原題 The Best Years of Our Lives 製作国 アメリカ 製作年 1946 上映時間 169分 監督 ウィリアム・ワイラー 脚本 ロバート・E・シャーウッド 原作 マッキンレー・カンター |
評価:★★★★ 4.0点
この映画は1946年度のアカデミー賞で、作品賞、監督賞、脚本賞、主演男優賞、助演男優賞を獲得した。
本作の前年、1945年に終わった第二次世界大戦の米国復員兵の、戦場から日常に復帰する苦悩を、リアルに描き説得力がある。
監督ウィリアム・ワイラーも戦時中は従軍し、戦争の悲惨な現実を目の当たりにしており、そんな彼の帰還兵としての実感が、この作品に力を与えていると感じた。
<目次> |
映画『我等の生涯の最良の年』簡単あらすじ |
第二次世界大戦が終わり、空港を行き交う人々で混雑していた。その中に復員兵の、空軍大尉のフレッド(ダナ・アンドリュー)もいた。故郷ブーン市に向かう飛行機はいっぱいで、空軍の貨物機に便乗する事にした。
その飛行機で、同郷の義手を付けた水兵のホーマー・パリッシュ(ハロルド・ラッセル)と陸軍軍曹のアル・スティーブンソン(フレドリック・マーチ)と同乗し仲良くなる。アルは家に帰り、妻と娘と息子に迎えられたが、居心地が悪く家族を夜の町へと連れ出し、深酒をした。そしてホーマーの叔父の経営する店と聞いたバーへ行くと、そこにはフレッドとホーマーがおり再会を祝して更に灰を重ねた。
その挙句、フレッドも足元が危うくなり、アルの家に一晩泊まった。そんな中フレッドはアルの娘ペギー(テレサ・ライト)と仲良くなる。
その後社会復帰を目指すフレッドは、戦争中は英雄だったが就職もままならず、新妻マリー(ヴァージニア・メイヨ)から嫌味を言われる。ホーマーも、周囲は暖かく迎えるものの、義手を気にして婚約者と距離を置くようになる。フレッドは戦前務めていた銀行に復帰し復員兵の融資を担当するが、銀行の方針と折り合えない。
そんな3人が、戦後のアメリカ社会に適応しようと苦闘する姿を描く・・・・
映画『我等の生涯の最良の年』予告 |
映画『我等の生涯の最良の年』出演者 |
アル・スティーブンソン軍曹(フレドリック・マーチ)/ミリー・スティーブンソン(マーナ・ロイ)/ペギー・スティーブンソン(テレサ・ライト)/ロブ・スティーブンソン(マイケル・ホール)/フレッド・デリー大尉(ダナ・アンドリュース)/マリー・デリー(ヴァージニア・メイヨ)/ホーテンス・デリー(グラディス・ジョージ)/ウィルマ・キャメロン(キャシー・オドネル)/ウィルマ母(ドロシー・アダムス)/ウィルマ父(ドン・ベドー)/ホーマー・パリッシュ(ハロルド・ラッセル)/ホーマーの叔父(ブッチ・エングル)/ホーマー母(ミンナ・ゴンベル)/ホーマー父(ウォルター・ボールドウィン)/ローマン・ボーネン(パット・デリー)/ミルトン(レイ・コリンズ)/クリフ(スティーヴ・コクラン)/ルエラ・パリッシュ(マレーネ・エイムズ)/プリュー(チャールズ・ハルトン)/モレット(レイ・ティール)/ソープ(ハウランド・チェンバレン)/ノヴァク(ディーン・ホワイト)/ブラード(アースキン・サンフォード)/ウディ・メリル(ヴィクター・カトラー)
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映画『我等の生涯の最良の年』感想 |
この当時のアメリカ社会は、1945年の日本の降伏により、第二次世界大戦が終結してみると、それまでの列強と呼ばれた英国やフランスが疲弊し、代わって「パックスアメリカーナ=アメリカの平和」と呼ばれる、アメリカの黄金期に向かう時期である。
そんな時代でありながら、この作品はハリウッド映画としては珍しいほどに、暗い影に満ちていると感じた。
最も繁栄を謳歌していると見られた、戦勝国アメリカでありながら、その戦争を戦った兵士たちは、アメリカ社会に適合することへの苦労が、切実に語られているのだ。
例えば、戦争中の英雄である主人公が、帰った故郷で就職の道がなく、どうしようもなく戦前の職場であるドラッグストアーで、かつて部下だった人間に使われ低賃金で働く姿が描かれている。
戦勝国アメリカの、この映画に描かれたその現実は、予想もしない陰鬱さを持ったものだった。
彼ら命がけで、アメリカの掲げる正義のために戦った兵士たちこそ、アメリカ社会の繁栄をもたらした者たちだったにもかかわらず、帰国して見れば戦わなかった者たちの栄華を目の当たりにしながら、戦争中の苦痛を癒す間もなく、社会に頭を下げ受け入れてもらわねばならない姿は痛ましい。
戦争中に過酷な経験を重ねれば重ねるほど、その屈託は強く激しくなり、血を流した自分こそ報われるべきだという思いが、社会に対する恨みへと変わっても不思議ではない。
実を言えば、そんな戦争帰還兵の心情を描いた作品は、ベトナム戦争を題材にした映画に、より直截に表現されていると感じる。
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それは当時のハリウッドの表現規制「ヘイズ・コード」が厳しく、過激な表現が許されなかったからである。
当時の映画は、全世界、老若男女を対象とした、娯楽の王様として、公序良俗に則った作品を制作するように、政府も求め、ハリウッドの映画産業も商業的な利益になると従っていたのである。
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実際の怒りを希釈し、万人に受け入れられる形にアレンジし、周到に表現を調整し描きながらも、帰還兵の怒りを見事に観客に訴えている。
その表現の基礎となった脚本は、細密に構築された設計図のような完璧さを感じた。
そしてその脚本を元に、身につまされる迫真力、強いリアリティーを感じさせる、この作品の演出力とカメラワークは、実際に戦地でドキュメンタリーを撮影した、ウィリアム・ワイラーの実体験があったからこそ可能だったと思える。
その点を、ワイラーの人生と共に、以下の文章で語りたい。
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映画『我等の生涯の最良の年』解説監督ワイラーの肖像と『我等の生涯の最良の年』 |
戦争前のウィリアム・ワイラー
ウィリアム・ワイラー(William Wyler, 1902年7月1日 - 1981年7月27日)は、アメリカ合衆国を代表する映画監督の一人。ハリウッド黄金期に活躍し、アカデミー監督賞を3回受賞し、数多くの名優を見出した。ドイツ帝国のミュールハウゼン(現・フランス東部オー=ラン県ミュルーズ)出身。
生まれたときの姓名はヴィルヘルム・ヴァイラー(Wilhelm Weiller)。当時ドイツ帝国領であったミュールハウゼンにて、小物屋を営むユダヤ系の家庭に生まれる。父親はユダヤ系スイス人、母親もユダヤ系ドイツ人で、両親共にユダヤ教徒でもあった。ヴィルヘルムは家業を継ぐことを嫌い、フランスのパリに赴いて音楽を学んだが挫折してしまう。
結局、母方の親戚(遠縁ではあるが)に当時のハリウッドの重鎮カール・レムリ(ユニバーサル・スタジオ社長)がいたことから映画の道を志し、第一次世界大戦後の1920年に18歳で渡米、まずユニヴァーサルのニューヨーク本社で雑用係として働く。なお第一次世界大戦にドイツが敗北した結果、故郷のミュールハウゼンはフランス領となった。その後、国際宣伝部を経てハリウッドに移り、オフィスの雑用係、撮影所の小道具係、配役係、助監督と着実に製作現場での経験を積んで立場を上げていく。(wikipediaより)
ワイラーは下住みから始め、1925 年23歳で監督デビューした。
キャリアを重ね1936 年には『孔雀夫人』でアカデミー賞最優秀監督賞に初ノミネートされると、以降20 年間、ほぼ毎年のように優れた作品を生み出した。
彼はオードリー ヘップバーンを一躍有名にしたデビュー作『ローマの休日』のように、女優を輝かせる手腕に長けていた。
バーブラ ・ストライサンド、オリビア・デ・ハビランド、ベティ・デイビス、グリア ガーソンなど彼の映画から多くのスターが誕生した。
特に大女優ベティ・デイヴィスはワイラーのおかげで「はるかに優れた女優」になったと、後年述懐したと言われる。
しかし、その映画製作に当たっては「正真正銘の完璧主義者」と呼ばれたように、徹底したイメージの追求によりリテイクが多く、俳優と摩擦を引き起こすこともあった。<『黒蘭の女』予告>ベティ・デイヴィス主演ワイラー監督作品。2人とも妥協を許さぬ完璧主義者で、撮影現場では喧嘩腰の応酬があったとされる。
しかし彼の作品は観客と批評家の双方から高い支持を得て、1930 年代から1960年代にかけて「ハリウッドで最も資金を調達できる映画製作者」の 1 人となった。
ワイラーの持つ、アカデミー賞史上最多の 12 回ノミネートは、2022年現在でも前人未到の記録である。
その映画産業に対する功績により、 ワイラーはアーヴィング・G・タルバーグ記念賞、全米映画監督会生涯功績賞、および米国映画協会(アメリカン・フィルム・インスティテュート)の生涯功労賞を受けている。
ワイラーの戦争体験とハリウッド映画
欧州で戦争が始まった。それはウィリアム・ワイラー監督にとって、実家のユダヤ人家族が、ナチス・ドイツによるフランス占領によって窮地に陥いることを意味した。
ワイラーは、当時ドイツと激戦を繰り広げていた連合国陣営にとっての希望、英国を支持する反戦プロパガンダ映画『ミニヴァー夫人』を監督した。
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それは、英国の援護と共に米国の孤立主義からの転換を目的としており、英国市民の現実の苦しみを描き、アメリカ人の戦争への関与を促すものだった。
米国ルーズベルト大統領はこの映画を気に入り、ルーズベルト大統領は映画を全国の劇場で至急上映するよう促し、更にボイス・オブ・アメリカのラジオ・ネットワークで映画のラスト(下の牧師の説教シーン)を放送し、それをチラシにしてドイツ占領下の国に空から撒いた。
この映画に対し英国首相チャーチルも、「『ミニヴァー夫人』は戦艦 100 隻に値するプロパガンダである」と賛辞を送った。<『ミニヴァ―婦人』牧師の説教>私たちの多くの家は破壊され、老いも若きも命を奪われました。心を痛めていない世帯はほとんどありません。なぜ?と、間違いなく、あなた方は自らに問いかけたに違いありません。なぜ、完全に良識的な人々が、こう苦しむ必然性があるでしょうか?子供、お年寄り、彼女の愛らしさの頂点にいた若い娘に?なぜその人々に?彼らは私たちの兵士でしょうか?彼らは我々の戦士でしょうか?なぜ彼らは犠牲になったのでしょうか?その理由をお話ししましょう。これは軍服を着た兵士のみの戦争ではないからです。それは皆の、全ての人々の戦争なのです。
そしてそれは戦場だけでなく、都市や村、工場や農場、家庭において、自由を愛する、全ての男性、女性、そして子供達の魂に対する闘いなのです。さて、我々は死者を葬りました。しかし我々は彼らを忘れません。それどころか、彼らは我々を打ち倒すかも知れない専制政治と恐怖から、我々自身と我々に続く人々を解放するという、断固とした我々の決意を鼓舞します。これが国民戦争です。これは我等の戦争です。我等は兵器です。だから戦うのです!我等の中にある全てのもので戦うのです!そして、神が権利を守ってくださるよう祈るのです。
また敵国ナチスの、ゲッペルス宣伝相も理想的なプロパガンダ映画だと言ったとされる。
そして日本軍の真珠湾攻撃によって、アメリカ合衆国が1941年に第二次世界大戦に参戦する。
その時、ハリウッド映画界の名監督の多くが陸・海の各方面軍に入隊し、戦場の弾の飛び交う中でドキュメンタリー映画の撮影をした。
ワイラーは戦時中の1942年から1945年にかけて、陸軍航空隊の少佐として入隊した。
欧州戦線でボーイング B-17とその搭乗員の戦いを描いた『メンフィス ベル: 空飛ぶ要塞の物語』(1944 年)、そして地中海のP-47戦闘爆撃機飛行隊を描く『サンダーボルト!』(1947)の2 本のドキュメンタリーを監督した。
<1990年リメイク版『メンフィスベル』予告>リメイク版プロデューサーのキャサリン・ワイラーは、監督ウィリアム・ワイラーの娘だという。
ワイラーは、メンフィスベルの実戦作戦行動に同行したが、その作戦中に酸素欠乏で意識を失い、同僚で撮影監督のハロルド・J・タネンバウム中尉も、撮影中に撃墜され死亡した。
さらに『サンダー・ボルト』撮影中には、爆撃を受け気絶し、意識を取り戻した時には、片耳の聴力を失っていた。
戦争から戻った時には、ワイラーは中佐の階級を持つ障害を負った退役軍人となっていた。
戦後ワイラーは『ミニヴァー夫人』に関して、「戦争の表面をなぞっただけで、不完全だった」と述懐しているように、戦場の体験は彼の表現に影響を与えた。
本映画『我等の生涯の最良の年』では、彼が3年間最前線で過ごし、家族の元に戻った時の彼自身の実体験に基づいているという。
またワイラーは、この映画にリアリティーを求め、実際に片腕を喪った傷病兵ハロルド・ラッセルを登用した。
演技の素人だった彼をスタジオ側が演技レッスンを受けさせると言った時、彼の演技が「実に自然」だとして強く反対したという。
また、その衣装もリアリティーにこだわり、登場人物が実際に買い物をするであろう店で購入し、撮影前から衣装を着用し馴染ませ、製作の現場に多くの復員兵がスタッフとして雇用された。
このように、『我等の生涯の最良の年』 では、それまでのワイラー作品以上にリアリティーにこだわっている。
ここでは、ワイラー自身の戦争体験をいかに真に迫った形で伝えるかに注力しており、その成果があって作品にリアルな力を感じる。
実を言えば、戦争に赴いたハリウッド監督たちは、戦後の表現に変化があり、そこに共通するのはリアリティーだった。
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戦場に行った著名なハリウッド監督を上げれば、ジョン・フォード、ジョン・ヒューストン、アナトール・リトヴァク、フランク・キャプラなどがいる。
彼らの経験の過酷さは、アウシュビッツの惨劇を見た監督ジョージ・スティーブンスは二度とコメディを作ることができず、ジョン・フォードはD-デイでの大勢の死を撮影した後深酒に溺れ、ジョン・ヒューストンは「心的外傷後ストレス障害=PTSD」に苦しんだほどだった。
そんな戦地に赴いた監督たちに焦点を当てたドキュメンタリーが、ネットフリックスで『伝説の映画監督 -ハリウッドと第二次世界大戦(Five Came Back)』と題され、放送された。
『伝説の映画監督 -ハリウッドと第二次世界大戦』予告
戦時中の5人の監督の体験とハリウッド映画への影響を、現代の映画製作者スティーブン・スピルバーグ、フランシス・フォード・コッポラ、ポール・グリーングラス、ギレルモ・デル・トロ、ローレンス・カスダンが解説している。
このように戦争を境に、戦前の万人受けする華麗な夢、いわば「おとぎ話としてのハリウッド映画」は、戦争の惨禍を目の当たりにした監督たちによって、現実世界の矛盾と苦しみを描く「現実世界の写し絵としてのハリウッド映画」という新たな表現を獲得したと言えるだろう。
更に言えば第二次世界大戦の、過酷な現実を通過した後、一様に世界の映画人は「リアリティー表現」を追求していたのである。
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それは、悲惨だった戦争の傷を露わにし、戦後当時の現実の問題点を明確に示すためには、ドキュメンタリー的な手法が最も適していたという事実を示しているだろう。
個人的には日本のように戦争の被害が大きい国ほど、あらゆる表現芸術にその「苦難の痕跡」が、深く長く刻み込まれていると思える。
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それは、戦争によって人類全てが多かれ少なかれ「心的外傷後ストレス障害=PTSD」に苦しんだという事実の、顕れであったと思えてならない。
ラベル:ウィリアム・ワイラー
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