2020年04月29日

古典映画『カリガリ博士』1920年のサイレント映画の恐怖/あらすじ・ネタバレ・ラスト・感想・解説・表現主義

映画『カリガリ博士』(感想・解説 編)

原題 Das Kabinett des Dr. Caligari
英語題The Cabinet of Dr. Caligari
製作国 ドイツ
製作年 1919年
上映時間 67分
監督 ロベルト・ヴィーネ
脚色 カール・マイヤー、ハンス・ヤノウィッツ
原作 カール・マイヤー、ハンス・ヤノウィッツ


評価:★★★  3.0点



この作品は、当時のドイツ表現主義を映像として表現し、芸術的な映画として同時代の人々に高く評価されました。

またホラーの歴史の端緒に記され、サイコスリラーの遠〜〜〜い祖先のようにも見える一本です。
映画自体、サイレント時代の言葉情報が限られた中で、複雑な内容を上手く伝えていると思います。

映画の歴史を語る上では必ず言及される作品なので、映画の起源に興味がある方が見れば、これをオリジンとする作品が必ず発見できるはずです。
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<目次>
映画『カリガリ博士』ストーリー
映画『カリガリ博士』予告・出演者
映画『カリガリ博士』感想
映画『カリガリ博士』解説/表現主義とドイツ
映画『カリガリ博士』ネタバレ
映画『カリガリ博士』結末
映画『カリガリ博士』評価

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映画『カリガリ博士』あらすじ

ベンチに座る二人の男。その前を一人の若い女性ジェーン(リル・ダゴファー)が通ると、ベンチの男フランシス(フリードリッヒ・フェーエル)が、彼女は私の婚約者だと言い、二人に起きた恐ろしい事件を語りだした。
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村のカーニバルに、移動遊園地や様々な見世物がやって来た。フランシスは、友人のアラン(ハンス・ハインツ・フォン・トワルドウスキー)と、遊びに出かけた。そこでカリガリ博士(ヴェルナー・クラウス)と名乗る香具師の、23年間箱の中で眠り続けているという触れ込みの夢遊病者チェザーレ(コンラート・ファイト)を使った見世物小屋に入った。
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博士は、チェザーレに予言の力があると口上し、未来を占うというとアランが手を挙げ「自分の寿命は?」と尋ねた。目を開いたチェザーレは「明日の夜明けに死ぬ」と告げた。
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その晩アランの部屋に何物かが侵入し、ナイフを振り上げ彼を殺害した。翌日フランシスはその事実を知る。警察に行ったフランシスは、村では役場の職員も殺されており、その職員はカリガリ博士の営業許可取得を横柄に扱った人物だった。

フランシスは、ジェーンの父親と共に、カリガリ博士の家を訪問し、家宅捜査を要求した。
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しかし、その時真犯人が捕まったとの報告があり、一同は急ぎ警察へと向かった。しかし、その犯人はアレンの事件には関わっておらず、再び疑念はカリガリ博士へと向かう。

危険を察知したカリガリ博士は、チェザーレにジェーンの殺害を命じ、同時にチェザーレの人形を彼の眠る棺に入れ偽装した。チェザーレはジェーンの部屋へ侵入しナイフをふりかざすが、ジェーンの美しさに魅せられ、ジェーンを抱きかかえると村の道を逃亡する。
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異変を知った村人たちに追われたチェザーレは、心臓発作により命を落とした。

一方、フランシスは警官たちとともにカリガリ博士の見世物小屋を訪ね、チェザーレとの面会を強要した。しかし、眠り男が眠っているはずの箱の中にあったのは、博士が用意していた替え玉の人形だった。逃亡した博士は村の中の精神病院へ逃げ込んだ。
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フランシスがその病院で「カリガリという人物」の存在を尋ねると、職員は院長に確認すると院長室へ入った。すると、そこにいたのは、正にカリガリ博士だった。
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映画『カリガリ博士』予告

