映画『グランドホテル』(感想・解説 編)
原題 Grand Hotel 製作国 アメリカ 製作年 1932 上映時間 112分 監督 エドモンド・グールディング 原作 ヴィッキ・バウム 原作戯曲 ウィリアム・A・ドレイク |
評価:★★★☆ 3.5点
この映画は当時の主役級スター5名集めた、オールスター作品の史上初の映画です。公開時はその贅沢さで空前のセンセーションを惹き起こしたと言います。
そんな豪華スターを過不足なく描くために採られた脚本が、並列に人々の物語を描く群像劇の様式でした。映画では始めて使われたこの脚本スタイルは「グランド・ホテル様式」と呼ばれ、映画史上に新たな広がりを与える一本になりました。
映画『グランドホテル』予告 |
映画『グランドホテル』出演者 |
グルシンスカヤ(グレタ・ガルボ)/ガイゲルン男爵(ジョン・バリモア)/フレムヒェン:速記者/(ジョーン・クロフォード)/プライジング(ウォーレス・ビアリー)/クリンゲライン(ライオネル・バリモア)/オッテンクラーク博士(ルイス・ストーン)/センフ:給仕長(ジーン・ハーショルト)/ポーター(レオ・ホワイト)/シュゼット(ラファエラ・オッティアノ)
映画『グランドホテル』受賞歴 |
1932年開催・第5回アカデミー賞:最優秀作品賞
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映画『グランドホテル』感想 |
この映画は、すでに歴史的評価も定まった古典作品と言って良い一本です。
この作品が、未来永劫語り継がれるであろう資格を持つのは、それまで映画に無かった二つの要素を新たに生み出したからです。
その一つ目は、世界初のオールスタームービー(豪華スター共演)である点。
さらに、オールスタームービーを描くために、必然的に求められた脚本の新たなスタイルの発明がありました。
それが、この映画の脚本「グランドホテル方式」です。
この、同時並行で様々な人々の人生を描くという、今なら普通に見られる「群像劇」の映画劇の元祖が、この作品だという事です。
この映画では、舞台劇がベースにあるため一幕物の芝居のように、ホテルから大きく外にカメラは動きませんが、この映画の脚本を原型として、その後どれほど多様に花開いていったかを考えるのも、楽しいかとも思います。
参考までに、当ブログで紹介した映画から、群像劇をあげれば・・・・・・・・・・・
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他にも、日本の三谷幸喜監督『有頂天ホテル』、ウェス・アンダーソン『グランド・ブダペスト・ホテル』などは、この古典を一捻りした作品です。
最近では日本の『エイプリル・フールズ』も、この形式の脚本としては良くできていると思いました。
また、オールスター・ムービーという目線で見れば、1960年公開の『オーシャンと十一人の仲間』から始まる『オーシャンズシリーズ』や、『エクスペンダブルズ』、更には『アベンジャーズ』だって、この映画が元祖だと言えるでしょう。
そんな歴史的な1本という事で、映画史に興味がある方ならご覧になる価値はあるかと思います。
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映画『グランドホテル』解説オールスタームービー(豪華俳優共演映画)の誕生 |
最初のオールスター映画のアイデアは、MGMスタジオの製作部長によって考えられたといいます。
当時の常識は、1人か2人の大スターを使って映画を撮るのが、最も生産コストが下げられ、利益を最大化にできるという考え方でした。
しかし、『グランドホテル』は当時の常識を打ち破り、MGMスタジオのトップ級のスター5人を登場させ、結果的にスタジオ史上で最も収益をあげた映画の1つになりました。
この映画がどれほどセンセーショナルだったかは、ハリウッドのチャイニーズシアターのプレミア上映に数千人もの野次馬が集まったことでもうかがいしれます・・・・・・
【大意】チャイニーズシアターで映画産業初の驚くべき出演者がキャステイングされた、注目の「グランドホテル」のワールド・プレミアが開催され、ライトアップされた沿道には数千もの人々が、大スターを見にアメリカ中から集まった。シアターの前には、映画と同じグランドホテルのフロントが作られ、スターがチェックインする(1:27秒まで)
映画『グランドホテル』解説5人の大スター紹介 |
グレタ・ガルボ |
グレタ・ガルボ(Greta Garbo、1905年9月18日 - 1990年4月15日)は、スウェーデン生まれのハリウッド映画女優。本名はグレータ・ルヴィーサ・グスタフソン(Greta Lovisa Gustafsson)で、ハリウッドのサイレント映画期ならびにトーキー映画初期の伝説的スターである。3度のアカデミー主演女優賞へのノミネート経験があり、1954年に「輝かしく忘れがたい演技」に対してアカデミー名誉賞が贈られている。また、1935年の『アンナ・カレニナ』と1936年の『椿姫』で、ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞を受賞している。(wikipediaより)
サイレント時代からの伝説の大女優で、トーキー映画の初期にも活躍しましたが、1941年にガルボはまだ35歳で引退をします。
その理由はいろいろ言われるものの、個人的に思うのは、言葉にスウェーデン訛りがあってトーキーだと役が限られてくるという事もあったのではないでしょうか・・・・・・・
そんな、訛りと役者の関係は、時代が下ってシュワルツネッガーも同様の問題で、苦しんでいます。
関連レビュー:シュワちゃんと訛りの関係 『ターミネーター』 低予算で作られた傑作映画 ジェームズ・キャメロンの出世作 |
この映画でもグレタ・ガルボがロシア人バレリーナを演じたのは、そんな訛りの問題があったと思います。
ジョン・バリモア |
ジョン・バリモア(John Barrymore、本名:John Sidney Blyth、1882年2月15日 - 1942年5月29日)は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィア出身の俳優。サイレント期から活躍した映画スターの一人であり、兄のライオネル・バリモア、姉のエセル・バリモアと共に「バリモア三兄弟」として名を馳せた。ドリュー・バリモアの祖父にあたる。
この映画のプライジングを演じたライオネル・バリモアの弟さんだそうです。
二枚目俳優として有名だったようですが、14歳の時からアルコール依存に近く、4度の結婚もすべて失敗し、後年には自己破産をし、晩年は貧しい生活を余儀なくされ、60歳で亡くなったそうです。
ライオネル・バリモア |
ライオネル・バリモア(Lionel Barrymore、1878年4月28日 - 1954年11月15日)は、アメリカ合衆国の映画俳優、舞台俳優。
イングランド人俳優モーリス・バリモア(Maurice Barrymore、本名 Herbert Arthur Chamberlayne Blythe)と米国の女優ジョージアナ・ドリュー(Georgiana Drew)夫妻の長男として生まれる。本名ライオネル・プライス。妹エセル・バリモア、弟ジョン・バリモアも高名な俳優である。『自由の魂』(1931年)では大酒飲みで、常識にとらわれない心を持った刑事弁護士を演じてアカデミー男優賞を得た。(wikipediaより)
ライオネル・バリモアも、1931年にアカデミー賞・男優賞を『自由の塊』で受賞した名優で、サイレント時代から数々の映画に出演しました。
この映画では実直な中年男を演じていますが、実は悪役でも強い個性を発揮します。
有名な役では、アメリカ映画協会(AFI)が選んだ「ヒーローと悪役ベスト100」で悪役の6位に入った、『素晴らしき哉、人生』の悪辣な銀行家ポッターの役があります。
関連レビュー:アメリカの良心を描く古典映画 『素晴らしき哉、人生』 アメリカのクリスマスの国民的映画 フランク・キャプラ監督、ジェームス・スチュワート主演 |
ジョーン・クロフォード |
ジョーン・クロフォード(英: Joan Crawford、1904年頃3月23日 - 1977年5月10日)はアメリカ合衆国テキサス州サンアントニオ出身の女優。映画、舞台、テレビで活躍した。
1925年に映画製作会社メトロ・ゴールドウィン・メイヤー (MGM)と映画出演の契約を結び、クロフォードの本格的な女優人生が始まっている。徐々に自身を売り込むことに成功し始め、1920年代の終わりには流行の最先端をいくフラッパーを代表する女優として世界的に有名になった。1930年代になると、クロフォードの人気は当時のMGMの看板スターであるノーマ・シアラーやグレタ・ガルボと並び賞されるようになった。(wikipediaより)
この人も大スターですが、いろいろと話題に事欠かない人で・・・・・・・
一番有名なのは、ハリウッドを代表するもう一人のレジェンド、大女優のベティ・デービスとの確執でしょうか。
関連レビュー:凄まじい確執バトル 『何がジェーンに起こったか?』 ベティ・デービスとジョーン・クロフォードの闘い 泥沼のビッチ対決を徹底解説! |
しかし、この映画でも、グレタ・ガルボと一悶着あったようです。
そもそもグレタ・ガルボは、MGMのトップ女優として君臨しつつも、ジョーン・クロフォードが人気を獲得し始めたため、強い対抗心があったようです。
たとえば映画の中で、グレタ・ガルボとジョーン・クロフォードが同一シーンに出て来ないのは、お互いに牽制しあったためだといいます。
そんな二人の角突き合いのエピソードを1つ。
ジョーン・クロフォードは、この映画で大先輩グレタ・ガルボにたびたび話しかけようとし、会うたびに"こんにちはガルボさん"と、広間ですれ違うだけでも挨拶を欠かさなかったそうです。
しかし、ガルボは決して返事を返さず、それでクロフォードも諦め何も言わなくなったのでした。
そうしたところ、静かに横を通り過ぎたクロフォードを呼び止め、ガルボは"何か私に言うことがあるんじゃなくて?"と尋ねたといいます。
こわ〜〜〜〜〜〜〜
そんなことも含みつつの、この映画でした。
ウォーレス・ビアリー |
ウォーレス・ビアリー(Wallace Beery, 1885年4月1日 - 1949年4月15日)は、アメリカ合衆国ミズーリ州カンザスシティ出身の俳優である。
1913年から映画にも出演するようになる。1916年には女優のグロリア・スワンソンと結婚するが、ビアリーの飲酒等が問題となり3年後に離婚している。
トーキーの時代に入ってからはメトロ・ゴールドウィン・メイヤーと契約し、1930年の『ビッグ・ハウス』ではアカデミー賞にノミネートされ、翌年の『チャンプ』でアカデミー主演男優賞を受賞するなど、個性派俳優として成功した。1934年の『奇傑パンチョ』でヴェネツィア国際映画祭主演男優賞を受賞。
1949年(昭和24年)4月15日、死去した。満64歳没。(wikipediaより)
この人も1932年当時、最高額の出演料を記録したほどの大スターでした。
36年のキャリアの中で、約250本の映画に出演しています。
しかしこの人も、相当クセの強い人のようで・・・・・
最初の妻の女優グロリア・スワンソン自叙伝によると、ビアリーは結婚式の夜に彼女をレイプし、彼女が妊娠していた時にだまして堕胎薬をのみこませ、中絶をさせたといいます。
更に、俳優ミッキー・ルーニーの自伝には、スタジオのボスであるルイスB.マイヤーが、ビアリーについて「セットの物を盗んだり、彼が多くのトラブルを生んでいる」と、スタッフに文句を言われ「あいつはクソッタレだが、俺たちのクソッタレだ」と言ったと書かれ、金を生むビリーに文句は言えなかったと書かれています。
こうしてみるとサイレント時代、ハリウッド黄金期の銀幕のスター達は、とてつもないお金を稼いでいたはずですが、あまり幸福な人生ではないような・・・・・・・・・・
成功というのは難しいものだと、つくづく思わずにいられません。
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