原題 Stalag 17 製作国 アメリカ 製作年 1953年 上映時間 101分 監督 ビリー・ワイルダー 脚本 ビリー・ワイルダー、エドウィン・ブラム 原作 ドナルド・ビーヴァン、エドモンド・トルチンスキ |
評価:★★★☆ 3.5
ビリー・ワイルダー監督が、そのキャリアで初めてコメディー表現を自らのものにした作品だと思います。
ドイツ出身のフィルム・ノワール的な作品を撮っていた彼が、大衆作家的資質の幅の広さ、表現力のバラエティーを獲得し、ハリウッドの成功につながったと思います。
しかし、この作品がそうであるように、ワイルダーの笑いの影には一種の社会批判が潜んでいると推測しています。
<目次> |
映画『第十七捕虜収容所』簡単あらすじ |
第二次世界大戦末期のドイツ軍、第十七捕虜収容所の第4兵舎はアメリカ人の空軍下士官が収容され、今トンネルから2人の捕虜の脱走が計画されていた。仲間が固唾を飲む中、便利屋で商売上手のセフトン(ウィリアム・ホールデン)は計画が失敗する方に賭けると言い、周囲の反感を買った。しかし、脱走が失敗し収容所内のスパイが疑がわれた。そんな時、ドイツ軍の軍用列車を破壊した将校ダンバー中尉(ドン・テイラー)が入って来て、その秘密作戦を捕虜達に打ち明けた。その将校とセフトンは遺恨があり険悪な空気が流れる。すると、ダンバー中尉は宿舎の監視官シュルツ軍曹(シグ・ルーマン)に連れられ、所長シェルバッハ(オットー・プレミンジャー)から破壊活動容疑で逮捕された。宿舎内ではスパイはセフトンだと決めつけ、舎内の捕虜達からリンチに遭った。命の危険を感じたセフトンは、必死にスパイを突き止め得ようと探りを入れる。そして、クリスマス・イブの夜、蓄音機とセフトンの酒で男同士踊り盛り上がる中、ついにセフトンはスパイを発見するのだった・・・・・・
映画『第十七捕虜収容所』予告 |
映画『第十七捕虜収容所』出演者 |
セフトン (ウィリアム・ホールデン)/ダンバー中尉(ドン・テイラー)/シェルバッハ所長(オットー・プレミンジャー)/アニマル(ロバート・ストラウス)/ハリー(ハーヴェイ・レンベック)/デューク(ネヴィル・ブランド)/プライス(ピーター・グレイブス)/シュルツ軍曹(シグ・ルーマン)/ホフィ(リチャード・アードマン)/ブロンディ(ロバート・ショーティ)/トリッツ(エドマンド・トリツィンスキー)/マルコ(ウィリアム・ピアーソン)/バグラディアン(ジェイ・ローレンス)/クッキー(ジル・ストラットン・JR)
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映画『第十七捕虜収容所』感想 |
ビリー・ワイルダー(Billy Wilder, 1906年6月22日 - 2002年3月27日)は、アメリカ合衆国の映画監督、脚本家、プロデューサー。50年以上映画に関わり、60本もの作品に携わった。本名はSamuel Wilder(ドイツ語読みでザムエル・ヴィルダー)。
ユダヤ系のマックス・ヴィルダー (Max Wilder) を父に、おなじくユダヤ系のオイゲーニア・バルディンガー (Eugenia Baldinger) を母に、オーストリア=ハンガリー帝国領ガリツィア、ベスキド地方スハ・ベスキツカ(Sucha Beskidzka、ドイツ語ズーハ、現在ポーランドのマウォポルスカ県)で生まれた。
ワイルダーはドイツ最高の映画会社ウーファへ招かれ、『少年探偵団』(1931年)や『街の子スカンボロ』(1932年)といった脚本を執筆、いずれもヒット作となった。しかし、1933年、アドルフ・ヒトラー率いるナチスが台頭してきたため、ユダヤ系のワイルダーはフランスへ亡命。1934年にはコロムビア映画の製作者でドイツ時代の友人だったヨーエ・マイの招きで、まだワイルダーは英語が喋れなかったものの、ワックスマンらと共にアメリカ合衆国に渡った。母親と祖母、そして母親の再婚相手はアウシュヴィッツのユダヤ人強制収容所送りとなり、そこで死亡したといわれる。(wikipediaより編集:写真ビリー・ワイルダーとグロリア・スワンソン1950年頃)
ビリー・ワイルダーはこの映画の前は、ドイツ系の移民監督のお家芸とも言うべき「フイルム・ノワール」のジャンルで、秀作を作つていました。
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こんなビリー・ワイルダー監督は、本作品で新たな表現を獲得したように思います。
それは、ユーモア、笑いのセンスです。
個人的な印象では、実はアメリカ以外の国からハリウッドにやって来た映画監督が、アメリカ映画界で生き残るカギは「ユーモア」ではないかと考えたりします。
例えば、イギリス出身のアルフレッド・ヒッチコックにしても、このビリー・ワイルダーや、ウィリアム・ワイラーにしても、ハリウッドで巨匠となった外国人監督はユーモアーのセンスが秀でているように感じるのです。
それまで、暗く深刻なサスペンス「フィルム・ノワール」を得意としてきたこの監督が、この作品以降表現の幅を広げ、ついにはロマンチック・コメディーの巨匠、ラブ・コメの名人になるとは、なかなか想像できない展開です。
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そんなこの監督にとって転機となるこの作品は、実を言えば密室でのスパイ探しのサスペンスの緊迫感と、その笑いを生む兵士のキャラクターや笑いを生むシーンがどこか遊離しているように個人的には感じました。
極端にいえば、どこか捕虜収容所のコントを見ているような感覚すら覚えたのです。
それは実は、ロベルト・ベニーニ監督の笑いを伴うホローコースト映画『ライフ・イズ・ビューティフル』でも感じたものです。
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やはり、語られる内容と、語り口調が上手く合致していないように、この映画は思えるのです。
しかし、名匠ビリーワイルダーともあろう人が、このドラマに必要な話法がサスペンスにあるのかユーモアにあるのか、分からないとは思えません。
そんな疑問を感じつついろいろ調べて見ると、この映画の脚本はワイルダー自身が、相当手を入れており、しかも増やしたのはユーモア部分だというではありませんか。
そう知って更に、謎は深まります。
なぜ、ドラマの主筋にあまり寄与しない、笑いの要素をこんなにも付け足したのでしょうか?
いろいろ、考えるうちに1つの可能性に思い至りました。
それは、映画が撮られた時代のアメリカ社会に対する、大いなる皮肉ではないかというものです……
詳しくは、いかの文章で説明させていただきます。
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映画『第十七捕虜収容所』解説・考察アメリカのマッカーシズム |
そこでスパイの疑惑を掛けられた主人公と、その彼を笑いながら、大騒ぎしながら、収容者の群れが追い詰めて行きます。
無実の男が、周囲の者から疑われ、罪に落とされていく姿−
それは当時のアメリカ社会で吹き荒れていた「赤狩り」という、共産主義者をアメリカ社会から根絶しようとする、魔女狩りのような社会状況を戯画化したものだと思うのです・・・・・
マッカーシズム(英: McCarthyism)とは、1950年代にアメリカ合衆国で発生した反共産主義に基づく社会運動、政治的運動。
アメリカ合衆国上院(共和党)議員のジョセフ・マッカーシーによる告発をきっかけとして「共産主義者である」との批判を受けたアメリカ合衆国連邦政府職員、マスメディアやアメリカ映画の関係者などが攻撃された。(wikipediaより)
ハリウッド映画界では1948年、『ローマの休日』で有名な脚本家、ダニエル・トランボなど10名が共産主義者だとして告発され、彼らは「ハリウッド・テン」と呼ばれました。
その告発を受け、ハリウッドの有志達、ジョン・ヒューストン監督や俳優のハンフリー・ボガート、ローレン・バコール、ジュディ・ガーランド、ダニー・ケイ他、主要なハリウッドのスターは、政府が映画産業を標的にする事に抗議し「修正第1条委員会」を組織し、アメリカ憲法修正第一条が保証する、表現の自由と個人の信教の自由を求め声を上げます。
彼らは、アメリカ上院で開かれる「ハリウッド・テン」に対する公聴会を傍聴するため、チャーター機でワシントンに飛び、その行方を見守りました。
結果的に、共産主義者か否かの返答を求められた「ハリウッド・テン」は、回答を拒否し議会侮辱罪に問われ、懲役1年の刑を科せられることになります。
そして、ハリウッド有志の「修正第1条委員会」は、そのメンバーに共産主義のシンパがいた事、更にハリウッドの大手スタジオが政府の意向に沿い、共産主義的傾向を持つ者を業界から追放するとして、その配下の俳優や映画製作スタッフに働きかけた事で、運動は力を失い会も第二回の会合で解散となります。
実は、この「修正第1条委員会」のメンバーの一人が、ビリー・ワイルダー監督でした。
そして、彼は第二回目の「修正第1条委員会」の席で「我々は撤退べきだ」と語ったされます。
そして1950年代は、マッカーシズムに映画界が振り回された時期であり、業界内で「ハリウッド・ブラック・リスト」が出回り、そのリストに記載された者は職を失い、キャリアを喪ったと言われます。
たとえば、チャールズ・チャップリンも、その作品の傾向から国外追放となりましたし、脚本家ダニエル・トランボはメキシコに逃げ偽名でシナリオを書かざるを得ませんでした。
そんな中で、移民者としてアメリカに来て、映画界で生きた者達の中では、エリア・カザン監督のように、自分の身を守るために仲間を売ったと言われる人々も出ました。
明日突然、自らの仕事が、キャリアが終わるかもしれないという立場に立たされた時、自分はそうしないと言い切れるかどうか・・・・・1950年代のハリウッドは、そんな厳しい圧力の中、各自が必死に自分のプライドと生存をかけて、日々戦う状況だったのでしょう。
しかし、そんな中、ビリー・ワイルダーが取った戦法が、この『第十七捕虜収容所』だったのだと想像するのです。
ビリー・ワイルダーは、この作品の中で、笑いでオブラートに包みながら「魔女狩り=アメリカ社会の弾圧」の滑稽さと、その愚かしさを指摘しているように見えます。
正面から、その制度を否定することが出来ないほど強い力が働いている時には、中世の王政下で王の間違いを笑いで指摘した道化師のように、諧謔に紛らわせて批判するというのは歴史上の常とう手段として現れています。
そして、この『第十七捕虜収容所』以後、ビリー・ワイルダーの作風は、「笑い」を含んだものへと変化して行きます。
以降のワイルダー作品で描かれたのは、アメリカ社会の行き過ぎた潔癖主義や、キリスト教的倫理による偽善を、嘲るような作品を発表します。
そんなアメリカの「モラル=きれいごと」の象徴こそ、ハリウッドの映画倫理規定「ヘイズ・コード」です。
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そんな「キレイごと」に対し、ビリー・ワイルダーは果敢に笑いを武器に挑みます。
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さらに『お熱いのがお好き』という作品は、性的倒錯(男性の女装)を描いていたため、ヘイズコードの承認を受けず公開します。
すると、映画は大ヒットし「ヘイズ・コード」を有名無実にしたとは、よく言われる事です。
<『お熱いのがお好き』予告>
ビリー・ワイルダーの「道化師の戦法」は、明らかにアメリカ映画界を変えたのです。
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