2022年07月24日

映画『ジョーカー』映画史上最狂のヴィラン誕生秘話!感想・解説/貧富の格差による分断考察・ヒーロー物語の変容

映画『ジョーカー』感想・解説 編

原題JOKER
製作国 アメリカ
製作年 2019
上映時間 122分
監督 トッド・フィリップス
脚本 トッド・フィリップス、スコット・シルバー


評価:★★★★  4.0点



ジョーカーは、言わずと知れた、DCコミックス「バットマン」シリーズに登場する、ヴィラン中のヴィランである。

その誕生の軌跡を、リアリティーを持って語り説得力がある。そしてジョーカーの出現が、バットマンを生み出す契機になったという事実が語られている・・・・・

本作は、営業的にも評価的にも高い結果を残し、第76回ヴェネツィア国際映画祭でプレミア上映され金獅子賞を受賞、第92回アカデミー賞では最多11部門にノミネートされ、主演ホワキン・フェニックスが主演男優賞を獲得した。

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<目次>
映画『ジョーカー』ネタバレなし簡単あらすじ
映画『ジョーカー』予告・出演者
映画『ジョーカー』解説
映画『ジョーカー』考察

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映画『ジョーカー』簡単あらすじ

1981年ゴッサム・シティは不況下で、失業者や犯罪者があふれ犯罪が多発していた。そんな街でアーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)は大物芸人マレー・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)に憧れてコメディアンを目指し、派遣会社でピエロの仕事を頑張っていた。しかし、寝たきりの老母ペニー(フランセス・コンロイ)を抱え生活は苦しく、緊張が引き金となり、笑いが止まらなくなる発作を持ち、カウンセリングと精神安定剤が必要だった。そんな時、アーサーは同僚ランドル(グレン・フレシュラー)がくれた銃を仕事場に持ちこみ、派遣会社からクビを宣告されてしまう。
その夜失意のアーサーは、ピエロ姿で地下鉄に乗りトーマス・ウェイン(ブレット・カレン)の会社に勤めるサラリーマン3名に暴行を受け、射殺してしまう。その事件は、ウィンズ財閥に代表される富裕層に怒りを覚えている貧困層の、戦いの象徴となった・・・・・
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映画『ジョーカー』予告

映画『ジョーカー』出演者

アーサー・フレック / ジョーカー(ホアキン・フェニックス)/マレー・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)/ソフィー・デュモンド(ザジー・ビーツ)/ペニー・フレック(フランセス・コンロイ)/トーマス・ウェイン(ブレット・カレン)/ギャリティ刑事(ビル・キャンプ)/バーク刑事(シェー・ウィガム)/ランドル(グレン・フレシュラー)/ゲイリー(リー・ギル)/ジーン・アフランド(マーク・マロン)/アルフレッド・ペニーワース(ダグラス・ホッジ)/ブルース・ウェイン(ダンテ・ペレイラ=オルソン)/カール(ブライアン・タイリー・ヘンリー)

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映画『ジョーカー』感想


ここで描かれたのは、貧富の格差が広がるアメリカ社会の現実を反映した、下層階級に生きる男の悲哀と、階級闘争が生まれる原因を語ったものだとすれば、この映画の完成度は非常に高いと感じた。

劇中では、この主人公の生育環境や、社会から虐げられている現実が丹念に描かれ、社会の底辺で生きることを運命づけられた人間の「恨み=ルサンチマン」が、詳細に、完璧な設計を持って、説得力を持って語られている。

この年のアカデミー賞は、『ジョーカー』と『パラサイト/半地下の家族』という、2本の階級格差を描いた映画が話題を呼んだ。

結局、最優秀作品賞は、エンターテーメント性において上回っている『パラサイト/半地下の家族』が獲得したが、本作も優劣つけがたい完成度を見せていると感じる。
関連レビュー:歴史的快挙を達成したオスカー受賞作!
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なんにせよ『ジョーカー』の持つ描写力の高さは間違いなく、その点を下で解説を試みた。

しかし、その高い表現力も、この映画がヒーロー映画『バットマン』のスピンオフ作品だと考えた場合、個人的には素直に評価し難い部分がある。

それは「ヒーロー物語」とは、本来「絶対的正義=勧善懲悪=神話的物語」を表現するコンテンツだと、個人的には考えて来たからだ。

かつて、西部劇がそうであったように、絶対的善を体現したヒーローが絶対的悪を倒すという「勧善懲悪」の物語構造こそ、アメコミヒーローにも共通の神話的ドラマツルギーであったはずである。
関連レビュー:ヒーローチームの変り種
『スーサイドスクワッド』
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この映画は、明らかにその「絶対的正義」を否定した作品であり、さらに言えば犯罪的な行為をも、その動機によっては認めざるを得ないという「シンパシー=共感」を呼ぶ内容になっている。

そんな、従来のヒーロー物語のアンチテーゼとして、この『ジョーカー』があるように感じられ、その点を考察として下に記した。Film2-GrenBar.png
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映画『ジョーカー』考察

ヒーロー物語の否定

この映画は、まるでアメリカ社会の低所得労働者層の、ドキュメンタリーを見ているかのようなリアリティーを持っている。

例えば現代社会においては、日本でも非正規雇用と正規雇用の格差が問題視されているが、それは程度の差こそあれ先進諸国に共通の労働問題でもある。

ヨーロッパやアメリカにおいても、経営側に都合の良い、安価なそして解雇リスクの少ない労働力の確保手段として、非正規雇用者は増え続け、その収入格差と不安定な雇用環境下で苦しんでいる。

この映画の主人公アーサーも、非正規雇用の派遣社員であり、ある日突然解雇を言い渡される。

そんなアーサーが解雇を告げられた夜、エリート・サラーリーマン3名にからまれ、アーサーは彼らを射殺する。
<地下鉄での射殺シーン>

その「サラリーマン=正規雇用社員」は後にバットマンとなるブルース・ウェインの父トーマス・ウェインの財閥系企業ウェイン証券の社員だったのである。

実にここでは、2つ貧富格差の分断要素が語られている。
ひとつは、正規・非正規雇用の問題であり、もう一つは証券会社が、その貧富格差をさらに増大させているという点である。

つまり、このトラブルの相手が証券会社社員であったのは、決して偶然ではない。
現代社会で貧富の格差を増大させた影には、富裕層がその資金を株など金融商品に投資することで、更に富を蓄積させたのであり、その商品の取引を担うのが証券会社なのである。

具体的に言えば、アメリカ社会の格差は1980年前後から金融証券の価値増大に伴い、アメリカ国民の10%の資産を潤沢に持つ富裕層、さらに言えばその富裕層の上位1%が突出して所得を増加させており、超富裕層とそれ以外の層で所得格差は拡大の一途をたどっているのだ。

その1%の超富豪を象徴するのが、将来バットマンとなるブルース・ウェインの父、トーマス・ウェインなのである。

貧困層の主人公アーサーが、トーマスの息子だと信じたのも意味深いと感じる。

なぜなら本来富裕層は、社会的庇護者として、その財力を貧困層に分け与える義務があった。
それはかって「エリート層の義務=ノブレス・オブリージュ」と呼ばれ、上流階級が果たすべき社会的責務であった。
ノブレス・オブリージュ(仏: noblesse oblige フランス語: [nɔblɛs ɔbliʒ])とは、直訳すると「高貴さは(義務を)強制する」を意味し、一般的に財産、権力、社会的地位の保持には義務が伴うことを指す。
最近では、主に富裕層、有名人、権力者、高学歴者が「社会の模範となるように振る舞うべきだ」という社会的責任に関して用いられる。
「ノブレス・オブリージュ」の核心は、貴族に自発的な無私の行動を促す明文化されない不文律の社会心理である。それは基本的には、心理的な自負・自尊であるが、それを外形的な義務として受け止めると、社会的(そしておそらく法的な)圧力であるとも見なされる。
法的な義務ではないため、これを為さなかったことによる法律上の処罰はないが、社会的批判・指弾を受けたり、倫理や人格を問われたりすることもある。
(Wikipediaより)

関連レビュー:英国のノブレス・オブリージュ
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つまり、貧しいアーサーは社会的庇護者としてのトーマス・ウェインを必要とし、それを作中では親子関係として描いてみせた。
そして、その親子関係はトーマスにより否定され、アーサーの救済はなされなかった。

更に言えば、コメディアンを目指すアーサーにとっての憧れ「職業的な成功者=父」でもある、ロバート・デ・ニーロ演じるマレーにも否定されたことを付け加えたい。

結局アーサーは、社会的救済も、職業的な能力も否定され、社会的な孤児であると告げられた。
それゆえに、ついに自暴自棄にならざるを得ず、暴発してしまった。

繰り返すが、この映画は「プア・ホワイト=貧困白人層」が生きる現実を描き、社会に訴えるという目的を持った作品ならば、その細部に至るまでほぼ完ぺきに表現されていると言うべきだろう。

その細部に関して言及すれば、この映画内で挿入される映画も、それら社会的格差を語るに相応しいものが選ばれている。
一本は、ミュージカル映画のパイオニア、フレッド・アステアの『踊らん哉』(1937年映画)であり、もう一本はトーマス・ウェイン達が劇場で見る、チャップリンの『モダン・タイムス』(1936年映画)だ。

その劇中の映画が、社会的格差というテーマをどう表現しているかを、下で書いてみた。Film2-GrenBar.png
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映画『ジョーカー』解説

劇中映画の語るもの

この作品内で使われている、1本目の映画はフレッド・アステアのミュージカル『踊らん哉』である。
華麗なアステアの踊りと、明るく伸びやかな歌声が、観客の心を浮き立たせる作品だ。
このアステアとそのダンスパートナーだったジンジャ・ロジャースは、世界が大恐慌で苦しむ1933年よりパートナーを組み、その夢のようなきらびやかな作品で、貧困に苦しむ人々に希望と活力を与えたのだった。
そのアステアが生きた大恐慌時代と、この『ジョーカー』の舞台ゴッサムシティ―の状況が重なる。
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アーサーがアステアほどのパフォーマンス力を持っていれば、彼はショーマンとして人々を救うことも可能ではなかったかとも思える。

かしその考えは、もう一本の挿入映画『モダン・タイムス』の使われ方を見れば、明確に否定されていると見るべきだろうと、思い直した。
映画『モダン・タイムス』は、史上初の世界的映画スターであり、映画作家でもあるチャーリー・チャップリンによって作られた。
関連レビュー:庶民を勇気づけるコメディー!
『モダン・タイムス』
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放浪紳士チャーリーの最後の登場作品

彼は放浪紳士チャーリーというキャラクターで一世を風靡(ふうび)し、そのキャリアはアステアよりも古く、正に大恐慌の真っ最中にその作品を発表し続けた。

映画内で常にどん底の浮浪者を演じながら、権力者や金持ちを揶揄し、そのユーモア―で庶民大衆を勇気づけ、その支持を受けた。

『モダン・タイムス』はそんな、時代を鼓舞したキャラクター「放浪紳士チャーリー」の引退作なのである。
その作品では、フォード自動車をモデルにした大量生産の工場で働くチャーリーが、好きになった少女と幸せを築くために奮闘する姿を、笑いと涙で描いている。

『ジョーカー』では、そんな庶民の苦闘する物語を、豪華な劇場で、着飾った富裕層が見て、笑い声をあげているのである。


そのシーンを見れば、たとえアーサーが、そのショーパフォーマンスで人々を勇気づけようとしても、結局その努力は富裕層の慰み物となり、更に富裕層の富を生むビジネスに取り込まれるだけなのだと結論つけざるを得ない。

つまり、この劇中の作品2本が語るのは、貧富の格差が増大する不況時には、困窮した人々を救う力としてダンスやコメディーが機能した過去があった。
しかし、作中のゴッサムシティ―(1980年代を想定)においては、それらのショービジネスは富裕層に消費され新たな商品として再生産されるだけで、そのビジネスモデルが知られている現在では「救済力」となり得ないと語られているだろう。
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映画『ジョーカー』解説

貧富格差社会のルサンチマン

上で見たように、この『ジョーカー』は、現代の貧富格差社会の現実を鋭く抉る作品である。

しかし、その悪人にも、悪を成すべき理由があるとするこの映画は、従来のアメコミヒーロー映画と一線を画すものだ。

なぜなら従来の、「ヒーロー物語=英雄譚」とは、本来神話的な絶対性を語るものではなかったか?
「絶対的な悪」と「絶対的な正義」がぶつかり必ず正義が勝つからこそ、カタルシスを生み、安心して楽しめるものではなかったか?

もちろん、現代の「ヒーロー物語」が、それほど単純ではない事は十分承知している。
それは、アメコミヒーローを再生させたティム・バートン監督の『バットマン』から始まり、クリストファー・ノーラン監督の『ダークナイト』によって、決定的にその性格を変えた。
<『ダークナイト』予告>

『ダークナイト』シリーズは、9.11同時多発テロに端を発した、アメリカ合衆国のテロとの戦いのアナロジーだった。

『ダークナイト』によって、ヒーローはそれまでの絶対的正義という錦の御旗を捨て、現実がそうであるように、正義とは本当に正義なのかという懐疑をまとった物語へと、その性格を変える。

結局、現実において絶対正義など無く、それは一方の当事者が主張するファンタジーに過ぎない。
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その事実を前に、ノーランはヒーローから絶対性を奪い、その代わりにリアリティーをヒーローに付与したのだ。
その、未だ見た事のない、リアルなヒーロー像は成功をおさめ、ヒーロー物語に重厚さと深みを付与し、大人の鑑賞に耐えるドラマを創出した。

しかしリアルな作品とはいえ、そこにはまだ「絶対性=ファンタジ―」が、その底流に流れていた。

それは、たとえ現実の正義が不確実なものであったにしても、あくまでアメリカ国民のためのヒーローであるバットマンであれば、その戦いは正義であるとの最低限の安心が約束されていたからである。

しかし、この『ジョーカー』に至って、ついに善悪の壁は崩れ去った。

本作の主人公アーサーの姿を見れば、そこに生まれた悪は彼個人のモノではなく、社会の歪みが必然的に生んだ悪であり、彼はたまたまその悪を体現したに過ぎない。

つまり、彼の行動は、社会悪を解消するための、必然的なエネルギーの発露としてあるのであり、社会的格差の下貧困にあえぐ者たちの立場に立てば、むしろ彼は正義の使者なのである。

そして、これは、とりもなおさずアメリカが戦ったテロ組織側にも、間違いなく彼らなりの正義があったと認める事を意味するだろう。
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現実においては、間違いなく紛争に関わる関係国は、双方の正義を掲げて戦いに臨んでいるのである。

そんな「現実=リアル」を反映したこの映画は、間違いなくリアリティーに満ちている。

しかし、現実の混沌の中で、「ヒーロー物語=絶対的正義」の持つドラマのカタルシスを捨ててしまったようにも思える。

そのことが、今後のアメコミヒーローを語る上での手かせ足かせとなるのではないかと、個人的には危惧するのである・・・・



posted by ヒラヒ・S at 14:07| Comment(0) | TrackBack(0) | アメリカ映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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