2021年05月21日

映画解説『無防備都市』は実話だった!?イタリア・ネオ-リアリズモ代表作/無防備都市の意味・実話モデル紹介・ネタバレなしあらすじ

原題 ROMA, CITTA, APERTA
英語題 OPEN CITY ROMA
製作国 イタリア
製作年 1945年
上映時間 103分
監督 ロベルト・ロッセリーニ
脚本 フェデリコ・フェリーニ
原案 セルジオ・アミディ


評価:★★★☆  3.5



イタリア・ネオ・リアリズムを代表する、ロベルト・ロッセリーニ監督の1945年の作品。

映画はドラマチックなストーリーを持ち、リアリズム重視のテーマでありながら、そこかしこにエンターティメント性も感じた。

しかし調べて見れば、登場人物には実在のモデルがおり、映画の中にそのノン・フィクション的事実が入っていた・・・・・・
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<目次>
映画『無防備都市』簡単あらすじ
映画『無防備都市』予告・出演者
映画『無防備都市』解説/無防備都市意味と時代背景
映画『無防備都市』解説/実話モデル紹介

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映画『無防備都市』あらすじ


1944年第二次世界大戦末期、ドイツ占領下のローマの夜。ドイツ軍SS部隊は、レジスタンスのリーダーであるアパートを急襲したが逃がした。ドイツ占領司令部ではゲシュタポの高官・ベルグマン少佐(ハリー・ファウスト)は、徹底的な調査を命じる。マンフレディは同志フランチェスコ(フランチェスコ・グランジャッケ)を訪ね、そこで彼はフランチェスコの婚約者ピナ(アンナ・マニャーニ)と出会う。マンフレディは、レジスタンスの援助者カトリック司祭ドン・ピエトロ・ペレグリニ神父(ルド・ファブリーツィ)に連絡を取った。ゲシュタポ・ベルグマンのもとにマンフレディーの恋人マリナを薬漬けにしたイングリッド(ジョヴァンナ・ガレッティ)が現れ、マリナ(マリア・ミーキ)を通じてマンフレディを追うと言った。そして、翌日ピナの婚礼の朝、ドイツ軍がピナのアパートを包囲し、一軒残らず捜索が開始されマンフレディとフランチェスコも捕まる。彼を乗せたトラックを必死に追いかけたピナに、ドイツ軍兵士の短機関銃が火を噴いた―
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映画『無防備都市』予告

映画『無防備都市』出演者

ドン・ピエトロ・ペレグリニ神父(ルド・ファブリーツィ)/ピナ(アンナ・マニャーニ)/ジョルジオ・マンフレーディ(マルチェロ・パリエーロ)/フランチェスコ(フランチェスコ・グランジャッケ)/マリーナ・マリー(マリア・ミーキ)/ベルグマン少佐(ハリー・ファウスト)/イングリッド(ジョヴァンナ・ガレッティ)/マルチェロ(ヴィト・アニチアリコ)/ローラ(カーラ・ロベール)


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映画『無防備都市』解説

無防備都市の意味歴史的背景

『無防備都市』という日本題は、原題の『ROMA, CITTA, APERTA/英OPEN CITY ROMA(ローマ、無防備都市)』から採られている。
ジュネーブ条約の議定書Iによれば、攻撃側が「いかなる手段であれ、防御されていない地域を攻撃する」ことを禁じており、無防備都市宣言とは一切の武装抵抗を放棄したことを意味する。
<無防備都市宣言>
特定の都市がハーグ陸戦条約第25条に定められた無防守都市であることを紛争当事者に対して宣言したことを指す。
現在、正確には無防備地区宣言と呼ばれ、ジュネーブ諸条約追加第1議定書第59条に基づき、特定の都市、地域を無防備地域(英語: Non-defended localities)であると宣言することを指す。

この地域に対して攻撃を行うことは戦時国際法である第1追加議定書によって禁止されている。
無防備地区宣言とは、その地域が軍事的な抵抗を行う能力と意思がない地域であることを宣言することによって、その地域に対する攻撃の軍事的利益をなくし、そのことによって、その地域が軍事作戦による攻撃で受ける被害を最小限に抑えるためになされる宣言である。ただし、これが有効に機能するのは当事者たちが法を忠実に守った場合だけである。(Wikipedia より)

この映画は、出二次世界大戦末期、ローマが無防備都市宣言をしナチスドイツに占領された時期を描いた映画である。

<イタリアの降服とドイツの占領>
イタリアは第二次世界大戦に枢軸国として参加し、国王エマヌエレ三世はファシスト党のベニート・ムッソリーニ総統に全権を任せていた。
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しかし、1943年7月10日の、連合国軍のシチリア島上陸は、イタリア国内に動揺を生み、この危機的状況に軍内部の休戦派とファシスト党穏健派、王政廃止を危惧した王党派は、ムッソリーニ政権に見切りをつけた。(写真:イタリア国王エマヌエレ三世)
徹底抗戦を主張するムッソリーニは首相を解任され、北イタリアの山岳地帯にあるグラン・サッソのホテルに幽閉、国王は国防軍長老ピエトロ・バドリオ元帥を首班とする内閣を成立させた。
バドリオ元帥は、連合国側と停戦交渉を始めたが、イタリアにはドイツ南方方面軍が進駐していたため、表面上ドイツに戦争の継続を約束しながら本音は連合軍と休戦し、連合軍の一員として対独戦に参加する道を得ようとしていた。
roma_ick.jpgしかし、連合国側はあくまでも無条件降伏を求め交渉は停滞し、進まない交渉に連合軍のドワイト・D・アイゼンハワー大将は1943年9月8日一方的にイタリアの無条件降伏を宣言した。(写真:ドワイト・D・アイゼンハワー)
しかし、イタリアと連合国間の交渉を察知していたヒットラーは、イタリア進駐の準備を整えており、即座にイタリア北・中部へドイツ軍を進駐させた。
この動きにイタリア国王とその政権の閣僚・幕僚は、ローマを捨てて連合軍の勢力地域に逃亡してしまう。
前線で闘い続けているイタリア軍将兵と国民は、国王らの無責任な逃亡を知らず、9月8日はイタリア国民にとって「終戦の日」と同時に「国辱の日」と呼ばれることとなった。
空白地帯となったローマは、都市に軍事力が存在していない開放地域「無防備都市宣言(英語: Open City)」を発し、戦闘による被害を回避すべく武装を解除し、易々とドイツ軍はローマに進駐占領した。
roma_fuler.jpgイタリア北部を占領下においたヒットラーは、ムッソリーニのファシズム傀儡政権の成立を目指し、9月12日ドイツ軍特殊部隊がグライダーや軽飛行機を使ってアペニン山脈の山頂を奇襲し、ムッソリーニを奪還した。(英国作家ジャック・ヒギンズの小説『鷲は舞い降りた』の題材)
9月23日には、イタリア北部のドイツ軍支配地域に、ムッソリーニを国家元首とするイタリア社会共和国の建国を宣言。(写真・右ヒットラー/左ムッソリーニ)
イタリアは、ドイツ軍とムッソリーニの勢力化にある、ローマ以北の「イタリア社会共和国」と、連合国軍の影響下にあるローマ以南の「イタリア王国」に分かれて内戦状態に突入した。
戦闘が進み、1945年4月にはイタリア国内のドイツ軍の降伏が決定した。イタリア社会共和国政府もムッソリーニが4月27日に拘束され、パルチザンに銃殺された。そしてイタリア社会共和国軍も4月29日付けで降伏に同意した。
一方の王とバドリオ政権は連合国側の一員として、1943年10月13日にドイツに対して宣戦布告し、1945年7月15日には日本に対しても宣戦布告し、終戦後には戦勝国として日本に賠償金を求めた。(日本政府は、応じず)
1946年には国民投票により、王制は廃止されイタリア共和国となった。
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映画『無防備都市』解説

実話モデル

この映画は、第二次世界大戦が終わった1945年に撮影され、同時代を描いた作品だ。

この映画で最も有名なシーン、ナチス兵により命を絶たれるピナは、テレサ・ガレスという実在のモデルが存在したのだ。

実はこの映画の、そこかしこに、実際のエピソードが埋め込まれている。

この映画に登場する神父マンフレディーも、カトリック教会の神父の身ながらパルチザンや反ナチス・ドイツ勢力を助けた、実在の2人の人物ドン・ピエトロ・パパガロとドン・ジュゼッペ・モロシーニを元にしているという。

この映画のモデルとなった人物の実話を以下にまとめてみた。
テレサ・ガレス
(1907年9月8日誕生〜1944年3月3日没)
テレサはジロラモ・ガレスと婚後し、夫と共にローマに転居した。ジロラモは建設現場で労働者として働き、1944年テレサ37歳の時には5人の子供がいて、さらに妊娠中だった。roma_galles.jpg
その年の2月26日夫ジロラモが逮捕され、3月3日の朝には投獄された兵舎の前に大勢のローマ市民が集まっていた。すでに数百人の男達が拘束され、ナチス・ドイツは囚人達を強制収容所へ送るとの噂が立っていた。
テレサ・ガレスは、13歳の息子ウンベルトを伴い、2,000人を超えるローマ女性の一群に加わり、兵士達が並ぶ最前線にまで、歩みを進めた。「解放せよ!」というシュプレヒ・コールを発しつつ近づくと、鉄格子の後ろに彼女の夫を発見し互いに呼び交わした。
テレサは窓に向かって進み、パンを夫に差し入れようと投げた。しかし、壁に跳ね返り地面に落ちた。兵士たちは群衆に抗してライフルで群衆を殴り威嚇し、群集と兵士の間に空白地帯が生じた。
テレサ・ガレスは地面からパンを拾い上げると、夫が立っていた窓に向かって決然として歩きだした。ドイツ兵に制止されるとテレサは、それに抗議し怒鳴りながら、詰め寄った。そして、ついにはドイツ兵の銃弾により命を絶たれた。
その日から、テレサの悲劇的な物語は、多くのローマ市民やパルチザングループの闘争抵抗の象徴の1つになった。
1977年には「市民的功績の栄誉メダル」が授与されている。
ドン・ピエトロ・パパガロ
(1888年6月28日生まれ〜1944年3月24日没)
イタリア司祭で唯一の犠牲者フォッセアルデアティーネの虐殺の犠牲者。
roma_Pappagallo.jpgドイツの占領中、司祭は解散されたイタリアの兵士、パルチザン、同盟国、ユダヤ人、など反ナチスの立場に立つ人々を援助し続けた。
1944年1月29日、ドン・ピエトロはスパイの密告によりSSに逮捕された。SSは占領中レジスタンス戦線と、ローマ市民の抵抗者を排除する作戦を一貫して採っていた。パパガッロ神父は、獄中でも食事を取れない他の囚人と、食事を分け合う姿が見られた。
彼は死刑判決を受け、1944年3月24日にナチスドイツによる、レジスタンス兵と反ナチズムのシンパ、ユダヤ人を300人以上殺害したフォッセ・アルデアティーネ虐殺で倒れた唯一のカトリック司祭だった。
2000年にヨハネ・パウロ三世は、ドン・ピエトロ・パパガロを20世紀の教会の殉教者の中の1人として顕彰した。

ドン・ジュゼッペ・モロシーニ
(1913年3月19日誕生〜1944年4月3日没)
王党派のイタリア司祭。
ドイツ軍占領以降、彼はローマのレジスタンスに参加し、武器や食料を調達する手助けをした。彼はイタリア陸軍の将校であるフルビオモスコーニ中尉によって指揮された「フルビバンド」と連絡していた。
彼は司祭の立場を活用しソラッテ山に駐屯しているドイツ国防軍の将校からカッシーノ戦線のドイツ軍の計画を入手した。roma_morosini_1.jpg
しかし、パルチザン内のドイツ軍スパイに70,000リラで売られ、1944年1月4日にSSに逮捕され、友人のマルチェロブッキと一緒に、逮捕された。
彼はレジーナ・コエリに拘留され、ドイツ軍の配置地図を連合国に渡したことに加えて、銃の所持、および隠匿された大量の武器と爆弾についても糾弾された。
彼は、顔が変形するほどの拷問をうけたが、情報を漏らすことなく、ドイツ軍により死刑判決を受けた。彼は、7年前に彼を司祭に任命したルイージ・トラリア司教の導きのもと、イタリア警察(PAI)12人銃殺隊の前に据えられた。
しかし発砲を命じられた部隊の10人は空中に発砲し、他の2人の銃弾はわずかに軽傷を与えただけだった。
結局ドイツ軍将校によって、ドン・モロシーニの後頭部に2発の銃弾が放たれ命を奪われた。




posted by ヒラヒ at 17:00| Comment(0) | イタリア映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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