ロッキー・バルボア(シルヴェスター・スタローン)/エイドリアン(タリア・シャイア)/ポーリー(バート・ヤング)/ミッキー(バージェス・メレディス)/アポロ・クリード(カール・ウェザース)/ジョージ・ヤーゲンス(セイヤー・デビッド)/ガッツオ(ジョー・スピンネル)/デューク(トニー・バートン)
スポンサーリンク映画『ロッキー』解説ロッキーとスタロ−ンの賭け実話 |
この映画はその基本的骨子は、往年のボクシング映画、ポール・ニューマン主演の『傷だらけの栄光』(1956年)そのままだと、言わざるを得ない。その映画も、主人公はロッキーだった。実在のイタリア系ボクサー、ロッキー・マルシアーノが不良から成り上がって、栄光を掴む物語である。
<『傷だらけの栄光』予告>
しかし、当時ポール・ニューマンといえば、バリバリのアクターズスタジオの有望株だった。
その演技スキルと、スタローンのそれを比べるのは酷と言うものだろう。
しかしこの映画のスタローンは、演技技術を超えた素のキャラクターが、そのままロッキーに憑依しリアリティーを産んでいると感じる。当時のスタローンの境遇が、この映画のロッキーとどれほど似通っていたか、その実話を確認してもらえばロッキーの迫力の理由の一端を理解してもらえるかと思う。
そんな実話を以下にまとめて見た。シルベスター・スタローンは、役者志望の青年だったが、銀行に100ドルほどしかなく、生活費にも事欠く極貧生活を送っていた。
生活費が底をつき、車を売り、ついにはペットに餌をやる余裕がなくなり、愛犬すら売らざるを得なかった。
ちなみに、この映画に登場する犬は、後に買い戻した自身の愛犬だという。
シルベスター・スタローンは、1975年3月24日にオハイオ州リッチフィールドのリッチフィールドコロシアムで行われた、モハメドアリとチャックウェプナーの世界選手権(下写真)を見た直後に、ロッキーの脚本を3日半で書き上げた。
">
そして、その脚本はウィンクラ-・チャラトフ・プロダクションが強い興味を示し、その脚本に当時としても破格の35万ドル(110円換算で3,850万)が提示された。しかしスタローンは、脚本だけを売ることを認めず、その映画の主役を自身が演じると強硬に主張した。それを受け、ウィンクラー-チャートフは、スタローンの主役を認める代わりに、脚本の提供と脚本変更作業の無償奉仕を求め、スターローンは同意した。
しかし、スターローンの主演という制約は、ハリウッドの多くのプロデューサーやスタジオが難色を示し、幾度も拒否された。ウィンクラー-チャートフは、それでもスタローンをロッキーの主役とする契約をハリウッドメジャースタジオのユナイテッド・アーティスツと合意した。
当初ユナイテッド・アーティスツはその脚本を、ロバート・レッドフォード、ライアン・オニール、バート・レイノルズ、ジェームズ・カーンなどビッグ・スターで製作したいと主張し、仮に大スターを起用するのであれば製作費は十分確保すると提案したが、スタローンの意思は固く、結局ユナイテッド・アーティスツはスタローンが主役なら製作費は100万ドルまでしか出さないと言い、それをスタローン側が受け入れ製作が始まった。
後年スタローンは、映画が他の誰かの主役で成功したなら、決して自分を許すことはなかっただろうと語っている。
スタジオとの契約により、予算が低く抑えられていたため、プロデューサーのアーウィン・ウィンクラーとロバート・チャートフは、スタジオ側の予算100万ドルを超過した分を自ら負担した。
最終的に製作費は110万ドルになり、チャートフとウィンクラーはその超過10万ドルのために彼らの家を抵当に入れた。その負債はロッキーの成功によって、充分な利益を産んだものの、その低予算の影響は作品のそこかしこに点在する。
低予算の影響@ロッキーとエイドリアンのスケートシーン
満員のスケートリンクで2人が滑るというのが、当初の脚本だった。しかしエキストラ代が工面出来ず、仕方なく貸し切りの設定とした。
低予算の影響A試合用ガウン
試合用ガウンを発注したが、出来上がりが大きすぎ、2着作る予算もなかったためそのまま使用せざるを得なかった。
また試合会場の垂れ幕に描かれたロッキーのトランクスの柄が違うのも発注ミスで、仕方なくそのまま使ったが、ロッキーのセリフ「トランクスの柄が違う」と劇中で言わせることで、上手く映画的な余韻を生んでいる。
低予算の影響B家族出演
出演料を削減するため、スタローンの家族も協力し、例えば試合でゴングを鳴らすのはスタローンの実父だった。
低予算の影響C私物利用
衣装代も削減するため、エイドリアンのドレスはタリア・シャインの私物を使用していた。
低予算の影響D一発勝負の特殊効果
試合で徐々にダメージを増して行く顔の変化は、化粧やシリコンにより施された特殊効果によるもので、映画中最も経費が費やされた部分。撮影は最終ラウンドの最もひどい状態から始め、1ラウンドに向かい徐々に化粧を落としていく形で進められたが。一発勝負で撮り直しがきかない状態で進められた。
上で書いたように、この映画はスタローンの俳優人生を賭けた勝負の作品であり、その結果スタジオ側の失敗への恐れが予算削減へとつながった。
スタローンの気迫の籠った演技と、撮り直しがきかない緊張感が、この映画に必然的にギリギリの緊張感を生み、つまるところハングリー精神と挑戦というボクシングにとって不可欠の精神を体現する作品に成ったと感じた。スポンサーリンクこの映画のボクシングシーンは批判されてしかるべきだろう。実際にボクシングの経験者に聞いた話では、この映画のファイトシーンにはリアリティーのかけらも無いと断言していた。
<『ロッキー』試合シーン>
それはそうだろう、俳優がボクシングのトレーニングをたとえ数年行ったとしても、さらにカメラワークを工夫したにせよ、世界チャンピオンのボクシングテクニックを身に着けようもないし、表現として偽装しようもない。
見る人が見れば、構え1つ、ステップ1つで、その嘘は明らかだろう。つまり、俳優がその役柄に必要とされる、プロフェッショナルな動きを体現するには、プロと同様の経験と時間をかけなければ、その仕事を生業とする専門家から見れば嘘が露見するという事なのだ。
しかし、映画表現として考えなければならないのは、その一握りのプロフェッショナル、熟練者、習熟者、見巧者を納得させるだけの演技が必要なのかという点だ。たとえばチャンバラがそうである様に、本当の真剣は硬式バットと同じくらいの重さがあり、片手で扱ったり、小手先で振ったりは出来ず、踊るような足さばきなどとうてい不可能だと言う。映画の立ち回りは竹光だから可能な華麗な嘘なのだ。
しかし真剣を持ったことも無い身にしてみれば、素人目にそれらしく見えるのであれば、その嘘は許容されるべきだとも思える。結局は、どれほどプロから見てひどい嘘であろうと、圧倒的多数のシロウトが納得するのであれば、その嘘は映画的に成功なのだ。
この映画『ロッキー』のようにまるでノーガードでヘビー級ボクサーのパンチを受ければ即死して当然だろう。しかし、そんな死を呼ぶパンチを何度も受け、それでも立ち上がるという嘘に、不可能を可能にする奇蹟があるという真実を見るからこそ、その嘘が成立するのだと信じる。
そう考えれば、大多数の「シロウト=観客」がそれらしく感じ、その嘘の根源に、観客が求める真実が潜んでいるのであれば、映画的にはそれは成功と言うべきだろう。
そういう観点からすれば、このノーガードの低レベルのボクシング表現の中にも、観客を納得させる真実があったと総括したい。