2020年03月30日

映画『時計仕掛けのオレンジ』なぜか怖い!危険な青春物語/感想・解説・暴力と美・ピカレスクロマン

映画『時計仕掛けのオレンジ』(感想・解説 編)

原題 Clockwork Orange
製作国 アメリカ
製作年 1971
上映時間 136分
監督 スタンリー・キューブリック
脚本 スタンリー・キューブリック
原作 アンソニー・バージェス


評価:★★★☆  3.5




天才監督キューブリックの手にかかれば、この世の全ては「美の衝撃」を生むモチーフとなる。
この映画も例外ではない。10代の無軌道な欲望と暴力を、シャープでスタイリッシュに描き出し、強烈なインパクトを残した。

しかし、この作品は「暴力賛美」だと当時の英国社会から批判を浴び、ついにはキューブリック監督自身が公開を止める事態となった・・・・・

私個人は、映画としての完成度が高く、優れた映像美を持つこの作品を愛しつつ、その「美」が語られる内容との整合性に苦しみ、見るたびに何かしらの恐怖を覚える作品なのである。
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<目次>
映画『時計仕掛けのオレンジ』感想
映画『時計仕掛けのオレンジ』解説/ピカレスクロマン
映画『時計仕掛けのオレンジ』考察/ビジュアリスとしてのキューブリック
映画『時計仕掛けのオレンジ』解説/英国社会の「暴力賛美」批判

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映画『時計仕掛けのオレンジ』予告


映画『時計仕掛けのオレンジ』出演者

アレックス(マルコム・マクダウェル)/ディム(ウォーレン・クラーク)/ジョージー(ジェームズ・マーカス)/ピート(マイケル・ターン)/老浮浪者(ポール・ファレル)/ビリー・ボーイ(リチャード・コンノート)/ミスター・フランク(パトリック・マギー)/ミセス・アレクサンダー(エイドリアン・コリ)/キャットレディ(ミリアム・カーリン)/保護観察官デルトイド(オーブリー・モリス)/警官トム(スティーヴン・バーコフ)/バーンズ看守長(マイケル・ベイツ)/牧師(ゴッドフリー・クイグリー)/女医(マッジ・ライアン)/主人公の父親(フィリップ・ストーン)/母親(シェイラ・レイナー)/下宿人ジョー(クライヴ・フランシス)/内務大臣(アンソニー・シャープ)/精神科医(ポーリーン・テイラー)
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映画『時計仕掛けのオレンジ』感想


この映画は何とも魅力的で、それゆえ危険な力を、観客に対して及ぼすように思える。

この映画が魅力的なのは、やはり天才キューブリックのあまりにも完璧な、ヴィジュアルの完成度の高さゆえだろう。
そして、この映画が危険なのは、その語られている内容が様々な「暴力」であるからだ。

率直に言ってこの映画は、美しく魅惑的な暴力行為を描いていると感じる。
<フラットブラックマリーナの暴力シーン>
監督のキューブリックは、主人公アレックスの暴力シーンを、バレエダンサーのような動きで華麗に、スローモーションを使い、クラッシック音楽に乗せて優雅に描く。

まるで賛美するかのように、その主人公の無軌道な暴力を描写をしつつ、なぜその描写をしたのか作中で明瞭に回答を提示しているとは思われない。

つまりは、暴力に対し肯定的であるのか、否定的であるのか、その判断を下すだけの情報を提供していない。

私は、このスタイリッシュでクールなこの映画を愛しつつ、それでもこの作品の表している暴力の意味を掴みかねて、見るたびに逡巡を重ねている。

以下の文章で、この映画が描く「暴力と美」を追求・整理していくことで、自らのフラストレーションが解決する事を期待している・・・・

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映画『時計仕掛けのオレンジ』解説

映画と暴力描写(ピカレスクロマン)

映画と暴力とは、手に手を携え社会に伝播して行ったというのは、誇張に過ぎるにしても、間違いなく映像というメディアにとって、暴力表現はドル箱として存在して来た。

つまるところ、その誕生から映画とは刺激物であり、より過激な刺激を求めてその表現を、今なお拡大し続けている。

その一端として小説でいう所のピカレスクロマン(悪漢小説や悪者小説)も、重要な刺激物として存在した。
社会的に見て害をなす、犯罪者や、悪人などを、ヒーロー(主人公)として描き、数々の映画が撮られてきたのである。

Film2-PinkBar.png○1903年のサイレント映画で、アクション西部劇の最初の一本、エドウィン・S・ポーター監督『大列車強盗』

西武劇アクションはブロンチョ・ビリー・アンダーソンやウィリアム・S・ハートなど連続活劇のスターを生み出し、ハリウッド映画に欠かせないジャンルとなる。
<ウィリアム・S・ハート>
(上:2016年カリフォルニアで開かれた、ウィリアム.Sハートの遺品のオークションを告知する動画)


1921年に禁酒法が施政されると、ギャングが密造酒の販売により利益を上げ、ローリング・トゥエンティーズと呼ばれる狂乱の時代に突入する。そんな時代を反映しギャングをヒーローとして描いた映画が生まれた。
Film2-PinkBar.png○1927年パラマウントの『暗黒街』が悪漢をヒーローとして描いた最初の作品。
この映画によって「ギャング映画の基本的な要素」悪者のヒーロー、不吉な夜の街並み、警官が主人公を倒す激しいフィナーレなどが、確立されたと言われる。

Film2-PinkBar.png○トーキー映画の時代に入ると、機関銃の銃声や凄味のある「ヤクザなタンカ」が観客の心を掴み、ギャング映画は大ブームとなった。
ワーナースタジオはリアリズム・ギャング映画と銘打ち、アル・カポネ、ジョン・デリンジャーなど実在ギャングをモデルにした作品をヒットさせた。
『犯罪王リコ』(1930)や『民衆の敵』(1931)が当時を代表するギャング映画。

Film2-PinkBar.png○1932年のアル・カポネをモデルとした『暗黒街の顔役』(1932)は、その内容の過激さから物議を呼んだ。

このギャング映画のジャンルからジェームズ・キャグニーなどの大スターが生まれた。
しかし1932年に禁酒法が撤廃されると、大恐慌の時代でもあり、ギャング映画の製作本数は減少。

Film2-PinkBar.png○1934年、ハリウッド映画界の厳格な倫理規定「ヘイズコード」が施行され、社会的な公序良俗に則った作品製作が課せられ、従来のギャング映画は消滅。
関連レビュー:ハリウッド倫理規定「ヘイズコード」
映画『陽の当たる場所』
エリザベス・テーラーとロック・ハドソン主演のオスカー受賞作
ヘイズコードの実際と弊害
ヘイズコード以前の時代を、プリコード(規制前)ハリウッドと呼び、その後1960年代後半に始まるアメリカンニューシネマで描かれるまで、これらの悪者を主人公とするような暴力や犯罪描写はハリウッド映画から姿を消す。

Film2-PinkBar.png○アメリカンニューシネマは、悪人を主人公とし、激しい暴力シーンが描かれた。
『俺たちに明日はない』(1967)、イージーライダー( 1969年)、ソルジャー・ブルー(1970)
関連レビュー:アメリカンニューシネマの時代背景
映画『イージー・ライダー』
チョッパー・ハーレーで旅する若者の物語
アメリカンニューシネマと60年代カウンターカルチャー
これらのアメリカンニューシネマが描いたのは、当時のアメリカ国内のベトナム戦争や公民権運動を背景とした、社会に対する反抗や否定だった。

Film2-PinkBar.png○1969年のサム・ペキンパー監督『ワイルドバンチ』、1968年ジヨージ・A・ロメロ監督の『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』
これらの映画も激しい暴力描写や、傷つき血まみれの食人行為などが描かれたが、不安な社会情勢(ベトナム戦争や公民権運動)を反映した、過激なファンタジー(寓話)だったと思える。
関連レビュー:ゾンビの誕生と人間の破壊
『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』
ジョージ・A・ロメロ監督作品の古典的ホラー
ゾンビの誕生と近代文明と神の喪失


Film2-PinkBar.png○1971年の『ダーティハリー』と『わらの犬』でも過激な暴力が行使されるが、正義の名のもとに悪人を倒す行為として描かれた。
関連レビュー:警官と暴力の関係
『ダーティハリー』
クリント・イーストウッドの大ヒット刑事アクション
警官が悪党を撃ちまくる映画のパイオニア

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上で見てきたように、これまでの映画でも悪人が主役で暴力が振るわれる映画が数多く取られてきた。
しかし、映画初期にあっては勧善懲悪のエンディングが描かれ、後期にあっては、犯罪者や悪人である事の必然性や、過激な暴力描写の振るわれる背景とその必然性が、作中で観客に納得できるように描かれていたのである。

ところが、この映画のアレックスの、モラルに反した利己的な欲望の奔流のような「暴力」は、主人公のサイコパス的性格も相まって、何ら肯定すべき必然性が物語に見当たらない。

これは本当に映画史、いや人類の表現史を紐解いても、異様な表現であると思われる。

つまりは、彼の存在とは、何の弁明も出来ない点で「絶対悪」であり、その「絶対悪」を美しく魅力的に描き出している点で、空前絶後の作品かも知れない―
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映画『時計仕掛けのオレンジ』解説

ビジュアリストとしてのスタンリー・キュブリック

この映画を撮った、スタンリー・キュブリックという監督の作品を見るとき、常にその映像の完成度に胸打たれる。
この人がスゴイのは、SFや文芸作品、戦争映画にホラー、さらにはコメディーまで撮る、そのバラエティーの豊富さ以上に、そのどれもが高い完成度を見せ、そのジャンルで高い評価を常に勝ち得ている事だ。

例えば、その証拠に様々な映画のランキングを見れば、その中に必ずと言っていいほど何本かの同監督作品を見出すはずだ。
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これだけ、幅が広く、しかもストリーテーリング(物語的説明力)に関しては、むしろ不親切なこの作家が、なぜかくも見る者の心を打つのかと常々考えていた。

同監督の持つ表現力の秘密とは何か?

その秘密の答えを、この映画を見ることで発見したと思う。
この映画で描かれた近未来のサイコパス的暴力を描いて、かくも美しく、スタイリッシュに、先鋭的で、先進的で、魅力的に描くことが可能な「高度なビジュアル表現=映像力」こそ、この監督の全てだと言いたい。

この監督は、その余人にまねのできない高い完成度のビジュアルを生み出すために、決して妥協しないし、決して諦めない。

例えばそれは、『シャイニング』で「ジャック・ニコルソン叩き割ったドアの裂け目から顔を出す、狂気に満ちたシーン」は、わずか2秒に、2週間を費やし190以上のテイクを撮った結果だった。
関連レビュー:永遠に怖いホラー映画の傑作!
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キューブリック監督とジャック・ニコルソンの狂気

例えばそれは、『2001年宇宙の旅』で示した、CGという言葉自体世界中のどこにもない年代で作られたにもかかわらず、今見ても圧倒的な未来風景に示されている。
関連レビュー:キューブリック監督の映像美
『2001年宇宙の旅』
天才キューブリックのSF映画の金字塔
超難解映画の未来世界

そして、この映画の少年アレックス。

その暴力行為に関しても、その凶暴さや、無慈悲さ、狡賢さを、華麗にスタイリッシュに、美しくすら描写している。

この表現が美しいがゆえに、この少年の犯罪行為自体を美しく、スタイリッシュに模倣しようと願う「エピゴーネン=模倣者」が生まれるのも当然かとも思う。

それは、映画や芸術内の模倣だけではなく、現実世界においても模倣されたのである。

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映画『時計仕掛けのオレンジ』解説

社会の「暴力賛美批判」

『時計仕掛けのオレンジ』が登場したのは、政治家や市民グループが、画面上の暴力の増加に危機感を抱き始めた時期の英国だった。
しかし、実際にはイギリスの映画倫理審査は当局により認められ、結果的に1971年には全編カットなしで劇場公開されている。
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しかし、公開後の2年間、英国人はこの映画について議論し、芸術性と社会的関連性を賞賛する者と、暴力を美化する表現を非難する者とに分かれた。

キューブリック監督自身は1972年、1本の映画が暴力的な行動を惹起する可能性があるという意見に反対を表明する。
しかし、英国で発生した事件で映画に触発されたとされる一連の「模倣」犯罪が起きており、マスコミも大々的に報道した。
キューブリックは映画の一般公開を1年延期し、論争が終結するまで1劇場の限定公開とした。
しかし、論争は止まず、1973年キューブリックは抗議活動の継続に失望し、英国での『時計仕掛けのオレンジ』公開を禁止した。
その決定をした後、オランダで少女のレイプ事件が発生し、その時犯人は映画のアレックスのように『雨に唄えば』を歌いながら暴行したという。

明らかに、自身の現状に不満を抱き、そのストレスを何らかの形で吐き出したいと考える者は、この映画の「美しきアレックス」を見て、そこに自分の理想を見出す可能性を証明しているだろう。
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そう考えれば、この映画が証明したのは、仮に反社会的な事象であっても、才能のある作家が描くのであれば美として成立し、人を動かし得るという事実だ。
それはまるで「戦争プロパガンダ映画」の如く、人々の心を誘導し得るだろう。
結局のところ、見る者がその映画の持つ意味を、映画が語っている情報以上に、モラルや社会的正義を含め価値判断しなければ、現代の映画技術は安々と人の心を操る事が出来るという証明だろう。
公開後の経緯を見れば、キューブリック監督自体、その現実に与える「美の力」に後になってから気付いたのではないかとも思える。
ここには、映像の美を追求するあまり、モラルを超越してしまった作家の魂の「業」を感じる。
もちろん「暴力の美」は、ただキューブリックだけの罪ではなく、むしろ映画の歴史を通じ追求されてきた結果であるのは、上で見たとおりだが、明らかにキューブリックが言い訳の出来ない「罪悪」がこの映画にある。


それは、それまでの映画にあった「暴力行為の正当化」の欠如である。
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言ってみれば、それまでの映画には「暴力」の背後に「正義」や「抵抗」、または「悪を生んだ社会の告発」など、観客にとって口当たりの良いエクスキューズがあり、暴力シーンや破壊の壮大さを楽しんだ観客は、その暴力を正当化し自らを許すことが出来た。

しかし、この映画のアレックスの暴力は、その「正当化=言い訳」を一切持たない。
それは「絶対暴力=絶対悪」が、初めて肯定的に描かれた世界初の映画だった。

そして、その「絶対悪」が輝きを見せ、その「絶対暴力」に魅了された観客は気付いてしまう。
我々は、どんな形であれ「暴力を愛している」という真実をー

正義も抵抗も関係なく、ただ他者を傷つけ、破壊する行為に快感を感ずるという、人間存在に潜む根源的な「暴力願望=本能の存在」は、かつて精神分析学が見出した性的な欲望が人の根源的エネルギーであるという定義に匹敵する、恐るべき結論を突きつけるだろう。
この映画を見た純粋な10代の若者は、「大人達が隠し」「子供に禁じている」その事実「暴力への欲求の肯定」に鋭敏に反応し、その「暴力の行使」の誘惑に駆られるだろう。




posted by ヒラヒ・S at 17:00| Comment(0) | アメリカ映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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