2019年07月08日

実話ミュージカル映画『王様と私』映画と史実の違いとは?/感想・解説・考察・批判

映画『王様と私』(実話・考察・批判)

原題 The King and I
製作国 アメリカ
製作年 1956
上映時間 133分
監督 ウォルター・ラング
脚本 アーネスト・リーマン
原作 マーガレット・ランドン


評価:★★☆   2.5点



この映画は、ミュージカルの古典として、今も舞台で上演され続けている作品です。
名曲と華やかなダンスは一見の価値が有り、またこの物語が実話だという点を知り、個人的には好奇心をそそられました。

しかし、この映画で描かれたシャム(現在のタイ)は、今でもこの映画が上映禁止になっている事実が示すように、タイの人々から見ると受け入れがたいもののようです。
そもそも、実話を元にした映画というのは、そのモデルとされた方からは、さまざまな声が聞こえるのが常とすら思います。
関連レビュー:ロシア政府が上映禁止にした映画
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ここでは、実話の部分の信ぴょう性を確認し、なぜタイの人々が受け入れがたいのかを探ってみたいと思います。

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<目次>
映画『王様と私』予告・出演者
映画『王様と私』実話背景
映画『王様と私』解説/アンナとその著作
映画『王様と私』解説/王の実像
映画『王様と私』批判

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映画『王様と私』予告


映画『王様と私』出演者

アンナ・レオノーウェンズ(デボラ・カー)/王(ユル・ブリンナー)/タプティム(リタ・モレノ:歌リオナ・ゴードン)/チャン王妃(テリー・サウンダース)/クララホム首相(マーティン・ベンソン)/ルイス・レオノーウェンズ(レックス・トンプソン)/サー・ジョン・ヘイ(アラン・モウブレイ)/サー・エドワード・ラムゼイ(ジェフリー・トゥーン)/チュラロンコーン王子(パトリック・アディアート)/ラン・タ(カルロス・リヴァス:歌ルーベン・フェンテス)/王妃(ジュディ・ダン)/イライザ(ユリコ)

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映画『王様と私』解説

実話の背景

この映画の王のモデルとなったのはタイ国王・ラーマ4世。
そして主人公のアンナのモデルは、ラーマ4世に西洋式子弟教育を託された家庭教師、アンナ・レオノーウェンズ。

この体験を元に、家庭教師アンナは1870年に『The English Governess at the Siamese Court』(シャム宮廷のイギリス人女性家庭教師)を、1873年に『Siamese Harem Life』(シャムの後宮生活)をアメリカで発表しました。

その両書を元にして、小説『Anna and the King of Siam』(アンナとシャム王)がマーガレット・ランドンによって書かれ、それが映画『王様と私』の原作となり、ブロードウェイ・ミュージカルへと脚色されたのです。

つまりこの映画の元となった『Anna and the King of Siam』(アンナとシャム王)の世界観は、アンナ・レオノーウェンズの2冊の著書を元に構築されているのです。

それでは、まずアンナとその著作について見てみましょう・・・・・

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映画『王様と私』解説

実在アンナの著作と映画との違い

アンナ・レオノーウェンズ(英語: Anna Harriette Leonowens、出生名Anna Harriet Emma Edward、1831年11月5日 - 1915年1月19日)は、アングロ・インディアン、すなわちイギリス領インド帝国生まれのイギリス人紀行作家、教育者、社会運動家。
King&I_anna.jpgラッタナーコーシン王朝(現タイ王国)でラーマ4世の子供たちの教師をしていた経験を描いた『The English Governess at the Siamese Court 』(1870年)に始まり、回顧録の書籍で知られるようになった。リオノウンズについては1944年のマーガレット・ランドンによるベストセラーのフィクション小説『アンナとシャム王』、およびこれを基にした1951年のロジャース&ハマースタインによるヒット・ミュージカル『王様と私』を筆頭とする映画やテレビなどでよく知られている。
リオノウンズはイエメンのアデン、オーストラリア、シンガポール、アメリカ合衆国、カナダを転々とした。カナダではノバスコシア美術デザイン大学の共同創始者となった。(wikipediaより)

アンナは世界を転々とした後、シンガポールで夫に死なれイギリス人将校のための小さな保育園を運営します。
教育者としての名声が上がった彼女に、シャム王の代理人から家庭教師の職を打診されます。

彼女はインド生まれのインド人との混血イギリス人だという出自をウェールズ出身だと偽ります。(映画ではイギリス出身:実在のアンナはその嘘を生涯つき通し『王様と私』が発表された後まで判明しませんでした。また死んだ父はイギリス軍将校だと公言していましたが、実際は一般人でした。)
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王の招待状を受け取ったアンナは、彼女の娘エイビスを英国の寄宿学校に入れ、英国教育を身に着けているという社会的信用の一端として利用したと見られています。(左:実在のアンナ)

彼女は月給150ドルを要求し、西洋人宣教師の近くに住むことを要求しました。それに対し王は「キリスト教を布教する教師は要らないと」警告の手紙を送っています。
結局、月給100ドルと、王宮近くの住宅が提供されました。(映画では王宮内に住まわされてもめる。)

1862年シャム王ラーマ4世(モンクット)に雇用され、彼の39人の妻と62人の子供(諸説あり)に西洋的教育を施すため採用され、アンナは5歳の息子ルイを連れてバンコク行き、シャム王宮の教師となります。
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上:ラーマ4世の子供達

自著『シャム宮廷のイギリス人女性家庭教師』では、1867年まで最初は教師として、そして後には王の英語書記官として6年近く勤め、さらにシャム政府にあって大きな尊敬とある程度の政治的影響をもたらしたと書いています。
また同書には、彼女は最終的に雇用条件に満足できず、それにより王自身が「難しい女性」と見なしたとも、記されています。
1868年、アンナは体調の悪化により娘エイビスのいる、イングランドで長期休暇をとりました。
その間に、シャム王ラーマ4世が病死したため、彼女はシャム宮廷に従来より良い条件での再雇用の交渉を始めます。(映画とは違い王の死に立ち会うことはありませんでした)

結局アンナは職を得られず、物的な遺産も受け取れませんでした。(映画では指輪をもらう)
王ラーマ4世はアンナと彼女の息子ルイに遺言を残したと言われます。
15歳の新王ラーマ5世(チュラロンコン)は、アンナに彼女の奉仕に対する感謝の手紙を書いたものの、しかし新王は彼女を再び雇用することはありませんでした。(映画では王の死後も勤め続ける)
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しかし、新王とアンナの家族は長年友好的に関係を持ち続け、アンナの息子ルイ(左写真)は 27歳の時、ラーマ5世より近衛騎兵大尉の任務を与えられました。しかし、母アンナとは仲違いし、断絶状態だったと言います。

新シャム王ラーマ5世は、「王への土下座礼」や旧い習慣の廃止を含む、いくつかの改革を断交しますが、これらをアンナはその教育による功績だと主張しました。(映画では新王が土下座礼廃止を宣言する姿を、死に行く王が見つつアンナの教育の結果だと認めます)
しかし史実は、ラーマ四世自身が禁止を決定し、それをラーマ5世が引き継いだというのが真相だとされています。

結局、再雇用がかなわなかったアンナは、1869年ニューヨークで女学校を開き、同時に本の執筆を始めます。
その回顧録『シャム宮廷のイギリス人女性家庭教師(The English Governess at the Siamese Court)』(1870年)と『ハーレムの恋(Romance of the Harem)』(1872年:写真右)を書き、成功しました。

しかしアンナは「フェミニスト=女性解放論者」であったため、王モンクットとその王宮のハーレムを、前近代的な女性抑圧の場だと強調していたと見られています。
その主張は続編『ハーレムの恋』では、王の拷問と彼の一人の奴隷タプティムの処刑を含む、宮殿のゴシップに基づく悲劇に象徴的です。(映画ではタプティムは処刑される)

しかし、タプティムの物語は明確な証拠を欠いていて、王の性格から有り得ないと言われています。
2001年、(ラーマ4世の)ひ孫Vudhichalerm Vudhijaya 王女(1934年5月21日生)はインタビューにおいて「ラーマ4世は王位に就くまでの27年間僧侶の頭巾を被っていた。仏教の教えに反する死刑執行などするはずがない」と語った。またタプティム は自身の祖母であり、ラーマ4世の内縁の妻ではなくラーマ5世と正式に結婚していたと語った。


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こんなアンナの虚偽をもとにして、ラーマ4世は映画の専横的で傲慢な姿で描かれています。(しかし実際の王ラーマ4世は、そんな映画の姿とは違っていたようで、詳しくは下の実在のラーマ4世の説明をご覧ください)

アンナはアメリカにいる間、回顧録の成功を元に公演会ツアーを開催し、人気と富を得ました。
その公演内容は「異教徒の土地へのキリスト教の使命」や 「シャム王国とベールの女性の街」というものでした。
その公演に対しニューヨークタイムズ紙は、「夫人の目的は、特にアジア女性の運命との関係において、宣教師の仕事に成り代わって、喚起し、同情を集めることだ。」と評しており、その公演もフェミニズムの主張を打ち出したものだったようです。(左:ラーマ四世とその息子ラーマ5世)

さらに彼女が『アンクル・トムの小屋』をシャム王廷に紹介し、その本が1868年に始まったシャムでのラーマ5世の奴隷制度改革に影響を及ぼし、1915年の全廃止になったとも主張しています。
(映画では「アンクルトムの小屋」が外国使節をもてなす際の舞台劇として描かれる)

正直のところ、アンナのモロモロを調べるうちに、彼女の人間性に疑問を持つようになりました・・・・・・・・

個人的に感じたのは、アンナに功利的な人間だという印象です。(下:晩年のアンナ)
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例えば、自らをシャム王室に売り込むため、インド生まれでありながらイギリス出身だと偽り、家の問題と給料の件でラーマ4世を悩ませ続け、ついにはラーマ4世が死ぬやいなや自らを高給で再度雇うように、シャム王廷に働きかける。
それがかなわないと、自らを雇用してくれたシャム王を暴君とし、その社会を後進的で未開の地だと描く本を書き、更には自らのキリスト教的善導によりシャムの近代化がなされたかのように実績を誇張し、ついには自らのフェミニズムの主張を展開するため「タプティム事件」をデッチ上げさえするのです。

正直、この人の書いた情報を元に組み立てられたシャム王の像が世間に広がっているのは、残念だと言わざるを得ません。
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映画『王様と私』解説

シャム王の実像

この映画のシャム王のモデルは、ラーマ4世です。
西洋列強の中で、植民地化されかねない状況下で、難しいカジ取りを担った彼の人となりを見てみましょう。
ラーマ4世(タイ語: รัชกาลที่ ๔)は、チャクリー王朝の第4代のシャム国王。タマユットニカーイ(英語版)の創設者。チョームクラオや、モンクット(タイ語: มงกุฎ, ラテン文字転写: Mongkut)の名でも呼ばれる。King&I_king.jpg
即位までの27年間は出家して寺院に属し、経文の言語であるパーリ語、サンスクリット語をマスターした。
即位後は、西洋との関係を重視し、イギリスからアンナ・レオノーウェンズ(Mrs. Anna Leonowens)を家庭教師に招き入れ、子弟に西洋の教育をさせた。このときのことは小説『アンナとシャム王』に書かれているが、アンナに虚言癖があったため、全面的な信用はしない方がよいと言われる。この話は後に『アンナとシャム王』で初めて映画化されて、『王様と私』で劇作化と映画化、『アンナと王様』で3度目の映画化がされたが、いずれもタイでは上映が禁止されている。(wikipediaより)

ラーマ4世は即位前の僧侶時代から、フランス人神父パルゴアとの交友を通じてキリスト教文明に触れ、更にアメリカ人宣教師から英語を習得し、積極的に西洋の先進文明を学んでいます。(下:神父パルゴア)King&I_pargoa.jpg
更に1851年に登位すると、欧州での覇権争いを植民地でも繰り広げている2大列強国、フランスとイギリスの対立を上手く利用し、東南アジアで唯一植民地化を逃れます。

彼は1852年ローマ教皇とナポレオン3世に国書を送り、西洋文明を受容しキリスト教布教を承認するなどと伝え、フランスとキリスト教文明に対しての気配りをします。

またアメリカ大統領あてに象を贈るという手紙を、送っていますが、これも西洋列強へのアプローチの一端だろうと感じます。(映画内では南北戦争の兵器としてリンカーンに象を贈るとなっていますが、実際はアメリカ国内での象の繁殖を援助したいと言う申し出で、ジェームズ・ブキャナン大統領宛のものでした。ただブキャナン大統領の任期が終わりリンカーン大統領から、繁殖の充分な環境がないとの丁寧な断りの手紙が来たそうです)

さらにイギリスに対し、日本が押し付けられたような不平等条約を、1855年「ボーリング条約」として締結します。
その条約を皮切りに、他の欧米諸国とも同様の条約を結びます。
これは、それまでの中国の属国(中国冊封=中国を宗主国とする藩属国という従属的関係、朝貢と兵役の義務を課されたが、中国は属国への攻撃には防衛を担った)であることを止め、独自に西洋列強との関係を結ぶという革命的な決断です。

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この変革を推し進める過程は「チ ャクリー改革」と呼ばれ、シャムを西洋列強に対し認めさせる西洋化と、その王権と独立を守るための政治体制の移行を柱とし、それはラーマ4世の個人的資質と判断によるところが大きいと個人的には思えます。(右:晩年のラーマ4世)

ラーマ4世は、中国の属国でいては国は滅びると見て、「近代化=西洋化」に踏み切り社会変革を促し、西洋列強に対しては巧みな柔軟性に富む外交で、その勢力を拮抗させ国の独立を守りました。
アンナが言うように、ラーマ4世自身は保守的な性格であったのは確かでしょうが、そんな保守的な人物であっても、奴隷制や王への礼儀や慣習を変えざるを得なかった西洋列強の圧力の強さを思わざるを得ません。

致し方ない変革とはいえ、社会を平和的に移行していった選択には、仏教修行者としての穏やかな諦念すら感じます。

その伝統的社会から西洋的変革の懸け橋が見事にラーマ4世によって懸けられたかろこそ、子のチュラーロンコーン(ラーマ5世)によってタイの近代化が花開いたと言えるのではないでしょうか。

こう見てくると、ラーマ4世の実像とは、困難な時期に極力穏やかに平和的に、国を導いたリーダーだったのだと思えます。


そんな実像を証明するエピソードを一つ。
1960年、ラーマ4世のひ孫ラーマ9世がアメリカを訪れた際、側近はミュージカルのレビューを集めたがラーマ4世の描き方は「90%誇張である。曾祖父はとても穏やかで素晴らしい人だった」と語った。
1985年、ラーマ9世の妻シリキットがニューヨークを訪れた際、ユル・ブリンナーの招待によりブロードウェイにてミュージカル『王様と私』を観劇した。当時の在米タイ大使は作品が受け入れられない理由はほかにもあるとして「エスノセントリズム(自民族中心主義、自文化中心主義)でシャムという国が子供じみているという侮辱が見え隠れしており、西洋より低く見られている」と語った。(wikipediaより)


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映画『王様と私』解説

『王様と私』批判


アンナとその著作によって出来上がった『王様と私』には、アンナから見たシャム王朝という「偏見」があるように感じられます。

更に上で述べたように、アンナは虚言癖があり、信頼性に薄いといわれる人物です。

その著作には、自らの教育がシャム社会に影響を与え、奴隷制の廃止や、王への土下座礼の禁止をさせたと主張していますが、それは誇張が過ぎると言うべきでしょう。

この映画自体は、1956年。
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アメリカが第二次世界大戦を通じて「パックスアメリカーナ=アメリカの平和」を謳歌し、世界中がアメリカに憧れを持っていた時期で、そんな自分達の文化に対する自負が滲み出ているようにも感じます。

アメリカ的価値観と共に踊れば、平等で自由な平和な世界になるとの確信が、この映画には込められているように感じました。

しかし、冷戦やベトナム戦争を経て、それまでアメリカを信奉してきた人々の心も、アメリカから離れていきました。

それは、自分達の価値観に対し、独善的で、傲慢な姿を見せ始めたことによる、軋轢が増大していったことに原因があるように思います。
それはアンナの虚偽事実や誤解などをもとに、映画の王を未開の蛮族の王として描き出し、更には自らの価値観によって未開の王を文明化するという使命感の発露として描かれたこの映画が、その描かれた対象となった国が嫌悪するという事実と符合するものだと思います。

正直、1965年という時代を考えれば、そんな傲慢な描き方も致し方ないとは思います。

しかし、ちょっと調べればこの王が虚像だと分かるのに、西洋文明の優越を誇示するために野蛮な王をデッチ上げ、その征服を謳いあげるようなこの作品が、現代でも繰り返しリメイクされ、ミュージカルの舞台で演じ続けられることの異様さを思ったりします。

歪曲された本人、ラーマ4世がキリスト教の宣教師に言った言葉を次に上げます。

君が我々に宣教している努力は驚嘆に値するが、だが君が我々を宣教できると思うなら馬鹿げている。("What you teach us to do is admirable, but what you teach us to believe is foolish")


この言葉には、西洋文明の他文明への征服欲の強さと、それには屈しないと言う信念が込められていると、個人的には信じています。
最後にそんなラーマ四世の実像を描いた、日本人タイ研究家の著作をご紹介します。(左:『もうひとつの「王様と私」』)
これを読むと、西洋列強の圧力に抗し、自らの文化を守ろうとした誇りに満ちたリーダーの肖像を見出します。


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posted by ヒラヒ・S at 17:00| Comment(0) | アメリカ映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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