2020年03月24日

映画『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド/ゾンビの誕生』ホラーの歴史・恐怖の人間宣言/感想・ネタバレなしあらすじ・解説・考察・ベトナム戦争の影

ゾンビによる「人間の主張」

英語題 NIGHT OF THE LIVING DEAD
製作国 アメリカ
製作年 1968
上映時間 96分
監督ジョージ・A・ロメロ
脚本ジョン・A・ルッソ
原案ジョージ・A・ロメロ


評価:★★★★  4.0点




このメチャクチャB級の映画を取り上げるのは、この映画が自分の見た初めてのゾンビ映画で、その印象が鮮烈であるからだ。
しかし、この映画における「ゾンビ=ザ・リビング・デッド=生ける死者」という恐怖の存在は、それ以前の恐怖とはその本質として一線を画すように思われてならない。
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<目次>
映画『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』ストーリー
映画『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』予告・出演者
映画『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』感想
映画『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』解説/映画と恐怖
映画『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』解説/ベトナムとトム・サヴィーニ
映画『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』考察/ゾンビの革新性

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『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』あらすじ

共同墓地に父の墓参りに訪れた、バーバラ(ジュディス・オーディア)と兄のベン(デュアン・ジョーンズ)。ふと見ると足を引きずる一人の男を見る。ジョニーはその男に襲いかかられ、命を落とす。その男はゾンビ(ビル・ハインツマン)でさらにバーバラにも襲い掛かる。必死で逃げたバーバラは近くの民家に逃げ込むが、兄を殺された恐怖と悲しみに混乱していた。民家の二階には死骸があり、バーバラの恐怖は更に増す。その民家に黒人青年のベン(デュアン・ジョーンズ)のほか、ハリー(カール・ハードマン)とヘレン(マリリン・イーストマン)の夫婦と娘のカレン(カイラ・ショーン)、そしてトム(キース・ウェイン)とジュディ(ジュディス・リドリー)のカップルも入って来た。外部に助けを求めようにも、電話は不通で、周囲はゾンビの群れに取り囲まれていて、外部との連絡も取れなず孤立していた。TVではゾンビたちが人間を食い殺していることを報じており、何とか最寄りの避難所への脱出を試みようと、トラックで脱出を試みるものの失敗する。ベンとハリーが対立するなか、ゾンビたちが室内へとなだれ込んできた・・・・

『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』予告

『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』出演者

ベン(デュアン・ジョーンズ)/バーバラ(ジュディス・オーディア)/ハリー・クーパー(カール・ハードマン)/ヘレン・クーパー(マリリン・イーストマン)/トム・レノックス(キース・ウェイン)/ジュディ・ジャクソン(ジュディス・リドリー)/カレン・クーパー(カイラ・ショーン)/ニュースキャスター(チャールズ・グレッグ)/共同墓地のゾンビ(ビル・ハインツマン)/ウォルト・マクレラン(ジョージ・コサナ)/リポーター(ビル・カーディル)/ワシントンリポーター(ジョージ・A・ロメロ)

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『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』感想



この1968年という年は「猿の惑星」の公開された年であり、その映画にも描かれた脅迫症的な色は、アメリカ社会の不穏な状況と無縁ではなかったはずだ。
その社会情勢の陰鬱さは、この映画と通低した闇の恐怖として人々の心の中に在っただろう。
ここには、アメリカにおける公民権運動=黒人達マイノリリティの権利拡大を求める行動や、ベトナム戦争の黄色人種との闘いを、恐怖として感じとった白人達の心情が少なからず反映されていただろう。
それは、60年代の日常として暴動や騒乱を目の当たりにしている人々に、ダイレクトに響くリアリティーを持っていたと思える。
関連レビュー:人種差別を感じるSF
『猿の惑星』

