュージカルシーン>


いずれにしても、この映画を「鬱映画」と断罪する人々に問いたい。
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暗黒のような時間と、くすんだ光景に圧殺されそうな、そんな現実に苦悩したことは無いだろうか?
絶望と、諦念に、その現実を終わらせようと思った事は無いだろうか?
現実とは自からの願いを、裁断するギロチンだと感じた事は無いのだろうか?
もし、上の設問に全て否と答え得るのであれば、この映画は自分がそれまで知らなかった「過酷な現実」を見せられただけの「鬱映画」として総括すべきだ。

しかし、人生に絶望した事のある人間なら知っている。
人生は、ミュージカル映画ほどに輝やきはしない。
過酷な現実を忘れ、自らが求める「幸福な世界」に入り込むために、古代から人々は現実ではない世界を夢見てきたのではないか?

現実から逃避していると言われれば、甘んじて受け入れるしかない。
もっと現実と戦えと言うのも正論だろう。

しかし問う。
幼い我が子を失くした母親。
不治の病に、明日への命も保障されない者。
生まれた時から、その体が不自由だったり、恵まれない家庭環境にある者。
自らの過失で、大切な存在をこの世から消し去った者。
そんな人々に現実に向き合えと言うのは、あまりに過酷ではないか。

現実は、不公平で、不合理で、不条理に満ちており、個人の力では運命を切り開けない、そんな絶望が確かに存在しまいか。
そんな現実に苦しむ者、過酷な運命に苛まれる者、そんな者達が現実を逃避することこそ、この世の「救済」に他ならない。
関連レビュー:過酷な現実に生じる救済の映画
映画『スラムドッグ$ミリオネア』
アカデミー賞獲得の感動作
スラムで苦しむ青年は奇跡を起こせるか?

幻であろうと、絵空事であろうと、その「救済」が無ければ一分一秒も生きられない。

そんな人々を救うために、「宗教=神」や「ミュージカル映画=芸術」があるのだと、この映画は厳粛に語っていると信じる。

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映画『ダンサーインザダーク』解説

宗教と芸術

これまで述べてきたように、この映画は『奇跡の海』と同様に、過酷な現実を生きる為の「救済」を描いていると思える。
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しかし、明らかにその両者が違うのは、『奇跡の海』では「神=現実を超越した存在=絶対者」によって、彼女の現実世界での労苦が浄化されたのに対し、『ダンサーインザダーク』では徹頭徹尾現実世界の中で完結している点である。

それは『奇跡の海』が、宗教的な約束としての「天国」の存在を予兆させるのに対し、この作品は現実世界の即物的な事象のみで完結し、古代から人が依存してきた「宗教=絶対的救済」の道は描かれないのである。
つまりこの映画では、現実の苦悩を現実世界のみで自立的に解消し得る可能性を求めて、芸術という「人為的に抽出された美」を、その救済の道として示したのである。

その現実的救済は、あたかも「鎮静剤」のごとく、一時その現実の労苦を和らげるだろう。
しかし、宗教的な救済の持つ「未来永劫の救い」に較べ、その救済は一時的に過ぎず、現世のみでその効用は喪われてしまうようにも思う。

なぜなら宗教とは、その根源に「現世の苦悩」が、「来世の幸福」を約束する概念であるとすれば、芸術や文学などの人文学的業績は基本的に「現世に働きかける」ための取り組みではなかったろうか。
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再び言うが芸術など、現世に「美」を生ぜしめようという試みは、来世の幸福を約束しない。

それゆえ、この映画『ダンサーインザダーク』の主人公は、ただ無残にこの映画のラストを迎えざるを得ない。
この来世に約束された救済の不在が、この映画の印象を陰惨にしている原因であるだろうと思える。
しかし、ここに「救済の約束」は本当に無いだろうか?

奇妙な事に、個人的にはこの映画のラストに、なぜか清々しさを覚えたのだ。
それは、この映画『ダンサーインザダーク』には『奇跡の海』で示された「来世での救済の約束」を、更に深化させた「現世での救済の約束」を見出したからだ。

実を言えば、『奇跡の海』で示された「来世での救済」も、実は現代の既存宗教を否定し、人間存在として無我夢中で現実と格闘する果てに、人として神性を獲得した結果としての奇蹟であったと理解している。
つまりは、既存の宗教が求める戒律や禁欲によらず、ただ人として現実世界と向き合い、真摯に他者を愛し求めた果てに、人は神をも招来し「来世での救済の約束」を獲得し得ると語られていただろう。

それは、人が正面から現実と格闘する姿にこそ、尊厳があるというメッセージであったと解釈した。

もし、その解釈が正しいのだとすれば、すでに現実と真摯に対峙する者には、本人は苦悩の渦中に在るにしても、もう現世で約束された救済の中にいると語るのは強弁に過ぎるだろうか?
しかし、現実世界での人の苦悩を語り、その闘う姿に崇高な美を見出してきた、近代芸術の創作物を見るとき、その中に「現実世界の永遠の美」として未来永劫残される事こそ、この現世の奇蹟ではあるまいか?

この映画の主人公セルマが歌うように、これは最後の歌ではないのだ。

生きとし生けるものの苦悩を、その現実に刻み美として開示するとき、同じく現実に打ちひしがれた者達を、その美は救済するだろう。
そして、その救済を受け入れた者は、また自らもその現実との苦悩の戦いを昇華する美を紡ぎ、次の世代へと「現世の救済の約束」を高らかに伝えるに違いない。

それこそ、ミュージカル映画が成して、カトリーヌ・ドヌーブが成して、今またラース・フォン・トリアー監督が成した、現世における奇蹟なのだ。
関連レビュー:ミュージカルという理想
映画『雨に唄えば』
ハリウッドミュージカルの最高傑作
ミュージカル映画とアメリカ的理想主義

<カトリーヌ・ドヌーブ主演『シェルブールの雨傘』>

現実世界に充足と安寧を見出せない人々にとって、その現実から理想世界への「架け橋」として「映画=芸術」は、今後千年を経ても「救済」として機能し続けるだろう。
関連レビュー:世界はミュージカルを夢見た
映画『ジンジャーとフレッド』
ハリウッドミュージカルを愛したイタリア人
巨匠フェリーニのハリウッド映画愛!

そしてその「現世の奇跡=映画」によって、多くの現実に不適合な人々が、間違いなく、自らを「救済」し得る「救世主」として「映画」という神によって救われたのである。
関連レビュー:映画を愛した少年
『ニューシネマパラダイス』
ジュゼッペ・トルナトーレ監督の語る映画の救い
映画へのノスタルジー溢れる傑作

もちろん、私も「映画=芸術」に救われた、その1人である・・・・・・・



posted by ヒラヒ・S at 17:00| Comment(0) | デンマーク映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月11日

映画『ダンサーインザダーク』地獄にのたうつ母・完全再現ストーリー/詳しいあらすじ・ネタバレ・ラスト

映画『ダンサーインザダーク』(あらすじ・ネタバレ・結末 編)

原題 Dancer in the Dark
製作国 デンマーク
製作年 2000年
上映時間 140分
監督 ラース・フォン・トリアー
脚本 ラース・フォン・トリアー


評価:★★★★  4.0




この映画はカンヌのパルムドールに輝いた反面、さまざまな批判を生んだ作品でもある。
これを見た多くの観客は、そのラストに叩きのめされ、鑑賞後に落ち込む「鬱映画」としてその名も高い。

しかし、個人的にはこの作品に、ある種の崇高な希望を見た思いがし、なにがしかの救済の力を感じた。
その印象は、ストーリーを追うに連れ、更に確固とした印象となった。

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<目次>
映画『ダンサーインザダーク』ストーリー
映画『ダンサーインザダーク』予告・出演者
映画『ダンサーインザダーク』高評価の映画ランキング紹介
映画『ダンサーインザダーク』ネタバレ・結末

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映画『ダンサーインザダーク』ストーリー


舞台上ではセルマ(ビョーク)がマイフェバリットシングスを歌い、ミュージカル「サウンドオブミュージック」の練習が続けられていた。
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そこでは演出家サミュエル(ヴィンセント・パターソン)の指導の下、工場の同僚でセルマ同様チェコからアメリカに渡ってきたキャシー(カトリーヌ・ドヌーヴ)も共演している。
そんなセルマは視力を喪う遺伝性の病気により今年中に失明する運命にあり、キャシーと医師の力を借り視力検査をようやくパスする有様だった。
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しかしそれでも、工場でミュージカルの舞台を思いつつ、現場責任者のノーマン(ジャン=マルク・バール)から注意されながらも仕事をこなし、家に帰ると内職に励んでいた。同じ街に住むジェフ(ピーター・ストーメア)はセルマに好意を寄せ、仕事帰りになると彼女を送ると声をかけるが、セルマは応じない。
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そんなセルマは女手ひとつで、12歳の息子・ジーン(ヴラディカ・コスティック)を育て、トレーラーハウスを警官ビル(デヴィッド・モース)とその妻・リンダ(シオバン・ファロン)夫妻から借り、夫婦の細やかな好意を受けて暮らしている。
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そんな彼女は日々の稼ぎを貯蓄することに懸命で、息子ジーンの誕生日プレゼントを買う金も惜しみ、見かねた友人達が息子が欲しがっていた自転車をプレゼントするほどだった。
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そんな、ある晩セルマのトレーラーハウスにビルが現れ、自分が無一文で妻リンダの浪費のせいで、家を取られてしまう。そうなれば妻は出て行くだろうと、苦境を語り涙を流した。
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それを訊くセルマは、ビルを慰めるために自らの秘密を打ち空けた。自らが失明する運命であり、息子・ジーンにも眼病が遺伝しているため、手術のためにアメリカに来たと言い、その手術代の貯蓄も目標額に近づき、13歳になれば息子は手術を受けられそうだと微笑んだ。
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ビルは強い人だとセルマを讃えた。セルマは強くないから、辛くなると夢の中でミュージカル映画が始まると語った。二人はミュージカル映画への愛を語り合い、セルマは終わりの歌を聞くのが辛いから、最後から2曲目が終わったら映画館を出て、映画を終わらせずに続けさせるのだと言った。2人は別れ際にお互いの秘密は、口外しないと約束しあった。
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その向かい側のビルの家の窓では、妻リンダが2人の様子を窺っていた。

工場でセルマは材料を2枚重ね機械を壊すところだった。それはキャシーが未然に防いだが、現場責任者のノーマン(ジャン=マルク・バール)から怒られ、キャシーに無理をしすぎだと叱られた。
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その帰り、セルマに思いを寄せるジェフが車で送ると声をかけるが、彼女はあなたが好きだが付き合う時間は無いと彼に伝えた。そこへ警官のビルが通りがかり、セルマは同乗して帰ることにした。
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その車内でビルは家のローンを貸して欲しいと頼むが、セルマは手術の代金だからと断った。ビルは自殺を口にするほど精神的に追い詰められていた。
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自転車も乗れなくなるほど視力は落ちたが、セルマは内職を増やし工場の夜勤も入れ、更にミュージカルの稽古もすると言う。キャシーは夜勤に強く反対した。しかし、夜勤の場には彼女の姿があった。
dancer-18.png忙しく働くうちに、工場の作業音がリズムを刻み、ミュージカルの空想が始まりセルマは歌い踊り、工員全ても笑顔と共に華やかなダンスが繰り広げれれた。
挿入歌<クヴァルダ>
しかし、手を怪我し空想から現実に引き戻された。
そんな夜勤明けのセルマをジェフが待っていたが、彼女は1人で線路を頼りによろめくように歩き去った。それを見送るキャシーは、セルマの視力が喪われつつあるのを知り、不安な眼差しをその背に送った。
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セルマが家に帰ると、夜勤の間息子ジーンを世話していたビルがいた。ビルは妻に現状を正直に話し、それでも妻は自分を愛してくれると思うと語り、セルマもそう決断して良かったと答え、ビルと別れの挨拶を交わした。しかしセルマの眼が見えないと知っているビルは、音を立ててドアを閉めながら、室内に残りセルマの様子を探った。
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そうとは知らないセルマは、その日の収入を貯金の隠し場所にしまった。ビルはそれを確かめると、静かに立ち去った。

