2018年05月26日

「ウォーターゲート事件」詳細年表/映画『大統領の陰謀』解説・実話・史実紹介

『大統領の陰謀』(実話・事件・解説 編)

原題 All the President's Men
製作国 アメリカ
製作年 1976
上映時間 139分
監督 アラン・J・パクラ
脚本 ウィリアム・ゴールドマン


評価:★★★    3.0点



この映画で語られるのは、ニクソン大統領にトドメを刺した「ウォーターゲート事件」です。
新聞社ワシントン・ポストの二人の記者が、命の危険も顧みず追い続けた事件の、実際の所を調べてみると、記者だけではなくFBIやCIAそして司法関係者も、アメリカの最高権力者に対し戦った姿が見えてきました。
そんな事件のあらましと映画の登場人物の、実在モデルを紹介したいと思います。

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<目次>
実際の「ウォーターゲート事件」とは
解説「ウォーターゲート事件年表」
解説「英語題All the President's Men」意味

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映画『大統領の陰謀』予告

映画『大統領の陰謀』出演者

カール・バーンスタイン(ダスティン・ホフマン)、ボブ・ウッドワード(ロバート・レッドフォード)、ハリー・ローゼンフェルド(ジャック・ウォーデン)、ハワード・シモンズ(マーティン・バルサム)、ベン・ブラッドリー(ジェイソン・ロバーズ)、ディープ・スロート(ハル・ホルブルック)、ジュディ・ホバック(ジェーン・アレクサンダー)、ダーディス(ネッド・ビーティ)、ヒュー・スローン(スティーヴン・コリンズ)、ケイ・エディ(リンゼイ・クローズ)、ポール・リーパー(F・マーリー・エイブラハム)、ヒュー・スローンの弁護士(ジェームズ・カレン)


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「ウォーターゲート事件」概要


ウォーターゲート事件(Watergate scandal )とは、president-Watergate.jpg1972年6月17日にワシントンD.C.の民主党本部で起きた盗聴侵入事件に始まったアメリカの政治スキャンダル。
1974年8月9日にリチャード・ニクソン大統領が辞任するまでの盗聴、侵入、裁判、もみ消し、司法妨害、証拠隠滅、事件報道、上院特別調査委員会、録音テープ、特別検察官解任、大統領弾劾発議、大統領辞任のすべての経過を総称して「ウォーターゲート事件」という(wikipediaより)

事件以前に、1971年に国防総省秘密文書(ペンタゴン・ペーパーズ)がニューヨーク・タイムズ他各社に掲載され、ニクソン大統領は政府からの情報漏洩を防止する目的で、別名「鉛管工(plumber unit)」と呼ぶ特別調査チームを作り、ベトナム戦争反戦運動活動家や報道関係者、更にはホワイトハウス職員、そして民主党員とその監視の対象を広げていき、そのチームの指揮をゴードン・リディとハワード・ハントが執っており、それがそのままニクソンの再選委員会の対立候補の妨害やウォーターゲート事件の盗聴につながっている。
関連レビュー:ワシントン・ポストの実話解説
『ペンタゴン・ペーパーズ』
表現の自由とペンタゴン・ペーパーズ事件
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「ウォーターゲート事件」年表



1972年6月17日午前2時:民主党本部があるウォーターゲート・ビル(ワシントンD.C.)に、盗聴器を仕掛けようと侵入し5人の男が警察に逮捕。
その内の1人がジェームズ・W・マッコード・ジュニアで、ニクソン大統領再選委員会の警備主任だった。彼はCIAの元工作員で、100ドル紙幣53枚という大金を保持、その出処に疑惑が広がった。また侵入犯の4人も元CIA工作員で、そして5人目はニクソン大統領再選委員会のメンバーだった。
president-5men.jpg左から:ジェームズ・W・マッコード・ジュニア、バージリオ・ゴンザレス、フランク・スタージス、ユージニオ・マルチネス、バーナード・バーカー
実行犯の1人ユージニオ・マルチネスの手帳にはホワイトハウス顧問チャールズ・コルソンの名前があり、さらに元FBI、CIA職員を経て、ホワイトハウス顧問となったエヴェレット・ハワード・ハントも記されており、侵入犯と「ホワイト・ハウス=ニクソン政権」との関係が取りだたされた。

president_Fbi_CIA.jpg1972年6月17日夜:ヘルムズCIA長官は事件を知り、元CIA職員が関与していてもホワイトハウスが雇った者でCIAは無関係と、グレイFBI長官代行に連絡。
左:グレイFBI長官代行/右:ヘルムズCIA長官

1972年6月18日:アーリックマン大統領補佐官は、事件を担当するFBI特別捜査監督官ダニエル・ブレッドソーに電話し、捜査を打ち切るべきだと脅すが、ブレッドソーは拒否し、マーク・フェルトFBI副長官に経緯を電話報告。
president-MarkFelt.jpgマーク・フェルトFBI副長官「ディープ・スロート」
ワシントン・ポストのボブ・ウッドワード記者の情報源だった人物で、当時のFBIのNo.2だった。
彼の行動は、ニクソン大統領の強引なもみ消し工作で、FBIが窮地に陥るとの危機感を覚えた、必死の抵抗行動だったと思える。

1972年6月19日:ニクソン政権の報道官は、ホワイトハウスとは無関係であるとコメント。
1972年6月19日夕方:ニクソン陣営が集まり善後策を協議。盗聴計画書面の裁断など、もみ消し工作が始まる。
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当日の主要出席者:写真左・再選委委員長ジョン・N・ミッチェル(前司法長官)/中央:再選委副委員長ジェブ・スチュアート・マグルーダー/右:大統領法律顧問ジョン・ディーン、他再選委員2名

1972年6月20日:ワシントンポスト紙面「実行犯メモにチャールズ・コルソンとハワード・ハントの名前、House.WHと書き込み」とスクープ。president-6-20.png
左:チャールズ・コルソン(ニクソン特別顧問)
右:ハワード・ハント(ホワイトハウス顧問・元CIA)
両者はニクソン謀略部隊「鉛管工(plumber unit)」指揮官だった。

1972年6月20日未明:ニクソン陣営・法律顧問ジョン・ディーンがハントの金庫から証拠となる機密書類と盗聴装置を隠ぺい。
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1972年6月22日:ニクソン大統領(左)自身が「いかなることにせよ、この特殊な事件にホワイトハウスは関係していない」と声明。

1972年6月23日:ニクソン大統領と大統領首席補佐官ホルドマンは、国家安全保障を理由にFBIの捜査を中止させる方針を決める。
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ジョン・アーリックマン補佐官(写真右) とホルドマン首席補佐官(写真左) が、CIAヘルムズ長官を呼び出す。
CIAの活動(国家安全保障)に支障が生じるという名目で、FBI捜査の中止を働きかけさせる。グレイFBI長官代行は部下チャールズ・ベイツに中止を伝えるが、ベイツは拒否。

1972年6月26日:ディーン大統領法律顧問は、侵入事件がCIAの機密作戦だと糊塗するため、CIA副長官ウォーターズに侵入犯手当のCIA負担を要求。
1972年6月27日:ディーンが再度CIA側に要求し、ヘルムズ長官は拒否する。
1972年6月28日:大統領法律顧問ジョン・ディーンはハント金庫内にある、ペンタゴン・ペーパーズ告発者エルズバーグの違法情報取得の証拠など、不利な証拠をグレイFBI長官代行に処分させる。
1972年6月30日:ワシントン連邦地方裁判所で事件裁判。
1972年7月6日:ウォーターズCIA副長官とグレイFBI長官代行が対応を協議。グレイはCIAの求める捜査打切りにCIAの「書面命令」を要求。また、グレイはニクソン大統領に直接電話し、大統領スタッフがCIAを操作し大統領に致命傷を負わせようとしていると伝え、ニクソンは最終的に捜査を認めざるを得なくなる。
president-lidy.png1972年7月11日:第2回裁判。
侵入犯は犯行当日12回も再選委員会財政顧問ジョージ・ゴードン・リディ(写真)に電話していると判明。
またハント元ホワイトハウス顧問も出頭し、リディーとハント両名逮捕。5人の実行犯背後に再選委員会顧問と元大統領顧問の存在が明るみに。

1972年8月1日:ワシントンポスト紙面「侵入犯銀行口座に再選委員会・中西部責任者ケネス・ダルバーグ名義小切手25,000ドルが振込」と報じる。president- The Watergate Story.png
ワシントン・ポスト紙:ボブ・ウッドワード(右)とカール・バーンスタイン(左)の両記者はこのころからウォーターゲート事件専任に。

1972年9月17日:ワシントンポスト報道「ニクソン再選委員会の機密費が30万ドルに上る」
1972年9月29日:ワシントンポスト紙面「ミッチェル前司法長官は在職中から秘密資金を管理していた」
1972年10月10日:ワシントンポスト紙面「ウォーターゲート事件は共和党の選挙妨害の1つに過ぎず、秘密資金は35〜70万ドルにのぼる」「大統領補佐官が民主党妨害工作に関与、FBI捜査で明らかに」
1972年10月25日:ワシントンポスト紙面「秘密資金の支出を管理するメンバーにホルドマン補佐官が関与」
上記ワシントン・ポスト記事が出ても、ほぼポストのみが報じていた事、また世論もまさか政府中枢部が関与しているはずはなく、末端の部下の犯行との認識が強かった事から、大統領選挙に影響を与えるものではなかった。

1972年11月7日:ニクソンは大統領選で勝利、2期目へ。
1973年1月8日:連邦地裁裁判で実行犯のうちマッコードとリディ以外の全員が有罪を認めたものの、事件背景は語られず。
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1973年2月7日:サム・J・アービン民主党上院議員(写真)を委員長として、ウォーターゲート特別委員会が設置。

1973年3月19日:実行犯マッコードは、CIA単独工作として自分を主犯として幕を引く方向に不安を持ち、「政治的圧力の存在」「公判での偽証」「他関係者の関与」「事件はCIA作戦ではない」と告発した。president_mccode_senete.jpg
1973年3月24日:更にマッコードはアメリカ議会、上院特別調査委員会に証人として招致(左:委員会証言シーン)。

「盗聴計画がミッチェル、ディーン、マグルーダーの3名により事前承認があった」と証言し、政府中枢が関わっていると明らかになった。

1973年3月30日:ニクソン大統領が捜査協力を命じる。
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1973年4月16日:ニクソンは大統領法律顧問ジョン・ディーン(写真)に、口止め料支払いの責任を取って辞任するとの文章に署名をするよう求め、ディーンは拒否。

1973年4月19日:ディーンは事件の首謀者として「私を身代わりにしようとする動きがある」と発言。
1973年4月20日:ニューヨーク・タイムズ報道「盗聴計画の共同謀議はミッチェル、ディーン、マグルーダー、リデイによって1972年1月から3月の間に3回行われた」とスクープ。
1973年4月21日:ニューヨーク・タイムズ報道「ディーンが犯人らに口止め料を払った」
1973年4月30日:ニクソン大統領は事件の責任を取ったとして、腹心ホルドマンとアーリックマン両補佐官の辞任を受理。
1973年5月6日:与党共和党首脳「大統領が知っていたか、介入の証拠があれば大統領弾劾も避けられない」と発言。
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1973年5月17日:ウォーターゲート特別委員会の特別検察官としてアーチボルド・コックスを指名。
全米が注目する中で、以後公聴会はTV放送される。

1973年6月25日:法律顧問ジョン・ディーンは上院特別調査委員会で「事件のもみ消しを図ったのはホルドマンとアーリックマンの両補佐官で、ニクソン大統領もその工作を知っていた」と証言。
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1973年7月13日:特別委員会にアレクサンダー・バターフィールド(写真)大統領副補佐官が証言。
ホワイトハウスでは大統領執務室を自動録音しており、その録音テープが存在すると証言。ニクソンはテープ提出を拒否。
1973年10月12日:連邦控訴裁判所は地裁が判断を下したテープ提出判決を支持。
1973年10月20日:ニクソンはテープ提出要求を大統領特権で拒否。これに反対するコックス特別検察官を解任しようと画策。リチャードソン司法長官(下写真左)にコックス解任を命じた所、拒否し辞任。更に後任のウィリアム・D・ラッケルズハウス司法副長官(下写真中)も、これを拒否し辞任。結局、司法省No.3のロバート・H・ボーク訟務長官(下写真右)がコックスを解任。
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この「土曜日の夜の虐殺」と呼ばれた事件以降、大統領弾劾の動きが本格化。

1973年10月23日:ニクソンは裁判所のテープ提出命令に従うとし、テープの筆記録を提出したものの、その筆記録には欠落部が大量にあり世論の反発を招いた。またこの日、議会下院に大統領弾劾決議案が提出された。
1973年10月31日:録音テープの一部を連邦地裁に提出。
1973年11月26日:テープ内に消去部分が判明。世論の更なる疑惑を招く。
1974年7月24日:最高裁判所はニクソンの大統領特権の申請を無効とし、テープ提出を命じた。
1974年7月27日:下院司法委員会は評決を行い、大統領に対する第1の弾劾案(司法妨害)が可決。
1974年7月29日:第2の弾劾案(権力の乱用)が可決。
1974年7月30日:ニクソン64巻のテープを提出。テープには1972年6月23日のニクソンとホルドマンの会談(国家安全保障問題を捏造し調査を阻む計画)が明瞭に記録されていた。この日第3の弾劾案(議会に対する侮辱)も可決。
1974年8月7日:ニクソン弾劾案の下院承認、その後の上院・弾劾裁判への流れは必至となり、共和党幹部によってニクソン辞任の勧告が試みられた。
1974年8月8日:ニクソンは翌8月9日正午に辞任することを発表。
<ニクソン辞任を伝える日本のニュース>

1974年8月9日:ニクソン辞任。ホワイトハウスをヘリコプターで飛び去る。
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即座に、副大統領ジェラルド・R・フォードが大統領宣誓。

1974年9月8日:ジョンソン大統領はニクソンに対し無条件の大統領特別恩赦を行うと声明。
これにより、ニクソンは一切の捜査や裁判を免れた。


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『大統領の陰謀』解説

英語題『All the President's Men』意味

この映画の英語の原題は『All the President's Men』という。
この題は、イギリスの童謡『マザーグース』の一節から、引かれたものだ。

マザー・グース『オール・ザ・キングス・メン』
Humpty Dumpty sat on a wall,(ハンプティ・ダンプティ へいにすわった)
  Humpty Dumpty had a great fall.(ハンプティ・ダンプティ ころがりおちた)
 All the king's horses,(王様の馬全てを あつめても)
 And all the king's men,(王様の家来全員 あつめても)
 Couldn't put Humpty together again.(ハンプティを もとにはもどせない)

上の歌詞の、all the king's men(王様の家来全員)がタイトルの起源で、この歌詞には「覆水盆に返らず=起きてしまった事は取り返しがつかない」という意味を含むという。

そんな『all the king's men』というタイトルを冠された映画が、『大統領の陰謀』以前にあった。
1949年のロバートロッセン監督が撮ったハリウッド映画『all the king's men』。
この映画は1950年開催の、第22回アカデミー賞作品賞に輝いた。
ストーリーは、野心家の政治家が権力の虜となって汚職やスキャンダルで自滅していく。その周囲のスタッフが右往左往しても、とどめようが無く政治家が破滅に向かう姿を描く。

2006年のリメイク『オール・ザ・キングスメン』予告

そんな上の映画は、まさにニクソン政権の末期の姿に重なる。

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それゆえ、この『大統領の陰謀』の原題は『All the President's Men』と名付けられたのだろう。

この映画は「アメリカの理想の破綻」を、「ウォーターゲート事件」を題材に「アメリカンニューシネマ」が描いた描いた作品だと感じる。
そして同時に、その「アメリカの理想の破綻」は、もはや押し止めようもないのだという事実を、「アメリカ国民=All the President's Men」に突きつけたのがニクソン・スキャンダルという現実だったのではないか。

実は、上の事件年表を見れば分かる通り、ワシントン・ポストが必死に記事を世に送り出しても、ニクソンは大統領選で圧勝する。

そのことは、アメリカ国民はどれほど疑わしくとも、「大統領=アメリカの民主主義の象徴」である国家元首が、そんな無様なスキャンダルを起こすわけがないと、自分たちの構築した「アメリカ民主主義」の「理想」を信じていた事の表れではなかったか。

しかしその国民の希望は、ニクソンが引き起こした「大統領職からの落下」によって、すでに「アメリカ国民=All the President's Men」が右往左往しても「アメリカの理想」を回復させえないという、「モラルの崩壊=モラル・ハザード」を如実に語る事件として記憶されることとなった。

そんな「アメリカの理想」を喪ったアメリカ国民の狼狽を、この題名が鮮やかに描き出して見事だと感じた。
関連レビュー:アメリカンニューシネマの解説
映画『イージーライダー』
疾走する反抗の美学
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posted by ヒラヒ at 17:07| Comment(0) | アメリカ映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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