2019年06月21日

映画『シェルタリング・スカイ』漂泊の果てに見えたテーマとは?/あらすじ・感想・解説・ネタバレ・ラスト・評価

映画『シェルタリング・スカイ』の遭難

原題 The Sheltering Sky
製作国 イギリス
製作年 1990年
上映時間 138分
監督 ベルナルド・ベルトルッチ
脚本 マーク・ペプロー、ベルナルド・ベルトルッチ
原作 ポール・ボウルズ 『極地の空』
音楽 坂本龍一


評価:★★★   3.0点



この映画に映し出される、その圧倒的な自然に打たれる。
そんな、人間が自然に屈服された地において、アメリカ人夫婦がたどる運命は必然として有ったように思える。

ベルナルド・ベルトルッチの 壮大な映像と、坂本龍一のアラブ世界を象徴する音楽が、見る者を異邦の迷宮へと誘う。

しかし実際のところ、この映画自体が迷宮のようで、何を語っているのか不明瞭で、どこに連れていかれるのかと不安を覚えた・・・・・・
とりあえず個人的に、それなりにこの映画に解釈を巡らせ、考察した結果を語って見たいと思う。

タイトルの

シェルタリング・スカイの意味

を原作者ポール・ボウルズは以下のように語る。
「私たちが避難している空の下でどれほど壊れやすいか。避難している空の後ろには広大な暗い宇宙があり、私たちはとても小さいのです。」

これを解釈すれば、大自然の中の無力な人間を描いたのかと思えるのだが・・・・・・・
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<目次>
映画『シェルタリング・スカイ』ストーリー
映画『シェルタリング・スカイ』感想
映画『シェルタリング・スカイ』考察/作品中に見えるテーマ
映画『シェルタリング・スカイ』ネタバレ・結末
映画『シェルタリング・スカイ』ネタバレ解説/ラストから見たテーマ
映画『シェルタリング・スカイ』評価

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映画『シェルタリング・スカイ』ストーリー


第二次世界大戦が終わった1947年、北アフリカの港に客船が着いた。
降りてきた乗客に、ニューヨークからやって来た作曲家のポート・モレスビー(ジョン・マルコヴィッチ)と、その妻で劇作家のキット(デブラ・ウィンガー)、そして夫妻の友人タナー(キャンベル・スコット)がいた。
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モレスビー夫妻はタナーに、我々は旅行者ではなく移住するかもしれないと語った。

そして3人はタンジールのグランド・ホテルに泊まった。
しかし、モレスビー夫妻は結婚して10年を経て、それぞれ寝室を分けるほど倦怠期を迎えていた。そんな夫ポートは、アフリカについて早々、ポン引きに連れられ現地の娼婦と遊び、危険な眼に遭った。
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妻は朝帰りの夫が何をしてきたか、正面から聞かず鬱屈を溜め込んだ。
その日、夫ポートはホテルで同宿したイギリスのトラベル・ライター、ライル夫人(ジル・ベネット)とその息子エリック(ティモシー・スポール)の車に便乗する事にした。
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しかし、列車が嫌いだと妻キットは言いながら、ポートの誘いを断りタナーとの列車旅を選んだ。
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キットとターナーは列車でシャンパンを空け、着いたホテルの同じ部屋で朝を迎えた。

そんな夫婦だったが、再び合流すると、ターナーを残しアフリカの大地のサイクリングに出かけた。そして、アフリカの蒼天の下愛し合おうと体を重ねた。
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しかし、お互い愛を確かめようと言葉を重ねる内に、達する事はかなわなくなった。

夫ポートは、ターナーとキットの関係に疑念を持ち、ターナーをライル夫人母子の車に乗せると、夫婦水入らずの旅を続けた。
アフリカの奥に進むにつれ、二人の関係が好転するかと見えた。しかしその時には、ポートの体はチフスに犯されていた。キットは意識も朦朧としたポートを外人部隊の砦に運び込み、献身的に看病を続けた。
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しかし、砂漠の最果ての地でポートは息絶える。

夫の死に抜け殻のようになったキットは、トランク一つを持って、砂漠へとさ迷い出た。
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そこに通りかかった、アラブ人の砂漠キャラバン隊に助けを求め、キットはラクダの背に乗り目的地も知らず進み始めた・・・・・・・

映画『シェルタリング・スカイ』予告

映画『シェルタリング・スカイ』出演者

キット・モレスビー(デブラ・ウィンガー)/ポート・モレスビー(ジョン・マルコヴィッチ)/ジョージ・タナー(キャンベル・スコット)/エリック・ライル(ティモシー・スポール)/ライル夫人(ジル・ベネット)/スマイル(ベン・スマイル)/フランス人女性(ニコレッタ・ブラスキ)/ナレーター(ポール・ボウルズ)
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映画『シェルタリング・スカイ』感想


正直言えば、未だに全て腑に落ちているとは言い難いのだが・・・・
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砂漠の美しさや、坂本隆一の音楽の美しさが、この映画に品格のようなものを与えていると感じる。

それは、壮麗な紫禁城を描き切った『ラスト・エンペラー』にも似て、偉大な光景を捉えるベルトッチ監督の映像感覚の鋭さゆえだと感じる。
しかしその反面、個人的な印象としては、ドラマとしての説明が不十分であるようにも思える。

つまりは、ビジュアルほどにドラマが強くないとも言える。
そこで思い出すのは、かつてのハリウッドの大監督ジョン・ヒューストンだ。

彼が撮った『アフリカの女王』という1952年の映画は、俳優ハンフリー・ボガートにアカデミー賞をもたらした秀作だった。
しかし、この監督ジョン・ヒューストンの真の動機は「象狩り」だったのだ。
関連レビュー:『アフリカの女王』の舞台裏
『ホワイトハンターブラックハート』
イーストウッド監督主演のジョン・ヒューストン伝記
『アフリカの女王』の混乱した現場の実態とは?

何を言いたいかと言うと、ベルトッチ監督にとっても、この映画のモチベーションは別にあり、アフリカの砂漠を撮る事こそ、この映画製作の目的ではないかと言う邪推だ。

そのアフリカの大地、大自然が、あまりにも壮大で美しく、映画内で光り輝いているのは、この監督の「砂漠愛」ゆえではないかと感じたのである。

しかし実際のところ、製作者のモチベーションとその作品のコンテンツが「かい離」を起こすことは、往々にしてあるように感じる。

その良い例として『タイタニック』が思い浮かぶ。
その映画は「恋愛映画」として一時代を築いたが、ジェームス・キャメロン監督が真に描きたかったのは「タイタニック」そのものだったと信じている。

関連レビュー:ジェームス・キャメロンの執念
『タイタニック』
世界一の興行収入記録を打ち建てた大ヒット作
レオナルド・デカプリオとケイト・ウィンスレットの恋愛劇
それでも『タイタニック』の場合、レオナルド・ディカプリオのスター性によって、女性たちの心を掴み恋愛ドラマとして成立し、商業的に成功を得た。

しかしこの映画『シェルタリング・スカイ』では、監督の砂漠愛ほどには、上手く物語のドラマを構築し得なかったのではないか。

つまり、ベルトッチ監督の関心と、描かれるべき物語が上手く折り合わなかったがゆえに、見る者に混乱を生じたのだと個人的には思えた。

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映画『シェルタリング・スカイ』考察

作品中に見えるテーマ

じつを言えば「テーマ」と書きながら、何ら自信があるわけではない。
単に映画内での情報を集積して行けば、以下のように「テーマ」として集約できるという、個人的な裁断だとお断りしておく。

この映画は冒頭、アメリカからアフリカに来訪した夫婦とその友人が、アフリカの子供たちに荷物を運ばせるところから始まる。
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ここで描かれたのは、西洋文明が非西洋を支配するという「植民地的優越」の表れだったろう。

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しかし、この夫婦が夫婦として破綻しているのは、夫が娼婦を購い、妻が友人と不倫する事で明らかだ。

そして、この結婚という「西洋キリスト教の神聖な契約」がすでに効力を持ち得ないという点で、「西洋文明」の衰退を示す記号でもあるだろう。
そんな夫婦が、「ニューヨーク=西洋文明のメッカ」を離れ、アフリカの地で夫婦関係を再構築しようとする。
この2人の行動が表すのは、すでに「西洋文明」の下で上手く作用しない関係を、「非西洋」の地で賦活させる試みだった。
実際その試みは効を奏す。

蒼天の下、体を重ねた2人は、達する事は叶わなかったものの、お互いの愛が存在するという事実は確認し得たと描かれていると見たい。
<アフリカの空の下愛を交わす2人>

【意訳】キット:何て不思議な空。本当に固そう。/ポート:隠されたモノから俺たちを守っているかのようだ。そうだろ。/キット:隠されたモノって?/ポート:何でもないさ。ただの夜だ。/キット:私はあなたのようになりたいと思うわ。でも無理。/ポート:たぶん俺たちは同じものを怖がっている。/キット:違う、私たちは違う!あなたは1人を恐れない。そして何も必要とはしていない。誰も必要とはしていない。私がいなくても生きて行ける。/ポート:君は知っているか、俺にとって、愛するとは君を愛する事だ。どんな災難が2人の間に起きようと、そこに決して誰も入り込めないし、大丈夫さ。/キット:たぶん二人とも、愛しすぎるのを恐れているのね。(叫ぶ)さあ行きましょう。
そして、その愛の確認は、アフリカの奥地へと向かうにつれ、西洋から離れるにつれ、より確実なものへと深化して行く。

しかし、実は、夫は既にアフリカの自然に征服され、命を奪われようとしている。
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そして、アフリカの「外人部隊の砦=西洋と非西洋対決の最前線」で夫ポートが死ぬこととは、端的に「西洋文明」がアフリカの大自然に屈したことを表すだろう。

その事は、夫を喪った妻キットが、アフリカの自然と共存する「現地民=非西洋人」と関係を結ぶことで、更に「西洋文明の屈服」を強く印象付ける。
それは、冒頭の「植民地的支配の西洋の優越」との対比で、真に「西洋文明の優越」は「非西洋」の地で可能なのかとの問いかけだと思える。

更に物語を追えば、「非西洋」に犯され、屈服した「キット=西洋」は、結果的に「非西洋社会」にも居場所を得られない。
結局、現地のキリスト教救護院に保護され、西洋文明へと戻る加療を受ける。

以上、物語を追う中で見えてきたのは、「西洋」が「非西洋」に、「非西洋の地」において敗れ屈服するドラマだったろう。

念のため補足すれば、ここで語る「西洋」「非西洋」とは、下の記事で書いたサイードの「オリエンタリズム」の概念を指している。
関連レビュー:サイードと「オリエンタリズム」
『ホワイトウォッシング映画紹介』
ホワイトウォッシングを喜ぶ日本人の心理
「西洋文明」と「非西洋」に潜む価値観


しかし、こんな解釈が砂のように崩れ去る言葉が、その結末で語られる。
この映画の、ある意味、衝撃的なラストを見ずして、この映画のテーマは語れない。

それゆえ、この先の考察に関しては、下記で記した「ネタバレのラストシーン」以降に再度検討すべきだろうと思う・・・・
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以下の文章には

映画『シェルタリング・スカイ』ネタバレ

があります。
(あらすじから)
砂漠の上をアラブ人の隊商と共に移動する中で、その隊長に好色な誘いを受けるキット。
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そして、旅の終わりには隊長から家を与えられ、何人かいる妻の末席に連なった。
そんな彼女を快く思わない隊長の妻達に追い出されたキットは、市場で食べ物に手を伸ばし捕まえられた。
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キリスト教の救護院で1人うずくまるキットを、アメリカ大使館員が訪ねる。
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ずっと行方を探していたタナーの待つ地へと、キットは向かう。
そこはアフリカ旅行の最初の地タンジールだった。
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しかしタナーが来た時、車に居るはずのキットは、もはやどこかへと姿を消していた・・・・・・・
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映画『シェルタリング・スカイ』結末・ラスト

キットは、アフリカ上陸時に立ち寄ったバーを見つけると、中に足を踏み入れた。
そこには、前回にもいた老人が座っていた。
【意訳】老人:道に迷ったのかね?/キット:はい。/老人:なぜか、我々は死ぬ時まで、それに気が付かない。我々は人生を、無尽蔵な井戸だと考える。しかし、何事もできる回数は限られていて、実際のところ、その回数はほんのわずかだ。幼い頃の昼下がりを、あと何回思い出すだろう?それが自分の人生を作ったと思うほど、君の奥深くの一部になっている、そんな昼下がりをだ。恐らく、四、五回、いや、それほど多くないかもしれない。のぼる満月を見るのは、あと何回だろうか? 恐らく20回くらいだろう。それなのに、まだ、それが限りないように思っている。


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映画『シェルタリング・スカイ』解説

ラストシーンから見た「テーマ」

救護院から出たキットは、「友人ポート=西洋文明へのパスポート」から逃れ、一軒のバーに入る。
それは冒頭でも訪れた場所であり、西洋と非西洋が混在する場所でもある。

そこでキットは「迷ったか?」と老人(原作者のポール・ボウルズ )尋ねられ、笑顔で「イエス」と答えるのだ。
この最後の「迷った」と言う言葉によって、私自身も迷うことになる。

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例えば、キットが「非西洋から逃れ」アフリカの地で「非西洋」に馴化するのであれば、混乱は生じない。

西洋文明は非西洋を征服する事はできないと言うテーマに収束されるだろう。
また、キットが再び友人ポートと抱き合い、共にアメリカに帰るというラストであれば「迷った」という言葉も、解釈し易い。

その「迷った」という言葉は、西洋文明はしょせん西洋以外では機能しないと結論づけられるだろう。
しかし、キットは「アフリカ=非西洋」に馴化せず、「西洋文明への復帰」もせず、ただ「迷った」という。

再び個人的には、このドラマを全て明快には割り切り得てないと思わざるを得ない。
その上で、キットの「迷った」という言葉を、「西洋文明の力の喪失」によって現代世界の混乱を生じ、現代人の行方を定まらなくさせているとの比喩だと、強引に解釈したくなる。

だが、そうはさせない結びのセリフが待っている。
この映画の最後で「大事なこともほんの数度思い出すだけだ」と語られる。
そう言われてしまえば、夫が死んだのも砂漠で妾になったのも、一時の気の迷いだと告げられたようなものだ。
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けっきょくキットが微笑みと共に「迷い」を肯定する時、それこそ「東西の対立」も「自然と人間の対峙」も「愛の葛藤」も「現代人の迷い」も蜃気楼の如く消え去るだろう。

この話は単に、運の悪い女性の数奇な物語にすぎないと、最後に宣言されているからだ。

そんな話であれば、ファンタジー仕立ての白雪姫のごときスタイルを取るべきだった。

砂漠はなぜ?

愛はどこ?

怒りを込めつつ、この映画のテーマは「砂漠で人は迷う」と総括しておく。

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映画『シェルタリング・スカイ』評価


長々と書いたが、なんだかんだいった所で、この映画は私自身の読解力の限界を、如実に思い知らせてくれた。

それゆえ以下は、この映画を理解し得なかった者が下した評価であり、その言い訳だ。

しかし、その上で強弁するのだが、何度見てもこの映画は舌足らずで、ドラマの流れも右往左往し、テーマらしきものに収れんしていく気配がない。
それゆえ、この映画は監督が砂漠のアチラコチラを撮りたいがゆえに、ドラマをでっち上げたのではないかと、そう邪推するのだ。

それは、まるで映画『カサブランカ』のように、ドラマがドラマを語る以外の目的のために構築されているとすら思える。
関連レビュー:脚本メチャクチャですが?
映画『カサブランカ』解説

ハンフリー・ボガート、イングリッド・バーグマン共演
古典的ハリウッド映画の代表作
しかし残念ながらこの映画の砂漠美は、『カサブランカ』のハンフリ―・ボガートやイングリット・バーグマンほど、世間を魅了しなかったようだ。

実際、Yahoo!映画の口コミ評価は3.7、Movie Walkerで3.5という標点は、日本国内のサイトでほぼ似た数字である。
また外国の映画サイトで言えば、IMDBで10点中6.8、ロッテン・トマト 50%と、これまた半分ほどの評価だ。

その批評を読むと、やはりドラマの不明瞭さが問題とされているようだ。

個人的に言えば、作品の砂漠映像など撮影の美しさには★4つは付けたいと思う。

しかし、ドラマには★1つが妥当だろう。

両者を足して2で割り、★2.5のところ、音楽の力を加味し★3.0とした。
<坂本龍一『シェルタリング・スカイ』挿入曲『 SURREAL song IN SAHARA 』>



posted by ヒラヒ at 17:00| Comment(0) | イギリス映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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