原題 SAINT RALPH 製作年 2004 製作国 カナダ 時間 98分 監督 マイケル・マッゴーワン 脚本 マイケル・マッゴーワン |
評価:★★★★ 4.0点
これはさすが有り得ない話で「実話ではない」のですが、それでも十分感動的だったのは、どこか真摯な祈りが感じられたからです。
実は、この映画の原題『SAINT RALPH』は、「聖人ラルフ」という意味のようで、ラルフとは主人公の少年の名前です。そういう意味では、まさしく少年が奇跡を起こす有り得ない物語なのです・・・・・・
調べて観て驚いたことに、この「聖=セイント」とは、日本人だと予想もできないキリスト教の秘儀に関わるスゴイ言葉だったのです!
映画『リトル・ランナー』ストーリー |
1953年の秋。ラルフ・ウォーカー(アダム・ブッチャー)は、カナダ・ハミルトンのセント・マグナス・カトリック学校に通う14歳の少年だった。戦争で父を亡くし、母エマ・ウォーカー(ショーナ・マクドナルド)は病気で入院していた。
学校でもたばこや性に関する興味が旺盛な問題児の彼は、校長のフィッツパトリック神父(ゴードン・ピンセント)に目をつけられている。
そんなある日、あろうことかプール内でオナニーをし、遊泳客をパニックに陥れた。
そんな不真面目なラルフに怒った校長は、退学か校内のクロスカントリー部に入るかどちらか選べと迫った。
嫌々ながらラルフは入部し走る事になった。
そんな時、入院中の母の病状が悪化し意識不明の昏睡状態に陥る。
看護婦のアリス(ジェニファー・ティリー)は「奇跡でも起きなければ、昏睡から目覚めない」と、厳しい現実を知らされたラルフ。
哀しみにくれながらも、ラルフは母を助けるために「奇蹟」を探し始める。
するとクロスカントリー部のコーチを務める元オリンピック選手のヒバート神父(キャンベル・スコット)が「君たちがボストンマラソンで優勝したらそれは奇蹟だ」と言うのを聞いた。
その日からラルフは走り始める。
ボストンマラソンの優勝という奇蹟を目指して。
自己流の過酷なトレーニングを開始し、それを見た看護婦アリスも、ボブスレー選手の経験を生かし、ラルフの筋力アップに貢献した。しかし、そんなラルフを見てクラスメイト達は嘲り、実際に地元レースに出場しても悲惨な結果に終わった。
それでもヒバート神父は、日々のラルフの頑張りを見るうちに、心を動かされ彼のコーチになることに同意した。
しかし、信仰に懐疑的になっている神父は、ラルフが「奇跡」を語るのを禁じた。
ヒバート神父の指導の下、実力をつけて行ったラルフは、数ケ月後に行われた地元のマラソン大会で優勝するまでになった。
周囲はその快挙に沸き立ち、ラルフの応援をする者が日増しに増えて行った。
しかしラルフが新聞のインタビューに答え「奇蹟を起こす」と口にしたため、校長は「神への冒涜」だと怒った。
そして、ラルフがボストンマラソンに参加すれば退学処分にすると言い渡した。
その決定に異議を唱えた、コーチのヒバート神父に対しても、校長はニーチェ(神を否定した哲学者)を口にし、反カトリック的な言動のある彼を、修道会から追放すると脅した。
しかし、ラルフは友人たちの励ましを受け、母のため「奇跡」を起こそうと、1人ボストンに向けて出発した。
一方コーチのヒバート神父も、ラルフの真摯な努力に神への信仰を新たにし「人助けのために神父になった」「無政府主義者という点でニーチェはキリストに敵わない」と校長に言い放つと、ラルフを追ってボストンへと向かった。
そしてレース当日。
ヒバート神父はラルフに競技前の「神への祈り」を授けた。
大人に交じって、スタートラインに立つラルフ。
そして、ついにレースの火ぶたが切られた・・・・・・・
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映画『リトル・ランナー』予告 |
映画『リトル・ランナー』出演者 |
ラルフ・ウォーカー(アダム・ブッチャー)/アリス看護婦(ジェニファー・ティリー)/ジョージ・ヒバート神父(キャンベル・スコット)/フィッツパトリック神父(ゴードン・ピンセント)/クレア・コリンズ(タマラ・ホープ)/チェスター・ジョーンズ(マイケル・カネヴ)/エマ・ウォーカー(ショーナ・マクドナルド)
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映画『リトル・ランナー』感想 |
いっっくらナンデモ、そんなわけないだろ〜、ありえないだろ〜〜と思いながらも・・・・・
その必死に走る姿を見て、最後には感動している自分がいます。
こんな、古臭い、べたべたの、汗まみれの、熱血が、なぜバカバカしいとシラケないかといえば、もちろん映画技術としての的確な力もあるでしょうが、それ以上に大きな力を及ぼした存在があったように感じました。
それは「愛する者のための祈り」が胸を打つからだと思います。
この少年が、昏睡状態の母親のためなら、自分の体が磨り減ってこの世から消え去ってしまったとしても走り続ける。
そんな無私の献身が、その体を走らせるのだと、見ている方に実感として伝わるからではないでしょうか。
この、現実で不可能な目標に向かって、遮二無二走り続けるこの姿、自らのためではなく誰かのための献身とは、ある種の祈りの行為に他ならないと思えます。
それは、日本における「お百度参り」や「水ごり」のように、自分個人ではどうしようもない問題を、この世を統べる大きな存在に願うための行為であり、つまりは「神」に対する祈りとして、この少年はマラソンの辛苦を選んだのだと思えます。
人智では購えない救いを、神に祈り、不可能を可能にする事を「奇蹟」と呼ばないでしょうか?
そんな、人間の力ではどうしようもない「苦難」を「大いなる存在=神」に祈り、救済を求める世界中で日々繰り返されているだろう行為を象徴的に表現して見事だと感じました。
実は、宗教的な祈りを描いた作品とは、映画の主要なテーマの一つだと感じます・・・・・
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いずれにしてもこの映画は、キリスト教の宗教観が色濃く反映された「神への祈り」と、その結果の「奇蹟」を描いた秀作だと思います。
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映画『リトル・ランナー』解説 |
なぜなら「奇蹟」とは神の御業の現出であり、「奇蹟」の存在こそ神の世界、霊的世界の証明に他ならないからです。
<列聖=キリスト教において聖人として列せられる事>
カトリック教会においては徳と聖性が認められた福者 (羅:Beatus / 英:Blessed) が聖人 (羅:Sanctus / 英:Saint) の地位にあげられることをいう。
福者・聖人とも奇蹟の認定が必要で、その奇蹟とは「(自ら若しくは他者を)死から蘇らせた」であり、「(歩行困難者や失明者、瀕死の者を)病苦から回復させた」であるとか、不可能と思える事を現出させることを指す。
たとえば2005年に亡くなったヨハネ・パウロ2世(右)は「聖者=セイント」である。
その福者と認定した「奇蹟」は、パーキンソン病患者であったフランスの修道女が、ヨハネ・パウロ2世の死後に祈りを捧げると病気が快方に向かっていったという事例を持って認定した。
さらに、列聖の奇跡は重病のコスタリカの女性がヨハネ・パウロ2世に祈り続け、回復した出来事を奇跡と認めたもの。
こう見てくれば、この映画の原題『セイント・ラルフ』の意味とは、カソリック的な、奇蹟を起こした人物が主人公ラルフなのだと気付きます。
「聖ラルフ少年」は、その祈りによって「昏睡の母を蘇生」させる奇蹟を生めるかというのが、この映画の語る本質だと感じます。
この映画の少年がなそうとした、必死に「奇蹟」を起こそうという努力の姿は、そんな「神への祈り」の真摯さがあり、それゆえ不可能なストーリー展開であればあるほど、神の偉大さが際立つという構造になっているのでしょう。
このバカバカしいほどの愚直さに示された「現代的神話」は、それでも、どうしようもない運命を神に祈る事で変革し得るというメッセージとして説得力を持ち、感動を生むと思える。
この映画が描く「奇跡」への道のりを追ううちに、西洋文明がまだ宗教に対し信頼を持っているとのだと、素直に納得をした。
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以下の文章には 映画『リトル・ランナー』ネタバレがあります。 |
ラルフは精鋭ランナーに交じって互角の走りをし、雨中の中トップを走る激走を見せた。
しかし一歩及ばず、2位となってしまった。
レースから戻ったラルフは、すぐさま母の病室へと向かった。
しかし、母は昏睡したまだった。
その母の手に銀メダルを握らせたラルフは、病室を後にした。
映画『リトル・ランナー』ラスト・シーン |
失意の彼を、学校の級友と校長が尊敬の籠った拍手で迎えた。
そして彼は、1956年のオリンピック優勝という奇跡を目指して、すぐさまヒバート神父と共に走り出した。
そして―
ラルフの母の眼が開いた。
「信じる者は救われる」という映画だと思います・・・・・・・