2023年05月27日

映画『ピアノレッスン』美しく哀しい女性映画!再現ストーリー/詳しいあらすじ解説・ネタバレ・ラスト・評価

映画『ピアノ・レッスン』詳しいあらすじ・ネタバレ 編

原題 The Piano
製作国 オーストラリア
製作年 1993年
上映時間 121分
監督 ジェーン・カンピオン
脚本 ジェーン・カンピオン


評価:★★★★  4.0点

この映画は公開当時、高い評価を得て数々の賞に輝きました。

口のきけないヒロインとマオリ族に同化した恋人との恋の行方を描きます。

その美しい映像と、流麗なテーマ曲に彩られた本作品は、女性であれば一見の価値がある「女性映画」だと思います。
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<目次>
映画『ピアノ・レッスン』詳しいしあらすじ
映画『ピアノ・レッスン』予告・出演者
映画『ピアノ・レッスン』受賞歴
映画『ピアノ・レッスン』ネタバレ
映画『ピアノ・レッスン』ラスト

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映画『ピアノ・レッスン』詳しいあらすじ


piano_rogo.png6歳の頃から自ら話す事をやめたエイダ(ホリー・ハンター)は指の隙間から、1852年のスコットランド見ていた。彼女は、ピアノを言葉代わりとし、自らのもとから去った恋人との間にできた、一人娘のフローラ(アンナ・パキン)と共に暮らしていた。
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ある日父親の決めた縁談に従い、娘と共にニュージーランドの入植民であるスチュアート()の下に嫁ぐ。
荒波を超え、二人はニュージーランドの浜辺にピアノと共に上陸する。嵐の中エイダは浜辺で、一夜を明かす。
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翌日、ようやく夫スチュアートと、マオリ原住民をまとめるべインズ()が迎えに来るが、夫はエイダがピアノを一緒に運んで欲しいと頼んでも、重いピアノは置き去りにされた。
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悪路をマオリ族に荷物を運ばせ、家へようやく到着する。スチュアートの親族に迎えられて、大雨が降る中、ウエディングドレスを着たエイダは結婚写真を撮る。
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スチュアートが不在の時、エイダはフローラを連れベインズの自宅を訪ね、浜辺のピアノの運搬を頼む。べインズが断ると、エイダはべインズの家の前に座り込んだ。
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家から出たベインズは、二人に再び「無理だ連れて行けない」と告げたが、じっと見つめる二人に根負けし、浜辺へと二人を連れて行った。
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久々にピアノを前にしエイダはその鍵盤をたたき続けた。娘フローラもそのメロディーに合わせ時に踊った。それをべインズは見つめていた。
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エイダは家に戻るとテーブルに鍵盤を彫り、それを弾いた。

ベインズはスチュアートに、自分が持つマオリの土地をピアノと交換したいと持ち掛ける。但し、ピアノと同時にエイダからレッスンを受けたいと言った。
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お前がピアノを弾きたいとはと笑ったスチュアートだったが、欲に負けて交換を受け入れた。
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それを知ったエイダはスチュアートに怒りをぶつけたが、スチュワートは我々は家族だ、犠牲を払えと怒鳴られると従うしかなかった。
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一方べインズはピアノ自宅へ運び入れ調律までしてエイダの来る日を待った。そこに、いやいやレッスンに赴いたエイダが現れた。
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しかし調律済みのピアノを前にすると、たちまちピアノ演奏に夢中になった。べインズはそんなエイダを見つめ続け、自らはピアノに触れようとはしなかった。
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そして、ある雨の日のレッスン、ピアノを弾くエイダを熱く見つめるべインズは、意を決したようにエイダの首筋へ背後からキスをする。
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怒るエイダにべインズは、ピアノを返してほしくないかと問いかける。触れることを許してくれれば、ピアノを返すと持ち掛ける。エイダは1レッスン黒い鍵盤分返すならと受け入れる。
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エイダとベインズのレッスンは、二人だけの秘密の時間になり、娘フローラは家の外で待たされる事になった。
回を追うごとにべインズの要求はエスカレートして行き、ある時はピアノの下でエイダの足に触れ、ある日はエイダに下着姿でピアノを弾かせ、その体に触れた。
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そしてある日、べインズはエイダをベッドに寝かせ、その体にキスをした。しかしエイダは、その体を許すことはなく、べインズの家を後にした。
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そんな時、教会で青髭の劇が上演され、娘のフローラも出演することとなった。エイダと夫スチュアートも観劇に訪れ、そこにべインズも現れた。
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しかし、エイダが夫と手を握りあっているのを見て、怒り帰って行った。劇は、青髭の女性殺害が本当に行われていると思ったマリオ族の乱入で、大混乱に陥った。
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次のレッスンの日、べインズは全裸になりピアノの黒鍵10個で、エイダとベッドを共にすることを求めた。そしてエイダもそれに応じ、二人は裸の体を重ねた。
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それを娘フローラに覗き見られているのを、二人は知らなかった。フローラは、エイダの行為を木を相手に再現し、それをまねてマオリの子もともに遊び始めた。
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そこに通りかかった、スチュアートは恥ずかしいことをするなと止め、罰として抱き着いた木を洗わせた。フローラはスチュアートに、母のピアノレッスンの話をし、ピアノを弾かない日もあると言った。
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翌日のレッスン日、エイダがべインズの家に向かうと、ピアノがマオリ族の手によって、彼の家から運び出されるところだった。驚くエイダに、べインズはピアノを返すと告げた。
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彼は疲れた顔で、「君を娼婦に出来ない。君に自分を好きになって欲しかった。でも無理だ。」と言い、帰るように言った。
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ピアノが帰って来たことを知った夫スチュアートは、べインズの家に行き、なぜピアノを返すのかと問いかけたが、土地を返さなくて良いと言われると不思議がりながらも受け入れた。
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ピアノが帰って来たと言うのにエイダに喜びの表情はなく、ピアノも弾かず物思いに耽るようになった。
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そしてある日、娘フローラが必死に引き留めるのも聞かず、エイダはベインズの家に向かい走った。
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エイダはべインズに家のドアを開いたが、彼は焦燥した顔を歪ませ、失恋で病み、食事も摂れない、自分を愛してないなら出て行ってくれとドアを開けた。
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それを聞いたエイダは、べインズを平手打ちし、何度も何度も手を上げた。そして動きを止めると、抱き着き口づけを交わし、二人はベッドでお互いの体を重ねた。べインズとエイダは翌日会う約束をした。
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そんな二人は、夫スチュアートが覗き見ているのを知らなかった。
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翌日エイダはべインズとの約束を守り彼の家へと向かう。しかし、スチュアートはその途中の森で待ち伏せ、彼女に襲い掛かかった。
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そこに娘フローラが来てスチュアートは、エイダをレイプするのを諦めた。しかしスチュワートは、家の玄関も窓も板を打ちつけ、エイダを家に幽閉した。
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映画『ピアノ・レッスン』予告

映画『ピアノ・レッスン』出演者

エイダ・マクグラス(ホリー・ハンター)/ジョージ・ベインズ(ハーヴェイ・カイテル)/アリスデア・スチュワート(サム・ニール)/フローラ・マクグラス(アンナ・パキン)/モラグおばさん(ケリー・ウォーカー)/ネッシー(ジュヌヴィエーヴ・レモン)/ヒラ (トゥンギア・ベイカー)/牧師 (イアン・ミューン)/船長役 (ピーター・デネット)/マナ (クリフ・カーティス)/エイダの父 (ジョージ・ボイル)/エンジェル (ローズ・マクアイバー/タフ(ミカ・ハカ)
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映画『ピアノ・レッスン』評価・受賞歴


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映画『ピアノ・レッスン』評価

この映画は高い評価を公開当時より受け、アカデミー賞を獲得したほか、数々の賞を獲得しています。
また、批評的にも高い評価を受け、その結果「映画ベスト100」など映画リストにも数多く選出されています。
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映画『ピアノ・レッスン』受賞歴

第66回アカデミー:主演女優賞、助演女優賞、脚本賞
カンヌ国際映画祭:パルム・ドール、女優賞
セザール賞:外国語映画賞
オーストラリア映画協会賞:作品賞、監督賞、主演女優賞、主演男優賞、撮影賞、衣装デザイン賞、編集賞、作曲賞、美術賞、脚本賞、音響賞
英国アカデミー賞:主演女優賞、衣装デザイン賞、美術賞
ゴールデングローブ賞:主演女優賞(ドラマ部門)
インディペンデント・スピリット賞:外国語映画賞
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関連レビュー:オスカー受賞一覧
『アカデミー賞・歴代受賞年表』
栄光のアカデミー賞:作品賞・監督賞・男優賞・女優賞
授賞式の動画と作品解説のリンクがあります。
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映画『ピアノ・レッスン』ランクイン映画リスト紹介

2022年英国映画協会(BFI)選出『映画監督が選ぶ史上最高の映画べスト100』・・・・・53位
2022年版英国映画協会(BFI)選出『史上最高の映画ベスト100』・・・・・50位
1999年キネマ旬報選出『映画人が選ぶオールタイムベスト100 外国映画編』・・・・・26位
2018年・米「Time Out」誌発表『俳優が選んだ史上最高の映画ベスト100』・・・・・85位
2020年・米情報発信会社”スタッカー”発表『映画史からの記念碑的映画110本とあなたがそれを見るべき理由』順不同
1999年・米「ローリングストーン」誌発表『100年間の反逆者の映画ベスト100』・・・・・81位
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関連レビュー
◎いろいろな『映画ベスト100』企画紹介

世界各国で選ばれた『ベスト映画ランキング』のリストを紹介!!!
映画界、映画ファン、映画評論家など、選定方法もさまざま!
日本映画も各リストでランクイン!
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映画『ピアノ・レッスン』2022年時点の映画サイト評価

<日本>
Yahoo!映画 -・・・・・3.7/5、アマゾン・・・・・4.1/5、Filmarks・・・・・3.6/5、映画.com・・・・・3.9/5、allcinema・・・・・7/10、キネノート・・・・・74.1/100
<米国>
Rotten Tomatoes・・・・・90%、Metacritic・・・・89%、IMDB・・・・・7.5/10
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以下の文章には

映画『ピアノ・レッスン』ネタバレ

があります。
(あらすじから続く)
ある夜エイダはスチュワートのベッドに行き、その体に触れ夫を満足させたが、夫が彼女の身体に触れることは許さなかった。
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そんな事が続いたある朝、夫スチュワートは打ちつけていた板を自ら剥がすと、エイダに「君を信じている。信じていいか?」と問う。
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エイダが頷くのを見て、「いつか俺を好きになってくれるだろう」と呟き、仕事へと出て行った。

しかし、夫が家を出ると、エイダはピアノの白鍵を一本抜き取り「ベインズ私の心はあなたのものよ、エイダ」と彫ると、ベインズの下に届けるよう娘フローラに言った。
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フローラは嫌がったが、エイダに強く命じられ家を出たものの、娘はべインズの家には行かず、それをスチュアートへと渡した。
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中身を見たスチュワートは激怒して家に帰ると、斧を振るい扉を壊し、豪雨の中にエイダを引きずり出した。
エイダの不実を責め、「あいつが好きなのか?」と叫ぶ。
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そして、スチュワートは斧を振りかざすと、娘フローラが絶叫する中、エイダの指を一本切り落とした。
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驚いたように跳ね上がったエイダの体は、数歩歩むと、芯が抜けたように泥の中に座り込んだ。
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スチュワートは、切り落とした指をハンカチに包むと、フローラに持たせベインズの家に走らせた。泣きながらベインズに指を渡した娘フローラ。
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事態を悟ったベインズは、「スチュワートを今すぐ殺してやりたい」と怒るが、フローラは母の指が全てなくなるから来ないでと泣いて、思い止まらせた。

スチュアートは熱に浮かされ意識がないエイダを看病していたが、その体に覆いかぶさり抱こうとする。
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しかしエイダが目を覚まし、夫を見つめると、スチュワートもそれ以上の行為を止めた。

その夜スチュアートはベインズの家に乗り込むと、ベッドで寝るべインズの頭に銃を突き付け、エイダと共にこの地から去れと告げた。
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映画『ピアノ・レッスン』結末

エイダと娘フローラは、ベインズと共に船に乗りその地を離れた。
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船が海原に漕ぎ出すとエイダはピアノは壊れているから捨ててほしいと、べインズに言った。
べインズは止めようとするが、エイダは強硬だった。
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エイダは自ら捨てようと手を伸ばしたため、彼も折れピアノを投棄した。
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ピアノが海に投入され、そのロープも一緒に海に引き込まれていく。刹那エイダはピアノを結んだロープに自ら足を踏み入れた。
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そして、ピアノと共に眠るように海深く沈んで行く。深い海の中へどこまでも沈んで行った。
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しかし目を開いたエイダは、体をもがかせロープに絡んだ靴を脱ぎ棄てると、水上へとその体を飛び出させた。
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その後、新たな地に移り住んだエイダは、ベインズによって義指を贈られた。
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エイダは声を出す練習を始め、ピアノ教師の生活を始めた。
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今でもピアノと共に沈む自分を見るのだった。
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最後にトーマス・ホッドの『沈黙』の一節が語られる。
音のなかったところ、沈黙がある(There is a silence where hath been no sound)
音のないところ、冷たい墓の中、深い深い海の下にも多分沈黙がある。(There is a silence where no sound may be,In the cold grave−under the deep, deep sea,)



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2023年03月26日

映画『我等の生涯の最良の年』考察!本作の隠された主張とは?/復員兵ワイラー監督と「赤狩り」とハリウッド

映画『我等の生涯の最良の年』考察 編

原題 The Best Years of Our Lives
製作国 アメリカ
製作年 1946
上映時間 169分
監督 ウィリアム・ワイラー
脚本 ロバート・E・シャーウッド
原作 マッキンレー・カンター


評価:★★★★  4.0点

この映画は1946年度のアカデミー賞で、作品賞、監督賞、脚本賞、主演男優賞、助演男優賞を獲得した。

1945年の第二次世界大戦終結後の、米国復員兵が日常に復帰する苦悩を、緻密な脚本で描き説得力がある。

監督のウィリアム・ワイラーも戦時中は従軍し、戦争の悲惨な現実を目の当たりにし帰国した。
しかし、ようやく平安を得られると期待しただろう彼の思いを裏切るような現実が、戦後のアメリカ社会には待ち構えていた。

そんな彼の帰還兵としての実感が、この作品にリアリティーを与えていると思える。
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<目次>
映画『我等の生涯の最良の年』ネタバレなし簡単あらすじ
映画『我等の生涯の最良の年』考察・ワイラーと赤狩り
映画『我等の生涯の最良の年』考察・全米監督協会を巡る対決

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映画『我等の生涯の最良の年』簡単あらすじ


第二次世界大戦が終わり、空港を行き交う人々で混雑していた。その中に復員兵の、空軍大尉のフレッド(ダナ・アンドリュー)もいた。故郷ブーン市に向かう飛行機はいっぱいで、空軍の貨物機に便乗する事にした。
その飛行機で、同郷の義手を付けた水兵のホーマー・パリッシュ(ハロルド・ラッセル)と陸軍軍曹のアル・スティーブンソン(フレドリック・マーチ)と同乗し仲良くなる。アルは家に帰り、妻と娘と息子に迎えられたが、居心地が悪く家族を夜の町へと連れ出し、深酒をした。そしてホーマーの叔父の経営する店と聞いたバーへ行くと、そこにはフレッドとホーマーがおり再会を祝して更に灰を重ねた。
その挙句、フレッドも足元が危うくなり、アルの家に一晩泊まった。そんな中フレッドはアルの娘ペギー(テレサ・ライト)と仲良くなる。
その後社会復帰を目指すフレッドは、戦争中は英雄だったが就職もままならず、新妻マリー(ヴァージニア・メイヨ)から嫌味を言われる。ホーマーも、周囲は暖かく迎えるものの、義手を気にして婚約者と距離を置くようになる。フレッドは戦前務めていた銀行に復帰し復員兵の融資を担当するが、銀行の方針と折り合えない。
そんな3人が、戦後のアメリカ社会に適応しようと苦闘する姿を描く・・・・
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映画『我等の生涯の最良の年』予告

映画『我等の生涯の最良の年』出演者

アル・スティーブンソン軍曹(フレドリック・マーチ)/ミリー・スティーブンソン(マーナ・ロイ)/ペギー・スティーブンソン(テレサ・ライト)/ロブ・スティーブンソン(マイケル・ホール)/フレッド・デリー大尉(ダナ・アンドリュース)/マリー・デリー(ヴァージニア・メイヨ)/ホーテンス・デリー(グラディス・ジョージ)/ウィルマ・キャメロン(キャシー・オドネル)/ウィルマ母(ドロシー・アダムス)/ウィルマ父(ドン・ベドー)/ホーマー・パリッシュ(ハロルド・ラッセル)/ホーマーの叔父(ブッチ・エングル)/ホーマー母(ミンナ・ゴンベル)/ホーマー父(ウォルター・ボールドウィン)/ローマン・ボーネン(パット・デリー)/ミルトン(レイ・コリンズ)/クリフ(スティーヴ・コクラン)/ルエラ・パリッシュ(マレーネ・エイムズ)/プリュー(チャールズ・ハルトン)/モレット(レイ・ティール)/ソープ(ハウランド・チェンバレン)/ノヴァク(ディーン・ホワイト)/ブラード(アースキン・サンフォード)/ウディ・メリル(ヴィクター・カトラー)
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映画『我等の生涯の最良の年』考察

「赤狩り」とワイラー
個人的には、この『我等の生涯の最良の年』に、終戦直後からアメリカ国内で始まった「赤狩り(レッドパージ)」に対する、ワイラーの思いが反映されているように感じた。

それは、一人ワイラーだけではなく、第二次世界大戦を戦い帰国した、ワイラーを含めたハリウッドの大物映画監督、ジョン・フォード、ジョン・ ヒューストン、フランク・キャプラ、ジョージ・スティーブンスに共通する「想い」であったと思える。
関連レビュー:従軍したハリウッド監督とハリウッド
『我等の生涯の最良の年』
オスカー5冠受賞!ワイラー監督の描く戦後アメリカ
戦場に立った大監督とハリウッド映画への影響

戦後の世界は平和が訪れるという人々の希望もむなしく、ソ連を代表とする共産主義勢力と、アメリカが主導する資本主義陣営に2分された「冷戦時代」を迎えることとなる。

その対立を基にアメリカ国内では連邦議会の下院に共産主義者を排斥する目的で、非米活動委員会(HUAC)が作られた。
その公聴会でハリウッドで共産主義的な傾向を持つとされる映画産業界の人々が呼び出され、共産主義者ではないと宣誓することが求められたのである。
関連レビュー:赤狩り時代とハリウッド
『真昼の決闘』
オスカー受賞!ゲーリー・クーパー&グレース・ケリー共演
西部劇の古典!フレッド・ジンネマン監督の迫真のドラマ
その時、宣誓を拒否した10人のハリウッド映画人を「ハリウッド・テン」と呼び、彼らは議会侮辱罪に問われることになった。

その判決に異を唱えた、ハリウッド映画人は「憲法修正第一条委員会」を結成し、言論の自由を主張した。
結局「憲法修正第一条委員会」は、その参加者スターリング・ヘイデンが共産党員だったという事実が判明し解散することとなる。

しかし、その発足には、ウィリアム・ワイラーやジョン・ ヒューストンが積極的に関わっていた。
ここで注目したいのは、戦地に赴いた愛国者であるワイラーや、ジョン・ヒューストンが、なぜ強く、戦後の反共運動に反対したのかという点である。

その理由が、この『我等の生涯の最良の年』のワンシーンで語られていると思える。
<『我等の生涯の最良の年』シーン:戦争は意味がなかった?>
【意訳】男:君のような自らを犠牲にした男性を見ると恐ろしくなる。一体何のために?/ホーマー(義手の男):何のため?言ってることが分からない。/男:我々は騙されて、戦争をさせられたんだ。/ホーマー:そうさ、日本とナチのせいでね。それでー/男:いいや、ドイツと日本は我々の敵ではんかった。奴らは、イギリスと共産主義者と戦っただけだ。もし俺たちが、ワシントンの過激な連中に騙されてなければ、勝ってたかもな。/ホーマー:何を言ってるんだ。/男:俺たちは間違った敵と戦った。それだけさ。事実を見るんだな、友よ。/ホーマー:自分自身を見てみろ。何のためにその腕を失ったか。そして行動を起こすんだ。/フレッド(店員):金を払って帰ってくれ。支払いは向こうだ。/男:ここでもまた問題だ。この国のソーダ作りは、みんな特別だと思ってるのか?/ホーマー:おい、あんたは何を売り込みたいんだ!/男:何も売っちゃいないさ、ただ古いアメリカ精神の持ち主でね。/ホーマー:そのアメリカ主義はクソッタレの仲間か?俺たちは、ナチや日本の味方をすれば良かったのか?/男:もう一度言う。真実を見つめろとね。/ホーマー:俺も少しは真実を見て来た。船が沈み400人の仲間が沈むのを見た。彼らもクソッタレか?/男:それはつらい事実だな。だが、もうすぐ我々は賢くなって/ホーマー:俺に手があれば。/フレッド:手を放せ!(以後省略)

このシーンで男が語っているのは、ドイツと日本の敵は共産主義であり、それであればアメリカは戦う必要はなかったという総括である。
そして、そう主張する男が、自らを古いアメリカ主義者だと語る時、ここに「共産主義者=非米活動者」こそ真のてきなのだという、アメリカ的愛国主義を見る。

このシーンで戦争は不要だったと言う男の姿は、戦後アメリカ社会を象徴するものであり、それに異を唱えるホーマーとフレッドこそ、ワイラーを代表とする帰還兵たちの偽りのない声だっただろう。

この米国を支配した、超愛国心を元にした新たな「戦争=冷戦」の出現は、実際に戦争に参加し傷ついたワイラーにして見れば、いい加減にしろと言いたかったろう。

自分たちが、なんのために戦ったのかと、強い無力感を感じたに違いない。
それは一人ワイラーだけの感情ではなく、戦争に赴いた兵士たちに共通する思いだったのではないか。

それは100歩譲って、ワイラーや監督アナトール・リトヴァク監督はユダヤ人だったため、迫害される同胞に対する思いから、ナチスに対する戦争を戦ったかもしれない。
関連レビュー:ホロコーストとユダヤ人
『サウルの息子』
第88回アカデミー賞、外国語映画賞受賞!!
ユダヤ人同胞の死を見送ったゾンダーコマンドの実話!

しかし、それ以外の戦地に赴いた監督、ジョン・フォード、ジョン・ ヒューストン、フランク・キャプラ、ジョージ・スティーブンスは、心情的には右翼的愛国心から戦地に身を投じたことは、その作品や発言からも間違いないだろう。

そんな米国愛に満ちた、ジョン・フォード他の監督達にしても「赤狩り」に対して反対の声を上げているのだ。

その一方赤狩りに積極的に関与したのは、ハリウッド映画界では、ウォルト・ディズニーや、俳優ジョン・ウェイン、後の大統領ロナルド・レーガン、そし大物監督セシル・B・デミルだった。

そんな「赤狩り」を叫ぶ彼らには、実は共通点があるのだ。
彼らは、第二次世界大戦の戦場に立っていないのである。

うがった見方をすれば、戦争で血を流さなかったという負い目が、「赤狩り」という愛国行動を取らせたのではないかと疑わせる。

この両者、戦争に行った者と行かなかった者の対立をよく示すのが、ジョン・フォードとセシル・B・デミルという、当時のハリウッドの2大監督が対峙した、全米監督協会を巡る対決だった。
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映画『我等の生涯の最良の年』考察

全米監督協会の対決
反共産主義を叫ぶセシル・B・デミル監督は、全米監督協会を舞台に勝負に出た。

「共産主義シンパ」を映画産業から締め出そうとする動議を出し、それに反対する当時の監督協会会長ロバート・L・マンキーウィッツ不在中に、緊急総会を招集したのだ。

その映画監督達の緊迫した会議は結論に至らず、長時間に及んだ。

膠着した会議に、決着をつけたのがジョン・フォードで、それまで沈黙を保っていた彼は、立ち上がるとデミルに対してこう言い放った。

「C・B(デミルのこと)、私はあなたが嫌いだ。C・B、私はあなたの拠って立つものも嫌いだ。私はあなたの今夜ここでの言動も嫌いだ。」
この言葉で、デミルは敗北に追いやられた。

このジョン・フォードの言葉こそ、実際に戦地におもむいた者が「赤狩り」という陰湿な騒ぎに対して持った、正直な心情の吐露だったと思えてならない・・・・
関連レビュー:ジョン・フォードとセシル・B・デミルの戦い!
『イヴの総て』
アカデミー賞、最優秀作品賞を含む6部門で受賞!!
赤狩りと、マンキーウィッツ監督と、ジョン・フォード

この会議のときデミルは、嘲るようなユダヤ訛りで「ヴィリー・ヴァイラー氏は、共産主義に好意的だ」と、ワイラーをも名指しで攻撃している。

これに対してワイラーは「私の国への忠誠心に人々が疑問を抱くのはうんざりだ」と言い「次に誰かがそれを言うのを聞いたら、私は彼を地獄に蹴落とす。私は彼が老人だろうが、どれだけ権力を持とうが気にしない。」と痛烈な反撃をした。

彼にしてみれば、命がけで国に尽くした結果がこれかと失望したに違いない・・・・・

この騒動の後も「赤狩り」は益々その炎を広げていったが、その間ワイラーは『ローマの休日』の撮影でイタリアにいた。
関連レビュー:ワイラーの傑作
『ローマの休日』
オードリー・ヘップバーンのデビュー作
プリンセスの一夜の恋を描く古典的名作

スタジオはワイラーが「赤狩り」に否定的であることを知っており、当時「ハリウッドで最も金を稼ぐ監督」と言われていたキャリアを、そのため失うことを恐れていた。

そのため、スタジオ側では、彼が国外の撮影でアメリカを離れている事に安堵したと伝えられている。

そんな状況下でもワイラーは、共産主義シンパでハリウッドを追放された、ダニエル・トランボを『ローマの休日』の脚本家に採用したように、一貫して政府の「赤狩り」に抵抗を見せていた。

繰り返しになるが、戦争の後、再び始まった醜い争いに我慢できなかったのだろう。

この映画『我らが生涯最良の年』というタイトルには、戦争が終わり平和になる「最良の年」であるはずなのにという詠嘆が込められているように響く・・・・・

その新たな「戦争=冷戦」は1945年2月から1989年12月まで、44年間続くこととなった。
関連レビュー:冷戦時代の核戦争の恐怖
『博士の異常な愛情、又は私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』
天才キューブリック監督の水爆級ギャグ

関連レビュー:東西冷戦下の米ソ関係
『ブリッジ・オブ・スパイ』
トム・ハンクス主演, スティーブン・スピルバーグ監督作品
東西冷戦下でスパイ交渉を担った人物の物語





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2023年01月21日

映画『我等の生涯の最良の年』戦勝国米国のリアリズム!感想・解説/ワイラー監督の戦争とハリウッド映画の変容とは?

映画『我等の生涯の最良の年』感想・解説 編

原題 The Best Years of Our Lives
製作国 アメリカ
製作年 1946
上映時間 169分
監督 ウィリアム・ワイラー
脚本 ロバート・E・シャーウッド
原作 マッキンレー・カンター


評価:★★★★  4.0点

この映画は1946年度のアカデミー賞で、作品賞、監督賞、脚本賞、主演男優賞、助演男優賞を獲得した。

本作の前年、1945年に終わった第二次世界大戦の米国復員兵の、戦場から日常に復帰する苦悩を、リアルに描き説得力がある。

監督ウィリアム・ワイラーも戦時中は従軍し、戦争の悲惨な現実を目の当たりにしており、そんな彼の帰還兵としての実感が、この作品に力を与えていると感じた。
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<目次>
映画『我等の生涯の最良の年』ネタバレなし簡単あらすじ
映画『我等の生涯の最良の年』予告・出演者
映画『我等の生涯の最良の年』感想
映画『我等の生涯の最良の年』解説・ワイラーの肖像
映画『我等の生涯の最良の年』解説・ワイラーと戦争体験

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映画『我等の生涯の最良の年』簡単あらすじ


第二次世界大戦が終わり、空港を行き交う人々で混雑していた。その中に復員兵の、空軍大尉のフレッド(ダナ・アンドリュー)もいた。故郷ブーン市に向かう飛行機はいっぱいで、空軍の貨物機に便乗する事にした。
その飛行機で、同郷の義手を付けた水兵のホーマー・パリッシュ(ハロルド・ラッセル)と陸軍軍曹のアル・スティーブンソン(フレドリック・マーチ)と同乗し仲良くなる。アルは家に帰り、妻と娘と息子に迎えられたが、居心地が悪く家族を夜の町へと連れ出し、深酒をした。そしてホーマーの叔父の経営する店と聞いたバーへ行くと、そこにはフレッドとホーマーがおり再会を祝して更に灰を重ねた。
その挙句、フレッドも足元が危うくなり、アルの家に一晩泊まった。そんな中フレッドはアルの娘ペギー(テレサ・ライト)と仲良くなる。
その後社会復帰を目指すフレッドは、戦争中は英雄だったが就職もままならず、新妻マリー(ヴァージニア・メイヨ)から嫌味を言われる。ホーマーも、周囲は暖かく迎えるものの、義手を気にして婚約者と距離を置くようになる。フレッドは戦前務めていた銀行に復帰し復員兵の融資を担当するが、銀行の方針と折り合えない。
そんな3人が、戦後のアメリカ社会に適応しようと苦闘する姿を描く・・・・
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映画『我等の生涯の最良の年』予告

映画『我等の生涯の最良の年』出演者

アル・スティーブンソン軍曹(フレドリック・マーチ)/ミリー・スティーブンソン(マーナ・ロイ)/ペギー・スティーブンソン(テレサ・ライト)/ロブ・スティーブンソン(マイケル・ホール)/フレッド・デリー大尉(ダナ・アンドリュース)/マリー・デリー(ヴァージニア・メイヨ)/ホーテンス・デリー(グラディス・ジョージ)/ウィルマ・キャメロン(キャシー・オドネル)/ウィルマ母(ドロシー・アダムス)/ウィルマ父(ドン・ベドー)/ホーマー・パリッシュ(ハロルド・ラッセル)/ホーマーの叔父(ブッチ・エングル)/ホーマー母(ミンナ・ゴンベル)/ホーマー父(ウォルター・ボールドウィン)/ローマン・ボーネン(パット・デリー)/ミルトン(レイ・コリンズ)/クリフ(スティーヴ・コクラン)/ルエラ・パリッシュ(マレーネ・エイムズ)/プリュー(チャールズ・ハルトン)/モレット(レイ・ティール)/ソープ(ハウランド・チェンバレン)/ノヴァク(ディーン・ホワイト)/ブラード(アースキン・サンフォード)/ウディ・メリル(ヴィクター・カトラー)
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映画『我等の生涯の最良の年』感想


の映画は1946年のアカデミー賞で、作品賞、監督賞、主演男優賞、など主要な賞を総なめした。

この当時のアメリカ社会は、1945年の日本の降伏により、第二次世界大戦が終結してみると、それまでの列強と呼ばれた英国やフランスが疲弊し、代わって「パックスアメリカーナ=アメリカの平和」と呼ばれる、アメリカの黄金期に向かう時期である。

そんな時代でありながら、この作品はハリウッド映画としては珍しいほどに、暗い影に満ちていると感じた。

最も繁栄を謳歌していると見られた、戦勝国アメリカでありながら、その戦争を戦った兵士たちは、アメリカ社会に適合することへの苦労が、切実に語られているのだ。

例えば、戦争中の英雄である主人公が、帰った故郷で就職の道がなく、どうしようもなく戦前の職場であるドラッグストアーで、かつて部下だった人間に使われ低賃金で働く姿が描かれている。

戦勝国アメリカの、この映画に描かれたその現実は、予想もしない陰鬱さを持ったものだった。
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彼ら命がけで、アメリカの掲げる正義のために戦った兵士たちこそ、アメリカ社会の繁栄をもたらした者たちだったにもかかわらず、帰国して見れば戦わなかった者たちの栄華を目の当たりにしながら、戦争中の苦痛を癒す間もなく、社会に頭を下げ受け入れてもらわねばならない姿は痛ましい。

戦争中に過酷な経験を重ねれば重ねるほど、その屈託は強く激しくなり、血を流した自分こそ報われるべきだという思いが、社会に対する恨みへと変わっても不思議ではない。

実を言えば、そんな戦争帰還兵の心情を描いた作品は、ベトナム戦争を題材にした映画に、より直截に表現されていると感じる。
関連レビュー:ベトナムの傷が向かう先
『タクシードライバー』
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ベトナム帰還兵の憂鬱とファシズムの関係
しかし、この映画は、タクシードライバーのように直截に、怒りを描いていない。

それは当時のハリウッドの表現規制「ヘイズ・コード」が厳しく、過激な表現が許されなかったからである。
当時の映画は、全世界、老若男女を対象とした、娯楽の王様として、公序良俗に則った作品を制作するように、政府も求め、ハリウッドの映画産業も商業的な利益になると従っていたのである。
関連レビュー:ハリウッドのヘイズコードとは?
『陽のあたる場所』
アメリカの光と影を描いて、第24回アカデミー賞6冠!!
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それゆえこの映画では、ヘイズコード規制に合わせ、表現を和らげている。
実際の怒りを希釈し、万人に受け入れられる形にアレンジし、周到に表現を調整し描きながらも、帰還兵の怒りを見事に観客に訴えている。

その表現の基礎となった脚本は、細密に構築された設計図のような完璧さを感じた。

そしてその脚本を元に、身につまされる迫真力、強いリアリティーを感じさせる、この作品の演出力とカメラワークは、実際に戦地でドキュメンタリーを撮影した、ウィリアム・ワイラーの実体験があったからこそ可能だったと思える。

その点を、ワイラーの人生と共に、以下の文章で語りたい。
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映画『我等の生涯の最良の年』解説

監督ワイラーの肖像と『我等の生涯の最良の年』
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戦争前のウィリアム・ワイラー
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ウィリアム・ワイラー(William Wyler, 1902年7月1日 - 1981年7月27日)は、アメリカ合衆国を代表する映画監督の一人。ハリウッド黄金期に活躍し、アカデミー監督賞を3回受賞し、数多くの名優を見出した。ドイツ帝国のミュールハウゼン(現・フランス東部オー=ラン県ミュルーズ)出身。William_Wyler_wiki.jpg
生まれたときの姓名はヴィルヘルム・ヴァイラー(Wilhelm Weiller)。当時ドイツ帝国領であったミュールハウゼンにて、小物屋を営むユダヤ系の家庭に生まれる。父親はユダヤ系スイス人、母親もユダヤ系ドイツ人で、両親共にユダヤ教徒でもあった。ヴィルヘルムは家業を継ぐことを嫌い、フランスのパリに赴いて音楽を学んだが挫折してしまう。
結局、母方の親戚(遠縁ではあるが)に当時のハリウッドの重鎮カール・レムリ(ユニバーサル・スタジオ社長)がいたことから映画の道を志し、第一次世界大戦後の1920年に18歳で渡米、まずユニヴァーサルのニューヨーク本社で雑用係として働く。なお第一次世界大戦にドイツが敗北した結果、故郷のミュールハウゼンはフランス領となった。その後、国際宣伝部を経てハリウッドに移り、オフィスの雑用係、撮影所の小道具係、配役係、助監督と着実に製作現場での経験を積んで立場を上げていく。(wikipediaより)
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ワイラーは下住みから始め、1925 年23歳で監督デビューした。
キャリアを重ね1936 年には『孔雀夫人』でアカデミー賞最優秀監督賞に初ノミネートされると、以降20 年間、ほぼ毎年のように優れた作品を生み出した。

彼はオードリー ヘップバーンを一躍有名にしたデビュー作『ローマの休日』のように、女優を輝かせる手腕に長けていた。
バーブラ ・ストライサンド、オリビア・デ・ハビランド、ベティ・デイビス、グリア ガーソンなど彼の映画から多くのスターが誕生した。
特に大女優ベティ・デイヴィスはワイラーのおかげで「はるかに優れた女優」になったと、後年述懐したと言われる。
<『黒蘭の女』予告>
ベティ・デイヴィス主演ワイラー監督作品。2人とも妥協を許さぬ完璧主義者で、撮影現場では喧嘩腰の応酬があったとされる。
しかし、その映画製作に当たっては「正真正銘の完璧主義者」と呼ばれたように、徹底したイメージの追求によりリテイクが多く、俳優と摩擦を引き起こすこともあった。
しかし彼の作品は観客と批評家の双方から高い支持を得て、1930 年代から1960年代にかけて「ハリウッドで最も資金を調達できる映画製作者」の 1 人となった。

ワイラーの持つ、アカデミー賞史上最多の 12 回ノミネートは、2022年現在でも前人未到の記録である
その映画産業に対する功績により、 ワイラーはアーヴィング・G・タルバーグ記念賞、全米映画監督会生涯功績賞、および米国映画協会(アメリカン・フィルム・インスティテュート)の生涯功労賞を受けている。Film2-GrenBar.pngFilm2-GrenBar.pngFilm2-GrenBar.png
ワイラーの戦争体験とハリウッド映画
Film2-GrenBar.pngFilm2-GrenBar.pngFilm2-GrenBar.png欧州で戦争が始まった。
それはウィリアム・ワイラー監督にとって、実家のユダヤ人家族が、ナチス・ドイツによるフランス占領によって窮地に陥いることを意味した。

ワイラーは、当時ドイツと激戦を繰り広げていた連合国陣営にとっての希望、英国を支持する反戦プロパガンダ映画『ミニヴァー夫人』を監督した。
関連レビュー:ワイラーの史上最高のプロパガンダ
『ミニヴァー夫人』
名匠ウィリアム・ワィラーのプロパガンダ映画!!
ナチスも認めた完璧な戦意高揚作品

それは、英国の援護と共に米国の孤立主義からの転換を目的としており、英国市民の現実の苦しみを描き、アメリカ人の戦争への関与を促すものだった。
米国ルーズベルト大統領はこの映画を気に入り、ルーズベルト大統領は映画を全国の劇場で至急上映するよう促し、更にボイス・オブ・アメリカのラジオ・ネットワークで映画のラスト(下の牧師の説教シーン)を放送し、それをチラシにしてドイツ占領下の国に空から撒いた。
<『ミニヴァ―婦人』牧師の説教>
私たちの多くの家は破壊され、老いも若きも命を奪われました。心を痛めていない世帯はほとんどありません。なぜ?と、間違いなく、あなた方は自らに問いかけたに違いありません。なぜ、完全に良識的な人々が、こう苦しむ必然性があるでしょうか?子供、お年寄り、彼女の愛らしさの頂点にいた若い娘に?なぜその人々に?彼らは私たちの兵士でしょうか?彼らは我々の戦士でしょうか?なぜ彼らは犠牲になったのでしょうか?その理由をお話ししましょう。これは軍服を着た兵士のみの戦争ではないからです。それは皆の、全ての人々の戦争なのです。
そしてそれは戦場だけでなく、都市や村、工場や農場、家庭において、自由を愛する、全ての男性、女性、そして子供達の魂に対する闘いなのです。さて、我々は死者を葬りました。しかし我々は彼らを忘れません。それどころか、彼らは我々を打ち倒すかも知れない専制政治と恐怖から、我々自身と我々に続く人々を解放するという、断固とした我々の決意を鼓舞します。これが国民戦争です。これは我等の戦争です。我等は兵器です。だから戦うのです!我等の中にある全てのもので戦うのです!そして、神が権利を守ってくださるよう祈るのです。
この映画に対し英国首相チャーチルも、「『ミニヴァー夫人』は戦艦 100 隻に値するプロパガンダである」と賛辞を送った。
また敵国ナチスの、ゲッペルス宣伝相も理想的なプロパガンダ映画だと言ったとされる。

そして日本軍の真珠湾攻撃によって、アメリカ合衆国が1941年に第二次世界大戦に参戦する。
その時、ハリウッド映画界の名監督の多くが陸・海の各方面軍に入隊し、戦場の弾の飛び交う中でドキュメンタリー映画の撮影をした。

ワイラーは戦時中の1942年から1945年にかけて、陸軍航空隊の少佐として入隊した。
欧州戦線でボーイング B-17とその搭乗員の戦いを描いた『メンフィス ベル: 空飛ぶ要塞の物語』(1944 年)、そして地中海のP-47戦闘爆撃機飛行隊を描く『サンダーボルト!』(1947)の2 本のドキュメンタリーを監督した。
<1990年リメイク版『メンフィスベル』予告>
リメイク版プロデューサーのキャサリン・ワイラーは、監督ウィリアム・ワイラーの娘だという。

ワイラーは、メンフィスベルの実戦作戦行動に同行したが、その作戦中に酸素欠乏で意識を失い、同僚で撮影監督のハロルド・J・タネンバウム中尉も、撮影中に撃墜され死亡した。

さらに『サンダー・ボルト』撮影中には、爆撃を受け気絶し、意識を取り戻した時には、片耳の聴力を失っていた。
戦争から戻った時には、ワイラーは中佐の階級を持つ障害を負った退役軍人となっていた。

戦後ワイラーは『ミニヴァー夫人』に関して、「戦争の表面をなぞっただけで、不完全だった」と述懐しているように、戦場の体験は彼の表現に影響を与えた。

本映画『我等の生涯の最良の年』では、彼が3年間最前線で過ごし、家族の元に戻った時の彼自身の実体験に基づいているという。

またワイラーは、この映画にリアリティーを求め、実際に片腕を喪った傷病兵ハロルド・ラッセルを登用した。
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演技の素人だった彼をスタジオ側が演技レッスンを受けさせると言った時、彼の演技が「実に自然」だとして強く反対したという。

また、その衣装もリアリティーにこだわり、登場人物が実際に買い物をするであろう店で購入し、撮影前から衣装を着用し馴染ませ、製作の現場に多くの復員兵がスタッフとして雇用された。

このように、『我等の生涯の最良の年』 では、それまでのワイラー作品以上にリアリティーにこだわっている。
ここでは、ワイラー自身の戦争体験をいかに真に迫った形で伝えるかに注力しており、その成果があって作品にリアルな力を感じる。

実を言えば、戦争に赴いたハリウッド監督たちは、戦後の表現に変化があり、そこに共通するのはリアリティーだった。
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その戦地に赴いた監督達のリアリティーの追及の根源には、現実世界で目の当たりにした光景が、それまでの映画話法では表現できないという思いがあったに違いない。

戦場に行った著名なハリウッド監督を上げれば、ジョン・フォード、ジョン・ヒューストン、アナトール・リトヴァク、フランク・キャプラなどがいる。

彼らの経験の過酷さは、アウシュビッツの惨劇を見た監督ジョージ・スティーブンスは二度とコメディを作ることができず、ジョン・フォードはD-デイでの大勢の死を撮影した後深酒に溺れ、ジョン・ヒューストンは「心的外傷後ストレス障害=PTSD」に苦しんだほどだった。

そんな戦地に赴いた監督たちに焦点を当てたドキュメンタリーが、ネットフリックスで『伝説の映画監督 -ハリウッドと第二次世界大戦(Five Came Back)』と題され、放送された。
『伝説の映画監督 -ハリウッドと第二次世界大戦』予告

戦時中の5人の監督の体験とハリウッド映画への影響を、現代の映画製作者スティーブン・スピルバーグ、フランシス・フォード・コッポラ、ポール・グリーングラス、ギレルモ・デル・トロ、ローレンス・カスダンが解説している。

このように戦争を境に、戦前の万人受けする華麗な夢、いわば「おとぎ話としてのハリウッド映画」は、戦争の惨禍を目の当たりにした監督たちによって、現実世界の矛盾と苦しみを描く「現実世界の写し絵としてのハリウッド映画」という新たな表現を獲得したと言えるだろう。

更に言えば第二次世界大戦の、過酷な現実を通過した後、一様に世界の映画人は「リアリティー表現」を追求していたのである。
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それは、悲惨だった戦争の傷を露わにし、戦後当時の現実の問題点を明確に示すためには、ドキュメンタリー的な手法が最も適していたという事実を示しているだろう。

個人的には日本のように戦争の被害が大きい国ほど、あらゆる表現芸術にその「苦難の痕跡」が、深く長く刻み込まれていると思える。
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特に1945~50年頃の映画を見るとき、ヒリヒリするような痛みと、現実世界の無残さを感じる。

それは、戦争によって人類全てが多かれ少なかれ「心的外傷後ストレス障害=PTSD」に苦しんだという事実の、顕れであったと思えてならない。
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posted by ヒラヒ at 17:00| Comment(0) | TrackBack(0) | アメリカ映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする