原題 花樣年華/英語題 In the Mood for Love 製作国 香港 製作年 2000年 上映時間 98分 監督 ウォン・カーウァイ 脚本 ウォン・カーウァイ |
評価:★★★★ 4.0点
このウォン・カーウァイ監督が描いた、フランス映画と見間違うばかりの、恋愛心理の交錯はどうだろう。
シーンの切替とシークエンスの長さが登場人物たちの感情とシンクロし、時として停滞し、時として熱気を帯び、ゆっくりと揺れるチャイナドレスの後ろ姿が、見る者の官能を刺激する。
この映画の官能は、ラテンの音楽や鮮烈な赤色の効果も有るとは思うが、どこか南国の凪いだような、とろりとした粘液質の空気を感じる。

映画『花様年華』予告 |
映画『花様年華』出演者 |
チャウ(トニー・レオン)/チャン夫人(マギー・チャン)/スエン夫人(レベッカ・パン)/ホウ社長(ライ・チン)/ピン(スー・ピンラン)


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以下の文章には、 映画『花様年華』ネタバレがあります。ご注意ください。 |
彼は心のうちで、一緒にシンガポールに行こうと、チャン夫人に語りかけた。
<旅立つチョウ。残るチャン夫人>
チャン夫人は、チョウの部屋へと走ったが、すでに彼は旅立った後だった。
チャン夫人は、誰もいない部屋で一人座り、静かに涙を流した。
彼女は胸の内で、シンガポール行きのチケットがあれば、一緒に行けた?と問いかけた・・・・・・
1963年、チャン夫人はシンガポールに行き、チョウが留守中のアパートを訪れる。
そして、彼女が香港時代に残していったスリッパが、部屋にあるのを見つけ持ち帰った。
チョウが、部屋に戻ると大事なスリッパが無くなっていることに気付き、管理人と揉めた。
そして彼は、灰皿に口紅を染み込ませたタバコを見つける。
チョウは同僚と夕食をべながら、古い時代には秘密を持つ者は、山の上に行き木の洞に秘密を囁き、それを泥で覆って隠したと話す。
チャン夫人は新聞社で仕事中のチョウに電話するが、彼が出ると彼女は何も言わず電話を切った。
時は過ぎ香港。
チャン夫人はかつての大家スエン夫人が、アメリカに旅立つと知り訪問する。
彼女はスエン夫人が旅立った後の、空いた部屋を借りることにした。
そしてチョウも、一時香港を訪れたとき、かつて住んでいた部屋を訪問する。
しかし、元の大家クー一家はすでに移住し、そこには新たな住人がいた。
チョウは隣のスエン夫人の部屋について尋ねると、今はスエン夫人は居らず、母と息子が住んでいると知らされた。
チョウは隣に、チャン夫人とその息子が住んでいるとは知らず、扉の前で物想いに沈む。
しかし、結局そのドアをノックすることなく去った。
時は過ぎた、もうあの時代は存在しないー

映画『花様年華』ラストシーン |
その廃墟となった寺院の壁の穴に、彼は何事かを囁いた。
そして泥で穴を塞いだ。
映画の最後は、下の文章で締めくくられる・・・・・
過ぎ去った歳月はガラスを隔ててたかのよう。
見えてもつかめない。
彼は過去を思い返し続けた。
あの時そのガラスを割る勇気があれば、失った歳月を取り戻せただろう。
完

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映画『花様年華』結末感想・解説 |
しかし、そんなこの映画を最後まで見て行くと、実は不明瞭な点があることに気付く。
それは、チャン夫人が香港で共に住む息子が、誰との間の子かという点だ。
個人的な印象としては、シンガポールに旅立つ前チャン夫人の「今夜は家に帰りたくない」という言葉を乗せて走り去ったタクシーの行方が、一夜の男女の関係に帰着したと思える。
そして、その一夜が一つの命を結んだと見たい。

そう捕えれば、シンガポールを訪ねたチャン夫人の目的は、チョウの子を宿したという報告であり、共に生きようという求めであったに違いない。
しかし、明らかにチャン夫人は翻意した。
なぜだろうかと、初見の時には混乱した覚えがある・・・・・・・・・
そして今回見て、チャン夫人が踏み出せなかった理由を、おぼろげながら感じるところがあった。
それは、香港の2人に生じた「恋」が、伴侶に裏切られていた2人の、特殊事情を反映したからこそ燃え上がった「恋」だと、チャン夫人には分かってしまったのではないか・・・・・・・・・・
つまりこの二人の恋が、伴侶の不貞があったからこそ、「強い倫理観」と、それをも超える「互いの執着」を生んだのだと、誰ひとり遮る者のいないシンガポールの地でチャン夫人は気付いた。
そのチャン夫人に生まれた、2人の「恋」に対する疑念。

その「疑い」が、チョウへ電話までしながら、彼女に声を発する事をためらわせたのだろう。
この二人の「恋」が、そんな特殊な状況を背景として持っていたがゆえに、チャン夫人は「子供」の件を伝えればチョウを獲得できると知りつつも、仮にそんな理由でチョウと暮らしたとしても、それが香港の狂おしいほどの「恋」と似て非なる関係であることも分かってしまったのだろう。
そして、チョウと子供の家族水入らずの「幸福な人生」を捨て、彼女は「恋」の一瞬を永遠に封じ込める道を選んだのだ。
このチョウ夫人の「人生の実」よりも「恋の官能」を選ぶ姿に、「おんな」としての自分を永遠に刻み込んだ潔さを感じる。
考えてみれば、この映画の「恋」に限らず、あらゆる「恋」は障害により強まり、その純度を上げて行き、その官能の頂点で結ばれるのだとすれば・・・・・・・・・
チョウ夫人が選んだ道とは、この映画のラストで語られたように、その「恋」の頂点で結ばれる以外、恋を成就させることはできないと悟ってしまったがゆえの選択だったとも思える。
なぜなら頂点を超えれば、下るだけであるのは自明の理であるからだ・・・・・・・
そう思えば、チョウがアンコールワットで封じ込めた言葉は、「恋」の頂点を捉えられなかった男の未練であったように見え、さらにはそんな男たちの未練はアンコールワットの廃墟のごとく、過去の歴史の中で埋もれ堆積して今にその残滓を残して来たのだろう。