映画『カリガリ博士』出演者

カリガリ博士(ヴェルナー・クラウス)、チェザーレ(コンラート・ファイト)、フランシス(フリードリッヒ・フェーエル)、ジェーン(リル・ダゴファー)、アラン(ハンス・ハインツ・フォン・トワルドウスキー)、オルセン博士(ルドルフ・レッティンゲル)

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映画『カリガリ博士』感想


欧州大戦後、ドイツ映画復興の第一声をあげた作品で、奇怪なカリガリ博士が眠り男チェザーレを操る連続殺人事件の真相は―という内容。
ドイツ表現派映画の第一作としても、記録される作品。

古典映画は多かれ少なかれ、現代の刺激たっぷりの濃厚サービスの映画を見慣れた眼で見ると、正直見通すには忍耐が必要だと思う。
関連レビュー:古典が傑作と呼ばれる理由
映画『市民ケーン』
オーソン・ウェールズ監督の映画史に残る、古典的名作!!
古典作品の価値をいかに捕えるか?


しかも、この映画は白黒サイレント作品であり、通常の映画の構造と別次元の創作物だとして捕えるべきだろう。

しかし、この映画はサスペンス・ホラーの原型として、その地位を確立している。

この作品で描かれた、「怪物を操る黒幕」や「美女に魅了される怪物」などの構造は、ホラーの典型として今も繰り返し活用されている。

また同時に、最後で明らかになるが、実はサイコホラーの要素も持ち合わせている。

この映画は言うなれば、ヒッチコック監督作品の、刺激を薄くしたような映画である。
関連レビュー:近代サイコホラーの元祖
ヒッチコック『サイコ』
巨匠ヒッチコック監督の驚愕の傑作!!
サイコ・ホラーの地平を切り開いたパイオニア

しかし「ローマは一日にしてならず」と言うように、こんなドラマ形式のパイオニアがいたからこそ、その後の刺激が大きい娯楽性の高い作品が生まれたのだ。

現代映画の、恐怖と、スリルと、興奮に満ちた、刺激的な作品の元型が、どれほどプリミティブな姿をしていたのか、この映画で確かめてみるのも一興だろう・・・・・・

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映画『カリガリ博士』解説


この映画は、その映画の表現、サスペンスやサイコ・ホラーの内容に見事にマッチした形式、「ドイツ表現主義」で描いて効果を上げている。
ドイツ表現主義(英: German Expressionism)は、ドイツにおいて第一次世界大戦前に始まり1920年代に最盛となった芸術運動で、客観的表現を排して内面の主観的な表現に主眼をおくことを特徴とした。建築、舞踊、絵画、彫刻、映画、音楽など各分野で流行し、「黄金の20年代」と呼ばれたベルリンを中心に花開いた。日本を含む世界各地の前衛芸術に影響を与え、現代芸術の先駆となった。(wikipediaより)

当時のドイツは、第一次世界大戦の敗戦に打ちのめされ、その敗北の原因を求める自己探求の欲求が「表現主義」という形を取ったようにも思える。

そして、この映画が描いたのは、ドイツにとっての戦争の総括であったようにも見えるのである。

第一次世界大戦は連合国(ロシア帝国、フランス第三共和政、グレートブリテン及びアイルランド連合王国の三国協商に基づく)と、中央同盟国(主にドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー帝国)という2つの陣営が対峙し戦われた、史上死亡者数の最も多い戦争と言われる。
関連レビュー:第一次世界大戦を描いた作品
『戦火の馬』
過酷な戦場を行く馬の運命
無垢なる命を描いた感動作

その戦争で傷付き、膨大な賠償を課せられたがゆえに、ドイツはナチス政権下で再び戦争を起こすことになった。

しかし、政治はともかく、その歴史上未曽有の大戦争に巻き込まれたドイツ国民にとっては、大きな災厄であったに違いなく、その災厄の記憶がこの映画に刻み込まれているのだと信じる。

