2018年09月04日

日本映画の古典『東京物語』小津安二郎監督の日本の心/感想・解説・日本家族・無常

映画『東京物語』(感想・解説 編)

原題 Tokyo Story
製作国 日本
製作年 1953
上映時間 135分
監督 小津安二郎
脚本 野田高梧 、小津安二郎


評価:★★★★★   5.0点



2012年に英国映画協会が発表した、世界の映画監督358人の投票による最も優れた映画に選ばれたのが、この『東京物語』だった。
そんなこの作品は、世界中の映画作家や映画評論家に、今なお多くの信奉者を持つ、小津安二郎監督の代表作だ。
しかし、そんな高い評価を獲得しているこの作品の魅力を、いざ伝えようとして逡巡する。

この作品に感動する自分がいるのは間違いないが、その魅力を言語化するのが困難なのもこの映画だ・・・・・・・・・

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映画『東京物語』予告


映画『東京物語』出演者

笠智衆(平山周吉)/東山千栄子(平山とみ)/山村聡(平山幸一)/三宅邦子(平山文子)/村瀬禪(平山実)/毛利充宏(平山勇)/杉村春子(金子志げ)/中村伸郎(金子庫造)/原節子(平山紀子)/大坂志郎(平山敬三)/香川京子(平山京子)/十朱久雄(服部修)/長岡輝子(服部よね)/東野英治郎(沼田三平)/高橋豊子(隣の主婦)/三谷幸子(アパートの居住者)/安部徹(敬三の先輩)/阿南純子(美客院従業員キヨ)

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映画『東京物語』感想


昭和の偉大な作家、三島由紀夫がある純文学の小説家を評して「あの人は芸がうまいから・・・・」と言った事がある。

なるほどと納得する所があった。

芸術家とは芸が上手い人を指すのだなと・・・・・

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小津安二郎の映画を見るとき、この言葉を思い出す。

自らの「映画様式」を研ぎ澄まし、芸として確立した小津の作品群は、特に後半は同じテーマの繰り返しのように思われるかもしれない。
しかし、歌手が同じ歌を歌うように、画家が同じ絵を何枚も書くように、小津は自らの様式を本人にしか分からないコダワリを持って、突き詰めていったのに違いない
その「様式」が力を持つからこそ、ストリーが単純であっても、いや、単純であればあるほど、その様式が際立ち沁み込むように思われるのだ。

ここまで「様式」が「芸」として上手くなってしまえば、小津は何も考えずにその「様式」を再現できたに違いない。

しかし、小津の凄いところは、自分の様式を追求し続けて飽きる所の無かったことだ。
例えば、コーヒーカップのスプーンの回し方を右4回左4回と決めてみたり、赤い薬缶が右から左に平気で移動してみたりするのは、全て小津の持つ美意識に近づけるために必要な作業なのだ。

結局、そこまで「芸」を突き詰めてしまえば、その芸をしている本人以外は、上手くいっているのかどうかすら、分からなくなってしまう。
事実「秋刀魚の味」に出演した岩下志麻は、その演出のあまりの細かさにノイローゼになりそうだったと語っている。
もう出演者すら、監督の意図が分かっていないのだ・・・・・・・
<秋刀魚の味・予告>

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結局、芸術家の芸とはその本人が内に持つ「美」を、100%表現するために行われるパフォーマンス=表現行為であれば、その出来上がった芸術の完成は本人にしか判断できず、その洗練の度が上がれば上がるほど、その作家固有の「様式美」として結実していくに違いない。

そんな優れた感性をもった人間が、一生をかけて、心血を注ぎ、切磋琢磨し、築き上げた「様式」を前に、他人のどんな表現も陳腐に響く。
その厳然として屹立している姿は、富士山の如く揺らぎようもない。

つまりは、黙って拝ませていただくという態度しか、取りようがないように思う・・・ 
それほど高い作家性を持ち得たのは、小津監督が表現した作品群が、誰よりも深く日本の様式美を映像として置き換え得たからだと、個人的には感じられてならない。

この「東京物語」は他の小津作品に比べて、テーマとストーリーが強いので入リやすい作品だと感じます。

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映画『東京物語』解説

戦争の傷跡

この映画では、声だかに主張はしないものの、戦争の影がその基調にあると感じる。
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映画の題名でもある東京は、第二次世界大戦によって終戦後の1945年破壊されつくされた。(日本橋から見た、深川、両国方面)

しかし、この映画が公開された1953年頃には、戦争終結から8年にして、東京は驚異的な復興を遂げる。
<1950年代の東京>

しかしいかに街が再建されようと、戦争によって日本は約310万人にのぼる死者を出した。
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そして人的被害にも増して、戦争でどうしようもなく失くしたモノがあったと思えてならない。

その喪失は、東京という日本最大の都市にまず現れたのではなかったか。
広島・尾道という、古い日本から出てきた老夫婦に対して、東京の子供達が邪魔にする態度。
その老いた夫婦の姿に、日本的な紐帯、家族の絆、「日本的家族制度」が、戦争を経て喪われたのではないかと、そう語りかけられているように感じた。

それは、戦死した息子の嫁、戦争で喪われた人々の遺産を継承する存在である、原節子演じる紀子が美しく善良な日本人として描かれることで、そのメッセージを強くしているように思える。
更に、尾道(旧き日本)に残る末娘と紀子と、東京の長男長女、大阪の次男の存在との対比にも、「古く家族的な日本と、新しくドライな日本」との関係が繰り返し描かれ、「喪われつつある、古き良き日本」を惜しむと、何度も語られているようだ。

考えてみれば、戦後の日本は高度成長期に、この映画で惜しまれた日本的な家族の姿は、都市部から変容し「核家族化」が進んだ。
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さらに、時代を下りバブル期を迎えるころには、日本の家族から相互の結びつきが薄くなり、家族という集合体はその役割をさらに減じたように思える。
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そして、平成に入るや日本人にとっての「家族」とは何なのかと、再度問い直されているのではないだろうか。
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<
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この映画の終わりは、その日本の行方を見通したかのように、古いモノを代表する紀子が、不安そうに汽車に乗り東京へと向かう。

そして尾道には、笠智衆演じる老父が1人残される。

まるで、戦前に在った「家父長制」の美しい残滓のようなその姿に、哀れみと同時に、ノスタルジーを感じた。

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映画『東京物語』解説

日本的な表現

小津監督としては珍しく、喪われた美しきモノを原節子が代表し、戦後日本の醜悪な姿を東京の子供たちが表す、はっきりとした対立構造が描かれる。

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しかし、この映画はそんな変わり行く日本を、責めたり、嘆いたりしているわけではない。

原節子演じる紀子が言う、「みんな変わっていくのよ、私だって変りたくはないけど変わるんだわ」というセリフで明らかなように、そこに在るのは諦念である。
そして、この「アキラメ」こそが日本人が持つ、世界的にも特異な資質だと言われている。

たとえば作品中では、戦争で死んだ息子に対しても、静かにアキラメ、不実な子供たちに対しても、それでもマシな方だとアキラメる。
そして、妻の不幸を受けても、ただ「そうか、だめか」と、その夫は静かに受け入れさえする。

この「日本的アキラメ」とは一説には、火山や地震、そして台風など自然災害に周期的に見舞われる日本人にとって、過ぎた災禍に拘泥しては前に進めないがゆえの、必然的な資質だと聞いた覚えがある。

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そんな、失われたもの、そして必ず失われるだろうもの、それらに対し静かに受け入れる姿勢こそ日本人であるのだろう。

それらの「予期される喪失」は、日本人の「無常感」を生み、喪われる存在を表現する「侘しさ=ワビ」と「寂しさ=サビ」を、その心性に刻むに違いない。
そんな日本人にとって、「桜」が散り行く姿に「無常の美」を感じるのは、日本人にとっての歴史「繰り返される喪失」をそこに見るからだと感じられてならない。

この映画に在る、独特の間と、途中途中に挟み込まれる自然風景、そのセリフの説明の少なさの内に、そんな日本的な「無常」を想う。
そんな「無常」を表すのに、日本人は明示的情報ではなく、直接言葉にならない部分、隙間や空白で、その真意や真心を相手に伝えてきたのだと、この映画を見て再確認した。

なぜなら、日本人がその心底に持つのは、全ては移り行き消えうせるのだという必然だとすれば、それは言葉に出すことではなく静かに噛みしめるのが相応しいだろう。

言葉にしてしまえば陳腐になってしまう感慨を、映像の中にしっとりと染み込ませ、セリフよりも雄弁に、間やモンタージュで表現する。

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そんな日本的な心性を丹念に表現するために、小津は単純な家庭劇の表面、いわば「建前」の陰で、実に細部の小物にまで気を配りその「本音」である、「無常」「ワビ」「サビ」を映画全編に埋め込んでいると感じる。

この映画には、そんな静かに噛みしめるべき時間、つまり今を惜しむ「日本人の姿」が、笠智衆を通して印象的に現れているだろう。
 
言わずとも判る、ただ「ある」だけで、了解される・・・

そんな小津の「様式」が、そのまま日本古来の美を表現した「様式」である事が、この映画を見ると分かる気がする・・・・・・・・・



posted by ヒラヒ・S at 12:58| Comment(0) | 日本映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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