2022年01月16日

古典映画『真昼の決闘』1951年・革新的西部劇の誕生のワケとは?/感想・解説・ハリウッドと赤狩り考察・ネタバレなしあらすじ

映画『真昼の決闘』感想・解説 編

原題 highnoon
製作国 アメリカ
製作年 1951年
上映時間85分
監督 フレッド・ジンネマン
脚本カール・フォアマン
原作ジョン・W・カニンガム


評価:★★★★  4.0点

フレッド・ジンネマン監督の緊迫感ある演出に応え、往年の大スター、ゲーリー・クーパーの演技力が光る名作だと思う。

この映画はアメリカ社会が「赤狩り」に揺れる時代に撮影され、当時の西部劇の大スターだったジョン・ウェインに『真昼の決闘』の主演オファーが来たが、タカ派だった彼はドラマ内容が反米的な批判を含んでいると断ったほど、政治的暗喩に満ちた作品だった。

そういう意味で、この作品は本来の西部劇のスタイルとは、一線を画す姿を見せていると感じられてならない。
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<目次>
映画『真昼の決闘』簡単あらすじ
映画『真昼の決闘』予告・出演者
映画『真昼の決闘』感想・解説
映画『真昼の決闘』解説
映画『真昼の決闘』考察/『赤狩り』と映画

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映画『真昼の決闘』あらすじ

西部の町ハドリーヴィルは日曜で教会に向かう人々が行き交う中、かつて町で暴れていたアウトロージャック・コルビー(リー・ヴァン・クリーフ)ジム・ピアス(ロバート・J・ウィルク)とベン・ミラー(シェブ・ウーリー)を見た町民は息を飲む。3人は絞首刑を減刑され、町に12時の汽車で戻ってくる、ボスのフランク・ミラー(イアン・マクドナルド)を迎えに来たのだ。
その頃保安官ウィル・ケーン (ゲイリー・クーパー)とエイミー・ケーン (グレイス・ケリー)の結婚式がパーシー・メトリック判事(オットー・クルーガー)立会いの下、執り行われていた。参列のジョナス・ヘンダーソン市長(トーマス・ミッチェル)を始め町の有力者の顔にも笑顔が浮かぶ。しかしフランク・ミラーが帰ってくると知ると、彼を逮捕した保安官ケーンへの復讐で、町で決闘が始まる事を心配した町民は、新婚の夫婦を逃がした。しかし、ケーンは逃げても追われるし、敵に背は見せたくないと、町へと戻る決心をする。そして、町民を募って自警団を組織しようとするが、町民たちの事なかれ主義やミラーの時代を懐かしむ者達もいた。かつてウィルと交際していたヘレン・ラミレス(ケイティ・フラド)と新妻エイミーが胸を痛める中、結局ウィルは1人で4人と戦う事になった・・・・・・

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映画『真昼の決闘』予告

映画『真昼の決闘』出演者

ウィル・ケイン(ゲイリー・クーパー) /エイミー・ファウラー・ケイン(グレース・ケリー)/ジョナス・ヘンダーソン市長(トーマス・ミッチェル)/ハーベイ・ペル(ロイド・ブリッジス)/ヘレン・ラミレス(ケイティ・フラド)/パーシー・メトリック判事(オットー・クルーガー)/マーティン・ハウ(ロン・チェイニー)/サム・フラー(ハリー・モーガン)/フランク・ミラー(イアン・マクドナルド)/ミルドレッド・フラー(イヴ・マクヴェイ)/マヒン博士(モーガン・ファーリー)/クーパー(ハリー・シャノン)/ジャック・コルビー(リー・ヴァン・クリーフ)/ジム・ピアス(ロバート・J・ウィルク)/ベン・ミラー(シェブ・ウーリー)

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映画『真昼の決闘』感想


この映画は、その主題歌といい、西部の町で決闘に臨む主人公といい、その主人公を愛する女性の葛藤といい、西部劇としての体裁は申し分ない。

しかし、それでも、この作品を正統的西部劇と呼ぶのを「ためらう」自分がいる。

その違和感を突き詰めていくと、それは「西部劇」の伝統、骨格、魂が欠けていることによる、非正統性を感じざるを得ないからだと気付いた。

遡って西部劇の系譜を見れば、1940年の近代西部劇の元祖ジョン・フォード監督の 『駅馬車』や『荒野の決闘』があり、そして、ハワード・ホークス監督の『赤い河』などなど、名作が並ぶ。
つまるところ、この『真昼の決闘』以前の西部劇が語ったのは、欧州からアメリカに移民し、広大な西部を血を流しながら開拓して来た、アメリカ合衆国の苦闘の歴史と、その結果勝ち得た勝利を謳い上げた凱歌だった。
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西部劇とはアメリカ入植者達にとっての「建国神話」なのである。
それゆえ、インディアンから強奪した土地であっても、それは入植者たちの勝利の印であり、本来荒くれ者のアウトロー達は、自由を謳歌し自らの力で荒野を闊歩する男の中の男として描かれるのだ。

そして、そんな野蛮な男達を包む慈母のような妻と、妖艶な酒場のホステスの献身が、その男達の価値を証明するのである。

そんな西部劇のヒーローは、アメリカの男達の理想形として輝きを放ってきたし、その伝統は時代を経て批判されつつも未だに存在感を保っている。
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しかし、そんな「建国神話」としての西部劇と、この『真昼の決闘』は明らかに違う。

むしろ、西部劇的な「開拓精神」の凱歌を否定するような作品だと感じられる。

その点を下の解説で語って見た。
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映画『真昼の決闘』解説

アメリカ否定の西部劇

上の感想で書いたように、この作品は従来の西部劇の持つ「建国神話」とは、根本から違うと言わざるを得ない。

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それを象徴するのが、ジョン・ウェインに代表する西部劇のヒーロー類型と、この映画『真昼の決闘』の主人公との違いである。

そのキャラクターは「大らか」というよりは 「小心」であり、「豪快」というよりは「繊細」である。
従来の西部劇の「陽性」のヒーローなら友や仲間に囲まれ、共に命を賭けて闘うものだが、この映画のヒーローは孤独で妻にさえ見放される。
しかも、4対1の闘いに、自らの腕を信じられず逃げようとすらするのをみれば、やはりこの映画の主人公は、西部劇のヒーロー像とは一線を画していると言わざるを得ない。

この主人公からは「アメリカ的建国神話」として西部開拓を、賛美し、栄光を讃えるべき西部劇の面影は見事に無い。
むしろあるのは、西部の町の閉鎖性であり、事なかれ主義であり、民主主義という名の個人の切り捨てである。

つまり、それまでの西部劇が西部の町に見出していた「自由と正義」は、「弾圧と悪行」に姿を変えて現れ、それはアメリカ建国の神話を否定するものである。
そして、その主張はアメリカ国家自身に疑問をなげかけるものでもあったろう。

後年、クリント・イーストウッドが「最後の西部劇」と銘打って『許されざる者』を撮り、それが西部劇を否定した映画だと言われたが、実際その映画は西部劇を肯定して終わっていると個人的には考えている。
関連レビュー:西部劇の否定と再生!!
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その『許されざる者』よりも、明らかに明確な西部劇否定、ひいてはアメリカ国家の否定を語った映画が、この『真昼の決闘』だと主張したい。

なぜならこの映画の背景には、1940~50年代のアメリカ政府「赤狩り」とその方針に賛同するという民衆世論に追い詰められた男、本作の脚本家カール・フォアマンのリアルな物語があったのである。
カール・フォアマン(Carl Foreman、1914年7月23日 - 1984年6月26日)は、アメリカ合衆国の脚本家、映画プロデューサー。
1914年シカゴ生まれ。イリノイ大学に入学後、社会主義の信奉者となり共産党員となった。
大学卒業後、脚本家となるためハリウッドに移り住む。1941年から翌年にかけてフォアマンは3つの映画のシナリオを執筆したが、第二次世界大戦のため活動を中断。その後再び映画界に戻り、1949年のマーク・ロブソン監督、カーク・ダグラス主演の『チャンピオン』の脚本で彼はアカデミー脚本賞にノミネートされ、一躍ハリウッドで注目される存在となった。しかし、1952年の『真昼の決闘』の撮影中から赤狩りの対象となり、完成後、英国へ亡命した。(wikipedia)

Foreman_1961.jpgカール・フォアマン(写真)は、当時の知識層が往々にしてそうだったように、共産主義のシンパであり、後にその信条ゆえに後にアメリカを追われることになるのだった。
つまりここにあるのは、脚本家フォアマンが実際に感じていた、正義を、自分の信念を貫こうとする男が、周囲の者から疎まれ、追い詰められていく姿だった。

昨日まで友人だった人々が、突然冷たくなり、さらには敵対者となって、社会全体がフォマンを追い詰めらて行く状況、それは間違いなく1950年当時のアメリカ社会の真実だった。
そんな当時のアメリカ社会に対する、怒りと恐れが、従来の西部劇的主張「アメリカ建国讃歌」とは真逆のドラマを生んだのだ。

その「反米主張」を西部劇のジャンルで描いてい見せたのは、フォアマンの大いなる皮肉だと言うべきだろう。

実際、赤狩りの実態を調べてみると、その対象となった者達は本当に過酷な迫害にあった事を知った。

そんな脚本家の現実が、リアリティーと緊迫感を、この作品に与えていると信じる。

赤狩りによって人生を狂わされた、ハリウッドの映画人の実例として、フォアマンの例を下でまとめて見た。
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映画『真昼の決闘』解説

『赤狩り』とフォアマン

この映画の背景には、脚本家フォアマンの身に降りかかった悲劇があった。

1940年〜50年代のアメリカ社会は、第二次大戦後の冷戦の深刻化を受け、共産主義者をアメリカ社会から根絶しようという、狂気のような「赤狩り=マッカーシズム」の嵐が吹き荒れた。

マッカーシズム(英: McCarthyism)とは、1950年代にアメリカ合衆国で発生した反共産主義に基づく社会運動、政治的運動。high_McCarthy.jpg
アメリカ合衆国上院(共和党)議員のジョセフ・マッカーシー(写真)による告発をきっかけとして「共産主義者である」との批判を受けたアメリカ合衆国連邦政府職員、マスメディアやアメリカ映画の関係者などが攻撃された。

共産主義勢力の浸透に危機感を抱いたアメリカ政府は、米国上院議員のジョセフ・マッカーシーの提唱する対共産主義政策を実行した。
マッカーシーによる調査の推進と、下院非米活動委員会(非米活動委員会)を設立し、共産主義的な傾向を持つものを徹底的に追求した。

「マッカーシズム=赤狩り時代」には、何百人ものアメリカ人が「共産主義者」または「共産主義者のシンパ」であると非難された。それらは、政府、公務員、エンターテーメント産業、学者、および労働組合活動家で積極的な調査および査問の対象となった。
疑惑は、決定的でなくとも、または証拠として疑わしくとも、しばしば有罪とみなされた。
左翼団体や左翼思想によってもたらされる脅威は、実体以上に誇張され、多くの人々が失業やキャリアを閉ざされ苦しみ、一部の人々は投獄され、さらには命を絶った者もいた。

特にハリウッド映画業界では、俳優だけでなく、脚本家、監督、ミュージシャン、その他専門家、全ての関係者が調査され、非公式のハリウッドブラックリストを通じてアメリカ映画界での仕事を拒否された。
ブラックリストに記載された者は共産主義者または共産主義シンパと見なされ、エンターテインメント業界での雇用を拒否する慣行が含まれていた。
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それら政府方針に賛同するハリウッドの右派、俳優ジョン・ウエインや、監督サム・ウッド(『誰がために鐘は鳴る』)を中心に「アメリカの 理想を守る映画連盟」も発足し、彼等は業界内の共産主義者的傾向を持つ人々の情報を積極的に非米活動委員会に送ることになる。

その一方、当時のハリウッド映画界は共和党を支持する「保守派=愛国的」な者が多くを占めたが、それでも、保守的傾向を持つ映画人にしても‟赤狩り”の密告的な動きには拒否感を持ち抵抗を示した。

例えば映画監督組合では、保守派のセシル・B・デミル監督が左派勢力排除を画策したが、それを右派のジョン・フォードやジョン・ヒューストン監督も、そのクデーターを阻止したのである。
デミル監督が提案した、映画監督組合の当時の理事会に対してクーデターを画策し、理事会長ジョーゼフ・L・マンキーウィッツ監督を筆頭に罷免しようと呼びかけた事件は、結局左右を問わず賛同を得られず潰えた。
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ぞんな、‟赤狩り”に対するハリウッド映画人の反発は、1951年の第23回アカデミー賞にも表れている。

主演男優賞の『シラノ・ド・ベルジュラック』のホセ・フェラー、主演女優賞の『ボーン・イエスタデイ』のジュディー・ホリデーという、「Red Channels(ハリウッド・ブラックリスト)」に名前を挙げられていた両者が受賞した。

また映画監督組合の反乱事件の当事者、ジョーゼフ・L・マンキーウィッツ監督も監督賞を受賞した。
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それでも、そのリベラルな声も、時と共に力を喪う。

1952年第24回アカデミー賞は『真昼の決闘』が多数ノミネートされた回だが、セシル・B・デミル監督が『地上最大のショウ』で作品賞を受賞しており、そこに保守勢力の伸長を感じるというのは言い過ぎだろうか。
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いずれにしても、「赤狩り」の政府方針はアメリカ世論の支持も受け、中世の魔女狩りのように、その方針に意を唱える者は社会から抹殺されるのに等しい状況となる。
チャップリンがアメリカを追われたように、リストに載った反米的傾向者は、職を追われ、就職も困難になり、ついには命を絶つ者も出たのである。

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そんな状況を反映して、1952年にはフォアマンが所属する映画脚本家組合は、共産主義者の嫌疑を明確に晴らせなかった脚本家の名前を「スクリーンから除外」することを映画スタジオに許可せざるを得なかった。

そして本作『真昼の決闘』の脚本家、カール・フォアマンはかつて共産党の党員だったこともあり、共産主義のシンパと見られている人物だった。
そして、「Red Channels(ハリウッド・ブラックリスト)」に名前を挙げられる事になった。

フォアマンは、『真昼の決闘』を書いているときにアメリカ連邦議会の「下院非米活動委員会(HUAC)」に召還された。その場で共産主義者のメンバーであった他の人々の「名前を証言」することを拒否した事で、「非協力的な証人」とされブラックリストに記載されたのである。
プロデューサーのスタンリー・クレイマーとフォアマンは共同出資でスタンリークレイマーコーポレーションという独立系制作会社を設立していたが、クレイマーはブラックリストにフォアマンの名がある事で、彼に会社の持分を25万ドルで売却することを強制し、真昼の決闘の製作から切り離そうとした。

クレイマーはフォアマンが自分を共産主義者として告発すると脅していたと主張し、フォアマンはクレイマーは、彼が素直に証言しないことで自身のキャリアが失われることを恐れていたと語っている。
結果的に、監督フレッド・ジンネマン、俳優ゲイリー・クーパー達が介入し、銀行もフォアマンの参加を支持したため、映画製作に残ることができた。