即ち、この映画で発生する「殺人=戦争」は、その元凶に「妄想=狂気」が潜んでいるからだと―

そんな「戦争の破壊と狂乱」の実感が、この映画の中に不穏に息づいていると感じる。

そんな歪みを映画の中から抽出してみれば、表現主義絵画に通じる「歪んだセット背景」が全編を覆い、その出演者の顔はクマを作った病的なメイクが施され、役者の演技は誇張された動きと、異形の細いシルエットを見せ、照明がその姿をより特異な姿に描きだし、その映像シークエンスも不気味な不安定さを表している。

そんな、この映画の表現の集積として、荒廃したドイツの「狂気と不安と恐れ」が言葉によらず、映像として定着されているのは、見事と言うべきだろう。

それは、共産主義革命の熱狂が『戦艦ポチョムキン』で新たな映画表現を生んだように、亡国の窮状が生んだ歪んだ表現だったと愚考する。
関連レビュー:ロシア革命と映画革命
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映画『カリガリ博士』考察

映画の評価


この映画は、海を越えた当時の日本にも、大正活映という会社を通じて大正十年に輸入され、高い評判を得た。

文豪・谷崎潤一郎は、脚本家として大正活映に所属していた縁もあり、その批評を書いている。
<谷崎潤一郎「カリガリ博士」を見る>

また、谷崎の文章に触発されるように、小説家・佐藤春夫もこの映画の批評を書いている。

その文章から当時の大正日本で、この映画が一大ブームになっていた事がうかがい知れる。

総じて、当時としては、斬新で、刺激と、サスペンスに溢れた、エポックメーキングな作品であったのであろう。

そんな当時の高い評価に敬意を表し、更に「あるジャンルの始祖=古典」としての価値を鑑み、★4つを付けた。

しかし、個人的に言えばそのラストを含め、面白いとは言い難く★1点を減じたのが、この評価である。

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以下の文章には

映画『カリガリ博士』ネタバレ

があります。
(あらすじから)
その晩フランシスは、博士が就寝している間に、病院の職員と共に院長室で証拠を物色した。すると、1093年カリガリ博士という人物の、夢遊病患者を支配し己の欲望のまま、殺人事件を犯させていた人物の資料があった。更に、院長の日記には夢遊病患者チェザーレを手に入れた院長が、彼を操って何でもできると喜ぶ記載があった。
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フランシスと職員は院長に詰め寄り、その罪を認めろと迫った。
そこに、チェザーレの死体も運び込まれ、対面したカリガリ博士は、悲嘆のあまり錯乱し、あばれる博士はその場で職員たちに取り押さえられ、拘束衣を着せられ閉鎖病棟へ入れられた。
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映画『カリガリ博士』結末

回想が終わり、ベンチを立ち上がった場所は、精神病院の庭だった。
たくさんの患者が庭で陽に当たり、思い思いにうろつく中、そこにはチェザーレがいて、フランシスは「彼に占われたら死ぬ」と叫んだ。
更に、うつろに歩むジェーンに向かい、フランシスはいつ結婚してくれるのかと問いかけた。
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すると、ジェーンは「王族が結婚するのはいろいろ大変なの」と虚ろに言った。
そして、建物内から「院長=カリガリ博士」が姿を現わした。

カリガリ博士を発見したフランシスは叫びながら、院長に掴みかかった。
病院の職員に取り押さえられたフランシスは、拘束着を着せられ、病室に入れられた。
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院長はその姿を見ながら、「彼は偏執狂だ」といい、病名が判明したから治せると言った・・・・・・・・・・
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posted by ヒラヒ at 17:00| Comment(0) | ドイツ映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月19日

映画『パリ、テキサス』ヴィム・ヴェンダース監督の傑作/感想・ネタバレ・解説・あらすじ・ラスト

一人一人が持つ「パリ、テキサス」



評価:★★★★★ 5.0点



テキサスの荒野に、実在する町パリ。
人はこの題名のように、荒れた荒野の小さな町にすら、夢の都の幻影を冠せずにはいられない。

この物語も同じ。
主人公の美しい夢「美しい妻と可愛い子供のいる家庭」それは主人公の嫉妬で崩壊してしまう。
しかし主人公は廃人となっても、自らの心の中に美しい幻影を持ち続け、その幻影ゆえに益々自らを追い込んでいく。

『パリ、テキサス』あらすじ


テキサスで、4年前に失踪した一人の男トラヴィス(ハリー・ディーン・スタントン)が行き倒れとなって、病院にかつぎこまれた。医者(ベルンハルト・ヴィッキ)は男の弟ウォルト(ディーン・ストックウェル)に連絡を取った。トラヴィスは記憶を喪失して、妻ジェーン(ナスターシャ・キンスキー)や、ウォルトと妻のアンヌ(オーロール・クレマン)が預かっている息子ハンター(ハンター・カーソン)のことすら忘れている状態だった。ロサンゼルスのウォルト家に着き、アンヌと7歳に成長したハンターと再会したトラヴィスは、そこで暮らすうちに徐々に記憶を取り戻す。トラヴィスは今は行方不明の妻ジェーンがヒューストンにいることを知りジェーンを探しに行く決心をする。それを聞いて、ハンターは自分も行きたいと言い、そのまま共にヒューストンに旅立った。そしてついに妻を探し当てるが・・・・・・・・

(西ドイツ・フランス/1984年/147分/監督ヴィム・ヴェンダース/脚本サム・シェパード)

この映画を見れば、人は夢を見なければ、生きていけない生き物なのだと思わざるを得ない。

そして繰り返し繰り返し見る夢、それは完璧な理想郷として構築されていく・・・・
現実を超えた美しき夢は、その過剰さゆえに我が身を傷つけることは知っているはずなのに・・・・

心の中の「都」はあまりにも完璧で美しすぎるがゆえに、現実の存在に投影された時、その虚像と実像のギャップがナイフとなって心にささる。

監督ヴィム・ヴェンダースも同じ経験をしたはずだ。wenders.jpg
ドイツの実績を自信に、ハリウッド映画界で成功を夢見てアメリカ上陸をしたが、この映画の前作「ハメット」は失敗だった。
たぶんハリウッドシステム(監督の権限の制限や、編集権を持てない等)を前に途方に暮れ、出来栄えに傷ついたに違いない。
彼は思ったのではないか。
憧れの存在(ハリウッド)が、そのまま現実でも答えてくれるとは限らないと…それゆえ、この映画「パリ、テキサス」は西ドイツ・フランス合作作品とし、アメリカから距離を置いた形で撮影されたのである。
しかしヴェンダースの凄いところは、自身の中の「ハリウッド映画=パリ、テキサス」をきっちり提示し、彼自身にとっても代表作となる最高の一本に仕上げている所である。
この映画がヴェンダース作品の中で飛び抜けて理解しやすいのは、たぶんハリウッド映画=アメリカ映画へのオマージュであるからだろうと、個人的には想像している。

そしてこの映画を通じて、切ない事だが・・・・・・過剰に、深く、完璧に、心の中に理想郷を成立させてしまえば、その像はもはや現実に我が物とする事は不可能であると語られているように思える。

それは、映画という理想世界を愛する者にも、決して人事ではないだろう。


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以降の文章に

『パリ、テキサス』ネタバレ

があります。


(あらすじから)
この映画の終盤、主人公トラヴィスは、のぞき部屋で働く妻と話す。
永遠に越えられない壁を隔てて。
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『パリ、テキサス』ラストシーン

トラヴィスはジェーンに息子を託した。



『パリ、テキサス』ラスト感想



ラストののぞき部屋で2人を隔てた、越えられない障壁とは、人が心に描く「夢」と「現実」の境界であっただろう。
そして、トラヴィスは「妻の夢」である子供を彼女のもとに残し、妻の夢をかなえた。
しかしトラヴィスは、「妻と子」の幸福のためには、自分がそこにいてはいけないことも知っていた。
なぜなら、自分の「理想・夢」、妻に対する「過剰な愛」によって、妻も自分も傷つき苦しむことが判っていたから・・・・・・・・・

