原題 Out of Africa 製作国 アメリカ 製作年 1985年 上映時間 161分 監督 シドニー・ポラック 脚色 カート・リュデューク 原作 アイザック・ディネーセン 、ジュディス・サーマン 、エロール・トルゼビンスキー |
評価:★★★ 3.0
アフリカを舞台にした壮大なラブストーリーを、メリル・ストリープ、ロバート・レッドフォードの主演で描き、公開当時高い評価を受け、その年のアカデミー賞で最優秀作品賞を含め複数の賞を獲得した。
この作品は下に書いたように、スウェーデン貴族夫人の実話を元にしており、余談ながら、この原作者カレン・ブリクセン(ペンネーム:アイザック・ディネーセン)は、もう一つ名作映画『バベットの晩餐会』の原作となる小説を書いている。
女性映画としての一面も持ち、そんな自立したヒロインを演じたメリル・ストリープは、その演技力の片りんを見せている・・・・・・
しかし、映画全体として見た時、個人的には凡庸な印象があり、その原因を以下の文章の中で考えてみたい。
<目次> |
映画『愛と哀しみの果て』あらすじ |
小説家カレン・フォン・ブリクセン(メリル・ストリープ)、アフリカの思い出を書き記していた。
1913年カレンは、スウェーデン貴族ブロア・ブリクセン男爵(クラウス・マリア・ブランダウアー)と、その称号欲しさに結婚をした。そして、ケニアのコーヒー農園を経営するため、アフリカの地に降り立つ。ついてすぐ結婚式を挙げたカレンは、ハンターのデニス・フィンチ・ハットン(ロバート・レッドフォード)と知り合う。愛のない結婚生活で、夫は農園の面倒を見ず、狩りをするために家を留守にした。仕方なくカレンは原住民キクユ族を雇い事業を経営した。そんな時第一次世界大戦が勃発し、参戦した夫からの依頼で、アフリカの荒野を命がけで食料を届け、男たちを驚かせた。しかし、カレンは夫が浮気相手からうつされた梅毒を発症し、いったん欧州に戻ることになる。再びアフリカに戻ったものの夫は相変わらず家に寄り付かず、浮気も止まず、ついにカレンはブロアを家から放り出した。そんな時、ハンターのデニスが訪れ、二人はお互いを求めるようになる。共に暮らし始めた頃、デニスが複葉機を購入し、二人はアフリカの大地の上を飛んだ。しかし、カレンはデニスを縛り始め、その関係はギクシャクし、ついにはデニスが家を出て行った。そんなカレンに更なる悲劇が降りかかるのだった・・・・・
映画『愛と哀しみの果て』予告 |
映画『愛と哀しみの果て』出演者 |
デニス・フィンチ・ハットン(ロバート・レッドフォード)/カレン・フォン・ブリクセン男爵夫人(メリル・ストリープ)/ブロア・フォン・ブリクセン男爵(クラウス・マリア・ブランダウアー)/バークレー・コール(マイケル・キッチン)/ベルナップ(シェーン・リマー)/ファラ・アデン(マリック・ボウエンズ)/カマンテ(ジョセフ・シアカ)/スティーブン・キナンジュイ(チーフ・キナンジュイ)/デラメア卿(マイケル・ゴフ)/フェリシティ・スパーウェイ(スザンナ・ハミルトン)/レディ・ベルフィールド(レイチェル・ケンプソン)/ベルフィールド卿(グラハム・クロウデン)/サー・ジョセフ・アロイシャス・バーン(レスリー・フィリップス)/レディ・バーン(アナベル・モール)/医師(ドナル・マッキャン)/大臣(ベニー・ヤング)/マリアモ(イマン)/カヌシア(ジョブ・セダ)
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映画『愛と哀しみの果て』感想 |
同じ年にはスピルバーグ監督がオスカーを獲りに行ったと噂された『カラーパープル』があり、この2本の映画は11部門のノミネートで並んでいたものの、『カラーパープル』は最優秀賞を一つも獲得できなかった。
<『カラーパープル』予告>
個人的な感想で言えば、この『愛と哀しみの果て』より『カラーパープル』の方が、作品の質としては高いように感じた。
しかし公開時の評価は、どちらも地味な作品ながら、やはり当時の大スター、ロバート・レッドフォードの出演と、白人主体の恋愛物語である点で、より一般的な許容度が高かったのではないだろうか?
この1985年という時代を考えると、スピルバーグ監督の『カラーパープル』は黒人の苦難を描いた真摯な作品ではあるものの、そのオール黒人キャストのブラック・ムービーはハリウッドメジャーの映画としては、挑戦的な試みだったと言えるだろう。
当時の映画産業を見れば、黒人メインの映画は、黒人社会に向けたインディペンス映画が細々と作られていた。
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しかし大げさに言えば、その挑戦があって、近年の黒人主体の映画『いつか夜は明ける』や『ムーンライト』などが、近年オスカーを獲得する礎になったのではないかと考えたりする。
話を『愛と哀しみの果て』に戻せば、この映画は古典的な恋愛映画の形、「異郷=僻地」で芽生える愛というドラマの形式を踏襲している。
アフリカの大地と自然の雄大さが美しく収められているのが見事だ。
<空から見たアフリカ>
更にこの物語は実話を元にしており、ただの恋愛物語ではなく自立した女性を描く「女性映画」としての魅力もあるだろう。
しかし、個人的な感想を言えば、この『愛と哀しみの果て』は、自分が男だからかもしれないが、今見れば平凡なドラマと見える。
壮大なアフリカの自然と、当時の大スターであるロバート・レッドフォードの人気と、女性受けする女優メリル・ストリープの演技力もあって、当時のハリウッド大作映画らしい骨格を見せているとは思う。
しかし、どこか冗長で、散漫な印象を受けた。
例えば自分が、主演二人に、もう少し感情移入を促す何かがあれば違っていたかもしれない。
しかし、メリル・ストリープは後年見せる恐るべき説得力は、この映画の時点では希薄だ。
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また、ロバート・レッドフォードのカリスマ性、スターとしての魔力は、リアルタイムで同時代を生きて初めて感じられるのではないかとも思える。
スターとは、やはりその時代の価値の象徴として輝くのであり、その時代が過ぎ去ってしまえば、その魅力は衰えざるを得ないものかとも思う。
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往々にして、スターシステムで撮影された映画は、後年その魅力が伝わり難くなるように見えるが、この映画も旬を過ぎた時、魅力を喪う一作だったのかもしれない・・・・・
更に言えば、この映画は古典的な恋愛映画の形、「異郷=僻地=エキゾチズム」で芽生える愛というドラマ形式を踏襲している。
その「異郷恋愛ドラマ」は映画初期より、長い伝統を持ち名作も生まれているがっているが、同時にエキゾチックな舞台が目立ちすぎ、肝心の人間ドラマが希薄になり、凡作も生まれて来たのも事実なのだ・・・・・・
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映画『愛と哀しみの果て』考察辺境の恋を描いた映画と表現 |
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それゆえ「異郷描写=エキゾチズム」も、「恋愛ドラマ」も「キワモノ的要素」として、映画の登場と同時に表れたのだと思ったりする。
そんなキワモノ映画のジャンルとして、異郷での恋愛を「エキゾチック・ラブストーリー」と勝手に名付け、以下にその系列の作品を紹介し、同時にその危険性を語りたい。
映画史の中で、「エキゾチック・ラブストーリー」の初期の作品を上げるとすれば、クラーク・ゲーブルとマレーネ・デートリッヒの1930年の作品『モロッコ』を上げるべきだろう。
アメリカ映画:1930年 『モロッコ』 マレーネ・デートリッヒとゲーリー・クーパーの大ヒット映画 ハリウッドの恋愛映画の古典 |
そこで描かれたのは、モロッコで出会った外人部隊兵士と、ドイツから流れてきたキャバレー歌手の、全身全霊を愛に没入する「愛こそ全て」と言うべき作品だった。
辺境の地モロッコを舞台にし、余計な夾雑物がないだけに、より純粋に「殉愛」が際立った作品なのである。
エキゾチックな舞台は、文明や社会という、通常人間が生きる上での「約束事=ルール=しがらみ」から離れることで、大胆な恋愛を描き得る効果がある。
そんな、「しがらみ」を離れて生まれる恋愛ドラマは、1951年『アフリカの女王』でも見て取れる。
そこでは、謹厳実直なキリスト教女性宣教師と、荒くれ男が、アフリカの地で共に協力しドイツ軍と戦う姿が描かれていた。
アメリカ映画:1951年 『アフリカの女王』 1951年のハリウッドの大ヒット映画の再現ストーリー アフリカを舞台にカ ップルの冒険を痛快に描く |
文明や社会という「しがらみ」から自由になれる場所を、「異郷=本来所属しない地」と定義すれば、個人的に最も好きな「エキゾチック・ラブストリー」映画は、日本を舞台にした1997年の『ロスト・イン・トランスレーション』だったりする。
アメリカ映画:1997年 『ロスト・イン・トランスレーション』 日本を舞台にした旅行者2人の孤独と絆 ビル・マーレイ&スカーレット・ヨハンソン出演、ソフィア・コッポラ監督作品 |
さらに「異郷=本来所属しない所」との定義に従えば、王女が庶民の中に紛れ込む『ローマの休日』も「エキゾチック・ラブストリー」だと言えるかもしれない。
アメリカ映画:1953年 『ローマの休日』 オードリー・ヘップバーンのデビュー作 プリンセスの一夜の恋を描く古典的名作 |
しかし、このジャンルの最高傑作を上げろと言われれば、私は躊躇なく『エマニエル夫人』を上げたい。
これは、ただのソフトポルノに過ぎないが、しかし「異郷=リゾート」の奔放な性を、ここまで完璧に描いた例を知らない。
結局のところ「エキゾチック・ラブストーリー」の本質は「旅の恥は搔き捨て」という事であり、その本質を最も端的に表したのがこの作品なのだ。
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こんな「エキゾチック・ラブストーリー」作品は上で上げたような名作を生んだ以上に、なぜか多くの失敗作を生むジャンルでもある。
例えば、かの『ラスト・エンペラー』の名匠、ベルナルド・ベルトッチ監督の『シェルタリング・スカイ』は、ここまで砂漠は人を迷わせるかというほど、大自然の驚異をまざまざと見せつけた。
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実を言えば、個人的には、これら異郷を描いた作品は、一種危ういバランスを持って作られている映画であるようにも思える。
なぜなら、それら「異郷」のキワモノ性に、作り手が飲み込まれてしまう危険が往々にしてあるのではないかと思えるのである。
そんなことを思ったのは、クリント・イーストウッドが描いた『ホワイト・ハンター・ブラック・ハート』を見たからだ。
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その作品は上で述べた『アフリカの女王』を撮った監督、ジョン・ヒューストンの伝記映画で、そこではジョン・ヒューストンが撮影そっちのけで像狩りばかりしていた様子が描かれていた。
その映画で分かったのは、映画作家は作品のためというよりも、自分の趣味趣向のために異郷を舞台に選ぶ者もいるという事実を知ったのだ。
しかし、ジョン・ヒューストンは、それでも当時としては画期的な冒険恋愛劇を作り上げ、見事に帳尻を合わせてはいる。
しかし、困るのは、自分の趣味に耽溺し、作品としてもその趣味性が勝ち、一般の観客からすれば何を撮りたいのか分からなくなってしまう作品があることだ。
監督が異郷の魔力に負け、映画が人間ドラマを描けなくなったとき、そういう作品がこの世に生まれるのだと推測する。
実を言えば、そんな個人の趣味趣向に走ったと思われる有名な映画がある。
それは、ジェームズ・キャメロン監督の『タイタニック』だ。
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キャメロンは、真正のタイタニック・オタクであり、食器をタイタニックと同じ食器を使ったり、映画内の時間を実際に船が沈没する時間に合わせたりする凝りようだった。
その長尺の映画は、多額の超過資金もあり、おおコケすればキャメロンの監督生命は立たれていたに違いない。
そして実際映画は、タイタニックの詳細な沈没事件の事実の羅列はドキュメンタリ―作品に近く、興味のない者からすれば到底3時間見続けられるものではなかったと思える。
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つまり、キャメロンのオタク的情熱は、一般人から見れば過剰であり、明らかに映画の完成度を落としているように個人的には感じる。
しかし『タイタニック』は、空前の大ヒットをしたではないかという声が聞こえてきそうだが・・・・・・
私が考えるに、それはタイタニックの沈没要素によるものではなく、レオナルド・デカプリオとケイト・ウィンスレットの若いカップルのラブストーリーが際立っていたからであり、もっと言えば、スターとしてのディカプリオの魅力が眩しいほどに輝いていたからだと思える・・・・
そういう意味で言えば、監督の趣味性に走る映画の危うさ、強いシチュエーションを背景にした場合の人間ドラマの弱さというのは、映画表現にとってもろ刃の刃だと言えるだろう。
この『愛と哀しみの果て』も、ロバート・レッドフォードが『タイタニック』のディカプリオと同等の輝きを、見る者が感じさえすれば、決して凡作とは呼べない作品であるに違いない。
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映画『愛と哀しみの果て』解説『愛と哀しみの果て』実話 |
つまりこの映画は、原作者の実話であり、以下にその人生を紹介したい。
カレン・ブリクセン(Baroness Karen von Blixen-Finecke [kʰɑːɑn ˈb̥leɡ̊sn̩], 1885年4月17日 - 1962年9月7日)は、20世紀のデンマークを代表するゴシック小説家。デンマーク語と英語の両方で執筆し、デンマーク語版は本名のカレン・ブリクセン名義、英語版はペンネーム(男性名)のイサク・ディーネセンもしくはアイザック・ディネーセン(Isak Dinesen)名義で作品を発表した。作品によっては作品間の翻訳の際に加筆訂正がなされ、時には別作品ともいえる物になっているという複雑な作家である。2009年まで、デンマークの50クローネ紙幣には彼女の肖像が使われていた。(Wikipediaより)
カレン・ブリクセンの生涯
1885年、デンマークのルングステッズで生まれる。
幼年期は、作家であり軍人であった、裕福な家族の出である父親ヴィルヘルム・ディーネセンに強い影響を受けた。彼女の母インゲボルグ・ウェステンホルツもブルジョア商人の娘で、豊かな生活環境に育った。
しかしカレンが9歳の時、父が女性問題がもとと言われる原因で自殺し、彼女は母親の家族によって養育され、その家庭内でフェミニズム的な教育を授かった。
長じると、カレンは休暇の多くをスウェーデン南部の父方の従兄弟、ブリクセン・フィネッケ家で過ごした。
彼女は男爵ハンスと最初に恋に落ちたが失恋し、彼の双子の兄弟ブロア・ブリクセン・フィネッケ男爵を選んだ。(写真1913年のカレン)
1912年12月23日に婚約し、シャムで財をなした彼らの共通の叔父の勧めで、農園経営をケニアで始める決心をした。
カレンは当時、イギリス領の一部だったケニアに到着すると、1914年1月14日モンバサで結婚した。
夫婦(右写真)は農園で牛を飼うことを計画していたが、最終的にはコーヒーの方が利益を生むと見て、カレン・コーヒー・カンパニーを設立した。
農園は、ナイロビの南西のムボガニというより大規模な農場を購入し、この地は6,000エーカー(2,400ヘクタール)のあり、大部分は地元キクユ族を労働力としたが、ワカンバ、カビロンド、スワヒリ、マサイも含まれた。
彼女の農場では、発熱、痘瘡、髄膜炎、発疹チフスなど、地元の病人の治療も行った。(写真:カレンと地元労働者)
しかし1914年8月3日、第一次世界大戦がはじまり、東アフリカでドイツとイギリスが戦争となった、ブロアはイギリス軍に参加し、カレンも物資の輸送を手伝った。
当初、ブロアは農場で働いたが、すぐに興味を失いサファリの狩に頻繁に出かけ農場を留守にした。更にブロアは妻に不誠実で、結婚してすぐに浮気を始め、町で放蕩し借金を重ね悪名高い評判を得た。
1915年ブロアが29歳の時、結婚 1 年目の終わりには梅毒に感染し、カレンへと感染した。
カレンは1915年6月にデンマークに戻り、治療により回復したが、その後も後遺症に長年苦しんだ。
1918年4月5日、カレン夫婦はムサイガ社交クラブで英国人、デニス・フィンチ・ハットン(1887–1931:写真)に紹介された。デニスは、夫婦と親密な交流を持ったが、その後ケニアを後にし、エジプトでの軍務に2年間就いた。
1919年に夫が離婚を要求し、最終的に1925年に離婚が成立した。離婚後のブロアは、ケニアに病院を設立するための慈善団体を設立したという。
その間、デニスは頻繁にアフリカとイギリスの間を往来し時折カレンを訪ね、1922年にケニアに本拠を置きと、夫と別居したカレンと親密な関係を築くと、長期にわたる恋愛関係へと発展した。(写真:カレンとデニス)
デニスはカレンの家に引っ越し、1926年から1931年にかけてブリクセンの農場を本拠地とし、富裕層へのサファリ狩猟ガイドを始め、その顧客にはイギリスの王族も含まれた。
しかし、二人の関係は不安定で、自由奔放なデニスをカレンが縛ろうとし、やがて問題が生じた。
1930年には、デニスは当時の著名な女流飛行家であり馬の調教師でもあったベリル・マーカムと恋愛関係になった。
マーカムは複数の恋人がいたが、デニスに好意を持っていた。しかしカレンとも旧知のマーカムは、最初は自重していたが、最終的にはデニスと男女関係となった。しかし、その後もデニスはカレンとの関係も継続した。
1931年5月14日朝、デニスのジプシーモス複葉機はヴォイ空港を離陸した後、地面に激突炎上し、彼とそのキクユ族の使用人一人の命を奪った。
デニスの希望に従い、現在のナイロビ国立公園の西8kmにあるゴン丘陵で、カレンが決めた場所に埋葬された。
その地は以前から、二人でしばしば訪れていた丘であり、カレンが埋葬を望んだ地であり、彼もその地に埋葬を生前に希望していたのだった。
時を同じくして、コーヒー農園経営は、農場が高地にあった事、干ばつ、大恐慌によるコーヒー価格の下落などが重なり失敗し、最終的には農園を手放す事となった。
1931年8月カレンはデンマークに戻り、母親のルングステッドルンドの家(写真:今はカレンの博物館となっている)に身を寄せ、第二次世界大戦中を含め、以後の人生を過ごした。
デンマークでは作家活動をし、著名となったカレンだったが、1950年代に入ると体調を崩す事が多くなり、著作活動が困難になったものの、ラジオなどに出演した。
1959 年にはアメリカへの生涯唯一の旅をした。(写真:カレンとマリリン・モンロー)
それは4か月に渡る長期旅行で、彼女はライフ マガジン特集を飾り、ブロードウェイのオープニング公演に招待され、ニューヨーク社交界で歓迎され、数々の著名人と会った。しかしその旅の間も「点滴」を受けるなど、その病魔は深刻の度を増していった。
1962年、カレンはラングステッドルンドの自宅で77歳で亡くなった。その死因は栄養失調だと言われるが、梅毒の後遺症の影響とする説もある。(写真:カレンの墓)
映画との違い
〇カレンの著書に書かれた、壊滅的なバッタの襲来や、数度発生した農園近隣の銃撃戦、ドイツ軍にの言及など、多くの事実が省略されている。
〇彼女の 農園は4,000 エーカー(16 ㎢)の敷地と、800人のキクユ族労働者、18頭の牛の幌馬車があったが、映画では大幅にスケールを縮小されて描かれた。
〇映画ではデニスとカレンの最初の出会いは平原の汽車とされたが、事実はムサイガ社交クラブだった。その後、エジプトの軍事任務に就き、2年間ケニアを離れており、飛行機を操縦し始めたのと、サファリのハンターになったのは同時期だった。
〇実際のデニスは英国貴族だったが、その役にアメリカ人ロバート・レッドフォードが起用されたことで、言葉のアクセントもあり、英国人として描くことを避けられた。
〇また、カレンはデニスの子供を少なくとも一度は妊娠し流産しており、映画で描かれた梅毒を移された影響で子を宿せない体になったと語られたのは事実と異なる。
映画の中の実話
しかし、映画には事実を踏襲した部分もある。
〇映画で登場したキクユ族の中には、実際のキクユ族子孫を数名起用しており、例えば酋長役のキンヤンジュイもその一人だという。
〇撮影には、現在カレン・ブリクセン博物館として残っている、彼女の最初の家「ムボガニ」を使っている。
また彼女の小説を原作とする作品としては、アカデミー外国映画賞に輝いた『バベットの晩餐会』がある。
小説は1950年6月に発表され、短編集『運命綺譚』(Anecdotes of Destiny)に収録された。日本では、映画の影響もあり『バベットの晩餐会』として筑摩書房より出版されている。
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