2021年12月19日

古典映画『イヴの総て』(1950年)・50年代女性神話の行方・解説・考察/「赤狩り」と映画・ネタバレなし簡単あらすじ

映画『イヴの総て』感想・解説 編

原題 All About Eve
製作国 アメリカ
製作年 1950年
上映時間 138分
監督 ジョセフ・L・マンキーウィッツ
脚色 ジョセフ・L・マンキーウィッツ


評価:★★★★  4.0




ブロードウェイ演劇界の裏側を描き、アカデミー賞で作品賞をはじめとする6部門で受賞し、カンヌ国際映画祭でも審査員特別賞と女優賞を受賞した作品。

映画はモノクロの旧い作品ながら、今見ても、往年の大女優ベティー・ディビスの迫力ある演技と、女性達の秘められた戦いを描き力が有る。

監督と脚本を務めたのジョセフ・L・マンキーウィッツは、前年の『三人の妻への手紙』でも監督と脚本を務め、2年連続で4つのアカデミー賞を獲得するという前人未到の記録を打ちたて、それは未だに破られていない。
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<目次>
映画『イヴの総て』ネタバレなしあらすじ
映画『イヴの総て』予告・出演者
映画『イヴの総て』解説/女性ジェンダーの古典
映画『イヴの総て』考察/マンキーウィッツ監督と「赤狩り」

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映画『イヴの総て』簡単あらすじ


ブロードウェイ演劇界の権威あるセイラ・シドンス賞の授賞式で表彰されているのは、女優イヴ・ハリントン(アン・バクスター)。それを見つめる客席には、名女優マーゴ・チャニング(ベティ・デイビス)とその恋人の演出家ビル・サンプソン(ゲイリー・メリル)、マーゴの親友であるカレン・リチャーズ(セレステ・ホルム)と、その夫でマーゴの劇作家のロイド・リチャーズ(ヒュー・マーロウ)が苦々しい顔で見つめていた。そのテーブルの横には、演劇評論家でイヴの夫であるアディソン・デウィット(ジョージ・サンダース)がおり、皮肉な顔を見せていた。
イヴはマーゴの楽屋に熱烈なファンとして、初めて姿を現したの。田舎から出てきた女優志望のイヴは、ブロードウェイの大女優のマーゴの付き人となる。自分の大ファンだというイヴに目をかけるマーゴだったが、イヴは次第に本性をあらわしてゆき、批評家やマーゴの周りにいる人々に取り入ってゆく。ある日、出るはずの舞台に間に合わなかったマーゴの代役として出演するチャンスをつかみ、イヴは批評家たちから絶賛される。これを皮切りに、劇作家や有名批評家に巧く取り入り、マーゴまでも踏み台にしてスター女優へのし上がっていく・・・・・・
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映画『イヴの総て』予告

映画『イヴの総て』出演者

マーゴ・チャニング(ベティ・デイヴィス)/イヴ・ハリントン(アン・バクスター)/アディソン・ドゥイット(ジョージ・サンダース)/ビル・サンプソン(ゲイリー・メリル)/カレン・リチャーズ(セレステ・ホルム)/ロイド・リチャーズ(ヒュー・マーロウ)/マックス・フェビアン(グレゴリー・ラトフ)/バーディ(セルマ・リッター)/カズウェル(マリリン・モンロー)フィービー(バーバラ・ベイツ)
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映画『イヴの総て』解説

女性ジェンダー映画の古典


この映画は古典と呼ぶべき理由を挙げたい。

それは題名『イブの全て』が表すように、女性が主役で、「女性"性"=ジェンダー」の相克が描かれた、極めて初期の作品だと考えるからだ。
今更ながら言及すれば、キリスト教の聖書において、神の作り賜うた最初の人間が、男であるアダムであり、アダムの肋骨から作られたのが女であるイブだった。

つまりイブとは女性全体を指す代名詞であり、この映画は「女性ジェンダー」を描いた映画なのである。
関連レビュー:女性ジェンダーを描いた映画
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1950年代のアメリカ社会を女性として生きる事の、必然としての結婚の存在と、女性として自立することの困難、更には女性として女性を求める事の困難を描き、言ってみれば「女性ジェンダーの全て」を初めて映画作品として描いた点に「古典」の価値を見い出すべきだろう。

主人公マーゴは、女優として成功し社会的に高い評価を受けながら、その年齢と共に衰える容姿に自ら苦しみ、女としての幸せについて、その心情を吐露する。

以下のシーンに、最も端的にこの映画の女性感が示されているだろう。
マーゴ:イブに関しては。私はかなりハデにはしたない行動を取った。/ カレン:そうね・・・・・/マーゴ:言い訳もできない。今ここで私の髪を剃るべきよ。一番は、私が過敏に反応してしまった事よ...まあ、彼女がとても若く女性的でか弱いのは事実。多くのことをビルのためにしてあげたいのに...変な職業ね、女性のキャリア。上った梯子を落ちないように必死にのぼる。
マーゴ:そして忘れてしまうの、再び女性となる時に彼らを必要とすることを。それはすべての女性に共通の1つのキャリア。私たちがそれを好むと好まざると、女として生きる。遅かれ早かれ、私たちは皆その仕事をする、他のキャリアを我々が持つか、望んでいたとしても、関係ない。そして、最終的な結論は、ディナーの前に見上げた時、ベッドの中で寝返りを打った時、そこに彼がいることが幸福なの。それなしでは、女性とはいえない。あなたはフランス地方風のオフィスでスクラップブックがあって、でも、それは女じゃない。
結局マーゴはその女優としてのキャリアの頂点にありながら、女である事の幸せは「朝起きた時に、愛する人(夫)が横に寝ている事」と結婚制度に対する信仰を表明する。

その彼女の信仰の正しさは、妻として満ち足りている彼女の親友カレンの存在が証明しているだろう。
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それに対して、大女優マーゴを信仰の対象として現れるのが、彼女と同一化し、マーゴそのものに成りたいと願う、イヴである。
彼女が愛したのは、女性として自立し、高い能力(演技力)を保持し、その技能によって輝かしい人生を築いているマーゴであった。

イブは、一件マーゴの恋人を狙い、出世のためになりふり構わぬ野心のみで動いているかのように見えるが、彼女はその当初は明らかにマーゴを愛し崇拝していたと感じる。
イブにとって、マーゴのようにその一個の才能と能力で、自らの人生を完遂する事こそ、その本懐であって、それこそ女性ジェンダーを超越した、男でも女でもない人間としての原存在になる事を求めていたのだと信じる。

そして、その文脈に則れば、一個の人間存在としてマーゴと同一化しようと求めたのであり、それはジェンダー的な観点から見れば同性愛として語られる事を意味する。
しかし、保守的なジェンダーの観点を離れて見れば、性別を問わず愛する者を愛する事のどこに不都合があろうか。
結局、イブの憧憬はマーゴに届かず、その絶望からマーゴ自体を抹殺し自らがマーゴに成る道を選んだのが、イブの野心の有りようだとも解釈できる。
つまり、イヴはマーゴに忠誠と愛を捧げたにも関わらず、マーゴは彼女の愛を拒絶した。
そのマーゴのジェンダーの良識に捕らわれた旧弊な価値観は、イブの信奉した「マーゴ像=聖像=イコン」と相容れないものだったがゆえに、イブは「聖像マーゴ」に自らが成り替わるため、マーゴの全てを奪おうとしたのであろう。
いささか強引に聞こえるかもしれないが、反社会的と見なされる愛を成就しようとすれば、そこには狂気に近い熱情が迸りはしまいか?

私は、この映画は、実に「LGBT」映画の最初期の作品でありながら、反ジェンダーを謳うのに失敗した作品だと感じる。

やはり、ジェンダー問題を掲げるのだとすれば、女性の自立をマーゴに仮託すべきだったし、結婚よりもキャリアを選ばせるべきだった。

更に言えば、マーゴは男よりも自分を愛するイブを愛するべきだったろう。

実は映画が作られた1950年代とは、アメリカ社会の家父長制度が大きな転換点を迎える時期にあり、その変化を視野に入れればもう少し踏み込んでも良かったように思える。
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50’年代のアメリカ社会の変化は第二次世界大戦中、男達が戦地に赴き、その空白を女性達が埋めることにより生じた。
それまで家庭にいた女性達が、職業を持ち社会進出をした時、その心に自己実現の達成感が間違いなく広がり、それまで男に依存し生計を立てていた女性達に自立の道が開けたのである。
最もアメリカ政府は、戦地から帰って来た男達の社会復帰を重視し、旧来の男は仕事、女は家事という家父長的家族制度に回帰しようと努めたものの、一度自らの人生を自分の力で切り開くという希望の光を見た女性達の社会進出の夢は止められなかったのである。

そして、自らの人生を他者に依存せず成立させ得たからこそ、人々は家族制度という社会の構成要素を形成せずとも生きる事が可能になり、そこで初めて男女間以外での恋愛を声高に主張出来るようになったのである。
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そんな「女性開放=ジェンダーフリー」の理念を謳えなかったのは、もちろん時の公序良俗に従うべしとする厳しい映画倫理規制「ヘイズ・コード」下のハリウッド映画界の現実を考慮すべきだ。

しかし「ヘイズ・コード」以上に、下で書いた監督マンキーウィッツを取り巻く事情が絡んで、過激な表現にブレーキを掛けたように思えるのである。
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映画『イヴの総て』考察

