2019年09月21日

映画『奇跡の海』求道者としてのラース・フォン・トリアー監督/感想・解説・解釈・映画と宗教

ラース・フォン・トリアー監督の信仰

原題 Amor omnie
英語題 Breaking the Waves
製作国 デンマーク
製作年 1996年
上映時間 158分
監督 ラース・フォン・トリアー
脚本 ラース・フォン・トリアー


評価:★★★★  4.0点



この映画には正直胸を打たれた・・・・・
ここには、若き日のラース・フォン・トリアー監督の、ある種「真摯な祈り」を見出す思いがする。
主演女優のエマ・ワトソンは、愛にのた打ち回るような悲痛な役を、リアリティーを持って演じ数々の賞に輝いた。

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<目次>

映画『奇跡の海』予告・出演者
映画『奇跡の海』感想
映画『奇跡の海』解説/映画に描かれた宗教
映画『奇跡の海』解説/ラース・フォン・トリアー監督の神

映画『奇跡の海』予告

映画『奇跡の海』出演者

エミリー・ワトソン(ベス)/ステラン・スカルスガルド(ヤン)/カトリン・カートリッジ(ドド)/ ジャン=マルク・バール(テリー)/エイドリアン・ローリンズ(リチャードソン医師)/サンドラ・ヴォー(ベスの母)/トロール船の男(ウド・キアー)
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映画『奇跡の海』感想


この映画は「曲者」監督ラース・フォン・トリアーの、1996年の作品だ。
しかし、その後の同監督作品に較べ、この『奇跡の海』は素直に共感できる率直さが魅力の一本だと感じる。
もちろん、ハリウッドなどの娯楽作品とは一線を画す、いかにもヨーロッパ的な彩度の落ちたような表現が印象的だ。
しかし、同時にそのメッセージは直截で、一気に一直線にラストに向かうさまは、40歳の監督作品ながらパンク的なパワーと情熱を感じた。
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そして、その思いの迸る先が「キリスト=絶対神」であることに、正直驚きを受けた。
その驚きは、この一本が示した「キリスト教信仰」の純粋さこそ、この監督の表現の根源に在ると確信したからだ。

その発見に、感動すると同時に、自分が今まで感じていた「ラース・フォン・トリアー監督のサディステイックな表現」の解釈が間違いだったと知った。
この監督の描く女性達に対する攻撃性や、その過酷な運命を甘受させる作品は、この映画を見るまではこの監督の「サディズム嗜好」を満足させるためにあるのではないかと疑っていた。

そんな女性の被虐美を追求するための作品も、間違いなくあるのだ。
関連レビュー:被虐美が際立つ作品
映画『リップヴァンウィンクルの花嫁』
岩井俊二監督の新たな女性美を描く作品。
黒木華、綾野剛主演のネット時代の愛の行方

さすがに、「サディズム嗜好」を満たすために映画を撮っていたというのは言いすぎにしても、少なくとも「ダンサー・イン・ザ・ダーク」から同監督作品を見始めた私からすれば、現実世界の不条理の坩堝でのた打ち回る人間存在を、執拗に、徹底的に、辛辣に、呵責なく、描き尽くすことで、この現実世界の地獄を糾弾する作家なのだと考えていた。

しかし、この映画を見て、その評価は180度覆ったと言わねばならない。

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以後の監督作品が、どれほど歪み、どれほど悲観的で、どれほど酷たらしく見えようとも――(右:ラース・フォン・トリアー監督)

この監督がこの作品で示したのは、人間存在が持つ永遠の願い「現実世界の不条理」は、神により救済されうるという希望に他ならない。
そう思えば、以後の同監督の描く現実における苦悩と悲惨の究極の姿にも、たとえ作品中で示されずとも、必ず「救済」が埋められているのだと考えたい。

その「救済」は、過酷な現実で苦しむ人間の姿のみ描かれた作品であっても、いつか掘り起される日を求めて、今は眠りについているにすぎない。

そう個人的には信じている。

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映画『奇跡の海』解説

映画に描かれた信仰
私は、この映画で語られたのが「神と人間の交錯」だと信じている。
ここには西洋文明のその根本に組み込まれ、その教義が社会の根幹をなしている「キリスト教」に対する最終的な信頼の表明があると感じる。
例えばそれは、同じ北欧の監督イングマル・ベルイマンが描いた、神への絶対的帰依と同様のテーマの似姿だと見える。
関連レビュー:『神の沈黙』の意味を問う
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イングマールベルイマンの古典的映画
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しかしその、神にたいする信仰は、愛の発露、人生の喜び、そんな「幸福」に対する感謝の祈りという南国的な姿ではない。

それは逆に、憎悪や、苦悩、悲劇など「不幸」にまみれた人生を、生きて行くための必要不可欠の要素として「信仰」が希求されていると感じる。

結局、生きるのには過酷な条件下にある人々にとって、「神」の存在なくして日々の困難を消し得る術がないのではないか。
そんな事を、同じくデンマーク監督の作品である『バベットの晩餐会』の中にも見い出し得る。
関連レビュー:デンマーク映画の隠れた名作
映画『バベットの晩餐会』
ガブリエル・アクセル監督の料理と神の恩寵を描く傑作
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この北ヨーロッパの環境に根差した「神への依存」は、北極に近い過酷な自然環境が導きだす、生存条件としての厳しさがその根底にあるように思える。

そんな過酷な自然環境と人と神の関係は、『ライフオブパイ』において明確に図式化され語られている。
関連レビュー:アカデミー賞に輝く神との出会い
映画『ライフオブパイ』
インド人少年の出会った神
祈りの先に生まれたもの。
もっと人は、自然環境のみではなく社会や共同体が強いる悪条件によっても、「神」を生み、「信仰」に縋らざるを得ない。

そんな真実を雄弁に語った映画として『スラムドッグミリオネア』を上げたい。
関連レビュー:インドの奇跡を描いた映画
映画『スラムドッグミリオネア』
スラムで生まれた奇跡の物語。
「神」と「信仰」と、過酷な現実

そんな映画を通して、人間は甚だしい苦痛、耐ええない苦悩、つまり人間の能力の限界を超えるような障害を前にした時、どうしようもなく「神」が必要とされるのだと確信している。
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キリスト教的奇蹟の感動物語
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映画『奇跡の海』解説

ラース・フォン・トリアーの神
上で見たように、人は過酷な条件下では「神」を必要とするという例が、数々の映画で描かれている。
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しかし、この『奇跡の海』で語られている神は、それまでの伝統的なキリスト教もしくは既存の宗教の神とは一線を画していると感じる。

なぜなら、この映画の舞台となる村落共同体は、伝統的、因習的キリスト教に支配され、その教義ゆえに主人公は追い詰められる。
つまり、現代において確立している「キリスト教会=宗教法人の神」は、人を救済し得るのか、むしろ人を苦しめてはいないかと、問うているだろう。

その問いは、近代に入り科学技術の発展と共に、キリスト教の聖書に反する科学的な知見が、人々の心を占めるようになってから、実質的に「神の形骸化」を生み「宗教への疑惑」を感じるようになって、更に深く強くならざるを得なくなった。
どうして、宗教に疑いの眼差しを持つ者が、その宗教の教義に縛られ、支配されねばならないのだろうか?

もちろん、現代科学を信奉する者として、自らの苦難を科学的に解決する術もあるには違いない。
しかし、この映画で語られる現代医学の無力で表されるよう、「科学=人智の解決」には限界があるからこそ、過酷な状況下にある者の最後の拠り所として「絶対者=神」の存在意義は決して消滅しないだろう。
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そして同様に、その神は既存宗教の神ではならない事も同様に明らかだ。
なぜなら現代の宗教は、例えば「ダーウィンの進化論」と異なる「聖書」のアダムとイブの物語をただただ信じよと説く時、一体どれだけの人々が神の言葉の無謬性に信頼を置けるだろうか。

ここに、現代宗教と現代人の矛盾と相克がある。

つまりは人々が、刀が折れ、矢がつき、人間の力の限界に至った時、それでも絶対救い得る存在として「神」は求められだろう。

そこには、救済に対する理非を超えた「絶対的約束=神性」があるからこそ、人々は祈りを尽くし敬うのだ。

しかし、科学によって「理非=理屈=合理性」が重きを成すにしたがって、現代人は「神=絶対性」に矛盾を感じざるを得ない。

絶対ではなくなった神はもはや神ではあるまい。

この映画が描くのは、そんな神の絶対を信じられない近代人が、それでも「神」を信奉し得る方法論であるように思う。

そんな現代に生きる人々の、信仰の姿をヒロインのべスに仮託して、この映画は描き出している。
この映画のヒロインは因習的キリスト教から離れ、自らの神との対話を重ねる。
この自身の神との対話は、近代以降の宗教に疑惑を持った現代人が取り得るべき、救済の1つの方法であるに違いない。
<べスの神との対話>
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【意訳】べスの神:べスマクニール、長きに渡り、愛のため祈り続けていた。再びお前からそれを引き離せと?それがお前の望みか?/べス:いいえ違います。私はまだ愛の喜びにいます。/べスの神:では今度は、何が望みだ/べス:私はヤンの帰宅を祈っています。/べスの神:10日で奴は戻ってくる、お前は忍耐を学んで、分かっているだろう。/べス:ああ!待てないのです。/べスの神:お前らしくもない、べス。そこには、彼とその仕事を必要とする人々がいるではないか。彼らをどうする?/べス:彼らはどうでもいい。他はどうでもいい。わたしはただ、再びヤンに帰って欲しいのです。それで祈ってるんです。ああ、どうか。/べスの神:お前は彼の帰還を望むのだな。間違いなく、それが望みなのだな。/べス:はい。

しかしここで注目すべきなのは、彼女が求めるているのが神ではなく人間であることだ。

主人公のエキセントリックで、しかし純粋で一途な「愛」。
break_pos2.jpgその「愛」の向かう先は、夫であり恋愛対象なのである。
そんな主人公の「愛」は、宗教の「不犯や性欲を戒める」戒律を無視するかのように、狂おしく激しい性愛をも含んだ「愛」の姿だ。

こう見てくれば、この映画が語る現代の「信仰」とは、「人が人をありのままに愛する」事が、すなわち神に通じる道だと語られていると思える。
人が人として他者を一途に愛するならば、この世に奇蹟が生まれると、ラース・フォン・トリアーの神は語っている。

つまりは、人が人として誠実に生きるのであれば、人は神性を帯び神の奇跡をも呼び起こすのだろう。



posted by ヒラヒ・S at 17:00| Comment(0) | デンマーク映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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