2019年11月10日

古典映画『アラバマ物語』秘められた過激な主張とは?/感想・ネタバレ解説・原題の意味・解釈

アラバマ物語(感想解説 編)

原題 To Kill a Mockingbird
製作国 アメリカ
製作年 1962年
上映時間 129分
監督 ロバート・マリガン
脚本 ホートン・フート
原作 ハーパー・リー


評価:★★★★ 4.0点



この映画は、かつてハリウッド映画が持っていた、ヒューマニズムが感動を呼ぶ1本です。
しかし同時に、幼い日々のノスタルジーを語った映画でもあります。
そして更には、無垢な子供達の心に映った、人種差別を問う作品でもあります。
1960年代アメリカを2分する「公民権運動」を、当時の厳しいヘイズコード(アメリカ映画界倫理規定)の中で描ききった、この映画の表現技術は大変高いものだと感じました。
またそこには、ていねいに砂糖をまぶして口当たりを良くしているものの、隠された強い主張を見い出します・・・・
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<目次>

映画『アラバマ物語』予告・出演者
映画『アラバマ物語』感想
映画『アラバマ物語』ネタバレ解説/原題『To Kill a Mockingbird』意味
映画『アラバマ物語』ネタバレ解説/人種差別反対の過激な主張
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映画『アラバマ物語』予告

映画『アラバマ物語』出演者

アティカス・フィンチ(グレゴリー・ペック)/スカウト(メアリー・バダム)/ジェム(フィリップ・アルフォード)/ディル・ハリス(ジョン・メグナ)/ヘック・テイト保安官(フランク・オーヴァートン)/モーディ・アトキンソン(ローズマリー・マーフィ)/デュボース夫人 (ルース・ホワイト)/トム・ロビンソン(ブロック・ピーターズ)/キャルパニア(エステル・エヴァンス)/タイラー判事(ポール・フィックス)/メイエラ・バイオレット・ユーエル(コリン・ウィルコックス)/ボブ・ユーエル(ジェームズ・アンダーソン)/ステファニー・クロウフォード(アリス・ゴーストリー)/ブー・ラドリー(ロバート・デュバル)/ギルマー検事(ウィリアム・ウィンダム)/ウォルター・カニンガム・Sr(クラハン・デントン)/事務官(チャールズ・フレデリックス)/スペンス・ロビンソン(ジェスター・ヘアーストン)/サイクス牧師(ビル・ウォーカー)/フォアマン(ガイ・ウィルカーソン)/成人したスカウトのナレーション(キム・スタンリー)

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映画『アラバマ物語』感想


この映画は社会的な深刻な問題を扱いながらも、その基調は幼き日々の思い出を語る、ノスタルジックな色合いを持っています。
そんなこの映画の趣は、例えば『スタン・バイ・ミー』の持つ少年期の描写と同様の味わいを感じます。
関連レビュー:少年期を描いた名作
映画『スタン・バイ・ミー』
ロブ・ライナー監督が描くノスタルジックな夏の日
スティーヴン・キング原作

また、そんな幼い日を描いた作品として、マイナーな映画ですが個人的には傑作だとおススメしたい『戦場の小さな天使たち』のユーモアも併せ持っています。
関連レビュー:戦火の中の子供達
映画『戦場の小さな天使たち』
名匠ジョン・ブアマン監督の幼き日の思い出
第二次世界大戦さなかのイギリス少年の栄光と勝利

そして、映画内ではそんなあどけない幼い目に、アメリカ南部の人種差別の過酷な現実を見せても良いのかという、強い訴えを感じます。
それは少年期という、柔らかな、いかようにも変容する、その心に何を映すべきべきかと問いかけている作品でもあるでしょう。
関連レビュー:少年期の揺れ動く心
『太陽の帝国』
スピルバーグが描く日本軍にあこがれるイギリス少年
クリスチャン・ベールのデビュー作

実は、この映画の人種差別を、より直接的に、更に強く激しく訴える表現も可能です。
下で紹介するような、昨今発表された、それらの作品の方がより衝撃的であるのは間違いありません。

左/『それでも夜は明ける』:右/『カラーパープル』
しかし、1962年当時のハリウッド映画は、過渡期に有ったとはいえ未だ「娯楽の王」として、家族全員が揃って楽しめる、公序良俗に即した作品を制作している時期でした。

それゆえ、現代の目から見れば生ぬるい描写に思えるかもしれませんが、当時の規制「ヘイズコード」の中でギリギリを攻めた映画であるように思います。
関連レビュー:ハリウッド倫理規定「ヘイズコード」
映画『陽の当たる場所』
エリザベス・テーラーとロック・ハドソン主演のオスカー受賞作
ヘイズコードの実際と弊害

そんな当時の規制の範囲内で、さらに言えばその規制を上手く使って、子供の目線という語り口のオブラートに包みながら、実は人種差別撤廃のためなら超法規的処置すら辞さないという強い意志を示している映画だと感じました。
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映画『アラバマ物語』解説

原題『To Kill a Mockingbird』の意味

上で述べた通り、1962年当時はハリウッド映画は公序良俗を順守し、あらゆる世代、あらゆる国家民族が見ても楽しめる作品であることをそのビジネスモデルとしていました。

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もちろん、この映画『アラバマ物語』もそのモデルに則り、あどけない子供の語り口と、グレゴリーペックの端正な演技、さらには脚本の巧みさによって、「黒人差別問題」という社会を二分するような微妙なテーマを、万人受けするように上手く語られていると感じます。

しかし、そんな穏やかな語り口ながら、その陰には過激な主張が成されているように思うのです。
個人的にはこの映画は、黒人差別が横行する中で、法律が人種差別主義者を裁けないのなら、超法規的な手段すら許容すべきという主張が成されていると信じています。

いくらなんでも、このノスタルジックでジェントルな作品に、そんな過激思想は無いとお叱りを受けそうですが・・・・・
下の文章で、なぜ私がそう感じたかを説明させて頂きます。

しかし以下の文章は「ネタバレ」を含みますので、ぜひ本作品をご覧になってからお読みください。

以下の文章には

映画『アラバマ物語』ネタバレ

があります。
まず押さえるべきは、この映画の原題『To Kill a Mockingbird』です。
直訳すると「モッキンバード(マネシツグミ)を殺す事」という、このタイトルの由来となったシーンを紹介します。
<モッキンバード(マネシツグミ)を殺す事を語るシーン>
【意訳】/ジェム:何歳で銃を持ったの?/アティカス:13歳か14歳だ。銃を持つ時、父に最初に言われたことを思い出した。言われたのは、決して家の中で銃を向けず、裏庭で空き缶を撃つぐらいが良い。しかし、彼が言うには遅かれ早かれ鳥を撃つ誘惑に駆られる。そうしたら、アオカケスはどれだけ撃っても良いが、忘れてはいけないのは、マネシツグミを殺す(To Kill a Mockingbird)のは罪だ。/ジェム:なんで?/アティカス:そうだな、思うにマネシツグミは害をせず歌を歌って楽しませてくれる。人々の庭を荒らしたり、トウモロコシ貯蔵庫を巣にしない。ただ心のこもった歌を我々に聞かせるだけだ。(以下略)
つまりは、「他者=社会に害を与えず、利益(心のこもった歌)を及ぼす者は殺すな」と語られています。
その事を踏まえ、映画のストーリーを追って行きましょう。
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映画『アラバマ物語』解説

人種差別反対を訴える過激な映画

映画では罪のない黒人が白人達に「リンチ=私刑」されようとし、それを公正な法の裁きをうけさせるべきだと弁護士が止めます。
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その甲斐あって裁判がひらかれ、黒人が濡れ衣を着せられている事は明白になったかに見えます。

しかし、白人だらけの南部の陪審員は黒人を有罪とし、それを受け黒人被告は刑務所への移送中に逃亡を図り射殺されます。
ここでいう、「罪のない者=モッキンバード」は、濡れ衣を着せられた黒人被告です。

そして、「社会の害=アオカケス」は「濡れ衣を着せた男=人種差別主義者」を指します。
こう整理してみれば、この映画のストーリーは「罪を持つ者=社会の害」が法で守られ、「罪のない者=社会的弱者」が法で殺される図式になっているのです。

しかし裁判後の結末で、それを見事に逆転し「勧善懲悪」を成し遂げます。
その逆転を追ってみましょう。


黒人に濡れ衣を着せた白人男性は自分が勝訴したにもかかわらず、黒人を弁護した事に腹を立て弁護士の子供を夜道で襲います。
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その襲撃から守り襲撃犯を殺したのは、主人公の近所に住む障害を持ち世間から隠れて暮らす「ブー」と呼ばれる大男でした。

そして保安官は、「ブー」を世間の眼に晒せば、彼の精神が持たないとして、これは事故死として処理すると言います。
それを聞いた弁護士の娘は、ブーを告発するのは「モッキンバードを殺す事」と同じだと言います。

このラストのシークエンスで「社会の害=アオカケス=人種差別主義者」は「罪のない者=モッキンバード=ブー」によって退治され、メデタシ、メデタシと成ります。
しかし考えてみてください。
この映画のラストでは、防衛的意味合いが強いとは言え「人の命を奪ってしまった殺人者」の行為を隠ぺいし、事故死として処理するのです。
この犯人隠匿は明らかに、違法な行為であり、その前の「黒人容疑者の罪を法廷で裁く=遵法精神」を主張する弁護士の姿と矛盾するモノです。

しかし、その隠匿を保安官と弁護士、そしてその娘も含め、この「超法規的処置」を認めてしまうのです。

つまりこの映画は、前半では法によって悪者が栄え、後半は法を超越して悪者を懲らしめているのです。

法治国家アメリカ合衆国。
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その国は、他人種をまとめるるために厳格な法を順守することを、そのアイデンティティとしています。
さらには、ヘイズコードという映画の倫理規定だって存在する、ハリウッド映画界の作品でありながら――

この映画は「法を超越してでも悪を退治しろ」と語っているのです。

これを過激思想と言わず、何というべきでしょう――
こんな危険な主張を、オブラートにくるみ、多くの人を感動させる映画として成立させた、製作者の力量に思わず慄然としたほどです。

仮に、プロパガンダとしてこの手法を使ったならば・・・・・・・・恐るべしハリウッド。
しかし考えてみれば、「人種差別」に反対するリベラルな主張を持つ人々から見れば、当時の南部諸州は法をカサに来て「弱い者いじめ」をする者達の集まりであり、それに対抗するためには超法規的な手段すら許容すべしと思い始めていた事が、この映画『アラバマ物語』で知れるように感じます。

どんな超法規的手段であっても、自ら正義と思えば断行するというのも、法治国家アメリカ合衆国のもう1つの顔ではないでしょうか?

「9.11テロ事件」以降、そう感じられてなりません。

さらに言えば、この映画の撮られた1960年代とは、超法規的な措置をとってでも「人種差別」を根絶したいと主張せざるを得ないほど、社会的に混迷していたのです・・・・・・・




posted by ヒラヒ at 11:05| Comment(0) | アメリカ映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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