2019年08月14日

映画『軽蔑』(1967年)ゴダールが軽蔑したものとは?/感想・解説・ゴダールの反商業主義・評価

映画『軽蔑』(感想・解説 編)

原題 LE MÉPRIS
英語題 CONTEMPT
製作国 フランス・イタリア合作
製作年 1963
上映時間 102分
監督 ジャン・リュック・ゴダール
脚色 ジャン・リュック・ゴダール
原作 アルベルト・モラヴィア


評価:★★★   3.0点



60年代とは、自由と民主主義に揺らぎが生まれた時期でした。
そんな時代に監督ゴダールは、反米を唱え「共産主義」を信奉するに至ります。

また同時に60年代とは、POPカルチャーなど、あらゆるモノが消費の対象となり大衆に届けられた時代でもあります。
それはブリッジド・バルドーなど映画女優もまた、セックス・シンボルとして女性「性」を商品化され、消費されていくのです。

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<目次>
映画『軽蔑』感想
映画『軽蔑』解説/ゴダールと反商業主義
映画『軽蔑』考察/作品中から見えるテーマ
映画『軽蔑』解説/ブリジッド・バルドーと60年代セックス・シンボル
映画『軽蔑』評価

映画『軽蔑』予告

映画『軽蔑』出演者

カミーユ・ジャヴァル(ブリジット・バルドー)/ポール・ジャヴァル(ミシェル・ピコリ)/ジェレミー・プロコシュ(ジャック・パランス)/フランチェスカ・ヴァニーニ(ジョルジア・モル)/フリッツ・ラング(フリッツ・ラング)/ラング助監督(ジャン=リュック・ゴダール)/撮影監督(ラウール・クタール)/シレン(リンダ・ベラス)
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映画『軽蔑』感想


この映画に関して言えば、当時マリリン・モンローの向こうを張って、フランス版セックスシンボルと呼ばれたブリジッド・バルドーの目力に圧倒されます。
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しかし映画自体の内容は、バルドーのスター性を生かす映画というよりも、ゴダールの政治主張を語る作品となっていると感じます・・・・・

その結果としてこの映画は、その作品中に違うベクトルを持ってしまった。

ブリジッド・バルドーの妖艶な魅力を楽しみたい観客には、ゴダールのテーマ性が邪魔になり、ゴダールの世界に入り込みたいファンにとってはバルドーの存在感が大きすぎるように見えます。

そんなこの映画の対立する要素を、以下にまとめてみました。

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映画『軽蔑』解説

ジャン・リュック・ゴダールの原理主義
ジャン・リュック・ゴダールという映画監督は、1950年代末期のフランス映画界から生まれ、世界に衝撃を与えたヌーベル・バーグの旗手として有名です。
そのスタイルは革新的で、それまで映画のプロフェッショナルが決してやらなかった、斬新な映像表現を生み出し、賛否両論を生みました。
関連レビュー:ヌーベル・バーグ解説
『勝手にしやがれ』
ジャン・ポール・ベルモンドとジャン・リュック・ゴダール監督
ヌーベル・バーグの開幕

しかし、なかなか戦闘的な方のようで・・・・・・・・

映画作品や、政治、社会の問題に関し、数々の発言によって論争や混乱を巻き起こしています。

その端的な例が1965年の『気狂いピエロ』で、この映画ではベトナム戦争を泥沼化させたアメリカ合衆国に対し批判を繰り広げます。
関連レビュー:ゴダールの反米主義
『気狂いピエロ』
ゴダール監督のベトナム戦争批判
ジャン・ポール・ベルモンド主演

そして1960年代当時のリベラルな人々が、権力に対抗する思想として信奉していた「共産主義」的主張を強く語るようになります。

そもそも1960年代後半の世界は、アメリカでの公民権運動や、日本の安保反対運動に見られるように、民主化を求める市民の声が高まり、国家権力に対し実力行使も辞さない世相だったのです。
そんな最中の1967年8月には、ゴダールは資本主義的なアメリカ映画を強く批判し、自らも商業映画を作らないとの決別宣言文を発表しました。
「われわれもまた、ささやかな陣営において、ハリウッド、チネチタ、モスフィルム、パインウッド等の巨大な帝国の真ん中に、第二・第三のヴェトナムを作り出さねばならない。 そして、経済的にも美学的にも、すなわち二つの戦線に拠って戦いつつ、国民的な、自由な、兄弟であり、同志であり、友であるような映画を創造しなくてはならない。」− ゴダール、『ゴダール全集』4巻(1968年刊)

つまりは、資本家や権力者のための映画ではなく、民衆のための映画という事でしょうか・・・・・
実際その「共産主義的理想」に対する強い意志を反映し、この宣言後1979年『勝手に逃げろ/人生』まで商業映画を撮りませんでした。

そんなゴダールの反商業主義の主張は映画界でも力を持ち、もう一人のヌーベル・バーグ運動の中心的人物だったフランソワ・トリュフォーと共に扇動し、1968年の第21回カンヌ国際映画祭を、商業的だと批判し中止へと追い込んでいます(カンヌ国際映画祭粉砕事件)。
このカンヌ事件の背景には、1968年の同時期に発生した「5月革命」と呼ばれる、歴史的事件がありました。
フランスの五月危機(ごがつきき)は、1968年5月におきた、フランスのパリでおこわれたゼネスト(ゼネラル・ストライキ)を主体とした学生の主導する労働者、大衆の一斉蜂起と、それにともなう政府の政策転換を指す。五月革命ともいう。セックス革命、文化革命、社会革命でもあった。
パリ五月革命がドゴールを倒したという説は誤謬であり、ドゴールは選挙に勝ち、政権にとどまり続けた。しかし運動の影響で政権は弱体化し、翌年にはドゴールは辞任することになる。(wikipediaより)
<5月革命の様子>

しかし、この時盟友である2人の間に溝が生じます。

カンヌ映画祭の中止だけで満足するトリュフォーに対し、ゴダールはもっと政治的メッセージを主張したのです。

ゴダールは本気で、世界を「共産主義革命」によって再生しようと考え、中途半端な妥協を許せなかったのでしょう。

そして、トリュフォーの映画『アメリカの夜』をゴダールが批判したことによって、2人は決定的に仲違いします。
そもそもトリュフォーは、自ら「政治や戦争には興味がない」と公言していた人です。
関連レビュー:トリュフォー映画の資質
映画『華氏451度』
どうしたトリュフォー?SF映画を撮って明らかになった事実!
トリュフォーはなぜ恋愛映画ばかり撮るのか?

そんな彼が、共産主義のイデオロギーを前面に掲げたゴダールと、対立するのは致し方ない成り行きだったでしょう。
トリュフォーとゴダールを描いた映画<二人のふたりのヌーヴェルヴァーグ>

こうやって追ってくると、この映画『軽蔑』当時のゴダールは、作品そのものに政治的な主張を色濃く反映させていたと見るべきでしょう。

そんな彼の作品だと見れば、この映画『軽蔑』が語るテーマは「反商業主義映画」の原理主義的主張であると個人的には思えます。

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映画『軽蔑』解説

作品ストーリーからテーマ考察

この映画『軽蔑』の内容に即し、「商業主義映画に対するアンチテーゼ」というテーマがどう語られているか追ってみたいと思います。

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まず冒頭の映画の撮影シーンで、この作品が「映画」を語ったものだと宣言します。

さらに次の夫婦の寝室での会話シーンで、その色が赤白青とトリコロールに彩られ、愛のあるフランス夫婦だと語られます。
そしてその「愛」は、ドイツ人監督フリッツ・ラングが、イタリア・チネチッタ撮影所で撮る「オデッセウス」という真の映画の存在で、更に「映画愛」として登場します。

しかし、そこにジャック・パランス演じるアメリカ人映画プロデューサーが、金の力で「真の映画」を商業主義に満ちた作品に書き換えようとします。
それは「映画愛」を金で売るのに等しい行為でしょう。

その「改変=映画を汚す」仕事を依頼されたのが、フランス人夫婦の夫ミシェル・ピコリ演じるポールでした。
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彼は、プロデューサーがエロチックなシーンを入れろという要求に、アパートの支払いができるからと応じます。

つまりは、金で「映画愛」を売ったのです。
その事は、妻をプロデューサーの車に乗せ、自分は後から行くシーンでさらに補強されます。

妻さえも、「夫婦愛」さえ、金のためにこの夫は売りかねないと語られます。
その事が分かったからこそ、フランス人の妻は夫を「軽蔑」したのでした。

それでも夫ポールは、ユリシーズを監督するフリッツ・ラングとの会話中で、ユリシーズに自らを置き換え「貞淑な妻を信じ言い寄る男達を認めたユリシーズだったが、単純な妻はそれで夫を嫌いになった」と語ります。
しかし、ここには妻を裏切った夫の意思、「ユリシーズの功名心」「ポールの金銭欲」の存在を巧妙に隠蔽しています。
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結局、妻の心変わりが「自らへの愛よりも実利を取る夫の卑しさ」を軽蔑したという事実を、ポール自身悟っていながらそれを糊塗する男側の言い訳だと感じます。

それゆえ妻に生まれた「軽蔑」は、たとえ後で改心したとしても決して許される事がありませんでした。
更には「愛」を喪った妻自身も「金=アメリカ人プロデューサー」に走った所を見れば、一度「愛」という価値を喪えば「金」に支配されると語られているように思います。
いずれにしても、このゴダール映画の「金=商業映画」に対する見方は、100か0かに近い厳しいもので、少しでも金に目が眩めば地獄の底という断罪ぶりです。
この峻厳さは、ゴダールがそれほど強く映画の商業化に拒否反応を示してしていたという「証左」のように思います。

そんな事で、この作品を「夫婦関係のもつれ=夫婦愛の錯綜=男女の恋愛」だけで読むには、他の余分な要素が多すぎると思います。

しかし、この映画が「男女間の愛」を強く感じさせるのは、ヒロイン役のブリジッド・バルドーの存在があまりにも女性的で官能的で、ゴダールの意図を超えて主張してしまっているからではないかと感じられてなりません。
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映画『軽蔑』解説

ブリジッド・バルドーと60年代セックス・シンボル

この映画のヒロインを演じるブリジッド・バルドーは、フランスの官能的女優として人気を博しました。

ブリジット・バルドー(Brigitte Bardot、1934年9月28日 - )は、フランス・パリ15区出身の女優、ファッションモデル、歌手、動物保護活動家である。頭文字が B.B.であることから、同じ発音で「赤ん坊」を意味するフランス語 bébéとかけて「BB」が愛称となる。猫のような目にぼてっとした唇が愛らしく「フランスのマリリン・モンロー」とも形容され、20世紀のヨーロッパを代表するセックス・シンボルであった。(wikipedia より)


このブリジッドバルドーに冠せられた、「セックスシンボル」が意味したものは何だったのでしょうか?
セックスシンボル(sex symbol)とは性的魅力があり、性的魅力によって人気を得る人物のこと。
「セックスシンボル」という用語は、マリリン・モンロー、ブリジット・バルドー、ラクエル・ウェルチなどの映画スターの人気に関連して、1950年代半ばに初めて使用された。この概念は、第二次世界大戦後の女性の性的・経済的解放の増加を反映したものである。(wikipedia より)

1950年代とは、第二次世界大戦中の総力戦を戦う中で、それまで主婦の役割に限定されていた女性たちが、兵士として出征した男性不在の社会で積極的な役割を持ち、社会参画に意義を見出す女性達が声を上げだした時代でした。
すでに家庭内での主婦に飽き足らなくなった女性たちは、フェミニズム活動を繰り広げ自分たちの権利を主張します。
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そんな女性たちの自立と権利の主張は、家父長制の家族における貞淑な良妻賢母という価値感を突き崩して行きます。

そんな時代に新たな価値観を提示した女優が二人、ハリウッド映画界に出現しました。

一人はオードリーヘップバーンであり、もう一人がマリリンモンローです。

オードリーヘップバーンが表したのは、そのデビュー作『ローマの休日』からして、自立する女性の気品と高貴だったように思います。
関連レビュー:新時代の「お姫様=女性像」
映画『ローマの休日』

オードリーヘップバーン主演
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対して、マリリンモンローが示したのは、女性「性」を商品化することで、自らの価値を高めうるという真実でした。
この戦略的「性の商品化」は、戦前の「グラマー女優=ピンナップガール」の色気を、さらに男たちの欲望に沿う形でチューンナップし提示していると思えます。
関連レビュー:マリリンモンローという女優
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60年代の「ロリータ巨乳」伝説
セックスシンボルの誕生

マリリンはヌードモデルになったという過去がスキャンダル化してもなお、むしろスキャンダルを利用して男たちの欲望を掻き立てることに成功します。

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またマリリンは、「夜寝るときに身に着けるのはシャネルの5番だけ」(裸で寝る意)などと挑発的な言葉をインタビューに語り、自らの性的魅力を売り込むことに貪欲でした。

彼女は貧しい出自の生まれで、徒手空拳で「性的魅力」を武器に体一つで成功を勝ち取ったその姿も、また女性の自立の方法として現実社会の一典型だったでしょう。
太陽のような天真爛漫さとセクシーさを併せ持つマリリン・モンローだったからこそ、当時の公序良俗に反する「性の商品化」も際どく認知されたのだと個人的には感じられます。

しかし、自ら切り開いた「性の商品化=セックスシンボル」を演じることに疲れた彼女は、悲劇を迎えることになりますが‣・・・それはまた別の話。

つまり、この映画のブリジッド・バルドーも「性の商品化」というマリリンのビジネスモデルに、全面的に乗っかっていた女優だったわけです。
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映画『軽蔑』評価


上で見たように、この映画の監督ジャン・リュック・ゴダール が主張したかったのは、共産主義的な信念に基づく「反商業主義」だと思います。

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しかし、だとすれば、その主張とは真逆の価値を体現する女優を使ってしまった点に、疑問を持たずにはいられません。

つまり、ブリジッドバルドーという「セックスシンボル=性の商品化」である女優が、ゴダールのこの作品のメッセージを裏切ってしまっているのです。
そんな矛盾が、観客にとって混乱を生むことになり、この作品の真意を不明瞭にしているように感じられ、★3個としました。

結局のところ、「共産主義」など「反自然的=禁欲的な理想」は、「性=自然」のダイナミズムに常に敗れるという事かもしれません・・・・・



posted by ヒラヒ at 17:00| Comment(0) | フランス映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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