マンキーウィッツ監督と「赤狩り」

アメリカ合衆国の1950年代とは、自由の国アメリカにおいて、政府権力が最も市民を支配しようとした「赤狩りの時代」であった。

第二次世界大戦後のソヴィエト連邦との東西冷戦の時代、アメリカ政府は共産主義的性向を持つ人々を、政府機関から追放する「レッドパージ」と呼ばれる政策を施行した。

それは、政府関係の公職追放から始まり、徐々に民間へと広がり、共産主義的傾向を持つ人々が密かにリストアップされ、職を追われたり不利益を被る事態となる。

あたかも中世の魔女狩りが蘇ったかのような、人々の悪魔狩りの標的として、実はハリウッド映画界も、いの一番にやり玉に挙げられたのである。
その混乱は、山本おさむ著『赤狩り THE RED RAT IN HOLLYWOOD』マンガに詳しい。その作品は当時のハリウッドの現実と、その中でも映画製作の自由を求めて苦闘する姿がビビッドに描かれ、胸を打たれる作品である。


ハリウッド映画界における『赤狩り』を象徴する事件を上げれば、アメリカ映画を世界産業に成長させるために多大の貢献をした、チャールズ・チャップリンのハリウッド追放がある。
彼の作品に共産主義的傾向(容共的と呼ばれた)があるとして、イギリス人である彼は国外退去を命じられたのである。
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その当時のハリウッドでは、徹底的に共産主義を憎み追放すべきだとするタカ派のグループと、あくまで言論の自由を主張するリベラルな一派がいて、共に争うようになっていた。

映画監督も例外ではなく、当時の映画監督組合の会長をリベラル派の筆頭のマンキ―ウィッツが務めていたが、、タカ派の筆頭のセシル・B・デミルが反旗を翻し、マンキ―ウィッツ不在中に監督協会の理事会を開き会長解任を求めた。

john-ford-1-150x150.jpg議論は紛糾し深夜に及んだ時、それまで沈黙していた、ハリウッドを代表する大物監督ジョン・フォード(写真)が口を開いた。
その発言を理事会の速記者が記録している。
「私の名前はジョン・フォード。西部劇を作っている。私はこの部屋にセシル・B・デミル氏以上に、アメリカの大衆が求めているものを知っている者がいるとは思わない。そして、彼は完璧にそれを彼等に与える術を知っている。それで私は彼を尊敬している(デミルを見て)だがC.B、私はあなたが嫌いだ。C.B.私はあなたの拠って立つものも嫌いだ。私はあなたの今夜ここでの言葉も嫌いだ。」(My name’s John Ford. I make Westerns. I don’t think there’s anyone in this room who knows more about what the American public wants than Cecil B. DeMille − and he certainly knows how to give it to them. In that respect I admire him. [looking at DeMille] But I don’t like you, C.B. I don’t like what you stand for and I don’t like what you’ve been saying here tonight.)

そう言い放ち、デミルが30秒間の沈黙に沈んだ後、フォードは次のように付け加えた。
「皆もう家へ帰って寝ようじゃないか。我々は翌朝に撮影がある。 」

ジョン・フォード自身は保守的な傾向を持つ人物だったが、しかしアイルランド系の彼は強圧的なセシル・B・デミルの行動に反骨心が表れたのだろう。

こうしてこの両派の闘いは、かろうじてリベラル派が勝利を収め、デミルは破れ去った。

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しかしマンキーウィッツ(写真)に軍配が上がったとはいえ、アメリカ政府の追及、社会全体の世論は「赤狩り」を支持する風潮にあり、少しでも社会主義的な発言が見えれば、実際に共産党員でなくとも疑惑だけでキャリアを失いかねなかったのである。

その時代背景から見れば、勝利を収めたマンキーウィッツにしても、慎重にアメリカ的公序良俗を逸脱しないように努めざるを得なかったろう。

その時代、例えばビリー・ワイルダー監督は、その状況を皮肉な笑いで揶揄するような作品を作っているが、それは彼がまだメインストリームではないからこそできた、作品作りではないかと思える。
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その「赤狩りの時代」において、この映画でかすかに見える同性愛に関して言えば、「健全なアメリカ家族の阻害要因」とされ、同性愛者は共産主義者同様に批難・差別され、共産主義者と同様に職を喪ったのであった。

そして、女性解放論者も、ほぼ同性愛者同様に見なされ、当時の赤狩りの時代においては排斥の危険があったのだ。

つまりはこの作品は、ジェンダーに関する重要な示唆を含みつつも、マンキーウィッツ監督自身の事情も絡み、それを明示することの危険から、芸能界の下剋上ドラマの仮面を被らざるを得なかったのではないかと推測したりした。

全ての表現物とは、社会的な状況によって、意識的にせよ無意識にせよ、影響を受けざるを得ないという実例としてこの映画はあるだろう・・・・・




posted by ヒラヒ at 17:00| Comment(0) | アメリカ映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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