2017年10月29日

イーストウッド映画『許されざる者』西部劇神話の解体/感想・解説・受賞歴

1992年『許されざる者』(感想・解説 編)



原題 Unforgiven
製作国 アメリカ
製作年 1992年
上映時間 131分
監督 クリント・イーストウッド
脚本 デイヴィッド・ピープルズ


評価:★★★   3.0点



この映画『許されざる者』はアメリカ本国で、アカデミー賞他多くの賞を獲得した作品です。
実を言えばその内容は、アメリカ映画の真髄ともいうべき西部劇を、否定し解体させるような一本だと思います・・・・・・・

映画『許されざる者』予告


映画『許されざる者』受賞歴

第65回アカデミー賞・受賞:作品賞/監督賞/助演男優賞/編集賞
第50回ゴールデングローブ賞・受賞:監督賞/助演男優賞
第46回 英国アカデミー賞・受賞:助演男優賞
第67回 キネマ旬報ベスト・テン :委員選出外国語映画第1位/外国語映画監督賞
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映画『許されざる者』感想



この映画は、クリント・イーストウッドがスターとなった、マカロニ・ウェスタンの色よりも、それ以前のハリウッドの古典的西部劇の風格を保持した作品だと感じる。
しかし、そんな作風ながら、伝えているのは伝統的な西部劇の否定であると思われてならない。
この映画を詳細に見てみれば、実に丹念に過去の西部劇のメッセージに、反旗を翻し、馬鹿にし、嘲りさえしている。
この題名『許されざる者』とは、そんな西部劇が高らかに語ってきた男達の主張を、登場人物に擬人化して「許されない」と斬って捨ててるように見える。
つまるところ、この映画は古典的西部劇のテーマを否定する映画として、まずはその姿を現すはずだ。

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映画『許されざる者』解説

西部劇の語るもの



アメリカ映画協会(American Film Institute)は、西部劇映画を、「新しいフロンティアの精神、闘い、そして終焉を具現化するアメリカ西部を題材とした映画」と定義している。

そして、評論家フランクグルーバーは、西部劇の7つの代表的な物語を以下のように整理している。
@ユニオン・パシフィック鉄道の話:鉄道、電信線、または他の近代技術や輸送の建設に関わる物語。駅馬車の物語もこのカテゴリに分類され、西部に文明が広がる姿を描く。
A牧場の話:家畜泥棒や大規模牧場からの脅威に関係し、正当な牧場主が敵を強制的に排除させる物語。
B帝国の話:無から牧草地の大牧場を築いたり、石油帝国を構築する物語。
C復讐の話:往々にして、不当な扱いを受けた個人による、丹念な追跡と反撃が含まれ、また古典的なミステリーの要素も含まれる。
D騎兵とインデアンの話:騎兵隊が、白人の入植者のために荒野を「馴化」、インディアンを駆逐する物語。
Eアウトローの話:無法者のならず者が主役の活劇。
F保安官の話:保安官とその闘いが物語を推進する。

こんな物語の原型が示すのは、荒野と未開の大自然を前に、原住民(インディアン)の抵抗に会いながらも、白人西部開拓者が開拓し繁栄を築いたという、アメリカ大陸での勝利の歴史こそ西部劇が描いて来たものだった。

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つまりは西部劇とは、アメリカ合衆国の神話の創造に他ならない。

またその神話は、食うや食わずの貧困層が、一から成し遂げた奇跡だったはずだ。
それゆえ西部劇は、労働者階級の男達の、時として無法な、闘いや自己主張を描いた物語となる。

実際、開拓時代の西部は、法も未整備で、弱肉強食の、主張した者勝ちの世界だったように西部開拓史の本には描かれている。

それは、極端に言えば、開拓者は「弱い者=インディアン」から土地を奪い、酒場で「弱い者=娼婦」を弄び、その銃にモノをいわせ好き勝手に暴れまわっていた世界なのだ。

しかし、その西部劇の持つ男性的な世界観は、実にアメリカの男たちにとってアイデンティティの根本にあり、男の理想郷としてすら、捉えられているらしい。

そんな、男たちの「理想の王国」を再現したのが「西部劇」であり、その理想の男として憧憬を集めたのがジョン・ウェインに代表される、西部劇スター達だったのだろう。

とにもかくにも、西部劇の本質が「男権的な家父長制」に立脚しており、その映画が表すのは男に都合の良い世界観で構築されているのだという事を押さえてほしい。

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『許されざる者』解説

西部劇の否定


しかしこの映画は、感心するほど丁寧に、古典的西部劇の価値観を、丹念に否定していく。

男権主義の否定


古典的西部劇を踏まえて見た時、この映画はその男性優位の世界を、最初から否定している事に驚かされる。
冒頭のナレーションで主人公マニーを、酔っぱらいの、人殺しだと語り、更にその主人公が「妻=女」によって実直な農夫に変わったと表現される。
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これは、明確に男権社会を女性が切り崩している事を示している。
この「男権社会」の女性勢力による無力化は、主人公だけではなく、そのモーガン・フリーマン演じる、相棒ネッドも同様だ。

彼ネッドが家を出て行くときの、そのインディアンの妻の顔に浮かぶ軽蔑に満ちた表情が全てを物語っている。
つまりは主人公とネッドは「妻=女性」によって失った、西部劇の魂「男権主義」を、家を出ることで取り戻そうとするのだが、主人公マニーはすでに馬にも乗れないほどスポイルされているのだ。
そのことは、この映画の中で最も古典的な西部劇の登場人物である、保安官リトル・ビルが結婚せず自らの手で家を建てようとしてしている描写でも明らかだ。

それゆえ、伝統的な西部劇の登場人物、リトル・ビルは女にスポイルされるぐらいなら、1人で家を営むと言っている。
そして、その企ては家の建築が遅々として進まない事で、無理のある試みだとも語られているだろう。

また象徴的なのは冒頭の娼婦の顔に傷が付けられた事件だ。
この事件の発端は、娼婦がカウボーイの「男性器」を笑った事であり、それはそのまま男権に対する侮蔑であり、それゆえリトルビルは、カウボーイ達に温情を含めた裁決を下すのだ。
つまりは、第一にこの映画は過去の西部劇が語った「男尊女卑」を「男権主義」を否定してみせる。

英雄神話の否定

先に述べた男権主義の否定と関わって、「西部劇」で描いてきた「英雄的=ヒロイック」な行為を否定する。
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つまりは、かつてのアウトローのマーニーやネッドが、実際のところ無様な姿をさらすのもそうだし、ビリー・ザ・キッドのような若いガンマンのキッドが実際は殺人が初めてだったりする描写で、これでもかとばかり過去の「西部劇」の華やかな銃撃戦の虚偽を描き出す。
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更には、保安官リトルビルは伝記作家ブーシャンプに対し、決闘や対決のリアルな実態を暴き、それがそのまま西部劇における華やかなガン・ファイトがフィクションだと言い、それはそのままこの映画の主張に通じる。

そして、その無様なガン・アクションの総括として、「西部劇」で描いてきた銃撃戦とは、単なるぶざまな「暴力」にすぎないとその殺人シーンと、主人公マニーの言葉で語っている。

人種差別の否定


この映画がさらに否定する、西部劇の属性は「人種差別」だ。
かつての「西部劇」は、アメリカ大陸を白人が占拠する事の栄光を謳ったものだった。
そのため本来は犯罪行為にあたる、インディアンを駆逐する過程を、栄光として描いていた。
それは、黒人奴隷制の肯定や、ヒスパニックの差別、娼婦に代表される女性セクシャリティーに対する蔑視をも含んでいた。
保安官リトル・ビルが、ネッドや娼婦たちに見せる行動がそれを象徴している。
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私的権力の否定

「西部劇」の舞台である、西部開拓地は人もまばらで、法制度、社会制度が十分機能していなかった。
それゆえ、男たちは自由勝手に西部の町を、己の腕を頼りに押し渡れた。
しかし無法地帯の混乱を納めるために、各地の集落やコミュニティーは、各地で保安官を任命するなど手立てを講じた。
しかし、それら西部の町での権力とは、公的ルールが未整備なため、往々にして市長や保安官などの私利・私欲を守るための権力の行使となることもままあった。
この映画の保安官リトル・ビルに象徴的だが、しかしこの映画のリトルビルは、例えば『荒野の用心棒』で描かれたような悪人の保安官ではない

むしろ、かつての西部劇が主役として描いてきた、勧善懲悪の正義の保安官として登場していると感じる。
その上で、このリトル・ビルの振る舞いが真に正義と言えるのかと問いかけているのだ。

つまりは、カウボーイは助けるが、黒人を鞭うち、娼婦を蔑む、差別的なキャラクター。
そして、町に銃を入れないという私的ルールに象徴される、権力の専横下。
または、独立記念日に女王の話をしたとイングリッシュ・ボブを責める、愛国的保守性。
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また女王の話をしたな。独立記念日だってえのに!

しかし再び言うが、彼の属性は、かつて描いた「西部劇の正義」をそのまま体現した存在なのである。
その上でこの映画は、彼が悪だと主張しているのである。

つまり、この映画では西部劇で主張する正義の危うさを指摘し、その正義を否定しているのだ。

その象徴がリトルビルが建てている、いつまでも完成しない家であり、この西部劇的な正義に基づく限り、健全な社会は成立し得ないと告げているのである。

このことはクリントイ−ストウッドがジーンハックマンに対し、その役をかつてのロス市警本部長のダリル・ゲイツのように演じてくれと言ったことでも明らかだろう・・・・・・

ダリル・F・ゲイツ(元ロス市警本部長)
unfo-Daryl.jpg1992年4月末から5月頭にかけ、ロサンゼルス市警の黒人逮捕時の暴力に端を発し、ロサンゼルス暴動が発生した。
死者53人、負傷者約2,000人を出し、放火件数は3,600件、崩壊した建物は1,100件にも達した。被害総額は8億ドルとも10億ドルとも言われ、逮捕者約1万人のうち42%が黒人、44%がヒスパニック系だった。
その暴動の際、本部長ゲイツは何ら効果的な手を撃たず、傍観していたと非難された。
この暴動の背景には、ゲイツ指揮下の麻薬取締にかかる、特にマイノリティーに対する差別的な捜査があり、暴力的な嫌がらせ、監視が平然と行われ怒りが蓄積されていたためと言われる。特に1987年4月に始まった、オペレーション・ハマーではアフリカ系アメリカ人やヒスパニック系の青少年を対象として捜査を頻繁に行ったため、1992年のロサンゼルス暴動の原因となった可能性が高いという。


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映画『許されざる者』解説

真に西部劇の否定なのか?

今まで述べてきたように、この映画が過去の西部劇の価値観を、丹念に否定していることは間違いない。
結局のところ、過去のアメリカ社会における問題、人種差別や私的権力の行使による混乱が、西部劇が語る悪しき男権主義にあると告発する作品でもあるだろう。

そして、それはクリント・イーストウッドが古典的西部劇のスターではなかったからこそ、大胆に斬って捨てることが出来たのではないかと考えたりもする。

しかし、どうしても疑問に思う一点が、その結論を導き出すのを押しとどめている。
この映画の最後、10分の決闘シーンが、それまでこの映画の語った「西部劇の否定」とは違うメッセージを発していると思われてならないからだ。

それゆえ、この映画が語るものの個人的な結論は、結末を描いた「ネタバレ・ラスト編」の中で述べるのが適切だと思う。

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posted by ヒラヒ at 17:43| Comment(0) | アメリカ映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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