やはり、トラヴィスと言う存在は「夢」の持つ残酷さと、それでも「夢」を見なければ生きられない「人間の性(さが)」を象徴する者として、彷徨を続けなければならないのだろう。
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考えてみれば人類は「夢」を見て、「夢」に裏切られ、それでも見果てぬ夢に導かれてここまで進んできたのだろう。

その過程で幾千幾万の者達が、「夢の都」を我がモノと出来ずに、失意の中に朽ちていったはずだ。

そして、そのどうしようもない悲しみ、絶対に取り戻せない「夢の都」に対する惜別の情を、黒人=アフリカ系アメリカ人は「ブルース」として歌い継いできたのではなかったか・・・・・・・・・

この映画のメインテーマ、スライド奏法ブルースギター
名手ライ・クーダのギターの響きが切ない「Paris, Texas」


この映画の主人公の最後を見てほしい。
これがブルースだ。


関連レビュー: ヴィム・ヴェンダースの監督作品
『ベルリン・天使の詩』
カンヌ、アカデミー賞受賞の名作
東西冷戦下のベルリンの天使




posted by ヒラヒ at 18:59| Comment(4) | TrackBack(0) | ドイツ映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月14日

映画『バグダッドカフェ』なぜ愛されるカルトとなったか?/あらすじ・感想・解説

カオスと融合の黙示録



評価:★★★★★  5.0点

このアメリカを舞台とした、ドイツ映画をどう表現すべきだろうか。
この映画がカルト的な人気を誇るのは、決して「デブ専」の趣味趣向をもつ人たちからの支持だけではない・・・
バグダッド・カフェあらすじ
ドイツローゼンハイムからアメリカに旅行に来た、ミュンヒグシュテットナー夫妻はラスヴェガスに向かう車中で夫婦喧嘩し、夫(ハンス・シュタードルバウアー)は妻のジャスミン(マリアンネ・ゼーゲブレヒト)を車から蹴り落とす。重いトランクを提げてジャスミンがたどりついたのは、モーテル兼カフェ兼ガソリンスタンドの「バグダッド・カフェ」。そこには、女主人の黒人ブレンダ(CCH・パウンダー)が長男サルJr(ダロン・フラッグ)長女のフィリス(モニカ・カローン)ノロマな亭主サル(G・スモーキー・キャンベル)と暮らしていた。しかしブレンダはダメ亭主サルを追い出してしまう。その“バグダッド・カフェ”にはバーテン(ジョージ・アキラー)女刺青師デビー(クリスティーネ・カウフマン)、画家ルーディ(ジャック・パランス)、エリック(アラン・S・クレイグ)などが入り浸っている。ブレンダは泊めては見たものの、ジャスミンが気に入らず追いだそうと、毎日のように文句を言うが・・・・・・・・・

(西ドイツ/1987年/監督パーシー・アドロン/脚本パーシー・アドロン・エレオノーレ・アドロン)

ヤスミンは、アメリカのモハーヴェ砂漠で夫とケンカをし、車を降りてしまう。bagu-jyasu.jpg
このヤスミンは、中年のオデブなのだが、違和感と愛嬌を共に兼ね備えたユニークなキャラクターで、ホンとにいい味を出している。

そして、一人でトランクを引っ張りながら歩く場面に、ジェヴェッタ・スティールが歌うテーマ曲「コーリング・ユー」が流れる。
このシーンだけで、見ているコチラはナゼカ痺れる。
ヤルセなく、ケダルイ、どこか歪な、荒涼たる風景・・・・
そこにノスタルジックで切ない女性ボーカルが呼びかける。

I am calling you(私はあなたを呼んでいる)
Can’t you hear me(聞こえないの)
I am calling you(私はあなたを呼んでいる)


このバグダッド・カフェを経営する、この映画のもう一人の主人公がブレンダ。bagu-bur.jpg
黒人女で二人の子の母でもある。
彼女は、金切り声を上げながら、ガムシャラに、ストレスに爆発寸前になりながら、シャカリキに生きている。
そんな彼女はダメ亭主を、映画の冒頭で叩き出す。

つまらないコトを言えば、この映画は男を拒否した二人の中年女が、対極に位置するキャラクターを融合させ、ついにはシアワセになる物語だ。
それは、ハートウォーミングなファミリードラマでもある。

しかし、実際見て見れば上の要約はホンとに陳腐だ。
あらすじで書いたようなストーリーは、この映画にとってただのベクトル、道があるというだけの事だ。

この映画が持つ魅力は、その一場面、一シークエンスに籠められた違和感にこそある。
それは、語るものと語られるもののギャップであるとか、時間的な間であったり、ヒシャゲタ構図であったり、演技の不整合であったりするが、映画を見終わったあとに受ける印象はカオスの果てに新しい命の誕生を見たかのような、満足感と疲労を共に感じたりした。

I am calling you(私はあなたを呼んでいる)
Can’t you hear me(聞こえないの)
I am calling you(私はあなたを呼んでいる)


結局この映画の全てが、この歌詞に表わされているように思う。
この映画はドイツ人監督がアメリカで取った、ドイツ映画だ。
ここには、映画の聖地アメリカで映画を撮りたいという、映画人としての思いが有りはしなかっただろうか。
しかしそこで出来上がったこの作品は、ハリウッド的な映画文法とはまるで違う、さながら異星でエイリアンによって撮られたような肌触りがある。

I am calling you(私はあなたを呼んでいる)
Can’t you hear me(聞こえないの)
I am calling you(私はあなたを呼んでいる)


例えば、二人の主人公のキャラクターの、極端さはどうだろう。
二人とも男に去られていながら、一人はジッと蹲り、もう一人は金切り声を上げながら走り回る。
この水と油の混ざることは不可能だと思える。

I am calling you(私はあなたを呼んでいる)
Can’t you hear me(聞こえないの)
I am calling you(私はあなたを呼んでいる)


それでも、この映画が訴えているのは、ストーリーや作品作りも含めて、異質なモノ同士が「Call=呼びかける」姿勢の重要さだ・・・・bagu-pa.jpg
あまりにかけ離れて、とても伝わりそうも無いのに、それでも、時にのた打ち回りながら、虚しい試みに心折れそうになっても・・・・・・・
それでも静かににじり寄るように、あくまで相手に
「Call=呼びかける」姿は、あまりに痛々しい。
しかし、それでも諦めずに、休むことなく「Call=呼びかける」声が、真実の訴えに満ちていていればこそ・・・・・・

いつしか心が、「Call=呼びかける」存在に共鳴しだす。
その反応は最初、戸惑いや怒りの姿として現れるかもしれない・・・・・・・
しかし、そんな異質な存在に対する拒否反応を、相互に、交互に、何度も繰り返す果てに・・・・・・

ついに、異なる二つの物質が、磁石の極が回転するように・・・・・
Can’t you hear me(聞こえないの)
核融合を起すかのように・・・・・・・
I am calling you(私はあなたを呼んでいる)
一つに溶け合ったとき・・・・・・


そこには元のAでもBでもない、まるで異種のCという「新たな個性」が出来上がる。
そんな異文化の「せめぎあい」の果てに生まれたものを、「ユニーク=特異」と呼ぶのではなかったか・・・・・
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この映画自体、「人種」「文化」そんな独立し確立した強固な形を持つものが、異種同士で対話することの困難と、その困難に打ち勝った時の無限の可能性を描いた、異文化衝突の「カオスと融合」のドキュメンタリーなのだ。

そんな、こんなを、描いてスゴイです。

人が人と、対立と困難を乗り越えて一つになる姿を描いたからこそ、かくも愛される映画となったのだろう。

Can’t you hear me・・・・・・・・アナタニモ、キット、ワカルヨ・・・・・コノ、エイガヲミレバ・・・・・・キット

ジェヴェッタ・スティール「コーリング・ユー」




posted by ヒラヒ at 17:13| Comment(8) | TrackBack(0) | ドイツ映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする