映画『リップ・ヴァン・ウインクルの花嫁』(感想・解説 編)
製作国 日本 製作年 2016 上映時間 180分 監督 岩井俊二 脚本 岩井俊二 |
評価:★★★☆
3.5点この日本映画は叙情性に富んだ、美しいリリシズムに満ちた、岩井俊二監督らしい映画のように感じます。
この映画は、そんな美しいビジュアルの中に、現実と仮想空間、現代女性の苦悩など、一片の苦味を持った物語だと感じます・・・・・・

映画『リップヴァンウインクルの花嫁』予告 |
映画『リップヴァンウインクルの花嫁』出演者 |
皆川 七海(黒木華)/安室 行舛(綾野剛)/里中 真白(Cocco)/鶴岡 カヤ子(原日出子)/鶴岡 鉄也(地曵豪)/高嶋 優人(和田聰宏)/滑(佐生有語)/皆川 博徳(金田明夫)/皆川 晴海(毬谷友子)/恒吉 冴子(夏目ナナ)/里中 珠代(りりィ)


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映画『リップヴァンウインクルの花嫁』感想 |
この映画を見て、なぜか昭和の巨匠・溝口健二監督を思い出した。
溝口 健二(みぞぐち けんじ、1898年5月16日 - 1956年8月24日)は、日本の映画監督。女性映画の巨匠と呼ばれ、一貫して虐げられた女性の姿を冷徹なリアリズムで描いている。サイレント期は下町情緒を下敷きとした作品で声価を高め、戦中・戦後は芸道ものや文芸映画でも独自の境地を作り出した。完璧主義ゆえの妥協を許さない演出と、長回しの手法を用いた撮影が特徴的である。黒澤明、小津安二郎、成瀬巳喜男らと共に国際的に高い評価を受けた監督であり、ヴェネツィア国際映画祭では作品が3年連続で受賞している。また、ジャン=リュック・ゴダールを始めヌーベルバーグの若い映画作家を中心に、国内外の映画人に影響を与えた。代表作に『祇園の姉妹』『西鶴一代女』『雨月物語』など。(wikipediaより)
この溝口監督は、カメラものぞかず、演出もせず、黙って役者に演じさせ、延々とダメ出しをし続け、1日でも2日でもOKを出さなかったと言う。
その溝口映画で主演をつとめた、田中絹代という大女優は、あまりの事に耐えかねて「どう演じればいいんですか」と問い質した所、「それはあなたの考えることです。」と突き放されたという。
そんな演出方法はともかくとして、その溝口映画で描かれた女達の姿と、この『リップ・ヴァン・ウインクルの花嫁』の黒木華演じる主人公の姿が、個人的にはオーバーラップして感じられてならない。

溝口映画の女達は『西鶴一代女』にしても『近松物語』『お遊さま』にしても、女達がそれはもう・・・・イジメられる。
これでもかとばかりに、過酷な運命の中でもみくちゃにされ、のた打ち回り、精神的・肉体的に傷付けられる。
そしてまた、その映画の数々を見ていると、その痛めつけられている女性達の耐える姿に、「美」を見出す自分がいるのを認めざるを得ない。
むしろ個人的には、昭和までの「日本女性達の美の本質」は「被虐性に耐える姿=マゾヒズム」にこそあったのだと、強く刷り込まれて他の見方ができなくなっているほどだ。
その「被虐性」は、日本の家制度や男尊女卑の、旧弊な社会制度から生まれた必然としてあったと思われ、さすがに近年の社会制度の変革を受けて、日本女性の「被虐の美」自体が喪われたものと思われた。
しかし、この岩井作品において、その日本女性の美を再び見た思いがした。

実際、岩井俊二監督は溝口監督同様、女性を描いて卓越したリリシズムを生む作家だと思う。
しかし、従来の岩井映画に描かれた女性たちは、透明感と開放感をまとった、純粋な少女達がその主役であったように感じる。
そんな、ある種の潔癖さを、この『リップ・ヴァン・ウインクルの花嫁』の黒木華は、極端に言えば裏切っていると思った。

それはまさしく、旧来の日本女性が何千年と持ち続けた属性であり、むしろその耐え忍ぶ姿こそ「日本女性の美」だったと、再び言わせていただきたい。
そんな資質を持ったこの女優を、岩井俊二監督は溝口ばりに、これでもかとばかりに苦難を与え続ける。
馬鹿にされ、騙され、嫌われ、裏切られ、そしてようやく信頼できる伴侶を得たかと思えば、殺されかけ、先立たれる。
近年まれにみる「被虐の嵐」を、たおやかに黒木華が受け止め「マゾヒスティックな美しさ」に昇華していると思う。
そして、この「被虐美」という表現を自らのモノにした岩井俊二監督は、今作品によって「女性を描く作家」として、その幅を広げたように思えてならない。
なぜなら、時代が変わろうとも、生きるとは耐える事であり、忍ぶ事である時、人生を長く生きる者達が必然的に持たざるを得ない、「被虐性」を表現する術を手に入れる事を意味していると思われるからだ。
たとえば、この映画の最後に登場した、真白の母を演じたりりィを主役に据えてでも、女性の「被虐美」を核として表現可能であるに違いない。
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映画『リップヴァンウインクルの花嫁』解説仮想と現実 |
上で述べた日本女性に対する「イジメ=被虐」は、封建制を色濃く残した昭和と違い、平成日本を舞台にした場合には、社会的な制度として生じた現象としては描きがたいだろう。

それゆえ、この映画では通信技術の革新によって生じた、ヴァーチャル世界(インターネット・SNS)と、アナログ世界(現実世界の対人関係)の対立として、その「被虐」は姿を現す。
つまりはSNS上での仮想空間の関係性が、現実の人間として姿を見せた時の歪みが、主人公にとっての「被虐体験」だった。
主人公の七海は、SNSで彼氏を見つけ、結婚を決意し、SNSで結婚式の体裁を繕うために参列者を調達した。
更に、SNSで知り合った便利屋によって、罠にはめられ、離婚に追い込まれる。
SNSで結婚を買った花嫁を象徴するのがこの写真。
和装の婚礼衣装につきものの「角隠し」が眼も耳も包み、現実を覆い隠している。

上の一例を取ってみても、主人公が言うように「ネットで買い物をするように、結婚という現実を買った」のである。
そこには、人間同士が直接顔を突き合わせる、痛みや苦しみを生じない合理性を持つ反面、明らかに現実世界の経験値を減らすことにつながるだろう。
この主人公が取った「現実との関係性」とは、現実からいかに離れ、関わらないかに主題があったように思える。
それは言い換えれば「現実との無関係性の増大」を目的として、インターネットやSNSが機能している現代社会を表しているようにも思える。
そして、現代社会で生きて行く上で、かつてのように全てを人と向き合い経由する必要性が減退しているという事実を前に、この主人公は現実からの逃避を試みる。
しかしその試みは、現実と関わらなければ成立しない「結婚制度」において、最もリアリステイックな役割を担う姑の反撃により破綻する。
そして現実の結婚に傷ついた彼女の前には、「実生活=金」という現実が立ち塞がる。
主人公に希薄な生活力を補うのは、安室と名乗る「便利屋」だ。
彼の役割は、インターネットに集まる現実忌避者を待ち構え、自らの餌食とする「ネット上を巣とする蜘蛛」のような捕食者だ。
その捕食者に、命まで奪われようとした主人公は、「現実適応力=世間智」の低さからその事実に気づかず、更にこの映画の後も彼にからめ捕られていくだろう。

しかし、この安室はネット社会の「現実忌避者」に対しては、命を奪おうとも平気な顔を見せながら、現実と格闘し戦い抜いた者には涙を見せる。
この映画で現実と裸一貫で格闘した者とは、Cocco演じる里中真白という登場人物だ。
彼女は、家庭環境に恵まれず、AV女優を生業とし、悲運に倒れる。
それはまるで、家庭の貧困ゆえに身売りしたかのような、昭和レトロの雰囲気が漂う。
そんな彼女の現実との格闘を、もう一人の現実の格闘者・安室が犯罪スレスレの危うさを承知しつつも、助けるのは当然の選択だったろう。
つまるところこの主人公は、ネット上で「現実忌避者=現実逃亡者」を夢みながら、現実に破れ傷つく。

しかし、現実に傷ついたとしても、そこには「現実の愛」という「実体=リアルな体験」が里中真白との間で間違いなく生まれたのだ。
それはあたかも、半分現実に身をさらしたように、現実世界の標準的な愛の形から見ればマイノリティーな「レズ」の形だった。
そして、愛する者を喪った時、現実に強く関与している安室と真白の母が、裸体を晒して泣き乱れる。
しかし主人公は、裸になることを拒否し、泣き笑いの表情を浮かべるだけであるのは、今だ現実に全身を没入させ得ないがゆえの必然であったと思える。
その現実世界と仮想世界の中間地点に主人公がいることの象徴が、真白から貰った、幻の結婚指輪だったろう。

しかし真白との体験とは、幻の「おとぎ話の世界」から抜け出して、過酷な現実を生きることを予め運命づけられた、無垢な少女の未来を暗示させ一種の「あわれ」を、併せ持っていないだろうか。
そんな主人公が、インターネットで家庭教師をしている、引きこもりの少女と現実で接点を持とうとする。
その描写は、この主人公が現実を生きた事の果実を、次の「現実忌避者」に渡そうとする姿のように見える。

映画『リップヴァンウインクルの花嫁』感想タイトル意味 |
そもそも、リップ・ヴァン・ウインクルとはアメリカのおとぎ話で、その内容は「浦島太郎」と同じく、森で遊ぶ内に酒を飲み寝入って起きてみたら、世界は20年もたっていたという内容だという。

そんなリップ・ヴァン・ウインクルは、アメリカ英語では「時代遅れの人」、「眠ってばかりいる人」を意味する慣用句として使われているという。

では、その「時代遅れの人」とは誰だろう?
劇中語られるのは、真白のSNSのアカウント名が「リップ・ヴァン・ウインクル」だという事だ。
そして、主人公七海は真白の花嫁になる。
つまりは、真白という体を張って現実と格闘した「リップ・ヴァン・ウインクル=時代遅れの人」。
その真白を愛し、嫁いだ「花嫁=七海」を意味していると思える。
そして「時代遅れの存在=現実を生きる者」と関わって「仮想空間を生きて来た者=七海」がどう変容したかがこの映画で語られているのだろう・・・・・・

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映画『リップヴァンウインクルの花嫁』評価 |
今までクダクダしく、仮想と現実のはざまで苦闘する、女性主人公という目線で語って来た。
更には、SNSの危険性を若い女性に知らしめる内容にも見えはする。

しかし、我ながらこの映画を、単純に、現実に身を晒した主人公の、成長物語と括ることが正しいとは思えないし、ましてやSNSの警鐘を鳴らす作品というのは陳腐に過ぎるだろう。
なぜなら、この主人公のあくまでも、染まらない、受け身の打たれ強さが、作品中で輝きを放ち、その光を持って見る者を魅了すべく、映画が全力で努めているように感じられるからだ。
むしろその「打たれ強さ=被虐性の美」を、引き立て、際立たせるために、現代女性の被虐設定を求めた結果、ネット世界を利用しただけにすぎないと思える。
この映画は、平成の「女性映画の巨匠=岩井俊二」が黒木華という女優を前にし、その魅力を全て抽出しようと努力した結果として、生まれたものだと信じている。
つまりはこの映画の主要テーマは、「女優・黒木華の被虐美」にあると断言したい。
その「美」を輝かせるため、全ての映画要素が全霊を込めて奉仕している、そんなフェミニズムに溢れる作品だ。
そう思った時に、仮想と現実という設定が、その「美」より強く前に出ているようにも感じられ、映画のイメージの軸を混乱させたようにも思えた。
それゆえこの評価とした。
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