2020年12月10日

古典映画『怒りの葡萄』ジョン・フォード監督の描く大恐慌の神話とは?/感想・解説・考察・ネタバレなし簡単あらすじ

映画『怒りの葡萄』感想・解説 編

原題 The Grapes of Wrath
製作国 アメリカ
製作年 1939
上映時間 128分
監督 ジョン・フォード
脚本 ナナリー・ジョンソン
原作 ジョン・スタインベック


評価:★★★★  4.0点



この映画は、ハリウッド映画の歴史を作った巨匠ジョン・フォード監督の古典的な名作とされる一本だ。

今見れば、モノクロ映像も相まって、地味で、オーソドックスな、刺激の少ない、古臭い表現の映画に見えるのではないかと恐れる。

しかし、それは100年近くの時を経て、この映画の話法、ジョン・フォードの表現が、映画表現の基礎として世界中の映画作家の血肉と化し、何万回も踏襲され今に至っているためだと主張したい。
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<目次>
映画『怒りの葡萄』簡単あらすじ
映画『怒りの葡萄』予告・出演者
映画『怒りの葡萄』感想
映画『怒りの葡萄』解説
映画『怒りの葡萄』考察

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映画『怒りの葡萄』簡単あらすじ

大恐慌時代、刑務所を出たトム・ジョード(ヘンリー・フォンダ)は家を目指していた。ジム・ケイシー(ジョン・キャラダイン)という説教師と出会い、自分の家に向かうが、凶作で家を失った一家は、オンボロトラックで仕事のあると言うカリフォルニアを目指す。ルート66をひた走る途中、祖父が死に、祖母が死ぬ。それでもカリフォルニアにたどり着いた一家だったが、そこは理想の地ではなく、雇い主が官憲とぐるになり、労働者から搾取する過酷な現実が待っていた。そんな中、労働運動に目覚めたケイシーが殺され、トムは彼を守ろうとして、心ならずも殺人を犯してしまう……
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映画『怒りの葡萄』予告

映画『怒りの葡萄』出演者

トム・ジョード(ヘンリー・フォンダ)/母(ジェーン・ダーウェル)/ジム・ケイシー(ジョン・キャラダイン)/祖父(チャーリー・グレイプウィン)/妹ローザシャーン(ドリス・ボードン)/父(ラッセル・シンプソン)/次男アル(O・Z・ホワイトヘッド)/ミューリー(ジョン・カレン)/婿コニー(エディ・クイラン)/祖母(ゼフィ・ティルベリー)/従兄弟ノア(フランク・サリー)/伯父ジョン(フランク・ダリエン)/末弟ウィンフィールド(ダリル・ヒックマン)/末妹ルーシー(シャーリー・ミルズ)

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映画『怒りの葡萄』感想

この1939年の映画を、今見るとどう感じるだろうか?

現代映画の刺激に慣れた眼からすると、なかなか、傑作だと言い難いのではないか。

この作品は、製作当時の時代背景を加味しなければ、なかなか高く評価される理由が判りにくいかとも思う。

時代を語れば、アメリカが繁栄から一転どん底に落ちた「大恐慌時代」に撮影された映画だという点だ。
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その時代に撮られた映画は多かれ少なかれ、その時代の痛みを陰のようにまとっている。

たとえば、1934年の『或る夜の出来事』というロマンスコメディーの元祖といわれる明るい映画にも、やはり大恐慌の陰を感じるのである。
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映画『或る夜の出来事』解説

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しかし、この『怒りの葡萄』は、その庶民の痛みを正面から描きつくしている点で、歴史的実話ドキュメントと言うべき一面を持っていると感じる。
<大恐慌時代の映像>

この映画の過酷な現実は、本当に1930年代のアメリカで起きた事実なのである。
その「庶民の困窮」を、この時代に正面から告発したハリウッド映画は、唯一この映画のみではなかっただろうか。

例えば、チャップリンの「放浪紳士チャーリー」で知られるキャラクターは「リトルトランプ(小さな浮浪者)」と英語圏で呼ばれるように、明らかに大衆の代弁者だった。

しかしその彼にしても、1936年『モダン・タイムス』で資本主義の批判を語りはするが、この『怒りの葡萄』に較べて明らかに迫力が無い。
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実は、チャップリンに限らず、当時のハリウッド映画では社会的な告発をし難い規制があったのだ。
1922年に設立された「ヘイズコード」がそれである。
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そこに記載された条項、「人種・国家・宗教に対する悪意を持った攻撃」や「犯罪者への同情」「公人・公共物に対する(反権力的)姿勢」に、この映画の内容は抵触していると思える。

例えば本作品へのヘイズコードの影響を見てみれば、スタインベックの原作では、主人公は警官を殺すが、映画では警備員に置き換えられているのがその一例であり、さらに原作の主張する社会主義的主張も、その規制から声高に主張できなかったろうと推察する。

そんな中で、決して、逃げず、誤魔化さず、社会に対する糾弾と、庶民大衆の苦難に立ち向かう力強い姿を描き、その尊厳を謳いあげているのはこの監督の本質に根ざしている、アメリカ庶民の営みに対する強い信頼を示したものだと感じた。

そして仮に、「庶民の痛み」の解消を目的として、単に社会を告発し、糾弾するだけであれば、この映画の力はそれら庶民が再び豊かになったならば雲散霧消してしまっただろう。

それはイタリアネオレアリスモ「第二次大戦後の庶民の苦難を晴らす社会運動的主張」が、今となっては力を失ってしまった事実で明らかだろう。
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結局、ジョン・フォードはその時代背景と映画倫理規制の影響もあり、社会批判の論調を弱めたには違いない。
しかし、それ以上にこの映画の表現は「アメリカの歴史」に対する彼の強い信念に根ざしていると感じた。

以下に、そのジョン・フォードの作家性を語らせていただきたい・・・・
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映画『怒りの葡萄』解説

絶対的信仰と完璧な構図

ジョン・フォード映画は、今の眼で見ると、一種の凡庸さ、平凡さを、その映像から感じるかもしれない。

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しかしそれは、監督ジョン・フォード(写真)の表現が、その後の映画表現のスタンダードとなって、映画の血肉となって現代まで続くが故に、その表現スタイルがオーソドックスで凡庸な印象と化してしまった結果かとも思える。

もう少し言えば、その状況説明の的確さと、奇をてらわない描写は、ハリウッド映画の表現手法に大きな影響を与え、彼の映像表現こそが、悲劇から喜劇まで、静謐なドラマからアクション活劇まで、森羅万象を語ることを可能にした、そのハリウッド映画語法の根源に位置するものだと思える。

たとえば、その語法は、同時代の監督ヒッチコックの華麗な技巧を前に、色褪せて見えるかもしれない。
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たとえば、そのドラマはビリー・ワイルダーの際どい扇情性も持ち得ないかもしれない。
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しかし、ヒッチコックの表現で、神を賛美する敬虔なドラマを描けるだろうか?
ビリー・ワイルダーのドラマで、何のケレンも見せない「真・善・美」を描けるだろうか?

そういう点で、例えばジョン・フォードは、娯楽的な西部劇を描いてさえ、決してそのバランスは崩れない。
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それは、この大恐慌に打ちひしがれた悲惨な物語『怒りの葡萄』でも同様で、現実の悲惨を目の当りにしてなお、ただ怒りを撒き散らすのではなく、ある種の大衆の尊厳を語る。

つまり「映像と物語の安定性」とは「物語るジャンルの汎用性」につながるのだと思わずにはいられない。

そんな観点で、改めてこの『怒りの葡萄』を見ると、そのバランス・調和の安定感に驚く。
それはまるで、ミレーの描く『晩鐘』のように、1画もうごかせない物語性と構図を保持していると感じた。
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その安定性の由来は、多分、彼に会ってヒッチコックやビリーワイルダーにない、物語や映像表現における「客観的視線」によっているのではないか。

そのマクロの視点ゆえに画面は超然とし安定した構図を湛(たた)えるのであろう。

しかし再び言うが、安定とは一見地味であり、凡庸に見え、驚きや刺激というエンターテーメント性を希釈するものだ。
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それでも、ジョン・フォードは、完璧な構図を求めて、延々理想の雲が画面内に入るまで、西部の荒野で何時間でも待ち続けたのである。

それは彼が描く映画表現の本質にとって、その「完璧な構図」と「客観的視線」が必要不可欠だったからに他ならない。

その点を、以下に考察してみたい。
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映画『怒りの葡萄』考察

諧調表現と神話

かつて、大正のアナーキスト大杉栄は「美はただ乱調にある。諧調は偽りである。」と言った。
確かに近代に至りシンメントリーや黄金比的な「調和や安定の美」は、「乱調的な美」が力を増すにつれて、その訴求力を落としていると感じる。

そして、その「調和や安定の美」の訴求力の低下とは、実は人々の宗教に対する信仰心の低下と比例していると思われる。
なぜなら、シンメントリーや黄金比とは「神=唯一絶対の存在」を頂点にした、「世界の見取り図」だったのだ。
キリスト教教会の壁画や、仏教のマンダラ、イスラム教のモスクのモザイクにしても、それらの「諧調」は信仰心を表した結果だった。
<「ロヨラの聖イグナチオの勝利」アンドレア・ポッツォ/ローマ:サン・ティニャーツィオ聖堂>grape_Ignatius_Pozzo.jpg

そう思うとき、上の感想で述べたとおり「諧調」と「調和」に満ちた、ジョン・フォードの映画とは一種の宗教映画だと捕えるべきだろう。

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そして、アイルランド系移民の彼の宗教は「キリスト教」であったろうが、その「神」以上に信じていたのは「アメリカ的理想」だったのではないか。

アメリカ文化を愛し、アメリカ的価値観を信じ、「西部劇」という形で高らかに語ったこの監督にとって見れば、「乱調的な美」はその信仰を語るには、むしろ邪魔なテクニックだっただろう。
繰り返しになるが「乱調的な美」、華麗な表現技法や、過剰なドラマは、現実世界の「神の不在」を元にした、不完全さや矮小さを補うための表現だと思えるのである。

一方の、ジョン・フォードにとっては、たとえ大恐慌の最中であっても、アメリカに生きる事の素晴らしさ、アメリカ的価値観の正義、そのアメリカンドリームに生きる庶民大衆に対し、揺るがぬ絶対的信奉を持っていたと思える。
それゆえ、アメリカの大地と、そこに生きる人々を、正しく「諧調」で揺らぐことなく正面から描きさえすれば、それこそが彼にとって最も理にかなった表現だったのである。

つまり、ジョン・フォードの映画とは、アメリカ的価値観を頂点とした「世界の見取り図」としてあったのだろう。
それゆえ、彼の映画はアメリカ建国とその歴史を紡いだ人々「白人入植者」に対する、絶対的敬意と信仰的とすら言うべき「賛美」として現れている。

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結局ジョン・フォードの映画とは、アメリカ国民の「民族神話」として、その姿を現しているのではないか。

「民族神話」としてのジョン・フォード映画の特質は、この『怒りの葡萄』にも強く現れている。
本来『大恐慌』を生み、社会を混乱させた、アメリカ資本主義の根源を問われるべきこの映画において、ジョン・フォードは社会の悪は悪として、どんな状況にあっても決して折れない庶民の力を描いた。

それは、本来庶民大衆の困窮の責任の所在を曖昧にする、欺瞞的な態度だと言われてもし方がない。
しかし、ジョン・フォードは、庶民の力への強い信頼を込めたドラマを描くことにより、歴史上数々の有形無形の苦難に遭遇してなお、力強く成長をしてきた人々の力の尊厳を示し得たのである。

それは、アメリカをゼロから建国して来たアメリカ大衆と同様に歴史的な存在として、当時の大恐慌に生きる大衆を「神話化」したのである。
その現在進行形の「庶民・大衆」の歴史的文脈への編纂によって、当時困窮のどん底であえいでいた人々は、アメリカの歴史に対してジョン・フォード同様に肯定するのであれば、今の困難も必ず乗り越えられるという勇気と信念を共有したはずだ。

そんなこの映画は、さらに大きな文脈で見れば、名も無き幾多の人々が苦難を乗り越え命を紡いできたという、人類に対する「寿(ことほぎ)」としてこの映画は存在するように思える。
実は本作品を見て、そんな民族の神話を描いた映画を思い浮かべた。

その表現のスタイルも含めてジョン・フォードの「神話」性と相似に見えたのは、1972年に撮られた『ゴッドファーザー』で、それは「イタリア系アメリカ移民神話」を描いていると思える。
イタリア映画:1282年
映画『ゴッドファーザー』
イタリア・マフィアの闘いを描く古典的傑作!
イタリア系移民の苦闘と家長の行方とは?

その神話とは反面、アメリカ建国の歴史にとって障害となった「インディアン=アメリカ原住民」が悪魔的に描かれ、マフィアの「暴力賛美」として見えるのも、「神話=絶対的価値」を描く以上必然の結果だったのである・・・・・・・・



posted by ヒラヒ at 17:00| Comment(0) | アメリカ映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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