2021年09月25日

映画『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』はなぜ世界中を泣かせるか?考察A鬼滅隊と鬼の意味/解説・ネタバレなし簡単あらすじ

映画『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』はなぜ世界を泣かせるか?A

製作国 日本
製作年 2020年
上映時間 117分
監督 外崎春雄
脚本 ufotable
原作 吾峠呼世晴『鬼滅の刃』


評価:★★★★  4.0




このアニメが持つ、万国共通で観客の涙腺を緩ませる秘密を解き明かしたい。

それがこの文章の目的で、その前段として、まずは「鬼滅の刃」の持つヒーロー性の、時代による影響の考察を試みた。

要約すれば、規滅の刃のヒーロー像が、戦いに対する消極性を持ち、それは昭和から平成に至る経済的状況を背景として生まれた時代性を象徴していると書いた。

以下では、そんな時代を象徴するヒーローの属性の本質が「子供」であり、それゆえ世界中でで涙を生むのだと論じるつもりである。
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<目次>
映画『鬼滅の刃無限列車編』簡単あらすじ
映画『鬼滅の刃無限列車編』予告・出演者
映画『鬼滅の刃無限列車編』解説/鬼殺隊の意味するもの
映画『鬼滅の刃無限列車編』解説/鬼の意味するもの
映画『鬼滅の刃無限列車編』考察/なぜ世界は涙するか

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映画『鬼滅の刃無限列車編』ネタバレなしストーリー


墓地を行く鬼殺隊のお館は、今は亡き鬼殺隊隊員に語りかける。今月も鬼によ数多くの命が喪われ、その体はますます衰弱の度を増したが、人の思いだけは誰にも断ち切れないと、心のなかで呼び掛けた。
鬼殺隊の竈門炭次郎と背負われた妹禰󠄀豆子、我妻善逸、嘴平伊之助は、汽車無限号で発生する怪事件の調査を命じられ列車に乗る。そこには鬼殺隊の最強隊員である「柱」の1人煉獄杏寿郎が、豪快に駅弁を食べていた。そこに車掌が入ってくると、炭次郎次郎は鬼の臭いを嗅ぎ、見ると車掌は鬼に変わっており、炭次郎や煉獄の鬼殺隊隊員はすぐさま立ち向かい鬼の首を獲ったが、それは鬼の見せた夢だった。その汽車は十二鬼月、下弦の壱・魘夢に支配されており、乗客達に幸福な夢を見せられ「精神の核」を破壊させされていた。鬼殺隊の四人も夢に引きずり込まれ、魘夢の手先となった者達につながれ共に夢へと落ちて行った。4人はそれぞれ夢の中で絡めとられ、魂の核を破壊されようとしていた。しかし、危機を知った禰豆子が、夢の中から炭次郎を呼び戻す。炭次郎は自分が夢を操る鬼と戦っている事に気付き、何度も夢に落ちながらも、その都度夢の中で自らの首に刃を立て、現実に戻り魘夢に向かって行った。そして、ついに鬼の首を討ったに見えたが、実は魘夢は汽車と一体化しており、その乗客200人に襲いかかろうとしていた。その時、他の3人も眠りから覚め、列車の乗客を手分けして守り、炭次郎は汽車のどこかにある鬼の首を探し求め、ついに機関車と客車の連結部がそれだと知り切り落とした。列車は脱線し、炭次郎は重傷を負い動けなくなったが、ついに鬼は闇の中で消滅し、乗客にも死者はいなかった。しかし、そこに上弦の参・猗窩座という鬼が襲来し、煉獄が闘い始めた・・・・・
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映画『鬼滅の刃無限列車編』予告

映画『鬼滅の刃無限列車編』出演者

竈門炭治郎(花江夏樹)/竈門禰豆子(鬼頭明里)/我妻善逸(下野紘)/嘴平伊之助(松岡義介)/煉獄杏敏郎(日野聡・伊勢真理也)/下限の一(平川大輔)/上限の三(石田彰)/煉󠄁獄瑠火(豊口めぐみ)/煉󠄁獄槇寿郎(小山力也)/煉󠄁獄千寿郎(榎木淳弥)/竈門炭十郎(三木眞一郎)/竈門葵枝(桑島法子)/竈門竹雄(大地葉)/竈門花子(小原好美)/竈門茂(本渡楓)/竈門六太(古賀葵)/胡蝶しのぶ(早見沙織)/悲鳴嶼行冥 (杉田智和)/宇髄天元(小西克幸)/不死川実弥(関智一)/伊黒小芭内(鈴村健一)/冨岡義勇(櫻井孝宏)/産屋敷耀哉(森川智之)/産屋敷あまね(佐藤利奈)/

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映画『鬼滅の刃無限列車編』解説

鬼殺隊の意味するもの
この映画のヒーロー像は、日本経済がバブルで停滞した、少子高齢化の社会を担う、若者の意識が反映されていると、前のレビューで分析した。
関連レビュー:「鬼滅の刃」と日本社会
『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』
世界中を泣かせた炭治郎と禰豆子の
日本映画史上最高の収益!2020年の大ヒットアニメ!!
しかし、上の文章ではまだ言葉足らずだと思い、このレビューを書くことにした。

そこでまず、主人公たち鬼殺隊の属性を考察して見たい。

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まず、その主要メンバーを見てみればそれはまだ未熟な「幼き者=子供」として登場していると断言したい。

この作品の主要メンバーを見てみれば、禰豆子を始め、炭治郎や、善逸にしても、その「ビジュアル=目の大きさ」は幼児のバランスだと言って良い。
更に言えば、鬼殺隊のお館様は、そのメンバーを子供達と呼ぶが、そのお館様にしたところで20歳代に見える。

つまりは、鬼殺隊のメンバーは「子供=非成人」なのであり、それゆえ彼らの回想シーンにはしばしば、その親との葛藤が語られてもいる。
大人とは、「親との扶養関係=家族依存」を超えて、「経済的自立=社会的義務」と、その人間関係に生きる者達を言うのだとすれば、鬼殺隊とはやはり、日本的な家族愛の庇護下にある「子供の属性」を持った者としての属性を強く感じる。

また、この作品が大正時代をモチーフにしているように、特に古い日本社会の組織とは、会社にせよ、各種団体にしても、基本的には家父長的家族制度の愛情を基礎に置くものだった。
そういう点で今は失われてしまった、日本人的家族愛の色濃さを見て、ノスタルジーと共に、共同体の中で幸福だった過去を、日本人のDNAレベルで感得し涙するだろう。

関連レビュー:日本の家族制度
『東京物語』
世界的にも高く評価される小津監督の名作
日本的な世界観、美意識が映像として定着
さらに言えば、この主人公たちの幼い姿と、兄と妹の健気な絆を見るうちに、一つのTV番組が思い出された。

その番組とは日テレ系で長年放送されている『はじめてのおつかい』だ。
そこで展開される、「幼き者」が自分の能力を超えた責務を果たす、その姿を見て涙を抑えるのは困難だろう。

到底持てそうもない重い荷物をしょって、時にはさらに幼い妹を連れて、必死に家を目指す姿と、この映画の炭次郎が重なるのは私だけだろうか・・・・・

つまり、この主人公の造形は、「子供ながら大人の義務を課せられた存在」として規定すべきだと感じられてならない。

その観点が正しければ、この映画が涙を呼ぶ理由の一つは、主人公たちの「幼さ」が、大きな責務を課され慄(おのの)く姿が同情を呼び、それでも健気に強大な敵に立ち向かう勇気が心を打つからだと、ひとまず押さえておきたい。
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映画『鬼滅の刃無限列車編』解説

鬼の意味するもの
鬼殺隊の隊員が、子供であると上で書いた。

であれば、その鬼殺隊が戦う鬼とは何を意味するだろう。
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作中では、鬼は元々人間であり、鬼の棟梁によって鬼に変えられるのである。
そしてそれぞれの事情を持ちつつ、人々を喰らい、闇に生きるのだ。

この、鬼達の生態を見るとき、それらが人の闇を象徴し、弱肉強食の酷たらしさを表していると感じる。
しかしこの鬼達の属性とは、人間社会を生き続けるにあたり必要な能力なのではないか?

地球生命体の「適者生存=生存競争」は弱肉強食の過酷を運命としており、何が何でも「生き続ける=他者に勝ち続ける」ためには、鬼と化す必要が多かれ少なかれ生じるに違いない。
関連レビュー:生きることの残酷な選択
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実際、実社会においても、個人にせよ、会社組織にせよ、他者を蹴落とすため、自らの優位を確保するため、不正や偽装などの、反社会的な悪行が日々報じられている。

その、実社会の生存競争とは、「鬼=悪人」となって他者を喰らう姿と何が違うだろうか。
つまるところ、人から鬼となった者達とは、その実社会における生存競争に組込まれざるを得ない者達を指していると思える。

つまり鬼とは、実社会に入って、日々その身を削り生き延びるために、なりふり構わない大人達を意味していると思えてならない。
鬼の会合の場でその頂点に立つものから厳しく糾弾され過酷な処罰を受けるシーンを見て、会社組織の比喩を感じて、その印象はさらに強まる。
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そこで考えるべきは、この「鬼=大人達」も、自らの生命のみならず、関わる者を守り、その社会を存続させるため鬼にならざるを得ないという事実だ。

成長し自立した大人は、生き残るために、鬼にならねばならない場合もあるし、時としてその経験は、鬼であることが正しい、鬼となれない弱者を喰らうのは致し方ないという自己肯定を生むだろう。

そう考えたとき、この映画のラスト煉獄と対峙した鬼の言葉「お前も鬼になれ」という呼びかけは象徴的である。

つまり、大人となって、弱いものを踏みつけにすることこそ勝利だとする「適者生存の戦い」に、積極的に参加しろという呼びかけだったのである。
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映画『鬼滅の刃無限列車編』解説

なぜ世界は涙するか
以上述べたように、鬼殺隊が子供の属性を持っており、そして鬼が大人の属性を持つと分析した。
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つまりは基本的な物語の構造は、大人になる事に恐れを持ちつつ、大人にならざるを得ない子供と、大人の「義務=生存競争での勝利」を課せられ、自ら醜く変貌せざるをえない「成人=社会人」との相克だと見るべきだろう。

子供達は、純粋でイノセントなまま、親達の庇護の下、安逸に暮らせるはずなのに、そうはさせない「鬼=社会の実態」が、彼らを閉塞状態に落とし込むのである。
そして、子供たちが成長し、自らの命を守り、さらに家族を扶養する力を持つためには、自ら鬼となって守るべき者たちのために血みどろになって戦わざるを得ない事実を知る。
実社会でもみくちゃにされる中で、人は子供時代に培った「愛と平和」「安心と信頼」「友愛と絆」「正義と道徳」が、どれほど脆く儚いものかを目の当たりにし、鬼へと変じていくだろう。

しかし、ねず子に象徴的なように、本来庇護者が失われれば鬼へと変じるべきところを、かれらは「子供」のまま、「子供」の価値観を持ったまま「大人=鬼」に変じることを拒否し、その「鬼=世俗の不正」と闘うことを志すのだ。
それは、明らかに「きれいごと」で、あらゆる手段を選択できる敵と対峙し、それに対し勝利を収めるためには、本来は圧倒的な力量差を持ってしても、困難な闘いなのは現実を見れば認めざるを得ない。

だが観が得手見れば、その正義と道徳律、信念と理想という価値観を足枷としつつも、そのために命を賭し、圧倒的な力を発し、勝つ者こそ「ヒーロー=英雄」と呼ばれる存在だったという事実だ。
つまり「きれいごと」に殉じ、その持てる価値「正義と理想」で世界を覆い尽くすための戦いをなすものをヒーローとするならば、それこそ少年の日に夢想した「正義の味方」こそそれだったろう。

しかし「ヒーロー」は、現代ではとても正面から語りえないような「空想上の存在」となってしまった。
それは、すでにこの世から「絶対的正義」が喪失し、同時に「絶対的悪」も存在しえない事の必然的帰結である。
つまり正義を明確に定義し得ないがゆえに、「ヒーロー=絶対的正義の具現者」は存在し得ないのが現代なのである。

それゆえ、アメコミヒーロー映画は、バットマンシリーズのように現実世界と折り合い絶対的正義を謳わず描かれるか、マーベルシリーズのように、「空想=ファンタジック」上の破壊のお祭り騒ぎとして表現されることとなった。
前者にはヒーローの持つ「正義=正当性」が足らず、後者には「リアリティー」が皆無だと言っていい。
関連レビュー:ヒーローとその物語の変容
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しかし、この『鬼滅の刃』は、かつての「ヒーロードラマ」の正義とリアリティーの両要素を持っている、現代では奇跡的な作品なのである。

それは、主人公が「子供」であることによって、大人であれば途端に嘘にまみれるであろう、この世の「正義と理想」を正面から語ることの正統性と説得力を生んでいる。

つまり、「子供」であれば「絶対的正義」を語り得る資格を持つのである。
その「絶対的正義」を振りかざし「鬼=現実社会の悪の化身」を叩き臥せる「ヒーロー物語」を語り得るのである。

しかし、そのヒーローはかつての「絶対的強者」とは対極の「幼き者」であるがゆえに、その理想の純粋さが際立つと同時に、その闘いが無謀で危険であると、観客は無意識のうちに心震わせるだろう。


その結果、自分と等身大の存在に見える子供達にとっては、その運命の過酷さに泣かざるを得ない。


また、鬼殺隊の闘い「子供の純粋な正義」を見た大人は、その「鬼=社会の歪み」を自らが作り出し、そのツケを子供たちに負わせている事に気付き、幼き者達に涙するだろう。

この作品は、絶対的正義の担い手を「子供」とすることで、その正統的「ヒーロー物語」を成立させ、同時に「子供」を主人公とする事でその困難な闘いに向かう健気さと勇気によって、人々の涙を呼ぶのだと感じる。

そして、その戦いとは、実は現実世界の「適者生存」の歪みを、幼き者達が何とか寛解しようとする試みであり、それが生物学的原理として無理であると知っているからこそ、その無謀な闘いに身を投じる彼らに心打たれ「世界は涙する」のだろう。





posted by ヒラヒ at 17:00| Comment(0) | アニメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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