原題 Revolutionary Road 製作年 2008 上映時間 119分 監督 サム・メンデス 脚色 ジャスティン・ヘイス 原作 リチャード・イエーツ |
評価:★★★★☆ 4.5点
この作品の『タイタニック』コンビ、レオナルド・デカプリオとケート・ウィンスレットの2人が、アイドル・スターの己を否定するかのような、凄まじい演技に戦慄すら感じました。
そんな演技に込められた、ヒロインの運命と主人公の姿に、現代人が不可避に持たざるを得ない「救いのない虚無感」の苦しみが胸に迫ります
この映画に現れた「虚無」は、ジェンダーによりその悲劇をまし、ついには夫婦の断絶を生み、人を絶対的な孤独へと追いやると語っているように思えました。

<目次> |



映画『レボリューショナリー・ロード』予告 |
映画『レボリューショナリー・ロード』出演者 |
フランク・ウィーラー(レオナルド・ディカプリオ)/エイプリル・ウィーラー(ケイト・ウィンスレット)/ヘレン・ギヴィングス(キャシー・ベイツ)/ジョン・ギヴィングス(マイケル・シャノン)/ミリー・キャンベル(キャスリン・ハーン)/シェップ・キャンベル(デヴィッド・ハーバー)/ジェニファー・ウィーラー(ライアン・シンプキンス)/マイケル・ウィーラー(タイ・シンプキンス)/ジャック・オードウェイ(ディラン・ベイカー)/バート・ポラック(ジェイ・O・サンダース)/ハワード・ギヴィングス(リチャード・イーストン)/モーリーン・グラブ(ゾーイ・カザン)
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映画『レボリューショナリー・ロード』感想 |
さらに日本題に加えられた「燃え尽きるまで」という言葉も、今一つ歯切れが悪く内容を表現し得てないと感じます。
そして、実際の映画を見てみれば、これは予想外の殺し合い血みどろの「愛の幻想破壊」バトルだと言うべきでしょう。
その表現の激しさは、アカデミー賞欲しさのデカプリオの心情が反映されているようにも思いますが・・・・・・・・
関連レビュー:デカプリオのオスカーへの執念 『レヴェナント:蘇えりし者』 デカプリオのオスカー受賞作 アレハンドロ・G・イニャリトゥ監督 |

個人的には、この映画のデカプリオが一番好きだったりします。
映画自体は、恋をして、家庭が築かれ、子供にも恵まれ、それでも充足し得ない現代の夫婦の危機を、日常表現の中に暴き出して見事だと感じました。
その表現の基礎には、端正で、静謐な劇空間の色調があるからこそ、ラスト30分の壮絶な「相手の全否定合戦」が、衝撃を持って観客をも追い詰めるのでしょう。
その演出の力は、アカデミー賞作品『アメリカン・ビューティー』に共通する、舞台演出家でもある監督サム・メンデスの演劇的な表現に多くを負っていると感じます。
関連レビュー:サム・メンデス監督の傑作 『アメリカン・ビューティー』 オスカー監督賞他3冠受賞作 アメリカ中流家庭の崩壊を描く |
通常の映画撮影であれば、場所・人のスケジュールなどを考慮し効率最優先のスケジュールを組み、それゆえ極端に言えばラストシーンを初日に撮る事すら有り得ます。
しかし、この作品はあくまで時間軸に添って順番に撮影して行ったといいいます。
そこには、舞台劇的な感情の流れを重視し、映画が作られている事がうかがわれます。
実をいえば、そんな「演劇的な映画」は他にもあり、たとえばこの映画のケイト・ウィンレットも出演した『大人のけんか』は、何度もリハーサルを重ね、映画の時間と撮影の時間がほぼ同一のノーカット撮影だという徹底ぶりです。
関連レビュー:舞台劇の迫力 『おとなのけんか』 ロマン・ポランスキー監督作品 ジョディ・フォスター, ケイト・ウィンスレット, クリストフ・ヴァルツ等がおおげんか! |
そして、そんな「舞台演劇的映画」を見ると、そこには演者のエモーショナルな表現の強さが際立つように思います。
それは、演じる者が、その始まりから終わりという現実と同じ時間軸の中で、自然に感情が盛り上がりを見せるからだと想像します。
極端に言えば、役者はその時間を演技か現実か分からなくなるほど、その役を真に生きているのではないでしょうか。
そう考えれば、この映画の中で、主演の2人は「出会い」「愛し合い」「憎みあい」「喪失」する人生を、実際に生きることに等しいとすら思います。
それゆえ、この2人が真に生きた運命を見つめる観客をして、共に映画を生きさせるのだろうと信じます。

