原題Black Dog 製作国イギリス・オーストラリア・アメリカ 製作年2010年118分 上映時間118分 監督トム・フーパー 脚本デヴィッド・サイドラー |
評価:★★★★ 4.0点
第二次世界大戦を戦い抜いたイギリス国王は、神々の王に挑戦する人間国王だった―
彼の苦闘の日々を、静かに、丹念に語って感動を呼ぶアカデミー賞受賞作。
この実話映画の登場人物を、映画の後の事実を含め、掘り下げてみました・・・・・・・
<目次> |
映画『英国王のスピーチ』予告 |
映画『英国王のスピーチ』出演者
ジョージ6世(コリン・ファース)/ライオネル・ローグ(ジェフリー・ラッシュ)/エリザベス妃(ヘレナ・ボナム=カーター)/エドワード8世(ガイ・ピアース)/ウィンストン・チャーチル(ティモシー・スポール)/大司教コスモ・ラング(デレク・ジャコビ)/マートル・ローグ(ジェニファー・イーリー)/ジョージ5世(マイケル・ガンボン)/スタンリー・ボールドウィン(アンソニー・アンドリュース)/ネヴィル・チェンバレン(ロジャー・パロット)/ウォリス・シンプソン(イヴ・ベスト)/エリザベス王女(フレイア・ウィルソン)/マーガレット王女(ラモーナ・マルケス)/メアリー王太后(クレア・ブルーム)/グロスター公爵(ティム・ダウニー)/ロバート・ウッド(アンドリュー・ヘイヴィル)/ラジオアナウンサー(エイドリアン・スカボロ)
スポンサーリンクジョージ6世の吃音症に、王と共に立ち向かった言語障害治療師の、映画で語られなかったエピソードを含めその姿を紹介。
映画『英国王のスピーチ』実在モデル解説
ライオネル・ローグ
ライオネル・ローグ(Lionel Logue, 1880年2月26日 - 1953年4月12日)は、オーストラリア出身のイギリスで活動した言語聴覚士。演劇俳優。
オーストラリア、南オーストラリア州のアデレードに1880年2月26日に4人兄弟の長男として生まれた。祖父のエドワード・ローグはダブリン出身で、醸造業を起こしていた。プリンス・アルフレッド・カレッジに入学、ヘンリー・ワーズワース・ロングフェローの詩に出会い、言葉の持つリズムや音声に興味を持つ。また、雄弁術を学ぶ。アデレード大学では音楽を学ぶ。その後、パースで演劇活動を行う。(wikipediaより)
1902年父親を亡くした後、ロ―グは教師として独自理論の実践を始めた。1904年までに、彼の仕事は地元の新聞から賞賛を受けるほどになるが、西オーストラリアの金鉱山会社の社員となり、そこで働く道を選ぶ。1907年には、当時21歳の書記官マートル・グルナートと結婚(写真)し、パースに居を構え、演技を教え、言語聴覚士の仕事をした。彼は演劇を上演し、人前で公演するクラブを設立し様々な学校でパートタイムの教師となった。第一次世界大戦で、シェルショックに起因する発話障害に苦しむ帰還兵を扱い、言語障害治療で成果を上げた。
1924年、妻と3人の子供を連れてイギリスに移住し、サウスケンジントンで言語セラピーを開業。
1925年大英帝国博覧会(英語版)におけるヨーク公アルバート王子(後のジョージ6世)の吃音混じりのスピーチがラジオから流れた。
その頃、後にジョージ6世の秘書となる、スタンフォードハム男爵によってヨーク公はロ―グを知り、治療に通うようになった。
1926年に治療を開始したが、言語聴覚士としてローグの独学の療法は、当初は医療機関によって偽物として非難された。ローグは公爵の症状を喉頭と横隔膜の協調が不十分であると診断し、毎日1時間厳しいトレーニングを課した。公爵は彼の部屋に来て、開いた窓のそばに立って、それぞれの母音を15秒間大声で叫ばされた。
その訓練の場にはしばしば公爵夫人エリザベスが同席し、夫の練習を助けたと言われる。(写真:1930年頃のローグ)
その甲斐あって、吃音症は緩和して行き、公爵は1927年のキャンベラの旧国会議事堂の開会式演説スピーチでは、自信を持って話すことが可能となった。
