2021年06月27日

映画解説『鬼滅の刃無限列車』はなぜ世界中を泣かせるか?考察@『鬼滅の刃』と時代性/感想・ネタバレなし簡単あらすじ

映画『鬼滅の刃無限列車編』(感想・考察 編)

製作国 日本
製作年 2020年
上映時間 117分
監督 外崎春雄
脚本 ufotable
原作 吾峠呼世晴『鬼滅の刃』


評価:★★★★  4.0




この大ヒットしたアニメは、2020年日本のみならず2021年現在世界中で快進撃を続けている。

このアニメ作品を見て、正直に言えば映画としての完成度には疑問を感じた。

しかし、それでも泣いてしまった。

それは、劇場内の観客の大多数の反応と同じものであり、なぜここまで人の心を打つのか、その理由をさまざまに考えた結果が以下の文章である。
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<目次>
映画『鬼滅の刃無限列車編』簡単あらすじ
映画『鬼滅の刃無限列車編』予告・出演者
映画『鬼滅の刃無限列車編』感想・解説
映画『鬼滅の刃無限列車編』ネタバレ・結末

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映画『鬼滅の刃無限列車編』ネタバレなしストーリー


墓地を行く鬼殺隊のお館は、今は亡き鬼殺隊隊員に語りかける。今月も鬼によ数多くの命が喪われた事に、その体はますます衰弱の度を増したが、人の思いだけは誰にも断ち切れないと、心のなかで呼び掛けた。
鬼殺隊の竈門炭次郎と背負われた妹禰󠄀豆子、我妻善逸、嘴平伊之助は、汽車無限号で発生する怪事件の調査を命じられ列車に乗る。そこには鬼殺隊の最強隊員である「柱」の1人煉獄杏寿郎が、豪快に駅弁を食べていた。そこに車掌が入ってくると、炭次郎次郎は鬼の臭いを嗅ぎ、見ると車掌は鬼に変わっており、炭次郎や煉獄の鬼殺隊隊員はすぐさま立ち向かい鬼の首を獲ったが、それは鬼の見せた夢だった。その汽車は十二鬼月、下弦の壱・魘夢に支配されており、乗客達に幸福な夢を見せられ「精神の核」を破壊させされていた。鬼殺隊の四人も夢に引きずり込まれ、魘夢の手先となった者達につながれ共に夢へと落ちて行った。4人はそれぞれ夢の中で絡めとられ、魂の核を破壊されようとしていた。しかし、危機を知った禰豆子が、夢の中から炭次郎を呼び戻す。炭次郎は自分が夢を操る鬼と戦っている事に気付き、何度も夢に落ちながらも、その都度夢の中で自らの首に刃を立て、現実に戻り魘夢に向かって行った。そして、ついに鬼の首を討ったに見えたが、実は魘夢は汽車と一体化しており、その乗客200人に襲いかかろうとしていた。その時、他の3人も眠りから覚め、列車の乗客を手分けして守り、炭次郎は汽車のどこかにある鬼の首を探し求め、ついに機関車と客車の連結部がそれだと知り切り落とした。列車は脱線し、炭次郎は重傷を負い動けなくなったが、ついに鬼は闇の中で消滅し、乗客にも死者はいなかった。しかし、そこに上弦の参・猗窩座という鬼が襲来し、煉獄がその戦いに身を投じた・・・・・
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映画『鬼滅の刃無限列車編』予告

映画『鬼滅の刃無限列車編』出演者

竈門炭治郎(花江夏樹)/竈門禰豆子(鬼頭明里)/我妻善逸(下野紘)/嘴平伊之助(松岡義介)/煉獄杏敏郎(日野聡・伊勢真理也)/下限の一(平川大輔)/上限の三(石田彰)/煉󠄁獄瑠火(豊口めぐみ)/煉󠄁獄槇寿郎(小山力也)/煉󠄁獄千寿郎(榎木淳弥)/竈門炭十郎(三木眞一郎)/竈門葵枝(桑島法子)/竈門竹雄(大地葉)/竈門花子(小原好美)/竈門茂(本渡楓)/竈門六太(古賀葵)/胡蝶しのぶ(早見沙織)/悲鳴嶼行冥 (杉田智和)/宇髄天元(小西克幸)/不死川実弥(関智一)/伊黒小芭内(鈴村健一)/冨岡義勇(櫻井孝宏)/産屋敷耀哉(森川智之)/産屋敷あまね(佐藤利奈)

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映画『鬼滅の刃無限列車』感想


この映画は泣く!
老いも若きも、男女を問わず、国境すら跨いで、泣かせ続ける。
<YOUTUBE 『鬼滅の刃無限列車』外国人の反応>
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⇒Youtube動画はこちら
その源はどこにあるのか?

それがこの文章の主題である。

しかし、その前にこの作品を見た第一印象を正直に言おう。

映画という2〜3時間の中で、完全な小宇宙を形成するのが映画の目指すべき理想だと見るなら、明らかにこの作品はその理想像から外れている。

その理由は間違いなく、TVアニメから続く一連の流れの継承を担わされたからであり、更にはTV第2クールに向かう「つなぎ」の役目を求められたからである。

マンガが完結している事もあり、中途半端にスピンオフ作品を作るより、第2部のスタートとして映画を公開した方が、間違いなく集客に繋がると、製作者側が考えたくなるのもわかる。

つまりは商業的要請が、映画としての独立性、完成度を落すという、映画界の悪癖に見事にハマった形でこのアニメは、作られているのである。
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そんな無理が、前半と後半がぷっつりと断絶した脚本に現れている。

その断絶こそは、すでに完結した物語の中間部分を描かざるを得なかった、歪みの顕在化に他ならないと見える。

特に、日本の映画界は、TV局の資金により製作される作品が多く、その商業的な理由によって、その映画の独立性を損なわれる傾向にあると思える。
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それゆえ本作も、映画メディアの独立性から見れば、その企画意図からして、コマーシャリズムの求めに応じるために、無理を内包していたのだと総括して、駄作だと切り捨てようかと思いかけた時・・・・・・・

私の眼から涙が流れた。

そして、それは周囲の観客も同様だった。

私は、その涙を信じる。

それを流させたエモーションを無視して、映画を語って良いはずがない。

間違いなくこの映画は、幾万もの者の情動を揺さぶる強い力を持った作品なのであり、そんな万人にカタルシスを与える表現物は秀作と認められてしかるべきだ。

それゆえ再び、映画としてはアンバランスなこの作品が、なぜこうも心を打つのかと思いを巡らせ、答えを探し求めざるを得なかったー

その本作の訴求力の秘密を追った結果が、以下の文章である。
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映画『鬼滅の刃無限列車編』考察


なぜ、無限列車というこの作品がこうも人の心を打つのか、その答えを求めて、まずはこの作品が内包する基礎構造を解析して見たい。
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その特徴を、過去の少年マンガ「ヒーローもの」と比較して見ると、明らかにこの作品が違うのは、その闘いに向かう主人公達の消極性に有ると感じる。

例えばその消極性は、主人公炭治郎は妹を守るために仕方なく戦い、例えば善逸は戦いの場に置いて終始狼狽し続ける。
過去のヒーローの個性を継承しているのは、主要3人のメンバーの中で伊之助が最も近いが、同時に作品中では一種コミカルで、浮いているようにも感じる。

やはり、この作品は、かつてのヒーローたちとは違い、戦いに積極的な価値を見出していないように見える。
戦いにより自らの能力を高め、さらなる強さを求める行動を、善とするのが基本的ヒーロー物語だとすれば、この作品は戦わざるを得ないシュチエーションに、恐怖と怖れを抱きつつ向き合わざるを得ないという、マイナスのベクトルを主要キャラクターが持っている。

その「戦いへの消極性と怖れ」こそが、この作品を他のヒーロー物語と一線を画す特徴だと考えている。
しかしヒーロー物語に限らず、ドラマには対立がつきものであり、それは極端に言えば生きるという現象の本質が「戦い=生存競争」に依っているからだと要約し得る。

つまり、地球上の生命体は等しく、自らの命を維持し、自らの遺伝子を可能な限り後世に残すため、他種を食い物にし、同種内の競争に勝つためにしのぎを削る。
結局、ドラマで描かれる戦闘とはダーウィンの言う「適者生存」を表現したものに他ならない。

そう考えてくれば、生命体たるもの戦いを忌避したり、消極的であれば、それは即ち死を意味するだろう。
その生命のテーゼに忠実たらんとして、スポ根物語、ヒーロー物語の登場人物は、積極的に戦いの渦中に身を投じたのだろう。

しかし、この鬼滅の刃である。
ここの作品の底流に流れる、戦いの消極性がなぜ生じているのかを考えざるを得ない。

極端なことを言えば、この作品が「生存競争」という生命の運命に背を向けるとするならば、その行いはもはや人類を裏切り、創造主の託した希望を踏みつけにする行為だとすら言えるだろう。

だが、もしこの作品が、単なる反社会的なメッセージを発しているのみであれば、ここまでヒットし、人を感動させうるだろうか。

その疑問に対し、作品とそれが生まれた時代性を検討することで、その答えの一端が見い出せるように思う。

かつてのスポ根ドラマの時代が、高度成長期であり、日本は戦後の焼け跡から復興するために、激しい労働を強いられつつも、それを是とする猛烈社員や会社人間などと呼ばれる労働者で社会は構成されており、周囲に負けまいと戦うことは義務であり必然だった。
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つまりは「いかに勝つか」を語った作品が、「スポ根ドラマ」だと言う事も出来る。

さらに遡れば、日本のアニメの現代につながるオリジン、手塚治虫の『鉄腕アトム』はそもそも第二次世界大戦から生まれたと個人的には想像している。
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つまり、日本のアニメの根源には、「闘争」が遺伝子として継承されており、それは「スポ根アニメ」の軍隊的スパルタ式の表現に見出せる。

しかし、この『鬼滅の刃』は、スポ根の昭和時代を飛び越え平成から令和の時代に生まれた。
すでに日本社会の復興は成り、その蓄えた富によりGDPは世界2位にまでなり、アメリカに肉薄し追い越すかと思われた時、バブルが弾け人々は献身的な労働の対価が、はかなくも雲散霧消したのを知る。

日本人は「働く事=戦う事」が全てなのかという疑問に捉えられ、価値観は多様化した。
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そして、人々は、献身的に会社に尽くす事、受験戦争をを勝ち抜く事が全てではなく、戦わない選択肢もあると考えるようになる。

しかし、その価値観の多様性とは、間違いなく社会的な富の蓄積により、戦わなくとも生きることを可能とする制度的なセフティーネットが成立しているからこそ可能な先進国のみに許された環境だと言うべきだろう。
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この事実は、日本社会の富の増加と共に、アニメ作品の主人公のキャラクターが変遷していく姿で確認する事もできる。

例えば、高度成長期、1950〜1970年代のアニメは、『巨人の星』や『明日のジョー』にしても、社会の底辺から這い上がるスポ根物語であり、そこには戦いを積極的に求め勝とうとする強い意志に溢れていた。

しかし、その戦いへの意識が変化が見られるのは、1980年に登場した『機動戦士ガンダム』によってである。
そこには、すでに主人公アムロによって、戦いに対する消極性が現れている。
彼は実際、戦闘を拒否するが、最終的には自らの意思で敵への勝利を求める点で、スポ根ドラマと後の消極的闘争ドラマの中間点に位置するものだったろう。

さらにその「闘争」に対し明確に「No」を発したのは『エヴァンゲリオン』の主人公・碇 シンジだったろう。
彼は、闘争を強いる父親「父性=男系家長主義」に反発し、逃げながら、その周囲の「女性=母性」により戦いに誘われる。
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こう流れを見てくると、日本社会の「経済的変化=富の蓄積」は、必然的に生存条件の改善につながり、それゆえ求められる「生存競争」を強いる力が相対的に減少して行った結果が、これらの「ヒーロー物語」の変化ににつながっていると見える。

そして、この『鬼滅の刃』は、さらに「闘争」に対する忌避感、不条理感を強く感じる。
それは、『エヴァンゲリオン』の「父性に対する敵対感」と「母性への依存」の色を、さらに強く表現していないだろうか?
その印象は、バブル崩壊後の日本人の父権への忌避感を、端的に示しているようにも感じる。

つまり、団塊の世代が闘いの果てに、日本経済を再生し、そしてその頂点で崩壊して行った事実を見た後世の世代は、その闘いが虚無へと通じていたと知った日本人は、父権が謳う闘争への勝利が幸福ではないと知ってしまった。

じっさいその敗北と虚無は、団塊の世代をも動揺させた。
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しかし日本は、少子高齢化のマイナス成長に向かう中、再び「闘争=生存努力」を成さねば、その社会の維持は困難になることは明らかだ。

その大勢の老人を扶養する義務を、その「闘争」の不条理を知りつつ、現代の10代20代が課されることの悲哀が、この作品の切なさにつながっていると思える。

つまり『鬼滅の刃』には、今後の日本社会の向かう混沌を担う、次世代の日本人が感じざるを得ない恐れと、それでも闘わざるを得ない勇気が込められていると思える。

この作品に込められた、ある種の悲劇性とその運命に立ち向かう者達の献身の姿には、これら日本の現状が反映しているだろう。

さらに、その日本社会の閉塞感をコロナ・ウィルスの災禍がより深刻にしている現状が、観客の感情移入をより促していることは間違いないだろう。

繰り返しになるが、『鬼滅の刃』には、戦後の繁栄を築いた団塊の世代の努力が最終的に雲散霧消し、その「つけ」を課された現代の若者の一種虚無感と不条理がこの作品の根底に存在していると指摘したい。







posted by ヒラヒ at 18:00| Comment(0) | アニメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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