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映画『レボリューショナリー・ロード』解説1950年代のフェミニズム |
その幻想の限界は、まずは一家の主婦という役割を求められた既婚女性から現れた。
この映画で描かれた1950年代、第二次世界大戦後の社会とは、男達が安住してきた「家父長制」を維持しようという努力にもかかわらず、その『幻想』に女性達が付き合う事に拒否反応を示し出したのだった。
事実を追えば、戦後すぐのアメリカ社会で「結婚して子供を持つ郊外住宅の主婦」が女性の憧れとなった。
しかしここには、戦時中男性不在の社会に在って、工場の労働や、バスの運転手など、社会構造の中で有効に機能していた職業従事女性を、男達の帰国に伴い家庭に入れようとする、アメリカ政府の方針によるプロパガンダがあったという。

しかし、家庭に戻った女性達の中には、結婚し子供を育てる役割だけの人生では、すでに満たされないと感じ始める人々がいた。(左:家の掃除は人生の浪費のサイン)
すでに社会に参画し自己実現という果実を知っている彼女たちからすれば、自らの能力の社会的活用がもっと成されるべきだと思えたのだ。

郊外住宅の主婦、これは若いアメリカの女性が夢に見る姿であり、また、世界中の女性がうらやんでいる姿だといわれている。 しかし、郊外住宅の主婦たちは、密かに悩みと戦っていた。ベッドを片付け、買い物に出かけ、子供の世話をして、 1日が終わって夫の傍らに身を横たえたとき、『これだけの生活?』と自分に問うのを怖がっていた。(『新しい女性の創造』より)
この映画のヒロイン、エイプリルの姿こそ、この『これだけの生活?』と自分に問うのを怖がっていた、世間の憧れの存在「郊外住宅の主婦」そのものだったろう。

しかし、男達はその居心地のいい幻想にあって、女達の不満を理解できない。
そして男達の戸惑いの中、ついには「家父長制の=家族幻想」はそのパートナーである女達の「不充足=不満」によって、崩壊せざるを得なかった。
そんな社会的な背景を踏まえ、映画を再度整理してみれば―
50年代のアメリカ社会で「家族幻想」を喪った妻が、フェミニズム的自己実現を求め、夫と共に「新たな価値」の創出に挑戦するものの、「夫=家父長」は勤務先で評価されるにつれ、男にとって居心地の良い「家族幻想」に回帰し、それを責める妻の心情が理解できず、悲劇を迎える映画だと言える。
そして、女性達が自分の人生の真実を求めて旅立つのを前に、男達は「家族幻想」の名残りの中でなお甘美な夢に浸っていた。
そんな男達の姿と、妻の理想との断絶を、この映画は劇的に描き出していると感じた。
日本のフェミニズム運動の先駆者達のドキュメンタリー映画。<『何を怖れる』〜 フェミニズムを生きた女たち>
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映画『レボリューショナリー・ロード』原作紹介 |
この映画の原作は、小説家リチャード・イェーツの処女作品で、アメリカでは1961年の大晦日に上梓された。
リチャード・イェーツ(Richard Yates、1926年2月3日 – 1992年11月7日)は、20世紀半ばの「不安の時代」に属する米国の小説家。
長編小説第1作Revolutionary Road(家族の終わりに)は1962年度全米図書賞の最終候補となり、短編集第1作 Eleven Kinds of Lonelinessはジェイムズ・ジョイスに匹敵すると高い評価を得た。2008年、アカデミー賞にノミネートされたケイト・ウィンスレット主演映画「レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで」の原作者として再度注目を浴びたとはいえ、生前は高い評価が商業的成功につながることはなかった。(wikipediaより:写真はリチャード・イェーツ)

この小説は、1962年にアメリカの権威ある文学賞、ナショナルブック賞の最終候補となった。
出版当時は賛否両論を生んだが、近年では2005年TIME誌が発表した「最高の英文学100冊」の 1つに挙げられているように、高い評価を勝ち得ている。
作者イェーツは言う。
「もし私の作品にテーマがあるなら、それは単純だと思える。ほとんどの人間は不可避的に孤独であり、そこから悲劇が生じる。ウィラー夫婦の不満や、何かへの憧憬は、アメリカンドリームが残骸となったことを象徴している。」
作者が上で語るのは、その小説が指し示すのが、この映画で色濃く現れる「家父長制的家族幻想の崩壊」だけではなく、広くアメリカ社会の「アメリカ的価値観」が、また「幻想」であることを示している。

つまりはアメリカ社会を機能させてきた「理想やモラル」もまた「幻想」であり、それらが喪われたことを意識せざるを得なくなったと、その小説には描かれている。
しかし考えてみれば、人はどこまで行っても社会的な存在であり、社会とは「理想=価値の共有」と「モラル=道徳律の共有」が無ければ、共同体として成立し得ないであろう。
それらの「理想やモラル」が共通の価値として確立されているからこそ、人はその社会内での自己の役割を持ち、その関与を他者から評価され、自己実現や自己評価が可能になるのである。
そして、その共同体を形成する基礎たるべき「幻想」が消滅したからこそ、人々は孤独という不安に苛まれることになった。
つまりは共同体としての幻想喪失は、共同体内での他者の価値観を、個人の自己実現とすることを許さない。
それゆえ、人は各々個々に自らの価値を創出しなければならなくなったことこそ、人が孤独になるという事の意味だっただろう。
そんな「幻想の消滅=絶対的孤独」にあって、その事実を認めまいとして旧弊な「幻想」を強く高く掲げようとして、混乱した時期こそ50年代であり、イェーツはその事実を明確に形にしたからこそ「不安の時代」の作家なのだと思える。
更に言えば、生物学的に言って人間の祖先が「群れをつくる猿」である時、その「群れ=共同体」を喪うとは「自己喪失」と同義だと思える。
そんな事を踏まえて解釈すれば、この小説の持つメッセージの核とは映画内語られた「救いなき虚無=絶対的な自己喪失」に集約されるように感じた。
<映画内でのジョンの言葉>【意訳】フランク:僕たちは、ここでの「救いなき虚無」の人生から逃げ出すんだ。(妻に)そうだろ?/ジョン:「救いなき虚無」?(微笑む)今そう言ったよね。大部分の人々が虚無を抱えているのに、その虚無を見る真の勇気が無いんだ。スゴイ。

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映画『レボリューショナリー・ロード』評価 |

この映画の完成度は高いものだと感じ、見終えた後に強い感動を覚えたからです。
しかし、何度か見るうちにその評価を0.5点減ずる事にしました。
それは本来この映画に内包された本質的命題とは、小説で語られていたように、人類が共同体内で生きる際に必要だった「幻想の消滅」によって生じた「現代人の虚無=絶対的孤独」を前に、人が真に生き得るかを問うものであったのだと思います。
しかし、この映画作品単体で見れば、その語るところは「フェミニズム的主張」が色濃く見え、人類が不可避的に抱えた問題から矮小化されているように感じられます。
それは決して小説というテキストから比較しての判断ではなく、映画の脚本内に確かに埋蔵されているそのテーマを、堀り下げ得なかったのだと感じたからです。
つまりは、この「ドラマ」が持つポテンシャルからすれば、この映画はまだその「ドラマ」を表現し尽くしていないように、個人的にはどうしても感じられたのです。
そしてまたその原因が、レオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレットの主役2人の演技が、最も映えるドラマとなるように構築されたせいではないかと邪推し出してしまったのです。
そんなこんなで、この映画の「脚本」に対し、真に誠実だったのかとまで疑うように・・・・・・
重箱の隅をつつくようなことですが、その疑念を持ったまま満点とはし難く、この評価とさせて頂きました。
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