2021年01月10日

映画解説『セブン』フィンチャーは現実に負けたのか!?/恐るべき傑作の裏側・ラストの製作秘話・ネタバレ批判

映画『セブン』感想・解説 編

原題 Se7en
製作国 アメリカ
製作年 1995
上映時間 126分
監督 デイヴィッド・フィンチャー
脚本 アンドリュー・ケヴィン・ウォーカー


評価:★★★★  4.0点



デビッド・フィンチャー監督の恐るべき傑作。

脚本の研ぎ澄まされた精度。その脚本を最大源に表現する、演出と映像のビジュアルデザインの完成度の高さ。

そして、そのラストの衝撃ー
グロテスクな表現と、観賞後の後味の悪さに、耐えられる方なら、まずはご覧になられることをオススメする。
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<目次>
映画『セブン』簡単あらすじ
映画『セブン』予告・出演者
映画『セブン』解説
映画『セブン』考察・批判

映画『セブン』簡単あらすじ

朝、停年を一週間後に控えた、刑事のウィリアム・サマセット刑事(モーガン・フリーマン)の元に、新人刑事のデビッド・ミルズ刑事(ブラッド・ピット)が、配属された。
二人は、歩けないほど肥満体の男の他殺死体が、発見された。
サマセツトは、これは連続殺人の前触れで、退職を目前とする自分の事件ではないと、分署長(R・リー・アーメイ)に担当を拒否するが押し付けられる。次の被害者は有名弁護士で、現場には被害者の血で「GREED(強欲)」の文字が残されていた。サマセットはこれを、キリスト教の七つの大罪に基づく連続事件だと見て、犯人を追うが、続く一週間の内に、被害者は5人に増え、それぞれの罪を示す文字が残された。捜査の中、犯人に近づくが、逃げられてしまう。しかし、そんな2人の下になぜか犯人が出頭して来た。だが、それは恐るべき罠の始まりだった―
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映画『セブン』予告

映画『セブン』出演者

デビッド・ミルズ刑事(ブラッド・ピット)/ウィリアム・サマセット刑事(モーガン・フリーマン)/トレイシー・ミルズ(グウィネス・パルトロー)/警部(R・リー・アーメイ)/マーティン・タルボット検事(リチャード・ラウンドトゥリー)/マーク・スワー弁護士(リチャード・シフ)/ジョン・ドゥ(ケヴィン・スペイシー)/テイラー刑事(ダニエル・ザカパ)/カリフォルニア(ジョン・C・マッギンリー)/マッサージ店の被害者の男(リーランド・オーサー)/マッサージ店の受付係(マイケル・マッシー)/ワイルド・ビル(マーティン・セレン)/ベアーズリー医師(リチャード・ポートナウ)/オニール医師(ピーター・クロンビー)/デイヴィス巡査(ジョン・カッシーニ)/ジョージ(ホーソーン・ジェームズ)/FBI捜査官(マーク・ブーン・Jr.)/図書館の警備員(ロスコー・デヴィッドソン)/グールド夫人(ジュリー・アラスコグ)/ミルズに詰め寄る女記者(ドミニク・ジェニングス)/ニュースキャスター(ビヴァリー・バーク)/案内する警官(デヴィッド・コレイア)/配達員(リッチモンド・アークエット)

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映画『セブン』解説

フィンチャーの虚構性とリアリティー

デビッド・フィンチャーの映画を見ると、その凝りに凝った脚本で、フィクションと現実との関係をスリリングに描いた作品を思い出す。

例をあげれば、フィンチャーの映画『ファイト・クラブ』は、ある男の虚実を描き、『ゲーム』は映画表現のスタイルと、語るドラマ表現との離反を語り、『ソーシャルネットワーク』では、現実の出来事を映画的にショーアップさせて見せた。
アメリカ映画:1999年
『ファイトクラブ』
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その製作手法の基礎には、映画の完成度にすべての優先権を与える、潔癖な創作作法を感じる。
例えばデヴィッド・フィンチャーは『ソーシャルネットワーク』を作るに当たり、監督ジョン・ヒューズ(10代の青春映画を得意とする監督『ある朝フェリスは突然に』で有名)のような『市民ケーン』を作りたかったと、インタビューで語っているが、彼にとっては現実世界の事象は「映画=虚構世界」構築のための、素材に過ぎないのだと思えた。
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つまりは「現実世界」より「虚構世界」を優先させているのであり、完璧な虚構世界を構築する事がその最大の望みなのだろう。

そんなフィンチャーは、その「虚構世界」の構築を、他の「虚構作品=映画」を引用し組み合わせる事で、そのドラマを語っているように思える。

映画の世界を過去の映画から引用するのは、フィンチャーに限らず、現代の映画作家には見られる特徴であり、はなはだしい場合、映画以外の現実に一切興味が無いのではないかとすら思える時がある。

例えば、そんな映画オタク的な監督として、『グランド・ブタペストホテル』や、映画『アーティスト』が思い浮かぶ。
それらの作品は、監督個人の趣味趣向が強すぎ、美しくはあっても心を打たれなかった。
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それらの虚構から虚構を生む映画世界は、結局きらびやかであっても「現実世界」に力を及ぼさず、個人的に言えば他者と関わらない監督の自己満足の映画だと感じてしまう。

確かにデヴィッド・フィンチャーも、虚構から虚構を生む映画作家であることは間違いない。
しかし、その虚構世界は耽美的な自己満足の表現を超えて、現実世界に越境し波及する力を持っていると感じる。

その理由をさまざまに考えてみるが、今ひとつ明確な答えを出せない。

例えば虚構から虚構を生むタイプのまた代表的な監督、タランティーノの場合明らかな虚構世界だと明確に提示した上で、現実世界と格闘しようとしていると思える。
たとえば、『イングロリアス・バスターズ』は、現実世界をフィクションによって書き換えてみせた。
それは、現実世界を虚構で凌駕しようとする意志の現れだろう。
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さらに例を上げれば、コーエン兄弟は『ファーゴ』において虚構と現実との間で、キワドイ綱渡りを演じることで、観客の「虚構=フィクション」に対する意識を問い掛けた。
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しかし、そんな虚構によって現実を変革しようとする、タランティーノやコーエンと、虚構内の自己満足的な耽美に浸る作家、そのいずれにも近く、しかし違っているようにデビッド・フィンチャーの作品は思える。
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たとえば、この映画『セブン』は、明らかに過去の作品の虚構作品の集積の産物だと感じるし、その完璧な作品世界の成立は「虚構内の自己満足」を追う作家に特有の、映画的な完成度だけを求めている印象を受けた。

それにもかかわらず、この監督の作品の不思議は、出来上がった「映像=ヴィジュアルイメージ」に圧倒的なリアリティーが生じる点にある。
本来、映画から映画を作るタイプの、タランティーノやコーエン、ウェス・アンダーソンにしても、その絵作りはいかにも虚構作品である事を誇示するかのような、一種ファンタジックな顔を見せる。

しかしフィンチャーの場合、その表現はあくまで現実を思わせる「リアリティー」がある
結局、フィンチャーの虚構の題材が、この映画の「連続殺人」のように、「現実を装う」ことでより完成度が高くなる虚構となっており、それゆえ構造的に「リアリティー」を求めるのであろう。

それゆえ、この映画では残酷でグロテスクなヴィジュアルを見せることによって、人の生理的な痛覚や嫌悪を刺激する。
それらの生理的感覚こそ、生物が生きる上での最も確かな「実感=リアリティー」なのであり、観客にリアリティーを与える最も直截な方法であるだろう。

その「リアリティー」は、この映画『セブン』であれば、有り得ないほど「完璧な完全犯罪=虚構」が見事な「リアリティー=現実感」を生じるとき、このドラマが語る「完璧な悲劇の現実性」を前に、観客は自ら「救済無き絶望」という主人公の感じた情動を、共に我が物として生きることを強いるだろう。
そのヴィジュアルのリアリティーと、完璧で過剰な虚構ドラマが組み合わされた時、彼の映画は観客を恐るべき地平へと連れ去り、観客に虚構内を生きる事を強いるのである。
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!!ご注意!!
以下の文章には、この映画のネタバレ結末を含み、作品への批判があります。

映画『セブン』ネタバレ・批判

現実に屈した映画

素直に読めば、この映画は、最後に妻と子供を殺されたミルズが、怒りに駆られジョン・ドゥを殺すストーリーだと見える。

そして、嫉妬の罪を負ったジョン・ドゥをミルズが殺し、激怒の罪を負ったミルズが自殺するか射殺される事で、7つの大罪の裁きが終わり、この世の罪にまみれた世界の救いの無さが証明されるのである。
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この『セブン』が表した「完璧な虚構世界」においては、その「罪の世界」の人工的なシュミレーションの場として、あたかも実験室のフラスコで生成したかのような完全無欠の「仮想世界」を生むのである。

その「完璧な虚構世界」は、むしろ完璧すぎて現実世界と見分けがつかない、リアリティーに満ちた顔を見せるに違いない。
そして、その「完璧な虚構世界」として成立すればこそ、この映画は「ありうべき別世界の現実」として、観客に「悲劇の究極」を実体験として刻み込むのである。

それは、現実世界の矮小さを超え、人が思考実験の果て、考え得る究極の「絶対悲劇」と呼ぶべき、完璧な映画となったはずだった。
しかし、この映画のラストはミルズは死なないし、サマセットは中途半端な「人生は生きる価値がある」などと口にし、その純粋な物語世界をぶち壊しにするのである。

このラストに関しては、個人的には、正直怒りを通り越し絶望すら覚えた・・・・・・・・
デヴィッド・フィンチャーとブラッド・ピットの意図を探ってみれば、間違いなく上のラストより悲劇的な結末で製作を終えようと闘ったことが窺える。

製作の裏側を見てみると、この映画は常に、資金を提供する大手メジャースタジオのワーナーブラザースと、その最後を巡り対立を繰り返してきた。
それは、この救いの一片もないラストでは観客にそっぽを向かれ、営業的に惨敗を喫すると心配したスタジオ側の主張だった。

撮影が全て終わり、映画の一号試写が行われた後、スタジオ側は「箱の中のミルズの妻の首」が入っているエンディングに反対する。
スタジオ側は、ミルズの妻の首を犬の頭に置き換えるという案を出したと言う。
それに対し、フィンチャーとピットの両者が、元のエンディングを目指して戦い続けた。

更にスタジオ側は、ミルズに代わってサマセットがジョン・ドゥを射殺するラストを提案した。
これも2人は、オリジナルのエンディングを死守したという。


しかし、本来のラストは主人公ミルズが、ジョン・ドゥを射殺して暗転し終わるという形だった。

しかし見れば分かるとおり、この映画のラストは上の結末とは違ものとなった―

最終的なラストはフィンチャーが折れ、ミルズがパトカーで連れ去られ、アーネスト・ヘミングウェイの言葉をサマセットが引用するラストを、スタジオをなだめる折衷案として受け入れたのである。
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最初の撮影が完了していたにもかかわらず、フィンチャーは再びそのラストシーンを撮影した。

やはり中途半端な事をせず、箱の中のミルズの妻の首まで見せるべきだったし、ミルズは死ぬべきだったと思う。

そして、サマセットの中途半端な言葉は、決して語らせるべきではなかった。

そうすれば、このドラマはその毒性をさらに強め、映画として前人未踏の「完璧なバッド・エンド」として至高の輝きを発しただろう・・・・

映画としての完成度を貶めた点で、この映画の評価を★1つ減じた。



posted by ヒラヒ at 17:00| Comment(0) | アメリカ映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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