原題 THE GREATEST SHOWMAN 製作国 アメリカ 製作年 2017年 上映時間 105分 監督 マイケル・グレイシー 脚本 ジェニー・ビックス、ビル・コンドン ストーリー ジェニー・ビックス |
評価:★★★★ 4.0点
この映画はミュージカルとして観客を感動させる力があります・・・・・・
アメリカの批評家の評価は最悪で、その理由にP.T.バーナムの歴史的な評価とそぐわない主人公の姿が描かれている点に厳しい論調が向けられています。
そんな歴史的側面を、ひげ女、小人のゼネラル・トム、犬少年などフリークスの実在の人物の姿で確認してみました。
するとフリークス達の思いがけない成功物語が浮かび上がって来たのです・・・・・・

<目次> |



映画『グレイテスト・ショーマン』予告 |
P・T・バーナム(ヒュー・ジャックマン/幼年期エリス・ルビン)/フィリップ・カーライル(ザック・エフロン)/チャリティ・バーナム(ミッシェル・ウィリアムス/幼年期スカイラ・ダン)/ジェニー・リンド(レベッカ・ファーガソン、歌声ローレン・アレッド)/アン・ウィーラー(ゼンデイヤ)/レディ・ルッツ(キアラ・セトル)/W・D・ウィーラー(ヤーヤ・アブドゥル=マティーンII世)/キャロライン・バーナム(オースティン・ジョンソン)/ヘレン・バーナム(キャメロン・シェリー)/ゼネラル・トム・サム(サム・ハンフリー)/コンスタンティン王子:刺青男(シャノン・ホルツァプフェル)/チャン(ユーサク・コモリ)エン(ダニアル・ソン)/フランク・レンティーニ(ジョナサン・レダヴィド)/ヴィクトリア女王(ゲイル・ランキン)/犬少年(ルチアーノ・アクーナ.Jr)/ジェームズ・ゴードン(ポール・スパークス)
映画『グレイテスト・ショーマン』出演者
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映画『グレーテスト・ショーマン』実在モデル紹介ゼネラル・トム・サム |
ゼネラル・トム・サム(親指将軍のトム)は、バーナム・ミュージアムの大スターでした。
左:映画のゼネラル・トム・サム(出演サム・ハンフリー)/中:バーナム/左:ゼネラル・トム・サム
ゼネラル・トム・サム(本名:チャールズ・シャーウッドストラットン)は1838年1月4日に出まれ、体重が4.3kgの大きな赤ちゃんでしたが、6ヶ月後に成長が止まり、4歳でも67cm足らずの身長だったといいます。

バーナムは、1844年にはトムを連れヨーロッパツアーに出て、ヴィクトリア女王を初めとして、欧州王室を歴訪します。
欧州ツアーの後、ニューヨークの劇場に出たトムは、それまでフリークショー・エンターテインメント(奇形興行)が暗い好奇心を刺激するものという常識を覆し、活気に満ちた楽しい演劇は明るい娯楽として受け入れられました。
7歳にして彼は、有能な俳優、歌手、ダンサー、コメディアンだと認められ、批評家もプロのエンターテイナーとして賛辞を送ったと言います。
大スターであり続けた彼は、1863年25歳で、PTバーナムの元で共に働いていた、同じ小人症の女性ラヴィニア・ウォーレンと結婚します。1860年代で最も知られた有名人の彼らの結婚式には、1万人が参列し、エブラハム・リンカーン大統領とその妻が、ホワイトハウスでトム夫婦のために食事会をしたほどです。(写真:ジェネラル・トム・サムと妻ラヴィニア・ウォーレン)
バーナムのマネージメントで、トムは大金持ちになり、二つの豪邸と蒸気ヨットを持つ、優雅な成功者となったトムは、バーナムが破産した時には、財政的援助をし2人はビジネスパートナーになったそうです。
1883年7月45歳で脳卒中で死亡し、死亡当時でも身長102センチメートル、体重32キロだった彼の葬儀には、2万人以上のファンが見送りました・・・・・・

映画『グレイテスト・ショーマン』実在モデル紹介レティ・ルッツ(ロッティ・ルッツ) |
映画では迫力の歌声を響かせてくれるヒゲ女、レティ・ルッツ(出演キアラ・セトル)は実在の人物でしょうか?
どうやら同じ名前のサーカス・キャストはいなかったようですが、「ひげ女」と呼ばれたアニー・ジョーンズという女性がいたようです。
実際、「ひげ女」として複数の有名なフリークスが、バーナムのサーカスに在籍していたようですが、当時もっとも有名な「ひげ女」だったことと、バーナムと深い関わりがあることから彼女を紹介させて頂きます。
アニー・ジョーンズ・エリオットは、1865年7月14日にバージニア州で生まれ、出生の時から毛深く、生後9ヶ月でバーナムのミュージアムに「幼児エサウ(エサウはヘブライ語で「毛むくじゃら」を意味し聖書に因むと言う)」と名乗り参加します。
短期の試用期間での反応の良さに、バーナムはアニーの両親に週給$150で3年契約を提示したと言います。
その後、36年の芸能キャリアを積み重ね、バーナムの「史上最大のショウ」だけではなく、「10セント展覧会」などの催しにも出演したようです。

そんな彼女は、長じてヒゲの怪異さだけでなく音楽的スキルと優雅な礼儀でも人々に受け入れられ、大スターとなりました。
そして16歳でリチャード・エリオットと結婚しますが、15年後にアニーが幼なじみの恋人ウィリアム・ドノバンと結ばれるため離婚し、新婚となったアニーとウィリアムは、自らのマネージメントで欧州ツアーに出かけます。
しかしウィリアムが急逝し、アニーは失意のうちアメリカに帰国します。
悲嘆に暮れている時、バーナムに求められ「史上最大のショウ」に再び出演する事となりました。
1902年10月22日結核によりブルックリンの母親宅で、37歳の生涯を閉じました。
アニー・ジョーンズ・エリオットは、この時代に多くいた同種のパフォーマーの中で、最も有名な存在だといいます。

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映画『グレイテスト・ショーマン』実在モデル紹介「シャム双生児」チャン&エン |
チャン&エン・ブンカー兄弟は、結合双生児の異称シャム双生児の語源となったことで有名です。
実は彼らは、バーナムと関わったのは1850年代の一時期だけで、ほとんどのキャリアは独自に活動しています。
左:実在のチャン&エン・ブンカー兄弟/右:映画のチャン(ユーサク・コモリ)&エン(ダニアル・ソン)
1811年5月タイで結合双生児として生まれ、2人は胸部と腹部の中間付近で結合しており、1829年にスコットランドの商人、ロバート・ハンターに発見されて買い取られ、その後、サーカスの見世物として欧米を巡業したそうです。
米国の劇場やホールでは、週6日に渡り1日4時間、宙返りやバク転をし、チェスの卓越した能力や、120Kgの男を運べる驚異的な腕力で、劇場の何千人もの人々を楽しませたといいます。
1831年に20歳となった彼らは、ハンターとの契約を解消し、米国へ戻り自分達でショウをマネージメントします。
そして彼らは、成功をおさめノースカロライナ州に200エーカーの農園を買い、広々とした家を建て、多くの黒人奴隷を雇ったといいます。そして、1843年に健常者の姉妹と2人は結婚し、チャンは11名、エンは10名の子を授かりました。
しかしそんな彼らは、1965年の南北戦争の戦火によりその財産を失い、再びツアーに出ざるを得なくなります。以降6回のツアーに、時には子供まで動員して、出かけたそうです。
そして50年代には、P.T.バーナムの"バーナムのアメリカン博物館"とも契約を交わしました。
欧州ツアーではビクトリア女王の宮廷で、ジェネラル・トム・サム、ひげ女、等と共に演奏し、王子にとても気に入られたそうです。
その後も1868年、1870年と欧米ツアーを続けた2人ですが、1874年1月、双子が62歳の時チャンが気管支炎にかかり死に、エンもその3時間後に兄の後を追ったといいます・・・・・・・

映画『グレイテスト・ショーマン』実在モデル紹介「刺青男」コンスタンティン王子 |
映画の中では、さほど前面に出てこない刺青の彼ですが、実在したバーナムのキャスト、キャプテン・ジョージ・コステンテヌスをモデルとしているように思います。

<左写真>
実在のキャプテン・ジョージ・コステンテヌス
<右写真>
映画のコンスタンティン王子(出演シャノン・ホルツァプフェル)
キャプテン・ジョージ・コステンテヌスは、1800年代後半のサーカス出演者で、決して「刺青芸人」として、彼が先駆者とは言えないものの、1800年代を通じて最も有名なパフォーマーでした。
彼の履歴とされているのは、アルバニアでギリシャ貴族の子として1833年4月に生まれ、長じて冒険家となり、金鉱山探検の旅でタタール人に拘束され、3か月に渡り全身に刺青をされる懲罰を受けたとされます。
その後脱出し、オーストリアのウィーンまで逃げ、1870年初頭のウィーンで医療界や人類学者により、科学的な調査がされたとされています。彼の体は、足の裏と耳を除き、全身388の刺青に覆われており、専門家は入れ墨がビルマの入れ墨であると報告されていたとされます。
調査後の1874年10月、コステンテヌスはフランスのパリ万博に出演します。さらにアメリカの博覧会のために、1875年頃に渡米したとされています。
しかし当時から、刺青は見世物の目的で、彼自身で入れたと噂され、後に彼はその事実を認めています。
いずれにしても1876年ごろにP.T.バーナムと週に1,000ドルの報酬で、契約を結びます。
そのバーナムのプロデュースにより書かれた伝記は(上で書いた彼の出自はその中で書かれた話で、相当の脚色があると思われます。)爆発的に売れ、コステンテヌスもスターになりました。彼は1876年から1877年の2年間「史上最大のショウ」と共にツアーに出ました。
そしてバーナムは彼が辞める時に、2インチのメダルを200ドルでティファニーで作り、彼に贈ったそうです。
そのメダルには"バーナムからキャプテンへ:2年間に及ぶ契約の成功と名誉ある紳士的行動に対して"と書かれていたといいます。
彼は裕福になり、ショウに出るとき以外は、高価な服とアクセサリーで身を飾ったといいます。
しかし1885年失明し、引退しギリシャで富裕な暮らしを送り、ときにフランスの有名キャバレーに出演したりもしたようです。
そんな彼の最後については、1894年にパスポートを申請したのを最後に、足取りは消えてしまうという記述と、裕福なまま死を迎え、その財産をショウ仲間とロンドンのギリシア教会に寄付したという記述の、二通りを見つけました。

映画『グレイテスト・ショーマン』実在モデル紹介「犬少年(Dog Boy)」 |
この映画に[Dog Boy=犬少年]と役名が付いた、顔中毛で覆われた人物が登場します。
このモデルは、バーナムのサーカスに在籍していた、「犬顔少年=Jo-Jo the Dog-Faced Boy」ではないかと思います。

<左写真>
実在の「犬顔少年:フョードル・アドリアノビッチ」
<右写真>
映画の「犬少年」(出演ルチアーノ・アクーナ.Jr)
本名フョードル・アドリアノビッチ(Fedor Adrianovich)は、1868年ロシアのサンクトぺテルベルグで生まれ、その父エイドリアンと同じく、多毛症の病気で苦しみました。彼は父エイドリアンと旅をし、2人でコンビを組みフランスのサーカスに出演しました。

父は死ぬまで息子と旅を続けたといいます。
1884年16歳のときリバプールのツアー中にバーナムに出会い、アメリカに連れてこられ、P.T.バーナムの契約書にサインし、以後50年のキャリアをバーナムと共に過ごしたといいます。
バーナムは、猟師がフョードルと彼の父を、彼らの洞穴まで追って捕まえたという物語をデッチ上げました。
バーナムは、エイドリアンを教化できなかった野蛮人だと広め、フョードルは犬のままなので、彼が怒ったときは、吠え唸ると口上したそうです。
それに従いフョードルは、バーナムの設定通りに、犬のように吠えたり噛みつくマネをしました。しかし、時には物静かな威厳を漂わせ、人々を魅了したといいます。
そんなフョードルを、ニューヨーク・ヘラルド新聞は評して、パピーのようにお茶目で『これまでにこれらのショウに登場した中で、最も夢中にさせる興味深い珍い存在』と書きました。
フョードルはロシア語、ドイツ語、英語を話し、ヨーロッパとアメリカの広範囲でツアーを行いましたが、1904年1月ツアー中に肺炎となり、彼はギリシャのテッサロニキで、妻も家族も持たず死にました。
しかし、アメリカに亡骸が戻って来た時、ショウの仲間と多くのファンによって、その死を惜しまれました。

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映画『グレイテスト・ショーマン』実在モデル紹介「三本足男」フランク・レンティーニ |
この人物も、映画では大きくフューチャーされていませんが、当時の「フリークス・ショウ」の大スターだった「三本足男」フランコ・レンティーニをモデルとしていると思います。
フランシスコ(フランク)・A. レンティーニは、イタリアのシチリアで3本の足と2本の生殖器を持つ体で生まれました。
これはシャム双生児の異形だと考えられているようです。
1889年8歳のとき、レンティニの家族は米国に移住し、フランクはグレート・レンティニ(偉大なレンティーニ)としてショウに出演するようになります。
そして、3本足でサッカーをしたり、性生活まで赤裸々に描いた自伝本を売るなどして、「フリークスの王」と呼ばれるほどの成功を得ました。
フランクの芸歴は40年間をこえ、リングリング・ブラザーズ・サーカス、バーナム・アンド・ベイリーやバッファロー・ビルのワイルド・ウエスト・ショーなど有名なサーカスで働きました。
妻テリーザ・マリーとの間に、4人の子どもがおり、1966年9月22日にフロリダ州ジャクソンヴィルで死亡しています・・・・・・
しかし、実をいえば、1891年に死んだバーナムと1889年に8歳でアメリカに来たフランクが、会ったという記録は探す限りありませんでした。
バーナム・アンド・ベイリーサーカスで働いたというのも、バーナムが死んでからもそのサーカス名で長く運営されていたため、バーナム亡き後の事だと思います。
これは映画スタッフが、歴史に残る有名なフリークスとして、作品に登場させたものかと思います・・・・・

映画『グレイテスト・ショーマン』実在モデル紹介「評論家」ジェームズ・ゴードン |
しかしゴードンはとてつもない大物だったのでした・・・・・・・・
左:実在のジェームズ・ゴードン/右:映画のジェームズ・ゴードン(ポール・スパークス)
このジェームズ・ゴードン・ベネットは何と、世界一になった新聞社ニューヨークヘラルドの創始者だったのです。
この新聞は、株式市況の掲載や、蒸気船・鉄道を使ったネットワークを駆使し、1835年5月6日に4ページで始まった新聞は業界のスタンダードとなり、1924年にはトリュビューン誌に買われニューヨーク・ヘラルド・トリビューンとなり、さらに変遷を経てインターナショナル・ヘラルド・トリビューンとして名を遺しています。
実際、上の「犬少年」の項でも書いたように、バーナムのサーカスの論評も載せていたようなので、映画内のような批評も載ったかもしれません。
ニューヨークで同時代人だったバーナムとゴードンは、きっと現実でも顔を合わせていたのだろうと思えてなりません・・・・・
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