2023年08月12日

オスカー映画『ピアノ・レッスン』女流監督の傑作女性映画は実話だった⁉/感想・解説・考察

原題 ROCKY
製作国 オーストラリア
製作年 1993年
上映時間 121分
監督 ジェーン・カンピオン
脚本 ジェーン・カンピオン


評価:★★★★  4.0



1993年公開のこの『ピアノ・レッスン』は、女流監督ジェーン・カンピオン の個人的な経験を含む、深い思いが込められた力作だと感じました。

この美しい映像で表現された物語は、女性が生きるという事に社会が強いてきた問題を、詳細に鋭く糾弾しています。
そのメッセージは、批評家と観客の心に響き、93年度のカンヌ映画祭パルム・ドール、アカデミー賞の他、多くの映画賞を獲得しました。
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<目次>
映画『ピアノ・レッスン』簡単あらすじ
映画『ピアノ・レッスン』感想
映画『ピアノ・レッスン』考察/ジェンダーとしてのピアノ
映画『ピアノ・レッスン』解説/母の実話

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映画『ピアノ・レッスン』あらすじ


19世紀半ば、スコットランドに住むエイダ(ホリー・ハンター)は娘フローラ(アンナ・パキン)と一台のピアノとともに、父の決めた結婚相手であるニュージーランドのスチュワート(サム・ニール)のもとに嫁いだ。エイダは言葉がしゃべれず、ピアノを弾く行為が彼女の言葉代わりだった。しかし、夫スチュアートはピアノをエイダが上陸した浜辺に置き去りにし、彼女が懇願しても運ぼうとしなかった。夫に代わって、そのピアノを運んだのは、マオリ族の入れ墨をを掘ったベインズ(ハーヴェイ・カイテル)だった。彼はスチュアートと交渉し、自分の土地とピアノを交換した。エイダは自分のピアノを勝手に処分した、夫の行動に怒ったが、夫は土地の方が大事だと取り合わなかった。そんなエイダにべインズは、ピアノを教えてくれればピアノを返すと提案する。ピアノを取り返すために、いやいやレッスンを始めたエイダだったが、べインズの目的はピアノのレッスンではなく、エイダ自身だった。べインズの求めはレッスンを重ねるにつれ、エスカレートし、それに刺激されエイダも彼に応じるようになる。その2人の関係はスチュワートに知られ、悲劇が起きるー
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映画『ピアノ・レッスン』予告

映画『ピアノ・レッスン』出演者

エイダ・マクグラス(ホリー・ハンター)/ジョージ・ベインズ(ハーヴェイ・カイテル)/アリスデア・スチュワート(サム・ニール)/フローラ・マクグラス(アンナ・パキン)/モラグおばさん(ケリー・ウォーカー)/ネッシー(ジュヌヴィエーヴ・レモン)/ヒラ (トゥンギア・ベイカー)/牧師 (イアン・ミューン)/船長役 (ピーター・デネット)/マナ (クリフ・カーティス)/エイダの父 (ジョージ・ボイル)/エンジェル (ローズ・マクアイバー/タフ(ミカ・ハカ)
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映画『ピアノ・レッスン』感想


この映画の映像と、テーマ曲の美しさに心打たれます。
それと同時に、押しつぶされるような空気感と、ヒリヒリするような痛みをも感じました。

本作を最初に見たのは、日本公開時の映画館で、その時の感想は、美しいけれども不思議なムードの「恋愛映画」という印象でした。
例えば『タイタニック』のような恋愛映画の王道を思い浮かべれば、この違和感は分かっていただけるのではないでしょうか・・・・・
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その印象は、恋人役のハーベイ・カイテルがむしろ悪役顔というのも、恋愛映画としてはいかがなものかと・・・・・
しかし、この映画を見た時に、最も印象に残ったのもハーベイ・カイテルの凄みのある佇まいで、個人的にはこの映画以来彼のファンなのですが・・・・
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いずれにせよ、恋愛映画としては、その曖昧なイメージのまま30年近く経ってしまったのです。
しかし、ある日この映画のテーマ曲を耳にして、やはりメロディーが美しいと感じ、この映画のビジュアルの美しさも思い起こされ、をもう一度しっかり見てみようと思ったのです。

しかし、再鑑賞をしたものの、やはり恋愛映画としての曖昧な印象は変わりませんでした。

やはり、本来「恋愛ドラマ」が持つ、恋愛相手との間に生まれるロマンチックな情緒や、恋の切なさが十分描かれているとは思えませんでした。

そもそも恋愛映画とは、恋愛に全人生を没入させる「恋愛至上主義」こそ、その本質であるはずです。
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それから言えば、この映画ではセクシャルなエロスは感じても、恋愛感情が主体の物語が展開されているとは、どうしても思えないのです。

事実ストーリーを追えば、彼女を愛したベインズは、ヒロインのエイダが自分を愛さないと自覚し、彼女との関係を断ちます。
そしてその後、アイダがべインズに執着し始めているように見え、恋愛ドラマとしてはどこかチグハグに感じられます。

そんなことからも、この映画が指し示すのは男女の恋愛ではなく、別の解釈があるのではないかと思うようになりました。

別の解釈を探して、再度この映画を見た時に、ヒロインのエイダの「意思の強い女性が運命に果敢に立ち向かう姿」が、かつて一世を風靡した古典映画『風と共に去りぬ』のヒロイン、スカーレットにさえ重なって見えるようになりました。
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個人的には、この映画はヒロインの生きざまを描いた「女性映画」として見るのが、最も収まりが良いと思います。

そう捉えたときに、初めてこの映画の各ピースが、見事にテーマに収れんしていくのです。

そう考えた理由を、以下の解説で書いてみましたので、ご確認いただければ幸いです・・・・・・
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映画『ピアノ・レッスン』解説

ピアノの意味するもの

個人的には、この映画を読み解くカギは、「ピアノ」にあると思います。

映画の原題『The Piano』は、無理に訳せば「そのピアノ」となり、それは「特定のピアノ」を指すものです。
この映画の中の「そのピアノ」とは、ヒロインのエイダを示していると個人的には考えています。

それはピアノという楽器そのものが、「女性性=ジェンダー」の象徴に他ならないと思えるからです。

あるピアニストはピアノという楽器を、西洋音楽の理論や体系を、正ににそのまま構造化したものであり、その音楽理念から逸脱することができない、いわば音楽メソッドの奴隷のような存在だと、言っていました。
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映画では、エイダは6歳ごろ自分の言葉を捨て、その代わりにピアノを言葉にしたと語られています。
それが意味するのは、彼女は幼少期から自分本来の言葉を話すのを止め、ピアノが表す「音楽メソッド=社会的規則=ジェンダー」に則った言葉を話すようになったのだと解釈しました。
エイダが流麗にピアノを弾く姿に、社会的規範に無意識に従う「ジェンダーの奴隷」の姿を見てしまったのです。

その証拠に、この映画のあらゆる要素は、虐げられる前時代の女性の記号で満ちています。
例えばエイダは、父の一存で、スコットランドから遠くニュージーランドの見知らぬ男に嫁がされます。
それは、家父長制の下、女性たちが家の財産として、恣意的に扱われたことを示しています。
ヒロインのエイダはシングルマザーであり、その娘の父はエイダから去って行ったと語られています。

それは、女性が社会的に求めらる「産む性」として存在し、更にその加重な子育てを課される「母」であることを示しています。

そんなエイダを迎えた夫のスチュワートは、最初彼女にピアノを与える事すら許しませんし、更に土地と引き換えにそのピアノを第三者に与え、家族なんだ協力しろと怒鳴ります。
それは、社会がエイダに押し付けた言葉「ピアノ=ジェンダー」すら認めないという、夫スチュワートの傲慢であり、更には妻としてその「ジェンダー」を切り売りしろと求めていることを示しています。

また、劇中でのスチュワートは、決して悪い人間として描かれてはいませんが、しかし善良な彼が妻に求めたのは、自らの欲望を果たすための娼婦としてのエイダだったと思えます。

「ジェンダー=良き妻、良き母」としての自分に価値を見ず、その欲望のはけ口としてのみ自分を見る、そんな家父長的な夫をエイダが愛せなかったのも当然でしょう・・・・・・
しかしエイダは、劇中のもう一人の男性ベインズによって、真の自分を発見するのです。

このべインズのキャラクターも、周到に配置された、効果的な人物だと感じました。

まずは、このべインズが、「白人=文明人=征服者」でありながら、ニュージーランド原住民マオリ族と同化しているという点です。
それが意味するのは、彼が「文明」という名の「征服のための道具」を捨て、より自然に近い存在に変化を望んだ存在だという事です。
そんなべインズの姿は「文明=ジェンダー」が、人間が生まれながらにして持つ本質ではないと、気付いた結果だと思えます。
それゆえ彼は、最初「ピアノを弾くエイダ=ジェンダーとしてのエイダ」に惹かれたものの、時と共に「エイダ自身=エイダ本来の人格」を求めるようになり、それはエイダの「肉体=生得的な自然物」を求めたことで表されています。
生まれながらの自分を愛してくれる、べインズに巡り合ったことで「ジェンダーとしての自分」から、「本来の自分」になれる事を知りエイダは生まれ変わったと言えるでしょう。

翻って見れば、女性たちが自らの価値を問い直すときに、性的欲望の肯定が叫ばれてはいなかったでしょうか?

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エイダはそんな自らの欲望を肯定し、ジェンダーから自由になった時、ジェンダーの象徴であるピアノを捨てる決意をするのも、自然な行動でしょう。

しかし、そのピアノを海に投入しようとした時、起きたことこそ『ピアノ=ジェンダー』がどれほどエイダを支配し、縛って来たかを象徴するシーンに他なりません。

いずれにしてもエイダは、ジェンダーから自由になり、自分の言葉を話し始めたと、この映画では語られていると思います。

実はカンピオン監督のインタビューを聞くと、この映画のジェンダーとそこからの解放を描いた物語には、モデルとなった人物がいたようで、その点を下で書かせていただきます。
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映画『ピアノ・レッスン』考察

映画のモデル



posted by ヒラヒ at 17:00| Comment(0) | TrackBack(0) | オーストラリア映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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