2020年08月01日

ボニーとクライドの実話と映画『俺たちに明日はない』の真実とは!?/解説・考察・実話画像・簡単あらすじ

映画『俺達に明日はない』(感想・実話解説 編)

原題 Bonnie and Clyde
作国 アメリカ
製作年 1967
上映時間 112分
監督 アーサー・ペン
脚本 デイヴィッド・ニューマン、ロバート・ベントン
製作 ウォーレン・ベイティ

評価:★★★★  4.0



この映画で描かれている2人の姿が、実は結構忠実に歴史事実を再現している事に驚いた。

むしろ、相違点を上げた方が早いとすら感じる。

しかし、その相違点こそが、映画で何を語りたかったという、製作者の意図が最も明確に露見する部分かと思える。
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<目次>
映画『俺達に明日はない』簡潔あらすじ
映画『俺達に明日はない』予告・出演者
映画『俺達に明日はない』解説/ボニーとクライド実話
映画『俺達に明日はない』考察/映画と実話違い

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映画『俺達に明日はない』簡単あらすじ


大恐慌のテキサス、ボニー・パーカー(フェイ・ダナウェイ)は毎日の生活にうんざりしていた。そんな時、刑務所から出所したばかりのクライド・バロウ(ウォーレン・ベイティ)と出会い、共に銀行強盗を働くようになる。ボニーはクライドと結ばれたいと願うが、彼は不能で上手くいかない。しかし、二人の犯罪は、新聞を通じ全米に知られるようになり、車の修理工C・W・モス(マイケル・J・ポラード)も仲間に入った。さらに、クライドの兄バック・バロウ(ジーン・ハックマン)とその妻ブランチ・バロウ(エステル・パーソンズ)が仲間に加わり、バローギャングと呼ばれるようになった。5人は、警察の追及を振りきりつつ、なおも犯行と殺人を重ねるが、バローギャングに屈辱を味あわされた、テキサスレンジャーのフランク・ヘイマー(デンヴァー・パイル)が彼らに迫ってた・・・・・
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映画『俺達に明日はない』予告

映画『俺達に明日はない』出演者

クライド・バロウ(ウォーレン・ベイティ)/ボニー・パーカー(フェイ・ダナウェイ)/C・W・モス(マイケル・J・ポラード)/バック・バロウ(ジーン・ハックマン)/ブランチ・バロウ(エステル・パーソンズ)/フランク・ヘイマー(デンヴァー・パイル)/ユージン・グリザード(ジーン・ワイルダー)/ヴェルマ・デイヴィス(エヴァンス・エヴァンス)/アイヴァン・モス(ダブ・テイラー)
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映画『俺達に明日はない』実話解説


ボニー&クライド概説

ボニー・エリザベス・パーカー(1910年10月1日? 1934年5月23日)とクライド・チェストナット・バロー(1909年3月24日? 1934年5月23日)は、大恐慌時代にアメリカ中部を荒らした犯罪者カップル。
<2人の現存する写真紹介動画>

・彼らの悪事は1931年から1934年までの間、アメリカの新聞やラジオを通じ連続銀行強盗犯として視聴者の注目を集めた。
・しかし実際は、銀行強盗以上に、小売商店やガソリンスタンドに押し入った。
・彼らは少なくとも9人の警官と4人の民間人の殺害の容疑が掛けられており、最終的には1934年5月にルイジアナ州ギブズランド近くで官憲による待ち伏せで最後を迎えた。
・マスコミのボニーとクライドの描写は、特にボニーにとっては事実に反するものがあり、彼女はクライドの仲間だった2年間で100以上の重罪に参加したが、機関銃を操る殺人犯ではなかった。
・ボニーの女ギャングという神話は、警察が警察官殺害に対する彼女の関与を言及し、さらに葉巻でポーズをとるボニーの写真が捜査当局により積極的に公開されたことで創出された。

<ボニー・パーカー>
・ボニーエリザベスパーカーは、1910年にテキサス州ロウェナで生まれる。
・彼女の父チャールズ・ロバート・パーカー(1884〜1914)は、ボニーが4歳のときに死亡。
・未亡人の母エマパーカー(1885年から1944年)はテキサス州西ダラスに移り縫い子として働く。
・高校の2年目に、パーカーはロイ・ソーントン(1908-1937)に会い、高校を中退し16歳の誕生日直前に結婚。
・しかし、夫は強盗犯罪に手を染め、刑務所に収監され、法的に離婚はしていない合うことはなかった。
・ボニーは1929年、18歳のとき日記に、孤独感と、ダラスでの生活に対する彼女の焦りを綴っている。
・ボニーの死を夫ソーントンは刑務所内で聞き「彼らが射殺されたのは、捕まるよりはるかに良かつた」とコメントした。
・夫ソーントンは、刑務所での服役を繰返し、1937年10月ハンツビル州刑務所で死亡した。
・夫が服役後、パーカーは母親の家に戻り、ダラスでウェイトレスとなった。
・彼女のレストランの客の1人は、後にダラス保安官局に加わり、最終的にボニーとクライドを殺害したチームのメンバーとなった。
・成人して、ボニーは「自殺の物語」や「ボニーとクライドの物語」「旅の終わり」などの詩を書いた。

<クライド・バロー>
・クライド・チェストナット・バローは、1909年テキサス州エリス郡の貧農に生まれた。
・彼はヘンリー・バジル・バロウ(1874–1957)とクミータ・リサ・ウォーカー(1874–1942)夫婦の7人兄弟の5番目でした。
・1920年代初頭にダラスのスラム地区に定住し、最初の犯罪は1926年後半、17歳の車泥棒で、2回目の逮捕は、兄と共に七面鳥の窃盗だった。
・以後もクライドは1927年〜1929年にかけて、金庫、店、車の窃盗を繰り返した。
・彼は1930年1月に友人を通じて19歳のパーカーと出会い、その後数週間は行動を共にした。
・しかしクライドが自動車の盗難で逮捕され、刑務所に服役したため、恋は中断された。
bon_easthamprison.jpg・21歳のクライドは1930年4月、イーストハム刑務所(写真)に収監された。
しかし、直後に刑務所から脱走したものの、すぐ再逮捕され、再び刑務所に送致された。

・刑務所内でクライドは他の服役者から性的暴行を繰り返し受け、彼はその加害者を殺し報復したが、これが彼にとって最初の殺人だった。
・農場での重労働を避けるために、クライドは1932年1月下旬に、意図的に2本の足指を切り落とした。
・そのため、彼は生涯足を引きずって歩くことになったが、クライドはその自傷の6日後に釈放された。
・彼は1932年2月刑務所を仮釈放されたが、その性格は入監前とは様変わりした。

出所後、クライドは愛用の銃器M1918ブローニング自動小銃を用い、10件ほどの銀行強盗と、それ以上の食料品店とガソリンスタンドの襲撃をした。

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ボニー&クライド実話

初期の強盗と殺人

1932年2月:クライドはボニーともう一人の仲間フルトと組んで強盗犯罪を開始したが、その目的は刑務所を恨んだクライドが刑務所襲撃の資金と武器を調達することだった。
1932年4月19日:ボニーとフルトは銃器の窃盗で逮捕され、フルトは実刑となったが、ボニーは不起訴となった。
1932年4月30日:クライドはヒルズボロで強盗し車で逃走。店主ブッチャーを射殺し、その妻が警察の前科リストからクライドを特定した。
1932年8月5日:クライド、レイモンド・ハミルトン、およびロス・ダイアーは、オクラホマ州ストリングタウンの密造酒場で、保安官CGマックスウェルと助手のユージン・C・ムーアに迫われ、クライドとハミルトンはムーアを射殺し、マクスウェル重傷を負わせた。
bon-WDJones1933.jpg1932年12月24日:少年期からクライドの友人WDジョーンズ(写真:映画のC・W・モス )が、クリスマスイブに16歳で二人に加わる。バローギャングは4月から5人を殺害していた。
1933年3月22日:クライドの兄バックが刑務所から出所し、彼と彼の妻ブランチが加わった。バローギャングの隠れ家で発見された、ボニーの写真と彼女の詩「自殺の詩」が全米の新聞に掲載された。
1933年4月13日:ミズリー州ジョップリンの隠れ家に潜むギャングを、近隣の住人が警察に不審なグループとして通報。
2台の車に5人の警官が急襲し、バロー兄弟とジョーンズは反撃し、警官1名射殺、1名重傷。ボニーは援護射撃し、ハイウェイパトロールの1名に軽傷を負わせ、車から走って逃げるブランチを引っ張り上げた。
16歳のWDジョーンズはバローに加わった2週間で2人の殺人を犯した。
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バロー・ギャングは隠れ家で、バックの仮釈放書類や、大量の武器と共に、ボニーの写真と彼女の詩「自殺の詩」が発見され、全米の新聞に掲載され一面を飾った。葉巻と銃でポーズをとるボニーの写真が人気となる。

1933年:テキサスからミネソタ州をまたにかけて、強盗と銀行強盗を繰り返した。
1933年:ディラード・ダービーとソフィア・ストーンを車と共に拉致した。これは、警察官や強盗の犠牲者を拉致した数多くの事件の1つだった。
彼らは通常人質を遠距離で解放し、時として帰宅用に金銭を与えた。

そんな拉致被害者が、新聞の取材に応じることで、更にバローギャングの動向は、世間の注目を集めた。

しかしバローギャングは警察官であろうと無実の民間人であろうと、邪魔する者を殺すことに躊躇せず、その冷血さは彼らの犯罪に対する社会の非難を呼んだ。

1933年:ブランチの供述では、ギャング内に不協和音が生じる。発見を避けるため、レストランやモーテルは安心できず、野宿で調理し冷たい川で入浴した。1台の車に1日中5人が閉じ込められている状況が、悪質な口論を発生させた。
1933年6月10日:クライドは、車を峡谷に転落させる事故を起こし、ボニーは酷い火傷を右脚に負う。
ボニーはほとんど歩けず、近くの農家に助けられた。

1934年6月:ギャングはアーカンソー州フォートスミスの近くのツーリストコート(写真)に隠れ、ボニーの治療をした。バックとジョーンズは強盗を働き、アーカンソー州のアルマの町の保安官を殺害し、重症火傷のボニーを伴い逃走せざるを得なかった。
bon_motel.jpg1933年7月某日:バローギャングはミズーリ州のレッドクラウンツーリストコートに泊まり、モーテル経営者は、5人が入り、逃走を容易にする駐車方法を見て不審を感じハイウェイパトロールの隊長ウィリアム・バクスターに通報した。
1933年7月某日:クライドとジョーンズは町で、ボニーの火傷治療薬を買い。薬局でも指名手配の2人を認め保安官に通告した。
1933年7月20日:にハイウェイパトロールのバクスター隊長は、カンザスシティに装甲車も含む援軍を求め、午後11時に客室に向かってトンプソン短機関銃で攻撃を開始した。
しかし銃撃戦で、銃弾でショートした装甲車の警笛が鳴り、それを攻撃中止の合図と誤認した警官隊が戸惑う隙に、バローギャングは逃走し、装甲車も動きを止められギャング団の車を追えなかった。

しかし、バックは頭蓋骨に大きな穴が開き、脳を露出させる重傷を負い、ブランチは両目を傷付け視力をほぼ喪った。

1933年7月24日:一行はアイオワ州デクスターの遊園地廃墟に逃げたが、地元住民に発見され警察官と約100人の野次馬がバローズギャングを取り囲んだ。bon_Blanche1933.jpg
クライド、ボニー、ジョーンズは徒歩で逃げたものの、バックは傷で逃げられず、妻ブランチも目が見えない状態では逮捕されるしかなかった。

1933年7月29日:バックは、アイオワ州の病院で手術を受けたが死亡した。
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ボニー&クライド実話

後期の強盗と殺人

1933年7月〜8月:バローズギャングの残り3人は、その後も従来の犯行地から遠く離れた地域で、なおも武装強盗を続けた。
1933年8月20日:イリノイ州の武器庫を襲い、武器を補充し大量の弾薬を手に入れた。
1933年9月上旬:ギャングは家族と会うためにダラスに戻る危険を冒した。ジョーンズはボニーとクライドと別れヒューストンに向かい11月16日に逮捕された。
1933年秋:クライドは家族と会いボニーの火傷の治癒を待つ間、地元の共犯者たちと何件かの強盗を犯す。
1933年11月22日:テキサス州ソワーズ近くで、家族との密会を警察に知られて逮捕の危機に陥る。
ダラス保安官スムットシュミット、副ボブアルコーン、副テッドテッドヒントンが会合地点に待機し、機関銃と小銃を発砲しクライドとボニーの両名の足が負傷したものの脱出した。
1933年11月28日:ダラスの大陪審は、ボニーとクライドが殺害を犯したとして起訴した。それはボニーにとっての最初の殺人令状だった。
1934年1月16日:クライドはイーストハム刑務所に受刑している仲間、ハミルトン、メスビン、他数人を脱獄させ、そのさい2人の刑務官を射殺した。
テキサス州と連邦政府は、総力を上げ捜索に入りテキサス州警察は、元テキサスレンジャー隊長フランク・ヘイマーを招集しバローギャング追跡の特命を下した。b-Frank1920s.jpg
<フランク・ヘイマー>
公式に53人の犯人を死に至らしめ、自らも17カ所の傷を負った、歴戦の強者、ハマーは背が高く、たくましく、無口で、権威に屈せず「彼の正義への信念と正義への厳格な遵守」に駆り立てられました。20年間、彼はテキサス州全体で「1人の暴徒、一人のレンジャー」精神の歩く見本として恐れられ、称賛されてきた。彼は「いくつかの大規模な逮捕劇と多くのテキサス州犯罪者の射殺の結果として勇名を馳せた」

1934年4月1日:クライドとメスビンとボニーは車で移動中、テキサス州グレイプバインでハイウェーパトロールのH・D・マーフィーとエドワード・ブライアント・ウィーラーを殺害した。
この時ボニーは後部座席で眠っていたにもかかわらず、警察発表はボニーがハイウェーパトロールの頭を撃ちながら笑っていたとされ、世論はバローギャングに対する非難を高める。

更に殺された、マーフィーの婚約者が彼の葬儀に着るはずだったウェディングドレスで参列し、世間の同情を買った。
否定的な報道が高まるにつれ、バローギャングへの世間の風当たりは強くなり、当局はギャングに賞金をかけた。

1934年4月6日:クライドとメスビンがオクラホマ州コマース近郊で男手ひとつで子育てをする60歳のウィリアム "カル"キャンベル巡査を殺害し、更に世論は厳しさを増した。警官キャンベル殺害にもボニーが関与したと見なされ、その悪評を高めた。
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ボニー&クライド実話

2人の最後

・フランク・ヘイマーは捜索隊を率いてバローギャングの行動を追い、5つの中西部の州の特定ルートをバローギャングが周回していることを発見した。
・ヘイマーはそのルートを図にし、彼らの行動を追って行った。ギャング団の向かう先には親族がおり、次の行先はルイジアナ州のメスビン(写真)の家族に会うと予測した。
bon_Methvin1931.jpg・そこで、メスビンの父と接触し、クライドとボニーを罠にかけるため協力を約束させた。
メスビンはクライドとボニーと別れ、ルイジアナ州道154号線沿いビエンビル郡の田舎道で合流する約束をし、待ち伏せのお膳立てをした。

1934年5月21日:クライドとボニーがその夜メスビンの家に向かうと知り、テキサスの4人の警護団メンバーが待機した。
1934年5月22日:警官隊はそこで待ち伏せ、2日目も終日待機した。
1934年5月23日:バローギャングの強盗事件の情報が入り、警官隊は茂みの中で失敗を覚悟した。
しかし、警察の公式文書によれば、午前9時15分頃、トラックのパンク修理のふりをして待ち受けていたメスビンの父親は、クライドの車を止め話をし、クライドの注意をそらすと父親は荷台の下に隠れた。

・警官の襲撃隊はテキサス・レンジャーのヘイマー、ヒントン、アルコーン、B・M・ゴート、ルイジアナ州の警官ヘンダーソン・ジョーダンとプレンティス・モレル・オークリーで編成されていた。
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前列左より、アルコーン、ジョーダン、へイマー:後段左より: ヒントン、オークリー、ゴート
約130発の弾丸を発射した。警官のオークリーが最初に発砲し、クライドはその頭部に受けた弾丸で即死だった。警官のヒントンは撃つ前、クライドの死を知ったボニーが悲鳴を上げるのを、聞いたと報告している。
・銃撃直後の写真映像は車両に112個の弾痕があり、その約4分の1が2人に達した事を物語っていた。
・正式には、警察検死官 JLウェイド博士の1934年の調書では、クライドの体に17カ所の弾痕があり、ボニーには26の入射口が有ったとされる。2人の車には、十丁の銃と数千発の弾薬、各州15セットのナンバープレートが残っていた。
・ハマー、ジョーダン、オークリー、およびヒントンは、報告のため町に向かい、ゴートとアルコーンは現場保持のため残されたが、彼らは事件現場は集まって来た野次馬の混乱を制御できなかった。
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・ある女性は、ボニーの毛髪と彼女の服の一部を切り取り、後に土産として販売した。更にクライドの人差し指を切り取ろうとしている男もいた。
・ほぼ全員が、銃弾の薬きょう、窓ガラスの破片、ボニーとクライドの血染め衣服の収集をし始めた。ある男はナイフで、クライドの左耳を切断した。
・遺体は死体がまだ残っているフォードをルイジアナ州アルカディアのダウンタウンにあるコンガー家具店と葬儀場に牽引し、そこで死体処理が行われた。
・その時、ルイジアナ州北西部の町の人口は数時間以内に2,000人から12,000人に増加したと伝えられている。
・好奇心旺盛な人が電車、乗馬、飛行機などで押し寄せ、ビールは15セントが25セントに跳ね上がり、サンドイッチはすぐ完売となった。
ボニーとクライドの最後を報じた新聞は、ダラスだけでも50万部を売上げた。

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ボニー&クライド実話

葬儀と事件後の処理

<葬儀>
・ボニーとクライドは並んで埋葬されるのが願いだったが、ボニー家はそれを許さなかった。
・ボニーの母親は家に彼女を搬入したいと望んだが、群衆が家を取り巻きそれを不可能にした。bon_Clyde_grave.jpg
・5月26日に行われたボニーの葬儀にも 20,000人以上が参集し、彼女の家族がその墓地に達するのを妨げた。その葬儀には花輪が全米から届けられたという。(写真上:ボニーの墓)
・5月25日の日没クライドの葬儀が始まり、そこにも数千の人々が一目遺体を見ようと集まっていた。
・彼はダラスのウエスタンハイツ墓地(写真下:クライドの墓) に、弟のマーヴィンの隣に埋葬された。
・バロー兄弟は、名前が記載された1つの墓石を共有しています。
<事件の余波>
・1935年2月、ダラスと連邦当局は、クライドとボニーを助け、それを禁じたとして20人の家族と友人を逮捕し、裁判にかけた20人全員が有罪を認めるか、有罪となった。2人の母親は30日間投獄された。
・他の被告としては、ブランチ、ジョーンズ、メスビン、ボニーの姉のビリーが含まれた。
<ブランチ>
・ブランチは、1933年のデクスフィールドパークでの銃撃戦により、左目が永久に盲目となった。bon_Blanche.jpg
・彼女は有罪判決を受け、懲役10年の刑に服した、1939年に仮釈放され、ダラスで父親と暮らした。
・1940年に彼女はエディ・フレアと結婚し、1969年に癌で亡くなるまで、夫と平穏に暮らした。
・1967年の映画化の際、ウォーレンビーティは彼女の承認を得たが、映画でアカデミー賞に輝いたエステルパーソンズのキャラクターには異を唱えた。
・1988年12月24日、77歳で癌で亡くなった。
<死亡時のフォード車>
・弾丸だらけのフォードは人気の観光名所となった。展示会、遊園地、で30年間展示され、ネバダ州の競馬場の備品になった。
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・1980年代にはラスベガス自動車博物館に展示され、アイオワ、ミズーリ、ネバダでも回覧された。

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映画『俺達に明日はない』考察


この映画は、冒頭でも書いたように、細かな部分まで事実を押さえている。
刑務所で、足の指を切ったとか、警察に襲われるシーンとか、そのラストの罠まで含め、実話を調べてみれば本当に良く再現したものだと思う。
ところが、実話と映画で決定的に違うのは、この2人が犯した「残忍な殺人」を極力隠していることだ。
そして同時に、2人の恋愛関係を殊更に描くことで、その犯罪的性格を極力薄め「ヒーロー・ヒロイン」としての「英雄性」を高めようと意図していることだ。

これは、ドラマをより劇的に表現するためもあるだろう。

しかし、その「英雄的描写」の根源には1960年代の「反政府的・反権威的」な社会風潮を背景とした、「ボニーとクライドの義賊化」を目論んだものだと感じる。
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そして、その試みはラストの権威にズタズタに切り裂かれるシーンにより、明らかに成功を収めたと信じる。



posted by ヒラヒ・S at 17:00| Comment(0) | アメリカ映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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