1935年ローグは、英国言語療法士協会の創設者となり、後には言語療法士大学の創設者(1944)になる。1937年ジョージ6世の戴冠式でも、戴冠宣言スピーチの指導をし、式典中にも王に招待され妻とともに貴賓席に座り、その姿を見守った。その夜の新国王のラジオ放送が始まる前も、共にトレーニングした。(写真:ローグとジョージ6世のセラピー予約カード)
両者は真に親密となり、この冠式式の際にはローグはロイヤル・ヴィクトリア勲章メンバー章(MVO)を授与された。
1939年9月、ジョージ6世は第二次世界大戦の対独宣戦布告時のラジオ演説(イギリスならびに海外領土、イギリス連邦諸国への生放送)を行い、その際は吃らずに話し終えたと言われる。
ジョージ6世の吃音が治癒に向かうと、ローグと訓練する機会は減って行ったものの、1944年にはロイヤル・ヴィクトリア勲章のコマンダー章(CVO)を授与されるなど、その親交は死ぬまで続いたという。ジョージ6世は1952年2月6日に崩御。その年2月26日、ローグは夫を亡くしたエリザベス皇后に手紙を書いた。
「彼ほど熱心に働いた人はいなかったし、そして偉大な功績を達成されました。それらすべての期間において、あなたは彼にとって強さの塔であり、彼はあなたにどれだけ恩義があるか、しばしば私に話したものです。そして、あなたの助けがなければ素晴らしい業績は決して達成されなかったでしょう。私の最愛の少女(1945に他界した妻を指すか?)が亡くなった後に、あなたが親切に助けてくれた事を決して忘れません。」それに対し、皇后もローグに返信する。
「私はあなたが彼のスピーチだけでなく、彼の生涯と人生について、あなたが王をどれほど助けたかを誰よりもよく理解していると思います。あなたが彼のために成した全てに感謝します。」王の死後から一年、ローグは1953年4月12日にロンドンで死去した。彼の葬儀には、ジョージ6世の長女であるエリザベス2世(2020年現在・在位中)、ジョージ6世の皇后エリザベスからも勅使が遣わされた。(バッキンガム宮殿のパーティーに向かう1953年のローグ)
スポンサーリンク吃音症に苦しむ王ジョージ6世の姿を、名優コリン・ファースが説得力を持って演じ見事オスカ―主演男優賞を獲得した。
映画『英国王のスピーチ』実在モデル解説
ジョージ6世
その実際の姿に興味を持ち調べてみると、王である以上に人間として尊敬の念を抱いた。ジョージ6世(英語: George VI、全名:アルバート・フレデリック・アーサー・ジョージ(英語: Albert Frederick Arthur George)、1895年12月14日 - 1952年2月6日)は、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国(イギリス)ならびに海外自治領(The British Dominions beyond the Sea)の国王(在位:1936年12月11日 - 1952年2月6日)。また、最後のインド皇帝(在位:1936年 - 1947年)にして、最初のイギリス連邦元首 (en:Head of the Commonwealth)(在位:1949年4月28日 - 1952年2月6日)でもあった。(wikipediaより)
後に即位する父(ジョージ5世)と王妃メアリーの次男として、王位継承順は長兄に次ぐ者として生まれた。家族内では、彼は非公式に「バーティー」と呼ばれ、幼児期はしばしば病気に苦しみ、「おびえやすく、涙が出やすい」と言われていた。
長兄エドワードが次期王として教育される中、彼はイギリス王室の一員として第一次世界大戦中は海軍、空軍の士官として従軍した。その後1919年ケンブリッジで学ぶとともに、王室行事に携わる中で、彼の吃音症とそれに対する羞恥は、内気な性格を見せ印象を冴えないものにしていたとされる。
1923年に、伯爵令嬢エリザベス・ボーズ=ライアンと結婚し、長女エリザベスと次女マーガレットの2王女をもうける。<アルバート(後のジョージ6世)の結婚式>
当時の王族は、他国の王族と婚姻関係を結ぶことを求められていたが、アルバートは自由恋愛で妻を娶りたいと望み、エリザベスと出会って結婚を望むようになった。
しかし、エリザベスはアルバートの求婚を、1921年、1922年の二度断った。
それでも、エリザベスを諦められないアルバートはその後も求婚を続け、ついにエリザベスが承諾した結婚は、イギリス世論も王室近代化の兆しとして歓迎した。1936年父ジョージ5世死去により、兄エドワードが「エドワード8世」として即位したが、彼は離婚歴のあるアメリカ人女性ウォリス・シンプソンとの結婚を望み、その結婚が、教会、議会の反対を呼び、拒否されたため「国王退位」を決断。(写真左:エドワード8世とウォリス・シンプソン/右ジョージ6世)そして1936年の12月11日、在位日数325日にしてBBCのラジオ放送を通じ退位文書を読み上げた。
王位を継承する者への忠誠、英国の繁栄を祈ると語り、退位してウォリスと結婚する事は、王である前に一人の男性として後悔はないとし「愛する女性の助けと支え無しには、自分が望むように重責を担い、国王としての義務を果たすことが出来ない」と表明した。
かくして1936年12月11日、弟のアルバートが「国王ジョージ6世(King George VI)」として急遽イギリス国王に即位する事となる。
国王の座を望まなかった、アルバートは側近に「これは酷い。私は何の準備も、何の勉強もしてこなかった。」と愚痴をこぼし、母の王太后の前で泣いたという。<1938年スコットランド・グラスゴーの帝国博覧会の開会スピーチ>途中で口ごもったり、一瞬どもったりするのが見て取れる。
第二次世界大戦前夜のイギリスは、チェンバレン首相によりナチスドイツとの宥和策を進めることになる。しかし、結局ヒットラーを止め得ず戦火に包まれる事になる。
戦中のジョージ6 世は、1940年首相に就任したチャーチルと緊密な関係を築き、4年半に渡り毎週火曜日に昼食を共にし戦争について話し合った。ジョージ6世と同妃エリザベスは、ロンドンがドイツ空軍による大空襲に晒されても、ロンドンに留まることを選択した。
1940年9月13日にはドイツ空軍機が投下した2発の爆弾がバッキンガム宮殿の中庭に着弾し、宮殿で執務中だった国王夫妻が九死に一生を得たこともあった。戦争に耐える庶民と積極的に触れ合い、苦難を分かち合う王夫妻の姿に、ジョージは英国人の勇気と不屈の精神の強力な象徴となり、王家の人気は急上昇したと言う。
戦中の王の姿は、1945年欧州戦線勝利の日バッキンガム宮殿前に集まったイギリス国民に、「我々に王が必要だ」と叫ばせることになった。
しかし戦争終結後は、戦中のストレスや過度の喫煙習慣により、肺や動脈硬化など複数の疾患を得て、徐々に公務が十分に果たせない体調となる。
1949年3月に動脈閉塞と、それに伴う手術を受け、1951年9月には左肺の悪性腫瘍が発見され手術を受けた。
療養中の王だったが、1952年1月31日にはロンドン・ヒースロー空港に、英帝国ケニア植民地、オーストラリアとニュージーランドへの訪問に旅立つエリザベス王女を見送った。
その僅か一週間後、1952年2月6日朝ベッドで崩御しているジョージ6世が発見された。死因は冠動脈血栓症とされ、享年56歳だった。<1952年ジョージ6世の崩御を報じるニュース映像>【大意】突然英国民は悲しみに包まれた。王は健康を回復出来なかった。(エリザベス)王女がエジンバラ公と英帝国の視察に出発する際には王は歩み一家で見送りをした。王女も手を振ったが、父を見るのはこれ最後になり、帰国した時には悲しむ国民の女王となっていた。新聞が運ばれると、全ての者が衝撃を受け、静まり返った。王の忍耐と勇気の内に王の義務を務めたことが健康を損なわせた。昨年の夏には緊急手術の報道が驚かせたが、王の勇敢な姿から国民にとって死は予想外だった。真にこの国と帝国の元首として、来るべき世代への手本を遺した。
時代は変わり、ジョージ6世の治世下で大英帝国の崩壊は進み、イギリス連邦へと移行していかざるを得なかった。
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映画『英国王のスピーチ』解説
近代人としての王
やはり、ジョージ6世とは、世界の近代化に連れその価値を減じて行く、旧世界の秩序の遺物としての「王制=宗教的神性=権威」を、いかに現代にフィットさせるかに心を砕いた存在なのだと感じる。兄がキリスト教会に背く「個人的な結婚」に走り王位を投げ捨て、ジョージ自らも「王族=神々の眷属」との結婚を拒否し妻を娶ったように、王族それ自身が神性を裏切らざるを得ない時代が到来したのだ。
それは、自らを神の一人と見なし、その事を信じ得られた、従来の王族であれば可能だった「絶対的確信=神としての自己規定」が喪われたことが原因だったろう。近代の科学的知見と宗教的な教義との乖離が「宗教=神」に対する不信を生み、人類をして、初めて「神の不在」をその心に生ぜしめた。
その近代的な知見「神の不在」を前に、人は神に拠らず一個の人間として「近代的幸福=個としての幸福」を追求せざるを得なくなった事こそ「近代人の不幸」に他なるまい。そんな不幸を前に、ジョージ「王=神」はそのアイディンティティたる「神性」を近代にはく奪されながら、それでも民衆から「王=宗教的神性=権威」である事を求められた。
しかし近代を生きる知識人として、ジョージは自らの神性を信じ得なかったはずだ。
自らの神性を否定しつつ、民衆の求める「王」である事に応え、更に「個人としての幸福」を満たし得なければ、兄同様その地位から逃走する以外、近代的悟性を持った人間には方法がないだろう。
これはいかにも困難な課題であり、よくぞ、1個の人間として正気を保ち得たものだと感心するほかない。この問題の本質は「王制=宗教的神性=権威」の図式の「宗教的神性」を、すでに本人も他者も認めていないと言う点にある。(写真:ロンドンのジョージ6世の銅像)
つまりは、「王」が「政治的権威」を持ちうるのは「神」だったからなのだ。
しかし「神が死んだ」近代において、「王」の「権威」の裏付けに「神」を持ち出せない。もし、「神」に代わる「王」の「政治的権威」の裏付けが見いだせなければ、「王制」はたちまちその存在意義の根幹を奪われ、より民主的な大統領制に移行するだろう。
こんな困難な課題に対し、ジョージが取った解決策は革命的であったと思える。彼は、「王」の「権威」の裏付けとして「神格」ではなく「人格」を用いたのである。
自らが、神ではなく、一人の幸福を求める近代人として、日々真摯に生きる姿をさらけ出した。
人間としての己が、庶民と同様、同じ苦労を、同じ喜びを味わい、自らの「王という機能」を、一個の「人」として全うする事で、国民の尊敬と信頼を勝ち得たのである。「人としての王=ジョージ6世」は、自らの働きかけによって国民が団結し、戦争という苦難を乗り越えられたことに、この上ない安堵と喜びを感じたに違いない。
結局、近代の王権は、多かれ少なかれ「神の消滅」によって揺らぎ、その存在意義を問われたのだと思える。
その解決策がジョージ6世という王によって、優れた「人格=人間的格調」によって王権が成立し得ると証明された。
それゆえに、世界各国の王家が、今も存続し得ているのではないかと思ったりする。<昭和天皇の人間宣言と地方行幸>
人間としての品格、優れた人格を保持すればこそ、現代の王は王たり得るのだろう。<平成天皇の被災地行幸>
しかし、今その「職分」を果たす方々にとって、それがただの義務ではなく、喜びが伴っていることを切に祈られずにはいられない。