2020年03月04日

映画『エイリアン』恐怖のおとぎ話!本当にエイリアンはいたのか?/感想・解説・ファンタジーと恐怖・リドリー・スコットが描くゴシック・ホラー

映画『エイリアン』(感想・解説 編)

原題 Alien
製作国アメリカ
製作年1979
上映時間 118分
監督 リドリー・スコット
脚本 ダン・オバノン
原案 ダン・オバノン 、ロナルド・シュセット


評価:★★★★☆ 4.5点



このエイリアンの第一作目を実際に見てみると、エイリアンの出現シーンがあまりに少ないことに驚く。

しかしその「闇=不可知」の恐怖として存在するからこそ、観客に自らの内の最大の恐怖を想起させると感じる。

この映画の恐怖の構造は、実に、そんな古典的な「おとぎ話」的恐怖を表現しているように思う・・・・・
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<目次>
映画『エイリアン』予告・出演者
映画『エイリアン』感想
映画『エイリアン』解説/ゴシック・ホラーのリアリティー
映画『エイリアン』考察/おとぎ話の発生とエイリアンの正体

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映画『エイリアン』予告

映画『エイリアン』出演者

ダラス(トム・スケリット)/一等航海士ケイン(ジョン・ハート)/科学担当アッシュ(イアン・ホルム)/技師パーカー(ヤフェット・コットー)/機関長ブレット(ハリー・ディーン・スタントン)/二等航海士リプリー(シガーニー・ウィーバー)/操縦士ランパート(ベロニカ・カートライト)

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映画『エイリアン』感想


この映画は、闇に潜む恐怖と、禍々しい破滅の予感に戦慄せざるを得ない、映画史に残る作品だろうと感じる。
その臨場感に溢れた、押し潰されるような重圧は、監督リドリー・スコットの優れたビジュアルセンスによって生み出されたことは間違いない。
<リドリー・スコット監督が語る!映画『エイリアン:コヴェナント』>

しかし実は、この映画で本来主役であるはずの「エイリアン」は、驚くほどその姿を見せない。

恐怖の対象が闇に隠れる中で、人間の確執や不信が、恐怖を増幅し、それは風船が徐々に膨らみ臨界点を迎えるように、ラストまで緊張感を切らせることを許さない。

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そんな、見えない恐怖は、いつしか不可知の恐怖としてのしかかり、それに翻弄される主人公リプリーの姿は、まるで魔女に魅入られた姫君のように思えた。
私にとって、この映画はSFの姿をした『眠れる森の美女=オーロラ姫』だとしか見えない。
その印象は、映画ラストの主人公が眠りにつく姿で、より確固たるものになった。

往々にして物語とは、社会的テーマを訴える明快な論理的ドラマよりも、人間感情に基づく不明瞭な混沌をもたらすドラマこそ、人間の根源的な、生物としての本能を揺さぶる力を持つのだと思える。

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そんな、人間の心の奥を刺激する物語を「おとぎ話=ファンタジー」と呼び、この映画の物語は「エイリアン」を隠すことで「恐怖の対象の不在」によって、より人間の無意識にある感情を揺り動かす、「ファンタジー構造」を持たせる事に成功したと感じた。

そもそも、おとぎ話とは人間が持つ、潜在意識に沈殿した不条理や不合理に形を与え、その歪みを吐き出す安全弁として成立し、語り継がれたのではなかったか?
つまりそこには、心の奥底の恐怖を抽出し、それを物語の上で解消することで、精神的なカタルシスを生むものであり、その対象が大事なのではなく、その機能が大事なのだといえる。

この映画は、見事にその「潜在的な歪み=恐怖」と「歪みの解消」の機能を保持している。
さらに、ファンタジーが「おとぎ話の機能」を優先するとすれば、その「歪みと解消」の対象は何でも構わないことになり、そこでは見る者自身の持つ「歪みと解消」の対象が適用できる汎用性を保持するだろう。

それゆえ、この映画は「ジェンダーという歪み」を感じている女性達にとって、「エイリアン=男性権力社会」に犯される「女性ジェンダー」と捕えることも可能になる。

さらに、男達が作り上げた世界が行き詰まりを見せる中、男性にとっても現代社会を救う存在として、救世主としての女性の登場を表現していると解釈する事も可能だろう。
つまり、「おとぎ話」という無意識下の情動を刺激する物語は、聞く者の数だけ解釈を生む汎用性の高い形式だと言える。
この映画は、そんな「おとぎ話構造」を「SFジャンル」の中で表現した傑作だと思う。

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映画『エイリアン』解説

ゴシック・ホラー=隠ぺいのリアリティー

この映画は闇に潜む恐怖を描いて、人の原初的恐怖、人類がまだ原始の時代を生きていたころの暗闇に潜む野獣の存在に震える、そんな潜在意識化の「畏れ」を強く刺激するだろう。

そんな恐怖の対象を直接描かない事によって、なおさら観客の中にある最も恐い存在を想起させる手法は、ゴシックホラーの表現に通じる、闇の存在を際立たせる手法に通じる。
ゴシック小説(ゴシックしょうせつ)とは18世紀末から19世紀初頭にかけて流行した神秘的、幻想的な小説。ゴシック・ロマンス(Gothic Romance)とも呼ばれ、その後ゴシック・ホラーなどのジャンルも含むことがあり、今日のSF小説やホラー小説の源流とも言われる。(wikipediaより)

その恐怖描写は、サイレント時代のホラー映画にも通じるものだ。

1922年の『吸血鬼ノスフェラトゥ』


1925年の映画『オペラ座の怪人』


その恐怖の対象を描かない事の効果は、スティーブン・スピルバーグ監督の『ジョーズ』(1975年)でも確認する事が出来る。

しかし、この描かない事の恐怖には、サイレント時代も含め、時のハリウッド映画界が持っていた特殊撮影のレベルの「低さ」が、むしろ功を奏しているようにも思う。

つまりは、「エイリアン」をリアリティーを持って描くには、1979年のハリウッド映画界ではまだCGなどの視覚効果(VFX)が充分整っていなかったのだ。
それゆえに、可能な限り「恐怖の隠ぺい=エイリアンの不可知化」を目指したことが、結果的にゴシック的なホラーの恐怖を発揮させたと感じる。
関連レビュー:表現の稚拙さと恐怖の関係
『ボディー・スナッチャー/恐怖の街 』
この映画はボッタクリなのか?
映画表現とリアリティーの関係とは?

つまり「不可知」である事、「不明瞭」である事が、無意識を刺激する「おとぎ話=ファンタジー」として重要であり、この映画は見事にその典型としての力を持つ作品だと感じた。

スピルバーグ監督が、『ジョーズ』に関して「たくさん見せていたら(恐怖が薄れ)失敗していただろう」と述懐しているが、隠すことの効果を言い表した名言だと思う。

しかし、近年の特殊撮影や特殊効果(SFX)・視覚効果(VFX)は精緻化し明確化の一途を辿る。
<アメリカ「アカデミー賞・映像効果受賞歴」>

それゆえ、ファンタジー的ジャンルとして語られる「幻想」や「SF」的作品が増えているのも関わらず、むしろその「ファンタジー的ドラマツルギー」が衰えているように思えてならない。

特に、この映画のように、それまで「おとぎ話=ファンタジー」として語られなかったジャンルを、ファンタジーに変換するには明快で精密な描写が邪魔をするようにも思える・・・・・・・・

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映画『エイリアン』考察

おとぎ話の発生とエイリアンの正体

この映画は「エイリアン」という恐怖を、最低限しか見せない事で成功したと書いた。

その恐怖の隠ぺいが物語に「おとぎ話=ファンタジー」の構造を付与し、その物語形式がそうであるように「無意識下の問題の抽出と解消」を促すと述べた。
関連レビュー:おとぎ話の語るモノ
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それゆえに、寓話と呼ばれるように、その物語の中に受け取る側の数だけ、さまざまのテーマを読むことが可能となる。

この映画は、そんな万人が持つ無意識下の問題を呼び覚ます、寓意性を獲得した希有の作品だと感じる。

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しかしながら、この映画『エイリアン』に関しては、むしろ個人的に全然違う解釈をしている。

人工睡眠から起き、全ての乗員が死に、主人公リプリーのみが生き残り再び眠りにつく。
その映画内で覚醒中として描かれたの出来事は、本当に起きた、現実の事だったのだろうか?

つまり、この映画のエイリアンは本当に実在したのかという問いである。
そのあまりの出現の少なさと、人が死ぬときに現れる残像のような影が、その実在に疑念を持たせた。

もちろん、エイリアンの続く映画を見た人々はエイリアンの実在を主張するだろうが、この作品単体で考えれば「エイリアン=妄想」という図式も十分成立する余地がある。
もし、この解釈に則るとすればこの「妄想=エイリアン」がなぜ生じたのだろうか。

私は、このエイリアンは、リプリーが生み出した妄想の「荒ぶる神」だったのではないかと疑っている。

それはあたかも、映画『ライフ・オブ・パイ』で描かれた、過酷な現実を生き抜くために生み出された救世主であり、心理的イコンのような存在だったのではないか。
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私が読み取ったこの映画の物語とは――
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それは、星に赴きエイリアンに取り付かれたケイン、そのケインを船内に迎え入れるか否かで緊張が高まり、主人公リプリーは周囲と摩擦を生む。

その摩擦は、リプリーの精神に負荷をかけ、アッシュに対する不信や、乗員との不信が生じる。
ケインの顔からエイリアンが消え、その死骸がリプリーに落ちた時、彼女の精神は破綻に向かう。
その死骸を巡る廃棄処分の問題でも、強硬に自説を主張し、船長と軋轢を生み孤立を深めた。
ケインが回復し、リプリーはエイリアンの不在と、自己の主張の間違いに気づき、更に追い詰められ彼女はケインの腹を裂き彼を殺害した。

周囲の驚く顔を尻目に、闇に潜んだ彼女は次から次へと船員を殺し続け、最後は母船を爆破し証拠隠滅をし、1人シャトルに乗り地球へと帰還した。
彼女の狂った精神は、自ら犯した罪の実行犯として、成長したエイリアンという幻影を生み出した・・・・・・・・・・

そんなリプリーの精神崩壊の末に生まれた「おとぎ話=ファンタジー」が、この映画『エイリアン』という物語だとするものだ。
そう捉えれば、この映画が語っているのは「おとぎ話成立」の過程なのだと思える。

つまり、人が現実世界で、人が耐えうる限界を超えた状況に陥った時、人はその自らの人格が破綻に陥る前に、その状況を自分以外の第三者が成した行為として偽装する。

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自らの崩壊を避けながら、現実を生きる上の苦肉の策である「幻想・幻影=ファンタジー」の発生は、自らの罪を無意識下に押込め、その生じている現実に対処するための苦肉の策であるだろう。

それを言い換えれば、辛い現実を直視し得ないがゆえに、「幻想」を免罪符として現実逃避を成すものかもしれない。

結局、生きるのが困難な現実の苦しみから逃れるために、人は幻想や伝説、そして「おとぎ話=ファンタジー」を生むのではなかったろうか。

この映画は、そんな「ファンタジー的伝承」の発生と成立を、見事に示した秀作であると感じた。



posted by ヒラヒ at 17:00| Comment(0) | アメリカ映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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