ミュージカルの稽古に行ったセルマは、すでに失明した自分が演じられないと知りマリヤ役を降りると演出家のサミュエルに告げるが、彼はミュージカルが命だと語っていたセルマのために修道女の役を与え、セルマは感謝の言葉を述べた。

しかし、工場では現場責任者のノーマンが、機械を壊したセルマにクビを宣告した。
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線路を一人帰るセルマをジェフが追って来たが、セルマが機車を避ける姿から「眼が見えないのかと」問い掛けた。セルマは「もう見るものは何もない」と言うと、機車が響かせる鉄路のリズムに乗り、空想のミュージカルの中ジェフと共に歌い踊った。
挿入歌<アイヴ・シーン・イット・オール>
そして別れ際、ジェフに大事な用があるから迎えに来てと約束を交わした。

セルマが帰宅し、最後の給料を入れようと貯金の隠し場所を見ると、それは空っぽだった。
ビルの仕業だと気づき、その家を訪れたセルマを迎えたのは、ビルの妻リンダの怒りだった。
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彼女はビルからセルマに誘惑されたと聞き激昂し、トレーラーハウスをもう貸せない、出て行けとセルマに言った。
「ビルと話す」とセルマは2階の彼の元に足を運んだ。ビルは「トレーラーハウスに自分が居るのを見られたから、嘘をついてしまった」と言いセルマが否定しなかったと聞くと、なぜ真実を言わなかったのかと問いかけた。
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セルマは「秘密にする約束だから」と答え、仕事を首になり貯金が出来なくなったから、息子の手術代を今ある分で払うのだと語り、ビルから金を取り返すとセルマは背を向けた。
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その背中にビルは拳銃を突きつけると、金を再び奪い階下の妻に「セルマが俺の銃を奪い金を盗もうとした。手錠をもってこい」と叫んだ。そして、セルマには金をよこせば逃がしてやると囁く・・・・・・・・・・・・・・・・
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映画『ダンサーインザダーク』予告


映画『ダンサーインザダーク』出演者

セルマ(ビョーク)/キャシー(カトリーヌ・ドヌーヴ)/ビル(デヴィッド・モース)/ジェフ(ピーター・ストーメア)/ノーマン(ジャン=マルク・バール)/ジーン(ヴラディカ・コスティック)/リンダ(カーラ・シーモア)/オールドリッチ(ジョエル・グレイ)/サミュエル(ヴィンセント・パターソン)/地方検事(ジェリコ・イヴァネク)/ブレンダ(シオバン・ファロン)/ポーコルニー医師(ウド・キア)/医師(ステラン・スカルスガルド)
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映画『ダンサーインザダーク』受賞歴


2000年第53回カンヌ国際映画祭/パルム・ドール、ビョーク主演女優賞受賞

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以下の文章には

映画『ダンサーインザダーク』ネタバレ

があります。
(あらすじから)
金を取り戻そうともみ合ううち、銃が火を噴きビルの腹部に弾があたった。
ビルは腹を抑えながら、良く撃ってくれた、殺してくれ、慈悲だと思って殺してくれとセルマに懇願する。
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それでもセルマが撃てないと知ると、殺さなければ金を渡さないと強く抱きかかえた。
追い詰められたセルマはついに発砲し、銃弾はビルの体にめり込み撃ちつくされるが、眼の見えないセルマの弾は致命傷を与えられない。
それでも金から手を離さないビルの頭に、セルマは傍にあった金庫を振り下ろすが、頭がどこにあるか分からず何度も叩きつけた。
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ついにビルの命を絶つと自らの貯金を取り戻した。

