2020年04月23日

キューブリック監督『時計仕掛けのオレンジ』サイコパスが輝く危険な青春映画/簡単あらすじ・解説・10代と大人社会・映画解釈

映画『時計仕掛けのオレンジ』(考察・解説・評価 編)

原題 Clockwork Orange
製作国 アメリカ
製作年 1971
上映時間 136分
監督 スタンリー・キューブリック
脚本 スタンリー・キューブリック
原作 アンソニー・バージェス

評価:★★★☆  3.5



天才監督キューブリックの手にかかれば、この世の全ては「美の衝撃」を生むモチーフとなる。
この映画も例外ではない。10代の無軌道な欲望と暴力を、シャープでスタイリッシュに描き出し、強烈なインパクトを残した。

しかし、この作品は「暴力賛美」だと当時の英国社会から批判を浴び、ついにはキューブリック監督自身が公開を止める事態となった。

私個人は、映画としての完成度が高く、優れた映像美を持つこの作品を愛しつつ、その「美」が語られる内容に相応しいのかと、見るたび自問自答するが、判断を下しかねている作品なのである・・・・・・

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<目次>
映画『時計仕掛けのオレンジ』簡単あらすじ
映画『時計仕掛けのオレンジ』予告・出演者
映画『時計仕掛けのオレンジ』解説/国家と個人の暴力
映画『時計仕掛けのオレンジ』考察/映画の評価

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映画『時計仕掛けのオレン』簡単あらすじ

近未来のロンドン。主人公のアレックスは、仲間と共に、強盗、レイプ、チーム間の抗争など、夜の街で暴れまわっていた。そんな彼は、昼は中流階級の両親の家でおとなしく振舞い、ベートーベンをこよなく愛している。そんな彼は、ある晩一軒の家に押し入り、仲間の裏切りに会い警察に逮捕された。刑務所に入れられたアレックスは、新たな矯正プログラムがある事を知り立候補し、2週間の吐き気を催すような治験の後、人に暴力を振るうことも、性的な衝動も、生理的に受け入れない体になっていた。そんな状態で社会に復帰した彼は、親に疎まれ、かつての仲間に暴行を受け、傷つきさ迷った末に、かつて強盗に入った家に助けを求めた。住人の被害者は、彼が犯人であると気付き、復讐を決意するー

映画『時計仕掛けのオレンジ』予告

映画『時計仕掛けのオレンジ』出演者

アレックス(マルコム・マクダウェル)/ディム(ウォーレン・クラーク)/ジョージー(ジェームズ・マーカス)/ピート(マイケル・ターン)/老浮浪者(ポール・ファレル)/ビリー・ボーイ(リチャード・コンノート)/ミスター・フランク(パトリック・マギー)/ミセス・アレクサンダー(エイドリアン・コリ)/キャットレディ(ミリアム・カーリン)/保護観察官デルトイド(オーブリー・モリス)/警官トム(スティーヴン・バーコフ)/バーンズ看守長(マイケル・ベイツ)/牧師(ゴッドフリー・クイグリー)/女医(マッジ・ライアン)/主人公の父親(フィリップ・ストーン)/母親(シェイラ・レイナー)/下宿人ジョー(クライヴ・フランシス)/内務大臣(アンソニー・シャープ)/精神科医(ポーリーン・テイラー)


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映画『時計仕掛けのオレンジ』解説

「サイコパス」と「暴力装置=国家」

映画は、その歴史の初めから「悪」をヒーローとして描いてきた事実を指摘した。
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しかし、この映画『時計仕掛けのオレンジ』の描く悪漢は、過去に例を見ないユニークさがある。
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この15歳の少年アレックスの持つ、暴力や強奪そしてレイプなど「欲望の暴走」は、自らの欲求を「快感原則」の命ずるまま、野放図に開放しているからだ。

そのキャラクターで真に恐ろしい点は、反社会的な行為を成す際に、通常覚えるであろう「良心の呵責」や「罪悪感」が見事に無い点にある。
この「暴力の快感」から「抑止力」を喪った存在、アレックス。
彼が表したのは、人間が密かに持つ原初的な破壊衝動や、反社会的行動に「快」が潜んでいるという真実であり、さらにその欲望に浸る姿がキューブリックの映像美により、美しくすら描かれてしまった。
つまり、世界初の「サイコパス礼賛映画」なのだと思える。
実を言えば、この映画が発表されて以降「サイコパス=快感犯罪者=モラル喪失者」を扱った映画も、数々撮られた。
しかし、ここまで「サイコパス」を美しく描いた映画を、私は知らない。

強いて挙げれば、コーエン兄弟の『ノー・カントリー』で描かれた、殺人者シガーがアレックすに匹敵する魅力を発揮しているだろうか・・・・・
関連レビュー:サイコパス「シガー」の凄味
『ノーカントリー』
アカデミー賞4部門受賞!超難解コーエン監督の傑作映画
恐怖の殺人者シガーを君は見たか?

それにした所で、シガーを「ヒーロー=真・善・美」として描いているわけではないので、やはりこの映画『時計仕掛けのオレンジ』は空前絶後の映画であるかも知れない。

やはり共同体内で生きることを義務付けられた人間を描く時、サイコパスを英雄として描く事は、反社会的な難事業であるだろう。

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いずれにしても人間は、なにも「しつけ」ず、共同体内での利益の共有のための自己規制を「学習」しなければ、この少年アレックスのように人を傷付け、その財産を奪っても、むしろ歓喜の中で生き得るとこの映画は言う。

あたかも、嬰児が「快」刺激にシンプルに反応するような、人の持つ「暴力」情動の実際を暴いてしまった。
その危険な主張に対し、映画では「社会=大人」はあの手この手で、その欲望の制御と社会的モラルを身に付けさせようと奮闘する。

しかし、彼らの主張は10代の主人公に届かない。
考えてみれば、若者に大人達の道理が届かないのは、「社会=大人=国家」自体が欺瞞を内包しているからだったろう。

映画内で描かれた「ナチスドイツ」や、この映画製作当時に遂行されていた「ベトナム戦争」など、「国家」がその優越的な「力=権力」を行使し、社会が求める利益を達成するため、若者の命を捧げよと命じていた事実を見れば、若者たちが反発するのも当然である。
つまり、国家という「大人社会の権力」は、他ならぬその国家に帰属する個人に「暴力の義務」の履行を求めたのであった。

その両者、国家に強制される暴力と、1個人がその欲望でふるう「暴力の行使」と、どちらが惨たらしく、よりその被害が大きいかは一目瞭然であろう。
このアレックスの暴力が否定されるのであれば、同時に「大人社会=国家権力の行使」も否定されなければならない。

映画で10代の欲望をコントロールしようとする、大人達が行使するのも結局形を変えた暴力なのである。
そもそも国家とは「暴力装置」と呼ばれるように、権力に基づき、国家が定めた法を逸脱した者に対して「罰=暴力」を与える。

アレックスが警察で痛めつけられ、刑務所でヒットラーと見間違うような看守長に支配され、内務大臣の権力のもと人格改造され、更に無防備で社会に放り出された彼は、世間という裁判官によって傷つけられ、命すら狙われる。
この大人達の暴力行使の描写は、アレックスの美を込めた表現に比べ、どれほど卑怯で、醜く、姑息で、醜悪に描かれているか。

この薄汚い暴力として描かれた大人社会の姿を見てはなおさら、管理規制が強い現代社会を生きる10代にとって、自身の心の奥にマグマのように吹き出る衝動を代弁する映画として見えるだろう。

そんな社会の欺瞞を、その鋭敏な感受性で捉える「少年」がこの映画は見ればどうだろう。

このアレックスの、溢れんばかりの欲望の美しく爽快な暴力描写は、若者の持つ「欲望=大人社会の否定」の象徴として輝くだろう。

強い生命力に満ち、欲望の開放を常に求めざるを得ない若者達は、大いアレックスに共感し、アレックスをカリスマとするに違いない。

それは、主張は違えど、かつての青春映画『理由なき反抗』が描いた、子供の欲望を認めない大人社会に対する抗議と同様の構造を持っているように思える。
関連レビュー:世界初の「青春映画」
『理由なき反抗』
伝説のジェームス・ディーン演じる若者の主張
青春映画を彩る映画スターの変遷

そういう意味で、この映画は暴力と悪徳に満ちてはいるものの「青春映画」として、若者の心を掴み続けるだろうし、永遠の光輝を放ち続けるはずだ。

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映画『時計仕掛けのオレンジ』考察

映画の評価

この映画のアレックスのあまりの輝かしさがもたらす「暴力讃美」の魔力を、私個人がどう消化すべきか逡巡し、この映画の評価を未だ決めかねている。

やはり、公序良俗に従うのであれば、国家の暴力同様、主人公アレックスの暴力も、惨たらしく、残酷で、嫌悪感を催させる描写にすべきだったと思える。
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物語の軸足は、10代の少年の暴力を矯正するために、その人権を無視して国家的な刑罰を与えても良いのかという問いであったろう。
その回答として、映画は主人公が完全にその自由意思を回復したという描写により、やはり国家が悪であり主人公が善であるという捉え方をしていると見える。

主人公が善であるという情報は、主人公のスタイリッシュで魅力的な描写によって、作品内で更に強められているだろう。
この映画のメッセージを好意的に解釈してみよう。
・国家は国民の自由や生命財産すら恣意的に裁断し、「凶悪な暴力=戦争」をすら引き起こす社会を作り上げた。
・その国家の一員として組み込まれ組織化された、「時計仕掛け」のような現代人の姿が主人公に象徴されている。
・その社会的構成員という義務と管理から飛び出すためのパワーを、10代の青年の持つ「オレンジ」のような新鮮な欲望の発現によって回復すべきだ。

そんな訴えだと見ることも可能だ。
しかし、再び問わざるを得ない。

国家の管理と個人の自由を描くにあたり、本当にこの少年の性格付けと、反モラルの暴力を美しく描く必要があっただろうか?

仮に、この少年が善良で模範的な性格でありながら、国家の暴力により洗脳され、暴力的な衝動を糧に自由意志を取り戻し、国家に対してテロ行為に走るという文脈であってはなぜいけないのか?

そんな主人公の闘う姿であれば、どれほど魅力的に暴力シーンを描いたとしても納得できるものだったろう。

やはり、この、15歳の、小狡く、さもしい、利己的な欲望の噴出を「善」と見なせるように描くことは罪である。

その罪を表現したこの映画に対し、やはりまだ逡巡せざるを得ない・・・・・・

天才キューブリックがこの映画で示した、世界の森羅万象を自らの審美感の下、完璧に「映画小宇宙」として美しく表現し得る、その映像技術の高さに対しては満点を与えなければ、映画に対する冒涜となるだろう。

しかし、描かれた対象によっては、美しく表現されてはならない事象も存在すると、個人的には信じる。

結局、キューブリックも、英国での『時計仕掛けのオレンジ』公開の禁止を決断せざるを得なかったという事実から、その事を知ったのではないか――




posted by ヒラヒ at 17:00| Comment(0) | アメリカ映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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