スタンリークレイマーコーポレーションから追い出されたフォアマンは、自らの会社カール・フォアマンプロダクションを設立し、その出資者の一人はゲイリー・クーパーだった。
フォアマンはB級映画の名プロデューサー、ロバート・L・リッパートと3本の映画契約を結び、監督・脚本・プロデューサーを兼ねる予定だった。

しかし、フォアマンに対する圧力は強まり、コロンビアピクチャーズのハリー・コーン(クラマーの上司)や、「アメリカの理想を守るための映画同盟」を主導した俳優ジョン・ウェインや、ロサンゼルス・タイムスの社会的影響力の強かった記者ハッダ・ホッパーからも、証言するように糾弾された。
それにも屈せず、フォアマンは最後まで宣誓証書にサインをせず、ブラックリストへの記載が確定した。

ハリウッドのメジャー映画スタジオの経営者達は、他のブラックリスト登載者同様に、フォアマンの雇用を拒否し、フォアマンはハリウッド映画界でのキャリアを失った。
ロバート・L・リッパートは「フォアマンの愛国心に疑いの余地はなかった」と述べているものの契約も履行されず、ゲイリー・クーパーも出資を撤回した。
フォアマンは『真昼の決闘』の公開前に、その当時のブラックリストに載った映画人の多くがそうしたように、アメリカを脱出しイギリスへの移住を決断した。


俳優のジョン・ウェインは「フォアマンをこの国から追い出す手伝いをした事を、後悔することは決してない」と後に語っている。

イギリスに渡ったフォアマンは、『アギーの冒険』(1955)、『戦場にかける橋』(1957)の脚本を書いた。
イギリス、アメリカ合作映画:1957年
『戦場にかける橋』
実話を元にした日本軍捕虜収容所の物語
アレックギネス監督のアカデミー受賞作

しかし、ブラックリストに載っていたために、脚本家の名前は原作者の英語を話せないフランス人ピエール・ブールとされた。
フォアマンは脚本の功績を公に主張していたが、彼の脚本作品だと認められなかった。

しかし『戦場にかける橋』の後も鍵(1958)ナバロンの要塞(1961)勝利者(1963)野生のエルザ(1966)年マッケンナの黄金(1969)地獄のかけひき(1970)永遠のエルザ(1972)戦争と冒険(1973)と継続的に仕事を続け、イギリス映画界で確固たる地位を得た。
<『ナバロンの要塞』予告>

後年フォアマンは英国映画製作協会の執行評議会に選ばれ、王立芸術協会のフェローとなり、英国映画協会、英国国立映画学校、映画映画評議会の理事に任命された。彼はイギリスの脚本家組合で7年間理事長を務めた。その功績で1970年には、フォアマンは大英帝国勲章を受けた。

そして1975年、フォアマンは故国の米国に戻り、ユニバーサルと3本の映画契約を締結し、ナヴァロンの嵐(1978)を執筆・制作し、ゴールデンゲート殺人事件(1979)のプロデユーサーを務め、世界崩壊の序曲(1980)の脚本を書いた。

1984年カール・フォアマンは、カリフォルニア州ビバリーヒルズで脳腫瘍により死亡した。

死亡の前日、『戦場にかける橋』のオスカー脚本賞受賞者として、業績回復されると伝えられた。

結果的に、フォアマンはイギリスで成功し、故郷に錦を飾る事になったが、それは決して彼が望んだ人生ではなかった。

フォアマン自身は、ブラックリストが無ければ監督業に進みたかったと、述べている。

そんな国家権力と世論に人生を狂わされた彼が、この『真昼の決闘』で描いたのは、個人の信念と尊厳だったと思える。

それは、『戦場にかける橋』で描かれた主人公にも通じるテーマであり、苦難を糧に映画史に残る傑作を何本も生んでくれた彼に、一映画ファンとしては深い感謝を捧げたい・・・・・・・




posted by ヒラヒ at 17:00| Comment(0) | アメリカ映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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