セルマは呆然とした表情で歌を歌う。それはビルを悼む歌だった。そこに死んだビルも加わり、お互い傷付け合ってしまったことを悲しむ歌を歌った。
挿入歌<スキャターハート>
パトカーのサイレンが近づき、セルマはビルの家から友人ジェフとの約束の場所に走る。

落ち合った2人は、街を出るとそのまま息子ジェフの手術を執刀する眼科医に赴き、2056ドルと10セントで手術を依頼した。
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セルマは息子は「ノヴィ」と名乗り病院に来るので、手術をしてくれと頼みました。同じくチェコ出身の医師はノヴィという名が、チェコの有名なミュージカル俳優オルドリッチ・ノヴィだと知っていた。

その後、ジェフの車でミュージカルの稽古に行ったセルマは、事件を知っている劇団員により警官に通報された。
警察が到着するまでの時間、演出家はセルマをその場に止めようとする、彼女と言葉を交わす。
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舞台の音楽に乗ってセルマの空想ミュージカル『イン・ザ・ミュージカル』が始まり、彼女の歌で劇団員と共に踊る。
しかし、その最後は警察官に担ぎ上げられ逮捕された。
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セルマの裁判が始まり、証言者達の言葉はセルマに不利だった。また、ビルの妻は「計画的で冷酷な犯行」だと涙ながらに訴えた。セルマが証言台に立ち検察官の質問が始まる。
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検察官はビル夫妻と親しい友人で、医師の証言で眼が見えているとされたセルマが、なぜ34箇所も傷つけるような残忍な殺人を行ったかと問う。
セルマは殺してくれとビルに頼まれたからだと主張したが、検察官に「ビルが死のうと思う理由が見当たらない、なぜ頼んだのか?」と問うと、セルマは「秘密です」と言った。

さらに「ビルの貯金を盗んだ」という検察の追及に対し、セルマは「自分の貯金」だと返したが、その「貯金の目的は?」と問われチェコに居る「父オルドリッチ・ノヴィ」に送金するためだと答えた。しかし、検察はミュージカル俳優オルドリッチ・ノヴィを召喚していた。
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彼は、今カリフォルニアに住み、セルマの父ではなく、送金の事実もないことが明らかに成る。

セルマはその証言を聞きながら、空想に入りセルマはミュージカルの素晴らしさを、ノヴィはミュージカルで夢を見る君を受け止めると歌い、共にタップを踊り表現する。
挿入歌<イン・ザ・ミュージカルズ>
セルマに対する裁判の判決は、第一級殺人罪として罰は絞首刑だった。

刑の執行を一週間後に控え、友人キャシーが面会に来た。
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そして、セルマが隠していた貯金が息子の手術代として払われている事実を、ジェフが病院で突き止めたと語る。さらに、その新事実があれば、弁護士は再審請求を死刑を免れられると説明した。セルマは、息子がその事実を知ったか否かを不安げに訊ねた。
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眼の病気は精神的なストレスによって失明する可能性があり、子供との面会も敢えて避けているほど、気遣っていたからだ。
キャシーはでも子供のために貯金したというのは、裁判に有利だから主張すべきだと言った。

日々は死刑執行日に近づき、恐怖を覚えたセルマは独房で聞こえる賛美歌に耳を傾け、セルマは『マイ・フェバリット・シングス』を歌い、恐怖を忘れようとするが空想の世界には入れなかった。
挿入歌<マイ・フェバリット・シングス>
しかし死刑を前に再審が認めれ、新たな弁護士がセルマの元を訪れた。しかし、新たな弁護士は弁護士費用が掛かり、キャシーから息子ジーンの手術代を受け取っていた。
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セルマは、息子ジーンが今手術しなければ手遅れになると、面会に来たキャシーに叫んだ。
更に、私が死刑になってもジーンの眼のほうが大事で、それだけが私の望みだと言い、キャシーとケンカになった。
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そしてセルマは弁護士との契約を解除し、死刑になる道を選んだ。

死刑執行の時が来た。
恐怖にすくんだ、セルマは歩けなかった。
それをセルマに同情する看守が励まし、一歩づつ歩を進めさせた。
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その励ましに、いつしかセルマは空想の中、カウントダウンの歌を歌いながら刑務所内を踊り、歩んだ。
挿入歌<107ステップス>
気が付くと絞首刑台の上に立たたされていた。我に返ったセルマは恐怖を口にし、倒れこみ、木の台にくくりつけられた。
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そして、泣き叫ぶ彼女の首にロープが巻かれた。
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映画『ダンサーインザダーク』結末・ラスト


死を前に息子ジーンの名を叫ぶセルマ。
そんな、セルマの手にキャシーはジーンのメガネを渡すと「手術に成功した。もうメガネは必要ない」と知らせる。

キャシー:彼(ジーン)は外に居る。彼はこれを私にくれた。/刑務官:ガードマン!/セルマ:じゃあ、手術を受けたの?/キャシー:彼は自分の孫を見れるの!彼は外に居るわ。あなたは正しかったわ、セルマ!心の声を聴いて!/セルマ:(歌う)
愛しいジーン、あなたがここにいるのは分かっている
そしてもう恐れることはない
ああ、私達は知るべきよ
ああ、私は1人じゃなかった
これは最後の歌じゃない
バイオリンは鳴らず、聖歌隊は沈黙している
そして、だれもスピンしない
これは最後の前の曲
それはそういうこと

覚えておいて、私が言ったこと
覚えておいて、私がパンを包んだこと
あなたのベッドを整えた、こんなや、そんな

これは最後の歌じゃない
バイオリンは鳴らず、聖歌隊は沈黙している
そして、だれもスピンしない
これは最後の前の曲
それはそういうこと


歌の途中でセルマの体は、虚空に吊るされ、その絶命した体はカーテンによって閉ざされた。




posted by ヒラヒ・S at 18:00| Comment(0) | デンマーク映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年09月21日

映画『奇跡の海』求道者としてのラース・フォン・トリアー監督/感想・解説・解釈・映画と宗教

ラース・フォン・トリアー監督の信仰

原題 Amor omnie
英語題 Breaking the Waves
製作国 デンマーク
製作年 1996年
上映時間 158分
監督 ラース・フォン・トリアー
脚本 ラース・フォン・トリアー


評価:★★★★  4.0点



この映画には正直胸を打たれた・・・・・
ここには、若き日のラース・フォン・トリアー監督の、ある種「真摯な祈り」を見出す思いがする。
主演女優のエマ・ワトソンは、愛にのた打ち回るような悲痛な役を、リアリティーを持って演じ数々の賞に輝いた。

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<目次>

映画『奇跡の海』予告・出演者
映画『奇跡の海』感想
映画『奇跡の海』解説/映画に描かれた宗教
映画『奇跡の海』解説/ラース・フォン・トリアー監督の神

映画『奇跡の海』予告

映画『奇跡の海』出演者

エミリー・ワトソン(ベス)/ステラン・スカルスガルド(ヤン)/カトリン・カートリッジ(ドド)/ ジャン=マルク・バール(テリー)/エイドリアン・ローリンズ(リチャードソン医師)/サンドラ・ヴォー(ベスの母)/トロール船の男(ウド・キアー)
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映画『奇跡の海』感想


この映画は「曲者」監督ラース・フォン・トリアーの、1996年の作品だ。
しかし、その後の同監督作品に較べ、この『奇跡の海』は素直に共感できる率直さが魅力の一本だと感じる。
もちろん、ハリウッドなどの娯楽作品とは一線を画す、いかにもヨーロッパ的な彩度の落ちたような表現が印象的だ。
しかし、同時にそのメッセージは直截で、一気に一直線にラストに向かうさまは、40歳の監督作品ながらパンク的なパワーと情熱を感じた。
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そして、その思いの迸る先が「キリスト=絶対神」であることに、正直驚きを受けた。
その驚きは、この一本が示した「キリスト教信仰」の純粋さこそ、この監督の表現の根源に在ると確信したからだ。

その発見に、感動すると同時に、自分が今まで感じていた「ラース・フォン・トリアー監督のサディステイックな表現」の解釈が間違いだったと知った。
この監督の描く女性達に対する攻撃性や、その過酷な運命を甘受させる作品は、この映画を見るまではこの監督の「サディズム嗜好」を満足させるためにあるのではないかと疑っていた。

そんな女性の被虐美を追求するための作品も、間違いなくあるのだ。
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さすがに、「サディズム嗜好」を満たすために映画を撮っていたというのは言いすぎにしても、少なくとも「ダンサー・イン・ザ・ダーク」から同監督作品を見始めた私からすれば、現実世界の不条理の坩堝でのた打ち回る人間存在を、執拗に、徹底的に、辛辣に、呵責なく、描き尽くすことで、この現実世界の地獄を糾弾する作家なのだと考えていた。

しかし、この映画を見て、その評価は180度覆ったと言わねばならない。

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以後の監督作品が、どれほど歪み、どれほど悲観的で、どれほど酷たらしく見えようとも――(右:ラース・フォン・トリアー監督)

この監督がこの作品で示したのは、人間存在が持つ永遠の願い「現実世界の不条理」は、神により救済されうるという希望に他ならない。
そう思えば、以後の同監督の描く現実における苦悩と悲惨の究極の姿にも、たとえ作品中で示されずとも、必ず「救済」が埋められているのだと考えたい。

その「救済」は、過酷な現実で苦しむ人間の姿のみ描かれた作品であっても、いつか掘り起される日を求めて、今は眠りについているにすぎない。

そう個人的には信じている。

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映画『奇跡の海』解説

映画に描かれた信仰
私は、この映画で語られたのが「神と人間の交錯」だと信じている。
ここには西洋文明のその根本に組み込まれ、その教義が社会の根幹をなしている「キリスト教」に対する最終的な信頼の表明があると感じる。
例えばそれは、同じ北欧の監督イングマル・ベルイマンが描いた、神への絶対的帰依と同様のテーマの似姿だと見える。
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しかしその、神にたいする信仰は、愛の発露、人生の喜び、そんな「幸福」に対する感謝の祈りという南国的な姿ではない。

それは逆に、憎悪や、苦悩、悲劇など「不幸」にまみれた人生を、生きて行くための必要不可欠の要素として「信仰」が希求されていると感じる。

結局、生きるのには過酷な条件下にある人々にとって、「神」の存在なくして日々の困難を消し得る術がないのではないか。
そんな事を、同じくデンマーク監督の作品である『バベットの晩餐会』の中にも見い出し得る。
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この北ヨーロッパの環境に根差した「神への依存」は、北極に近い過酷な自然環境が導きだす、生存条件としての厳しさがその根底にあるように思える。

そんな過酷な自然環境と人と神の関係は、『ライフオブパイ』において明確に図式化され語られている。
関連レビュー:アカデミー賞に輝く神との出会い
映画『ライフオブパイ』
インド人少年の出会った神
祈りの先に生まれたもの。
もっと人は、自然環境のみではなく社会や共同体が強いる悪条件によっても、「神」を生み、「信仰」に縋らざるを得ない。

そんな真実を雄弁に語った映画として『スラムドッグミリオネア』を上げたい。
関連レビュー:インドの奇跡を描いた映画
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スラムで生まれた奇跡の物語。
「神」と「信仰」と、過酷な現実

そんな映画を通して、人間は甚だしい苦痛、耐ええない苦悩、つまり人間の能力の限界を超えるような障害を前にした時、どうしようもなく「神」が必要とされるのだと確信している。
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映画『奇跡の海』解説

ラース・フォン・トリアーの神
上で見たように、人は過酷な条件下では「神」を必要とするという例が、数々の映画で描かれている。
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しかし、この『奇跡の海』で語られている神は、それまでの伝統的なキリスト教もしくは既存の宗教の神とは一線を画していると感じる。

なぜなら、この映画の舞台となる村落共同体は、伝統的、因習的キリスト教に支配され、その教義ゆえに主人公は追い詰められる。
つまり、現代において確立している「キリスト教会=宗教法人の神」は、人を救済し得るのか、むしろ人を苦しめてはいないかと、問うているだろう。

その問いは、近代に入り科学技術の発展と共に、キリスト教の聖書に反する科学的な知見が、人々の心を占めるようになってから、実質的に「神の形骸化」を生み「宗教への疑惑」を感じるようになって、更に深く強くならざるを得なくなった。
どうして、宗教に疑いの眼差しを持つ者が、その宗教の教義に縛られ、支配されねばならないのだろうか?

もちろん、現代科学を信奉する者として、自らの苦難を科学的に解決する術もあるには違いない。
しかし、この映画で語られる現代医学の無力で表されるよう、「科学=人智の解決」には限界があるからこそ、過酷な状況下にある者の最後の拠り所として「絶対者=神」の存在意義は決して消滅しないだろう。
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そして同様に、その神は既存宗教の神ではならない事も同様に明らかだ。
なぜなら現代の宗教は、例えば「ダーウィンの進化論」と異なる「聖書」のアダムとイブの物語をただただ信じよと説く時、一体どれだけの人々が神の言葉の無謬性に信頼を置けるだろうか。

ここに、現代宗教と現代人の矛盾と相克がある。

つまりは人々が、刀が折れ、矢がつき、人間の力の限界に至った時、それでも絶対救い得る存在として「神」は求められだろう。

そこには、救済に対する理非を超えた「絶対的約束=神性」があるからこそ、人々は祈りを尽くし敬うのだ。

しかし、科学によって「理非=理屈=合理性」が重きを成すにしたがって、現代人は「神=絶対性」に矛盾を感じざるを得ない。

絶対ではなくなった神はもはや神ではあるまい。

この映画が描くのは、そんな神の絶対を信じられない近代人が、それでも「神」を信奉し得る方法論であるように思う。

そんな現代に生きる人々の、信仰の姿をヒロインのべスに仮託して、この映画は描き出している。
この映画のヒロインは因習的キリスト教から離れ、自らの神との対話を重ねる。
この自身の神との対話は、近代以降の宗教に疑惑を持った現代人が取り得るべき、救済の1つの方法であるに違いない。
<べスの神との対話>
【意訳】べスの神:べスマクニール、長きに渡り、愛のため祈り続けていた。再びお前からそれを引き離せと?それがお前の望みか?/べス:いいえ違います。私はまだ愛の喜びにいます。/べスの神:では今度は、何が望みだ/べス:私はヤンの帰宅を祈っています。/べスの神:10日で奴は戻ってくる、お前は忍耐を学んで、分かっているだろう。/べス:ああ!待てないのです。/べスの神:お前らしくもない、べス。そこには、彼とその仕事を必要とする人々がいるではないか。彼らをどうする?/べス:彼らはどうでもいい。他はどうでもいい。わたしはただ、再びヤンに帰って欲しいのです。それで祈ってるんです。ああ、どうか。/べスの神:お前は彼の帰還を望むのだな。間違いなく、それが望みなのだな。/べス:はい。

しかしここで注目すべきなのは、彼女が求めるているのが神ではなく人間であることだ。

主人公のエキセントリックで、しかし純粋で一途な「愛」。
break_pos2.jpgその「愛」の向かう先は、夫であり恋愛対象なのである。
そんな主人公の「愛」は、宗教の「不犯や性欲を戒める」戒律を無視するかのように、狂おしく激しい性愛をも含んだ「愛」の姿だ。

こう見てくれば、この映画が語る現代の「信仰」とは、「人が人をありのままに愛する」事が、すなわち神に通じる道だと語られていると思える。
人が人として他者を一途に愛するならば、この世に奇蹟が生まれると、ラース・フォン・トリアーの神は語っている。

つまりは、人が人として誠実に生きるのであれば、人は神性を帯び神の奇跡をも呼び起こすのだろう。



posted by ヒラヒ・S at 17:00| Comment(0) | デンマーク映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする