2021年09月18日

日本映画の古典『東京物語』巨匠小津安二郎監督の日本の心/感想・解説・考察・日本家族・無常・簡単あらすじ

映画『東京物語』(感想・解説 編)

英語題 Tokyo Story
製作国 日本
製作年 1953
上映時間 135分
監督 小津安二郎
脚本 野田高梧 、小津安二郎


評価:★★★★★   5.0点



2012年に英国映画協会が発表した、世界の映画監督358人の投票による最も優れた映画に選ばれたのが、この『東京物語』だった。
そんなこの作品は、世界中の映画作家や映画評論家に、今なお多くの信奉者を持つ、小津安二郎監督の代表作だ。
しかし、そんな高い評価を獲得しているこの作品の魅力を、いざ伝えようとして逡巡する。

この作品に感動する自分がいるのは間違いないが、その魅力を言語化するのが困難なのもこの映画だ・・・・・・・・・

film1-Blu-sita.jpg
film1-Blu-sita.jpg

<目次>
映画『東京物語』簡単あらすじ
映画『東京物語』予告・出演者
映画『東京物語』感想
映画『東京物語』解説/戦争の傷跡
映画『東京物語』解説/日本的な表現
映画『東京物語』考察/世界の評価

film1-Blu-sita.jpg

映画『東京物語』簡単あらすじ

平山周吉(笠智衆)と平山とみ(東山千栄子)の老夫婦は、広島尾道から末娘の京子(香川京子)に見送られ、子供達を訪ねるため東京に来た。長男の平山幸一(山村聡)は開業医で、長女の金子志げ(杉村春子)は美容室を経営していた。老夫婦はそれぞれの家庭に投宿したものの、子供達も日々の生活に終われ、十分もてなす余裕がない。そこで、ついに志げは戦死した次男の嫁である紀子(原節子)に二人の東京見物を頼んだ。紀子の細やかな心遣いと、暖かい歓待を受け、老夫婦は東京で初めて心安らぐ。東京を去った二人は、大阪にいる三男の平山敬三(大坂志郎)に立ち寄り、そこで妻とみは体調を崩し、尾道に着いたときには病状が急変した・・・・・・・・・・・・・・
film1-Blu-sita.jpg

映画『東京物語』予告

映画『東京物語』出演者

笠智衆(平山周吉)/東山千栄子(平山とみ)/山村聡(平山幸一)/三宅邦子(平山文子)/村瀬禪(平山実)/毛利充宏(平山勇)/杉村春子(金子志げ)/中村伸郎(金子庫造)/原節子(平山紀子)/大坂志郎(平山敬三)//十朱久雄(服部修)/長岡輝子(服部よね)/東野英治郎(沼田三平)/高橋豊子(隣の主婦)/三谷幸子(アパートの居住者)/安部徹(敬三の先輩)/阿南純子(美客院従業員キヨ)

Film2-GrenBar.png
スポンサーリンク


film1-Blu-sita.jpg

映画『東京物語』感想


昭和の偉大な作家、三島由紀夫がある純文学の小説家を評して「あの人は芸がうまいから・・・・」と言った事がある。

なるほどと納得する所があった。

芸術家とは芸が上手い人を指すのだなと・・・・・

Tokyo-pos3.jpg
小津安二郎の映画を見るとき、この言葉を思い出す。

自らの「映画様式」を研ぎ澄まし、芸として確立した小津の作品群は、特に後半は同じテーマの繰り返しのように思われるかもしれない。
しかし、歌手が同じ歌を歌うように、画家が同じ絵を何枚も書くように、小津は自らの様式を本人にしか分からないコダワリを持って、突き詰めていったのに違いない
その「様式」が力を持つからこそ、ストリーが単純であっても、いや、単純であればあるほど、その様式が際立ち沁み込むように思われるのだ。

ここまで「様式」が「芸」として上手くなってしまえば、小津は何も考えずにその「様式」を再現できたに違いない。

しかし、小津の凄いところは、自分の様式を追求し続けて飽きる所の無かったことだ。
例えば、コーヒーカップのスプーンの回し方を右4回左4回と決めてみたり、赤い薬缶が右から左に平気で移動してみたりするのは、全て小津の持つ美意識に近づけるために必要な作業なのだ。

結局、そこまで「芸」を突き詰めてしまえば、その芸をしている本人以外は、上手くいっているのかどうかすら、分からなくなってしまう。
事実「秋刀魚の味」に出演した岩下志麻は、その演出のあまりの細かさにノイローゼになりそうだったと語っている。
もう出演者すら、監督の意図が分かっていないのだ・・・・・・・
<秋刀魚の味・予告>

Film.jpg
結局、芸術家の芸とはその本人が内に持つ「美」を、100%表現するために行われるパフォーマンス=表現行為であれば、その出来上がった芸術の完成は本人にしか判断できず、その洗練の度が上がれば上がるほど、その作家固有の「様式美」として結実していくに違いない。

そんな優れた感性をもった人間が、一生をかけて、心血を注ぎ、切磋琢磨し、築き上げた「様式」を前に、他人のどんな表現も陳腐に響く。
その厳然として屹立している姿は、富士山の如く揺らぎようもない。

つまりは、黙って拝ませていただくという態度しか、取りようがないように思う・・・ 
それほど高い作家性を持ち得たのは、小津監督が表現した作品群が、誰よりも深く日本の様式美を映像として置き換え得たからだと、個人的には感じられてならない。

この「東京物語」は他の小津作品に比べて、テーマとストーリーが強いので入リやすい作品だと感じます。

Film2-GrenBar.png
スポンサーリンク


film1-Blu-sita.jpg

映画『東京物語』解説

戦争の傷跡

この映画では、声だかに主張はしないものの、戦争の影がその基調にあると感じる。
Tokyo-1945.jpg
映画の題名でもある東京は、第二次世界大戦によって終戦後の1945年破壊されつくされた。(日本橋から見た、深川、両国方面)

しかし、この映画が公開された1953年頃には、戦争終結から8年にして、東京は驚異的な復興を遂げる。
<1950年代の東京>

しかしいかに街が再建されようと、戦争によって日本は約310万人にのぼる死者を出した。
F-japan.jpg
そして人的被害にも増して、戦争でどうしようもなく失くしたモノがあったと思えてならない。

その喪失は、東京という日本最大の都市にまず現れたのではなかったか。
広島・尾道という、古い日本から出てきた老夫婦に対して、東京の子供達が邪魔にする態度。
その老いた夫婦の姿に、日本的な紐帯、家族の絆、「日本的家族制度」が、戦争を経て喪われたのではないかと、そう語りかけられているように感じた。

それは、戦死した息子の嫁、戦争で喪われた人々の遺産を継承する存在である、原節子演じる紀子が美しく善良な日本人として描かれることで、そのメッセージを強くしているように思える。
更に、尾道(旧き日本)に残る末娘と紀子と、東京の長男長女、大阪の三男の存在との対比にも、「古く家族的な日本と、新しくドライな日本」との関係が繰り返し描かれ、「喪われつつある、古き良き日本」を惜しむと、何度も語られているようだ。

考えてみれば、戦後の日本は高度成長期に、この映画で惜しまれた日本的な家族の姿は、都市部から変容し「核家族化」が進んだ。
関連レビュー:戦後日本の理想的家族
『私は二歳』
市川崑監督の描く高度成長期の日本
戦後日本の夢見た幸福

さらに、時代を下りバブル期を迎えるころには、日本の家族から相互の結びつきが薄くなり、家族という集合体はその役割をさらに減じたように思える。
関連レビュー:バブル日本の家族の肖像
映画『家族ゲーム』
戦後日本の家族制度の変容と溶解
森田芳光監督、松田優作主演の傑作映画

そして、平成に入るや日本人にとっての「家族」とは何なのかと、再度問い直されているのではないだろうか。
関連レビュー:是枝監督の描く平成家族の行方
映画『ディスタンス』
是枝 裕和監督の日常の中の日本家族
日本的映像表現の必然
<
関連レビュー:園子温監督の描くもう一人の紀子
映画『紀子の食卓』
「自殺サークル」の姉妹作品
集団自殺はなぜ発生したか?

この映画の終わりは、その日本の行方を見通したかのように、古いモノを代表する紀子が、不安そうに汽車に乗り東京へと向かう。

そして尾道には、笠智衆演じる老父が1人残される。

まるで、戦前に在った「家父長制」の美しい残滓のようなその姿に、哀れみと同時に、ノスタルジーを感じた。

Film2-GrenBar.png

スポンサーリンク


film1-Blu-sita.jpg

映画『東京物語』解説

日本的な表現

小津監督としては珍しく、喪われた美しきモノを原節子が代表し、戦後日本の醜悪な姿を東京の子供たちが表す、はっきりとした対立構造が描かれる。

Tokyo pos6.jpg
しかし、この映画はそんな変わり行く日本を、責めたり、嘆いたりしているわけではない。

原節子演じる紀子が言う、「みんな変わっていくのよ、私だって変りたくはないけど変わるんだわ」というセリフで明らかなように、そこに在るのは諦念である。
そして、この「アキラメ」こそが日本人が持つ、世界的にも特異な資質だと言われている。

たとえば作品中では、戦争で死んだ息子に対しても、静かにアキラメ、不実な子供たちに対しても、それでもマシな方だとアキラメる。
そして、妻の不幸を受けても、ただ「そうか、だめか」と、その夫は静かに受け入れさえする。

この「日本的アキラメ」とは一説には、火山や地震、そして台風など自然災害に周期的に見舞われる日本人にとって、過ぎた災禍に拘泥しては前に進めないがゆえの、必然的な資質だと聞いた覚えがある。

F_sakura.jpg
そんな、失われたもの、そして必ず失われるだろうもの、それらに対し静かに受け入れる姿勢こそ日本人であるのだろう。

それらの「予期される喪失」は、日本人の「無常感」を生み、喪われる存在を表現する「侘しさ=ワビ」と「寂しさ=サビ」を、その心性に刻むに違いない。
そんな日本人にとって、「桜」が散り行く姿に「無常の美」を感じるのは、日本人にとっての歴史「繰り返される喪失」をそこに見るからだと感じられてならない。

この映画に在る、独特の間と、途中途中に挟み込まれる自然風景、そのセリフの説明の少なさの内に、そんな日本的な「無常」を想う。
そんな「無常」を表すのに、日本人は明示的情報ではなく、直接言葉にならない部分、隙間や空白で、その真意や真心を相手に伝えてきたのだと、この映画を見て再確認した。

なぜなら、日本人がその心底に持つのは、全ては移り行き消えうせるのだという必然だとすれば、それは言葉に出すことではなく静かに噛みしめるのが相応しいだろう。

言葉にしてしまえば陳腐になってしまう感慨を、映像の中にしっとりと染み込ませ、セリフよりも雄弁に、間やモンタージュで表現する。

Tokyo Poster5.jpg
そんな日本的な心性を丹念に表現するために、小津は単純な家庭劇の表面、いわば「建前」の陰で、実に細部の小物にまで気を配りその「本音」である、「無常」「ワビ」「サビ」を映画全編に埋め込んでいると感じる。

この映画には、そんな静かに噛みしめるべき時間、つまり今を惜しむ「日本人の姿」が、笠智衆を通して印象的に現れているだろう。
 
言わずとも判る、ただ「ある」だけで、了解される・・・

そんな小津の「様式」が、そのまま日本古来の美を表現した「様式」である事が、この映画を見ると分かる気がする・・・・・・・・・
Film2-GrenBar.png

スポンサーリンク


film1-Blu-sita.jpg

映画『東京物語』考察

世界的評価

この『東京物語』は、小津監督の唯一無二の美意識が、世界中で高く評価されている。

それは映画ファンのみならず、むしろ映画プロパー(映画業界人・映画監督・映画批評家)から賞賛を受けている点で特徴的である。

そんな事実を反映し、各国の映画作家から深い敬意が感じられるオマージュ作品が発表されている。
ドイツのヴィム・ヴェンダース監督の小津を追ったドキュメンタリー『東京画』、イタリアのジュゼッペ・トルナトーレ監督、主演マルチェロ・マストロヤンニで撮られた『みんな元気』、台湾の侯孝賢監督の『珈琲時光』、ドイツ人監督ドーリス・デリエの『HANAMI』など、それぞれの「小津調」の解釈があり興味深い。
<『みんな元気』予告>
イタリアの『みんな元気』をロバート・デニーロ主演でリメイクした2009年のハリウッド作品。
Film2-GrenBar.png
この『東京物語』への評価は、各国で編纂される映画ランキングに数多く選ばれていることでも窺い知れる。
Film2-GrenBar.png
映画ランキング紹介
キネマ旬報
1953年 日本映画ベスト・テン第3位
1979年 日本映画史上ベストテン第6位
1989年 日本映画史上ベストテン第2位
1995年 日本映画 オールタイム・ベストテン第1位
1995年  世界映画 オールタイム・ベストテン第4位
1999年 オールタイム・ベスト100 日本映画編 第2位
2009年 オールタイム・ベスト映画遺産200 日本映画篇 第1位

英国映画協会『Sight&Sound』
1962年 批評家が選ぶ史上最高の映画ベストテン第26位
1982年 批評家が選ぶ史上最高の映画ベストテン第21位
1992年 批評家が選ぶ史上最高の映画ベストテン第3位
1992年 映画監督が選ぶ史上最高の映画ベストテン第14位
2002年 批評家が選ぶ史上最高の映画ベストテン第5位
2002年 映画監督が選ぶ史上最高の映画ベストテン第16位
2012年 批評家が選ぶ史上最高の映画ベストテン第3位
2012年 映画監督が選ぶ史上最高の映画ベストテン第1位

その他
1989年 文藝春秋 大アンケートによる日本映画ベスト150 第2位
2000年 ヴィレッジ・ヴォイス 20世紀の映画リスト 第36位
2008年 カイエ・デュ・シネマ 史上最高の映画100本 第14位
2008年 エンパイア 歴代最高の映画ランキング500 第67位
2010年 エンパイア 史上最高の外国語映画100本 第16位
2010年 トロント国際映画祭エッセンシャル100 第15位
2018年 BBC 史上最高の外国語映画ベスト100 第3位

当ブログでは、各国の映画ランキングを紹介しています。
◎いろいろな『映画ベスト100』企画紹介
世界各国で選ばれた『映画100本』のリストを紹介!!!
映画界、映画ファン、映画評論家など、選定方法もさまざま!
日本映画も各リストでランクイン!


また、映画情報の一端としてアメリカ・アカデミー情報を記事にしています。
関連レビュー:オスカー受賞一覧
『アカデミー賞・歴代受賞年表』
栄光のアカデミー賞:作品賞・監督賞・男優賞・女優賞
授賞式の動画と作品解説のリンクがあります。
film_oscar.png




posted by ヒラヒ at 17:00| Comment(0) | 日本映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月11日

黒澤明『七人の侍』この映画はパクリ!?考察・西部劇『駅馬車』との類似点/解説・黒澤映画の独自性・簡単あらすじ

西部劇『駅馬車』と『七人の侍』との関係

英語題 Seven Samurai
製作国 日本
製作年 1954年
上映時間207分
監督 黒澤明
脚本 黒澤明、橋本忍、小国英雄


評価:★★★★★ 5.0



この映画は古典的なアクション娯楽大作として、数多くの作品にその影響を与えている。
しかし、個人的にはこの映画の原型として、ジョン・フォード監督の『駅馬車』があると思える。

そして、その原型を元に、黒沢監督が新たな革新を映画にもたらしたと主張したい。

film1-Blu-sita.jpg

<目次>
映画『七人の侍』ネタバレなし簡単あらすじ
映画『七人の侍』予告・出演者
映画『七人の侍』解説/リアルな殺陣の誕生
映画『七人の侍』考察/『駅馬車』との類似
映画『七人の侍』解説/黒澤監督の革新

film1-Blu-sita.jpg

映画『七人の侍』簡単あらすじ


収穫が目前に迫る農村では、農民達が迫る危難に寄合いを持っている。収穫後に去年と同じく野武士が襲来するからだ。長老の儀作(高堂国典)は侍を傭うと決め、利吉等を侍探しにおくりだした。歴戦の古強者の勘兵衛(志村喬)が村人の願いに応え、五郎兵衛(稲葉義男)、久蔵(宮口精二)、平八(千秋実)、七郎次(加東大介)、勝四郎(木村功)を選抜した。そこに菊千代(三船敏郎)という野武士のような男が付いて来た。その菊千代も仲間に加えて七人の侍は村に向かう。勘兵衛の指揮の下、村の防衛体勢は整えられ、村人の戦闘訓練も始った。いよいよ収穫が終り野武士が村に襲来した。七人の侍と村人の命がけの戦いが始まり、夜討によって、野武士十人を斬ったが、侍側も平八が火縄銃に倒れる。夜が明け野武士は騎馬で村に襲いかかる。侍、村民が手に手に武器を持って応戦した。翌朝激しい驟雨の中、野武士は残った十三騎が村になだれこみ決戦を挑んできた。斬り込んだ侍達と百姓達は死物狂いの闘いをいどむのだった・・・・・・・・・・
film1-Blu-sita.jpg

映画『七人の侍』予告


映画『七人の侍』出演者

志村喬 (勘兵衛)/稲葉義男 (五郎兵衛)/宮口精二 (久蔵)/千秋実 (平八)/加東大介 (七郎次)/木村功 (勝四郎)/三船敏郎 (菊千代)/高堂国典 (儀作)/左卜全 (与作)/小杉義男 (茂助)/藤原釜足 (万造)/土屋嘉男 (利吉)/島崎雪子 (利吉女房)/榊田敬治 (伍作)/津島恵子 (志乃)/三好栄子 (久右衛門の妻)/熊谷二良 (儀作の息子)/登山晴子 (儀作の息子の嫁)/清水元 (蹴飛ばす浪人)/多々良純 (人足)/渡辺篤 (饅頭売)/上山草人 (琵琶法師)/小川虎之助 (祖父)/安芸津融 (亭主)/千石規子 (女房)/千葉一郎 (僧侶)/東野英治郎 (盗人)/田崎潤 (大兵の侍)/上田吉二郎 (斥候A)/谷晃 (斥候B)/高原駿雄 (鉄砲の野武士)/山形勲 (鉄扇の浪人)/大村千吉 (逃亡する野武士)/成田孝 (逃亡する野武士)/仲代達矢 (街を歩く浪人/ノークレジット)
Film2-GrenBar.png

スポンサーリンク


film1-Blu-sita.jpg

映画『七人の侍』解説

リアルな殺陣の誕生

黒澤監督の映画以前は、日本映画のチャンバラとは歌舞伎の流れを受け、様式的な表現が主流だった。
関連レビュー:日本映画のチャンバラ様式美
『薄桜記』
日本映画黄金期の映画基礎力の高さに驚く!
監督・森一生、主演・市川雷蔵、共演・勝新太郎の時代劇

それに対して、斬る時に斬撃音を入れたり、実際に切断された腕を見せたり、盛大に血を噴出して見せたりというのは、黒澤監督の生み出した新たなチャンバラの革新的な表現だった。
関連レビュー:チャンバラ映画のルーツと展開
黒澤明監督『椿三十郎』
黒澤時代劇の痛快娯楽作品!黒澤時代劇のルーツとは?
日本映画のチャンバラの歴史!

それらの新たな表現は、第二次世界大戦後10年という時代を考えれば、戦争による実際の肉体の破壊を知る者が多い時であり、それらの表現はリアリティーに求められた必然とも思える。

じっさい、そんな戦争の記憶は、トラウマのように1950年代の日本映画に深く刻み込まれている。
関連レビュー:1954年の戦争のトラウマ
映画『ゴジラ』
その祟り神の現れた理由と、日本の戦後
日本特撮映画のエポックメイキングとなった元祖怪獣映画

しかし個人的には、それ以上に、ジョン・フォードの西部劇に大きな影響を受け、その迫力・娯楽性を表現したいという思いが、その背後にあったと思える。
黒澤監督のジョンフォード監督に対する敬意は『黒澤明が選んだ100本の映画』という本の中で著者で娘の黒澤和子氏が語っている。
◎世界のクロサワが選んだ映画100本
文春新書『黒澤明が選んだ100本の映画』
映画界のレジェンドが選んだ古今東西の名作!!!
偉大な映画作家が愛した映画と映画監督!!!

その西部劇の持つ、アクションの迫力を再現したいとの熱意を最も強く感じる映画こそ、この『七人の侍』なのだ。
Film2-GrenBar.png

スポンサーリンク


film1-Blu-sita.jpg

映画『七人の侍』考察

ジョン・フォード『駅馬車』と『七人の侍』

この映画は、人物造形と言い、ドラマの構成と言い、ジョン・フォードの西部劇『駅馬車』と『七人の侍』の類似性が、強く感じられてならない。
関連レビュー:西部劇の古典的名作
映画『駅馬車』
ジョン・フォード監督の西部劇の革新とは?
完全再現ストーリー!ネタバレ・ラスト紹介

以下に、その類似点をまとめてみたい。

ヒーロー群像

この『駅馬車』では、次から次へといろいろな背景を持つキャラクターが、駅馬車に乗り込み旅をする。
その『駅馬車』の主要な登場人物は9人だが、その異なる個性が織り成すドラマは『七人の侍』の人物造形とドラマ展開に影響を与えていると感じる。

主人公のキャラクター

三船敏郎演じる菊千代はその登場の仕方といい、『駅馬車』でジョン・ウェイン演じるリンゴ・キッドと似たアウトローの風貌を持つ。
また、庶民の側にシンパシーを感じる点も共通性を感じる。

迫力あるアクションシーン

前半の人間ドラマで描かれた登場人物の個性の丹念な描写が、後半の戦闘シーンのドラマ性を高めている。
また『七人の侍』の活劇は、疾走感や、砂塵、人馬の入り乱れる激しさは『駅馬車』のインディアン襲撃シーンを参考にしていると見える。

登場人物の処理

『駅馬車』で印象的なのは、その登場人物の丁寧な扱いにあり、それは『七人の侍』も同様で、その登場人物の何人かが命を落とすのも『七人の侍』と共通である。
Film2-GrenBar.png
このように『駅馬車』と『七人の侍』は共通点が数多い。

更に言えば、この映画のラストの言葉は、ジョン・フォード監督の別の古典、『怒りの葡萄』のラストのメッセージを、違う言葉で置き換えたものだと信じていた。
しかし調べてみると、『怒りの葡萄』の製作は1939年だが、戦争の影響もあり日本公開は1962年なので、黒澤監督が見ていたというのは邪推かもしれない・・・・・

だが、ネタバレになるので詳しくは書けないが、そのラストは本当によく似ているのである。

もし、ネタバレを気にされないのであれば、下の関連レビューで確認願いたい。
関連レビュー:『七人の侍』のラストと同じメッセージ
ジョン・フォード『怒りの葡萄』
大恐慌時代のアメリカ庶民の困窮と闘い!!
ジョン・フォード監督の神話的映画表現とは?

いずれにしても上で見たように、ジョン・フォード映画にインスパイアされたのが『七人の侍』だと主張したい。

しかし、すべての作品にはその原型があるのであり、むしろ重要なのはその原型にどんなオリジナリティーを付け加えたかにある。

そして、この映画は間違い無く古典と呼ばれるべき「オリジナリティー=原型」を持っているのである。

その点を次の文章で書かせて頂きたい。
Film2-GrenBar.png

スポンサーリンク


film1-Blu-sita.jpg

映画『七人の侍』解説

黒澤監督の映画の革新

この映画が、その原型として『駅馬車』を持っているのは間違いないと、個人的には考えている。
しかし、その上で黒澤監督のオリジナリティーを語って見たい。

それこそが、この映画がアクション映画の古典たらしめている要素だからである。

ヒーローチームの元祖

この映画で生まれたオリジナルは、精鋭ヒーローが何人も集まる「ヒーローチーム」で、一つの作戦を実行するという設定にある。
さまざまなキャラクターが集まり、ミッションを遂行するという物語原型は、そのメンバーを集めるドラマも含め現在でも踏襲されるストーリーである。それは、旧くは『ナヴァロンの要塞』や、近年ではアメコミのヒーローチーム『ジャスティス・リーグ』『アベンジャーズ』『スーサイド・スクワッド』 など、様々な映画で使用された設定である。
関連レビュー:ヒーローチームの変り種
『スーサイドスクワッド』
DCコミックの史上最強の悪党チーム
ヴィラン、ハーレイ・クインたちが悪の力で世界を救う
この、ヒーローチームというアイデアは、やはり日本的な集団共同作業の伝統を感じるし、西洋的キリスト教(一神教)とは違う、英雄の多元化という物語性から生じているだろう。

ヒーロー紹介導入パターンの元祖

リーダーの勘兵衛を紹介する、導入形式として、本線ストリーとは違うエピソードで印象付けるパターンは、この映画が最初だとされている。このヒーローキャラクターの性格を際立たせる方法は、現在アクション映画では一般的な手法として踏襲されている。
<『ダーティー・ハーリー』導入部例>

【意訳】ハリー:今何を考えているか知ってるぞ?俺が撃ったのが6発か5発かだろ。本当のことを言えば自分でも分からないんだ。でも、これは44マグナムで、世界一強力な拳銃だ。その頭はきれいさっぱり消え去るだろうな。お前は自分に尋ねてみろ、俺は運が良いかってな。どうだ、チンピラ(銃を拾い上げる)/犯人:教えろどっちだ。(ハリー空撃ちする)畜生め!
確かに、最初にキャラクターの特徴を象徴する行動を描写する導入部は、数多くの映画で見られるもので、そんなシーンを見たら『七人の侍』を思い浮かべるべきだろう。

アクション描写のリアリティー

個人的には、この映画のアクションシーンは表現として、当時の映画文法からすれば明らかに混乱し、整理が不十分だと思える。しかし、それこそが本来持つ戦闘の現実であり、戦闘の渦中における位置関係の喪失や、汚泥にまみれた肉弾戦は、それまでの日本映画は言うに及ばず、ジョン・フォードの西部劇の迫力をも超えて暴力的な生々しさに満ちている。
このアクションシーンに匹敵するのは、黒澤監督を敬愛するスティーブン・スピルバーグ監督の『プライベート・ライアン』のノルマンディー上陸のシーンぐらいではないだろうか。
アメリカ映画:1998年
『プライベート・ライアン』
第二次世界大戦を舞台にした、ヒューマニズムの物語
監督スピルバーグ主演トム・ハンクスのアカデミー賞受賞作品
Film2-GrenBar.png
これらの黒澤監督の、革新性に関しても、実はその「オリジン=起源」は『駅馬車』の各要素を、よりショーアップしたものだったと思える。

例えば、「ヒーローチーム」ではないにしても、『駅馬車』でも乗客達はそれぞれストーリーがあり、各人が主人公というべき「ヒーロー集団」を形成していた。

そして、ヒーローの別線ドラマでの登場も、『駅馬車』リンゴ・キッドは復讐劇という別線を持って登場することが思い起こされる。

この映画のアクション・シーン関しては、一見してその影響は明らかだ。

しかし、黒沢監督はその各要素に関して、明らかにその『駅馬車』の起源から、より力強く、よりドラマチックに、より過激に、ショーアップして表現されていると感じる。

それゆえ、この『七人の侍』はアクションの古典であり、娯楽表現の古典なのであり、個人的に黒沢監督が娯楽大衆作家として卓越した存在だと考える理由である。



posted by ヒラヒ at 17:00| Comment(0) | 日本映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年01月27日

古典映画『七人の侍』はなぜ偉大か?超娯楽アクションの傑作!/感想・解説・黒澤リアリズム・ネタバレなし簡単あらすじ

世界のクロサワの痛快リアリズム活劇!!

英語題 Seven Samurai
製作国 日本
製作年 1954年
上映時間207分
監督 黒澤明
脚本 黒澤明、橋本忍、小国英雄


評価:★★★★★ 5.0



スタートからラストまで面白い。
あまりにも名声が高くなったため、芸術作品のように言われるが、どう見ても西部劇の砦の騎兵隊と、インディアンの闘いを日本に置き換えた娯楽大活劇である。
しかし、この作品におけるリアリティーの見事さは、映画にとって大事な要素が何なのかを教えてくれる。


film1-Blu-sita.jpg

<目次>
映画『七人の侍』簡単あらすじ
映画『七人の侍』予告・出演者
映画『七人の侍』感想
映画『七人の侍』解説

film1-Blu-sita.jpg

映画『七人の侍』簡単あらすじ


収穫が目前に迫る農村では、農民達が迫る危難に寄合いを持っている。収穫後に去年と同じく野武士が襲来すると知ったからだ。長老の儀作(高堂国典)は侍を傭うと決め、利吉等を侍探しにおくりだした。歴戦の古強者の勘兵衛(志村喬)が村人の願いに応え、五郎兵衛(稲葉義男)、久蔵(宮口精二)、平八(千秋実)、七郎次(加東大介)、勝四郎(木村功)を選抜した。そこに菊千代(三船敏郎)という野武士のような男が付いて来た。その菊千代も仲間に加えて七人の侍は村に向かう。勘兵衛の指揮の下、村の防衛体勢は整えられ、村人の戦闘訓練も始った。いよいよ収穫が終り野武士が村に襲来した。七人の侍と村人の命がけの戦いが始まり、夜討によって、野武士十人を斬ったが、侍側も平八が火縄銃に倒れる。夜が明け野武士は騎馬で村に襲いかかる。侍、村民が手に手に武器を持って応戦した。翌朝激しい驟雨の中、野武士は残った十三騎が村になだれこみ決戦を挑んできた。斬り込んだ侍達と百姓達は死物狂いの闘いをいどむのだった・・・・・・・・・・
film1-Blu-sita.jpg

映画『七人の侍』予告


映画『七人の侍』出演者

志村喬 (勘兵衛)/稲葉義男 (五郎兵衛)/宮口精二 (久蔵)/千秋実 (平八)/加東大介 (七郎次)/木村功 (勝四郎)/三船敏郎 (菊千代)/高堂国典 (儀作)/左卜全 (与作)/小杉義男 (茂助)/藤原釜足 (万造)/土屋嘉男 (利吉)/島崎雪子 (利吉女房)/榊田敬治 (伍作)/津島恵子 (志乃)/三好栄子 (久右衛門の妻)/熊谷二良 (儀作の息子)/登山晴子 (儀作の息子の嫁)/清水元 (蹴飛ばす浪人)/多々良純 (人足)/渡辺篤 (饅頭売)/上山草人 (琵琶法師)/小川虎之助 (祖父)/安芸津融 (亭主)/千石規子 (女房)/千葉一郎 (僧侶)/東野英治郎 (盗人)/田崎潤 (大兵の侍)/上田吉二郎 (斥候A)/谷晃 (斥候B)/高原駿雄 (鉄砲の野武士)/山形勲 (鉄扇の浪人)/大村千吉 (逃亡する野武士)/成田孝 (逃亡する野武士)/仲代達矢 (街を歩く浪人/ノークレジット)
Film2-GrenBar.png

スポンサーリンク


film1-Blu-sita.jpg

映画『七人の侍』感想


この映画の活劇の、その迫力と激しさは、凡百のアクション映画の比では無い。
白黒画面も相まって、肉弾相撃つという重量感のある格闘は見る者を圧倒する。
戦闘シーンにおける、雨の描写、格闘の激しさ、細部の徹底した作りこみ、そのあくなき黒澤監督の職人的な追及が、一つ一つのシーン、シークエンスに、その場に立ち会うかのような臨場感を与えたのである。

例えばこの後リメイクされた「荒野の7人」と見比べてみるといい、アクション・シーンが軽いものだから、派手さはあるものの映画全体にリアリズムが感じられず、結果として表現に強さと迫力がなく、説得力が失われてしまった。


黒澤監督の初期映画で評価が高い作品は、この映画における大活劇のようにエンターティーメント性が高い。

seven-kurosawa.jpg
不思議なこと黒澤監督の初期作品では、娯楽性の追及がテーマの深化に寄与する構造を持っていた。


そもそも黒澤監督の資質は、芸術家というよりは職人として、純文学ではなく大衆文学作家として、優れているように思う。

その、娯楽表現を高めるため、迫真性を追求した結果としてリアリズムに到達したのではないかと想像する。
黒澤監督自身、それまでのチャンバラのような舞踊的表現では目新しさがないと言った言葉に表されるように、新しい娯楽表現、新しい刺激の追及の果てに、この「七人の侍」や「用心棒」のような、「黒澤リアリズム」に到達したように思える。

アクションシーンのリアリティ

複数のカメラによって一シーンを撮影する「マルチカメラ方式」を取ったことで、格段に編集の自由度が上がった。状況説明のカットから、アップの場面への転換のリズムで迫力を生み、観客の目線の誘導をカメラと同調させることで臨場感を高めて、強いリアリティーを生んだと感じる。

そして、その「娯楽性リアリティー=アクション迫真力」の追求の陰に、アメリカの西部劇、特にジョン・フォード監督の影響があるとにらんでいる。
特にこの『七人の侍』は,ジョン・フォード映画『駅馬車』との強い類似を感じる。
film1-Blu-sita.jpg
film1-Blu-sita.jpg
関連レビュー:1939年の西部劇の革新
映画『駅馬車』
ジョン・フォード監督、ジョン・ウェイン主演の西部劇!
アクション映画と感情表現の関係とは?

しかし、黒澤監督はそのオリジンを見事に翻訳、変換を加え、迫力と娯楽性を高め、アクション映画の革新を生んだという事実こそ天才たる由縁なのだ。
Film2-GrenBar.png

スポンサーリンク


film1-Blu-sita.jpg

映画『七人の侍』解説

クロサワ・リアリズム

黒澤監督の初期作品は、基本的に娯楽作として卓越した力を持っており、その娯楽性を高める方法として結果的にリアルな表現に達したと見える。

例えば、『椿三十郎』などのラストの殺陣は、その徹底したリアリティー追及のため、出演者すべてを騙すほどの念の入れようだった。
ネタバレを気にされないのであれば、下のレビューで仲代達矢が語るラストシーンの舞台裏を書いているのでお読み下さい。
関連レビュー:1962年
黒澤明監督『椿三十郎』
黒澤時代劇の痛快娯楽作品!黒澤時代劇のルーツとは?
三船敏郎と仲代達矢、その壮絶なラストの決闘を見逃すな!

しかし、たとえ娯楽の追求の結果だとしても「リアリズム」自体が「創作物」にとっては錬金術の役目を果たしうるのである。

なぜならリアリズム=「現実感・本当らしさ」を表現でき得れば、見る者を映画世界に取り込み、その世界に感情移入を促す強い力を持ち得るからである。

seven-kyara.jpeg
それは日々現実を生きる観客にとって、現実と同様の「ホンモノ」を認識するならば、それを虚構の中に見出したにせよ、その「映画=虚構」は自らが生きる現実と等価となり得る。
そのとき観客は「無から有」を生み出すごとく「映画内を実際に生きる」経験を得るだろう。

これは端的にいえば「オレオレ詐欺」と同じ詐術、構造ではある。
つまり嘘が現実味を帯びて、本当としか思えなければ、現実的に人を動かし得る力を持つということだ。
大事なのは、「本当」として感じさせることであり、黒澤の映画にはそれがあったのである。

このリアリズムに騙された観客は、再度言うが、もう映画内のイカナル出来事も我が身に起きた事件としなければならない。
そしてつまるところ、物語の成功とは観客を物語内に参加させることに尽きるであろう。

なぜなら、強い感情移入が促されれば、たとえ宇宙人が宇宙に帰るというドラマであっても、人はその運命に涙するのだ。

いずれにせよ、この「七人の侍」は細部に対する徹底した作りこみによって、リアリズムを構築するための教科書とも言うべき一本だと思う。
その結果として感情移入を促された観客にとって、この映画の娯楽としての力が増したことは、間違いないはずである。

同時にこの「リアリズム」という錬金術は、例えばイタリアの「ネオ・リアリズム」でも判るとおり、現実を映す強い力が有るがゆえに、その表現自体が社会的・芸術的な力を保持する。
関連レビュー:1948年のネオ・リアリズモの古典
『自転車泥棒』
イタリア・ネオ・リアリズモの代表作!
第二次大戦後の貧窮のイタリア社会描いた古典

芸術というものの属性に、未だ知りえない新しい世界を切り取る力を想定するとき、「リアリズム=現実描写」以外に近代に至って否応なく直面させられた「神の不在」という、現実の世界を映し出す方法を持ち得なかった。
それゆえ、神に頼れないという無慈悲な現実世界を生きる近代人が、その救済を求めて物語を構築するためには、リアリズムに寄らざるを得なかったのである。

従って、この『七人の侍』におけるリアリズムが仮に娯楽に奉仕するためのそれであっても、同時に芸術性を保持することが可能であったのは、その映像表現のリアリズムが、近代に有ってはそのまま芸術表現と同義であるという事情によるものだったというのは言い過ぎだろうか。
seven-kuro-l.jpg
更に邪推をすれば『羅生門』『七人の侍』に向けられた評価に、海外から芸術としての言及が増えるにつれ、黒澤監督本人にも芸術志向が生まれ、強まっていくように思うのである。
だがそこに、黒澤監督の混乱を個人的には感じてしまう。
黒澤作品で評価された芸術性が『羅生門』『七人の侍』の持つ、映像のリアリズム表現という「美術的な力」に在ったにも関わらず、黒澤自身は人文学的な「理念」こそが芸術性だと、考えてはいなかったろうか・・・

だが、黒沢が表現したかった人文学的な「理念=黒澤ヒューマニズム」は、生硬な「理想主義」を掲げた作品となって、往々にして陰惨な硬直性を持ってしまうと、個人的には感じられるのである。
その芸術志向が、作品の映像として消化され違和感なく表出されるには『デルス・ウザーラ』まで待たねばならないだろう。

いずれにせよ、この映画『七人の侍』は観客と評論家の両方の支持を得て、不朽の名声を勝ち得た。
映画史に永遠に刻まれた古典として、語り継がれる傑作である。

関連レビュー:黒澤監督のもう一つの傑作
『羅生門』
戦後日本の真実を問う黒澤映画の傑作
各国の賞に輝く世界的に高評価の古典




posted by ヒラヒ at 17:00| Comment(4) | TrackBack(0) | 日本映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする