2020年03月18日

古典映画『市民ケーン』はゲイ映画?「ローズバッド=ばらのつぼみ」徹底考察/ネタバレ解説・ローズバッド意味・解釈・評価

映画『市民ケーン』(考察・ローズバッド解説 編)

原題 Citizen Kane
製作国 アメリカ
製作年 1941年
上映時間 119分
脚本 オーソン・ウェルズ 、ハーマン・J・マンキーウィッツ
撮影 グレッグ・トーランド


評価:★★★☆  3.5



映画史で不動の地位を獲得している,オーソン・ウェルズ監督の『市民ケーン』。
しかしウェルズは、実在した新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストの、プライバシーを含むゴシップ的な内容を、オチョクるように描いています。
更にこれだけではありません。そのプライバシー侵害の魔の手は更に深くハーストの私生活に伸びるのです・・・・

その象徴が、映画の冒頭で囁かれる「ローズバッド=バラのつぼみ」という言葉です・・・・・・・・・・・
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<目次>
映画『市民ケーン』予告・出演者
映画『市民ケーン』解説/映画「ローズバッド=バラのつぼみ」シーン
映画『市民ケーン』解説/ローズバッドは桃色の言葉?
映画『市民ケーン』解説/ローズバッド町山智浩さんの解釈
映画『市民ケーン』解説/私論ローズバッドはゲイを指す?
映画『市民ケーン』解説/ローズバッドと映画テーマ
映画『市民ケーン』解説/映画の評価

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映画『市民ケーン』予告


映画『市民ケーン』出演者

チャールズ・フォスター・ケーン(オーソン・ウェルズ)/ジェデッドアイア・リーランド(ジョゼフ・コットン)/スーザン・アレクサンダー(ドロシー・カミンゴア)/バーンステイン(エヴェレット・スローン)/ジェームズ・W・ゲティス(レイ・コリンズ)/ウォルター・サッチャー(ジョージ・クールリス)/メアリー・ケーン(アグネス・ムーアヘッド)/レイモンド(ポール・スチュアート)/エミリー・ノートン(ルース・ウォリック)/ハーバート・カーター(アースキン・サンフォード)/トンプソン(ウィリアム・アランド)/ジム・ケーン(ハリー・シャノン)/ロールストン(フィリップ・ヴァン・ツァント)/新聞記者1(アラン・ラッド)新聞記者2(アーサー・オコンネル)
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以下の文章は、映画の細部に関わる内容で「ネタバレ」しておりますので、当映画を見た方がお読みになる事をオススメします。
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映画『市民ケーン』解説

「ローズバッド=バラのつぼみ」シーン紹介

この映画の冒頭、謎の言葉「ローズバッド=バラのつぼみ」には、どんな意味が込められていたのか。
いろいろな説があり、公開当時から議論を生んだ、映画史上最も有名な「謎の言葉」かも知れません。
まずはそのシーンを紹介します。
オープニングシーン<バラのつぼみ(Rose Bud)>

映画では、この「ローズバッド」の意味するものを求めて、取材記者がケーンゆかりの人々を訪ねます。
しかし記者は最後に「真実は誰にも分からない」と去って行きます。
ラストシーン<バラのつぼみ(Rose Bud)のソリ>
しかし映画のラスト、暖炉で燃える、子供時代の思い出の「そり」に書かれた「ローズバッド」という文字が映し出されます。

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映画を作ったオーソン・ウェールズが1941年公開当時にロースバッドの意味を語っています。
「彼の潜在意識において、それは単純さ、安らぎ、とりわけ彼の生家の責任の欠如を表しており、それはケーンが求め続けた母親の愛の象徴でもあった」

この説明が、作品的に最も収まりの良い解釈でもあり、違和感のない説明かとも思いますが―――

しかし映画で語られた以上の意味が、この「ローズバッド」には含まれているとする諸説があり、ウェールズの性格からもこの公式見解の言葉を額面通りには受け止められません。

監督オーソン・ウェルズはこの映画のモデル新聞王ハーストを、その私生活も含め露悪的に描き、個人攻撃をしているからです。
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それゆえ、この謎の言葉「ローズバッド=バラのつぼみ」にも、ハーストの私生活の秘密が込められているというのが定説です。
それ以外にも、様様な説が語られていますので、以下そんな諸説を紹介してみたいと思います。

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○ハーストの趣味を表す「ローズバッド」

Film2-GrenBar.pngハーストの趣味が花作りだったから「ローズバッド」という、言葉を入れたというのが一つの説。
これであれば、この言葉はハーストがモデルであると、より明確にする効果があるでしょう。

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○ハーストの睦言「ローズバッド」

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しかしアメリカの評論家いわくこの言葉の核心は、もっとプライベートな部分にあるとしています。
「夜の営み」「性の交歓」つまりはSEXの時、恋人マリオン・デイヴィスの性器を「私のローズバッド」とハーストが呼んでいたというのです。
それは当時よく知られた秘密だったと言います。

そんな秘密の淫らな言葉が、映画の中で散々繰り返され、更にはそれが何を意味するのか記者が探し回るという、いじられかたです。
これはハーストでなくとも怒るでしょうし、正直オーソン・ウェルズの品位と良識を疑わざるを得ません。

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○町山智浩さんの「ローズバッド」

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更に、映画評論家の町山智浩氏の考察を挙げれば、上で紹介した内容の他に文学の古典『薔薇物語』の意趣が隠されていると仰っています。
その物語では「ローズバッド=性的な対象」として描かれ、それを追いかけて手に入らないことに性的な意味があり、それを手に入れれば喪ってしまうのだと述べておられます。
これは、映画に明示されない情報であっても、深く探索する評論家ならではのアナロジーでしょう。

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○私説「ローズバッド」

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そんな町山氏の例にならい、映画に埋めこまれた無意識を追求するならば、私も個人的に「ローズバッド」という言葉から、いくつかのイメージを想起しました。
一つは、英語「ローズバッド」が社交界デビュー前の少女を意味し、それは「バージニティー=処女性」をも含んだ言葉だという事です。
そんな事から考えれば、少年期から新聞を発行するに至る時期の、若々しい理想に燃えるケーンの姿を表す言葉であり、そしてその薔薇がどう無残に散ったかを描いている映画だと思ったりします。

しかし、更に「ローズバッド」という英単語を、スラング的用法にまで広げてみると―
そこには「肛門」という意味があり、更に転じて「性肛愛者=ゲイ」を指すというのです。
実は個人的には、この解釈が一番好きなのですが・・・・・・・・・

この映画の主人公ケーンは「ゲイ=同性愛者」だったのであり、その思いを寄せる相手はジョゼフ・コットン演じる無二の親友リーランドだったのではないか?
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映画の時代を考えれば、同性愛者だとばれれば身の破滅、必死に愛を隠して生きて行く事の矛盾に耐えきれず、身を持ち崩すという・・・・・・

そう思ってみると、それなりにそう見えてくる所が映画の面白い所です・・・・・

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映画『市民ケーン』解説

「ローズバッド=バラのつぼみ」の解釈

しかし、このように「ローズバッド」は様々な解釈が可能ながら、実はこの言葉は観客の好奇心を喚起する「手品のタネ」のようなものだと感じます。

それはヒッチコック映画の「マクガフイン(観客の興味を引き付けるタネ)」のようなもので、それに観客はまんまとハマり、引きずり回されたように思います。
年関連レビュー:映画の「マクガフイン」とは?
ヒッチコック映画『汚名』
ケイリー・グラントとイングリッド・バーグマン2大スターの共演!!
ヒッチコック映画の秘密の仕掛けとは?

結局、この「ローズバッド」の意味を追い求めた記者が最後に言うように、「その言葉の謎は、ジグゾーパズルの一片に過ぎない」のです。

個人的な解釈としては、この映画が真に語るのは「一人の人間の真実」は、この「ローズバッドのごとき謎」が数十年分折り重なった結果であり、それは本人や見る者によって様々な顔を持つ複雑で深遠なものだと語っていると考えています。

そして、この映画が、映画作品として最も輝きを増す解釈も、この「一人の人間の真実は、他人からは計り知れない」というテーマとして収斂させることだと信じています。

それは言うなれば、近代に「神の絶対性」を喪失した対価として生じた、近代人が等しく持つ「絶対的真実への懐疑」という言葉に置き換えられるでしょう。

そんなこの映画のテーマ性に深く心を打たれ、日本映画の巨匠黒澤明も『羅生門』で、まるで『市民ケーン』の脚本を踏襲したかのような脚本で、同様のテーマ「絶対的真実への懐疑」を語り国際的に高い評価を得ました。
関連レビュー:真実とは何か?
『羅生門』
戦後日本の真実を問う黒澤映画の傑作
各国の賞に輝く世界的に高評価の古典

私はこの映画は、近代合理が生んだ「人間存在の絶対性の喪失」を描いた傑作だと信じています。

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映画『市民ケーン』解説

映画の評価

ここで、この映画に対する私の評価に入りたいと思います。
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前項で、この映画は傑作だと書きながら、しかしそれでも評価は5点満点で★3.5です。

個人的には、この映画の脚本に高い評価を付けたいと思います。
この脚本構造自体の重層性がテーマを表現している点や、マクガフィンの使い方の巧みさは、後世の凝った映画と比較しても傑出していると感じます。
それゆえ、脚本自体に★3点は付けるべきでしょう。

また、この映画がパイオニアとなった、新たな表現手法が沢山あります。しかし、これ以降多くの映画が真似することで、その表現は現代の眼から見れば、かつての斬新さを喪って、手垢の付いた手法と成り果て、魅力的には見えないかもしれません。
それでも映画の持つ歴史的価値に対し、少なくとも★1点は与えなければ、映画史に対し敬意を欠く態度と言わざるを得ないでしょう。

さらに、この映画のオーソン・ウェールズは、当時25歳でありながらケーンの青年時代から晩年までを演じきったその演技力にも、★1点を加えたいと思います。
だとすれば、私はこの映画を満点とすべきなのです・・・・・・・・が、★3.5の評価しか与えられませんでした。

その理由は、本来完全なフィクション物語として成立させることもできる、ドラマとしての力と映画的表現力に満ちているこの完成度の高い映画を、メディア王ハーストの個人的なプライバシーを嘲笑するためのドラマにしてしまった点にあります。
つまりこの映画が、ハーストを個人攻撃し揶揄するために作られた(と世間に思わせた事)が、この映画の完成度を貶めていると感じるのです。

仮にこの映画から、ハーストに関わるゴシップ性や誹謗中傷が無くなれば、映画自体の質はより夾雑物が無い、純粋な作品として完結していたはずです。
私個人としては、映画とは独立した小宇宙であり、作品内で全てを語って欲しいと考える者です。

それゆえこの下世話なセレブのスキャンダルが、その作品の中心となったようなこの映画は、作品本来が持つ価値を下げてしまったとしか思えず★1.5を減点しました。

ホント、こんな下卑たコトしなければ良かったのに・・・・・・・




posted by ヒラヒ・S at 17:00| Comment(0) | アメリカ映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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