SF映画の金字塔
チャールトン・ヘストン主演のオリジナル版


更に言えば、この映画のリメイクを1990年に撮り「ゾンビ」の現在のビジュアルを確立した、特殊メイク・アーティストのトム・サヴィーニはベトナムに兵士として従軍しており、PTSDに苦しみながら、その壊れた人間像を作り上げたという。

そういう意味では、ゾンビとはベトナム戦争で繰り広げられた、人間が人間を殺すことのグロテスクさが投影されたものだった。

そんな背景を持ちつつも、理由が何であれこの映画における「ゾンビ」という存在の、オリジナリティは高く評価すべきだと思う。

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『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』解説

怪奇・恐怖映画の系譜


そもそも映画というジャンルはその初期から恐怖や驚異を売り物にしてきた。
1902年「月世界旅行」

1920年「カリガリ博士」

1922年の「吸血鬼ノスフェラトゥ」

1931年「フランケンシュタイン」


1931年「ドラキュラ」

1933年「キングコング」


こう並べて来ただけで、映画と猟奇性の関係がどれほど密接だったかが知れよう。
事実、猟奇的なキャラクターを描いた作品は、いずれも大ヒットを記録している。
映画におけるヒットの要素として、新たな恐怖や驚異を描くという事がどれほど効果的かという証明だったろう。
Furank.jpg恐怖というものを最も鮮明に伝え得るメディアが映画であるというのは、映像が持つその刺激量が文章に較べ圧倒的に高いからに違いない。
それを考えれば、恐怖とはそもそも映画=映像的なモチーフだといえるだろう。
たとえば、フランケンシュタインの顔に刻まれた縫合跡や首から出た端子など、傷が付いた人間というイメージだけでも、どれほど強く人の感情を刺激するかは一目瞭然ではないだろうか。

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『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』解説

ゾンビを革新したトム・サヴィーニ


この映画1968『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド/ゾンビの誕生』がゾンビの原型を提示した。
そして、ゾンビのビジュアルを格段に進歩させ、現在のゾンビの肉体崩壊のスタイルを生みだした者こそ、1978年『ゾンビ』で、ジョージ・A・ロメロ監督とコンビを組んだ特殊メイクアップアーティストのトム・サビーニだ。
<トム・サヴィーニ業績動画>

トム・サヴィーニは特殊メイクに革新を起こし、1990年自ら監督した『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド/死霊創世記』(1968年のリメイク)で、ゾンビの集大成を見せた。
<『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド/死霊創世記』予告>

彼は、その優れた技術で『13日の金曜日』(1980年)など多数の作品を手がけ、スプラッターホラーの世界を切り開いた。

そんな彼が、彼の特殊メイクに隠された秘密、その起源を、 2002年ピッツバーグポストのインタビューで、彼は語っている。
彼はアメリカ陸軍に所属し、ベトナム戦争に従軍して戦闘カメラマンが任務だったという。
「私がベトナムにいたとき、私は戦闘カメラマンでした。私の仕事は、機械と、そして、人間への損害の映像を撮影することでした。
私はレンズを通して、いくつもぞっとする「もの」を見ました。それに対処するために、私は、それを特殊効果と考えようとしたと思います。今は、アーティストとして、私は単に制限範囲内で効果を上げることのみを考えています。」

彼はベトナムでも特殊メイクの練習を続け、しばしば突然「怪物」へと変貌し、先住民の農民を怖がらせた。カメラのレンズを通すことで、サビ―ニは自分自身を戦争の実体験の惨事から切り離しましたが、しかしすべてのイメージはまだ彼の心に取りついていました。
サビ―二は、彼の戦時経験が血生臭い彼のスタイルに最終的に影響していると語りました:
「私は、戦争映画を見ていて、誰かが死ぬのを見るのを、嫌いました。一部の人は片目を開きそして、もう1つの目は半分閉じて死んでいましたし、ある時には、人々は顎が緩んでしまい、微笑みを湛えて死んでいました。私は、仕事にベトナムで見たものの感覚を取り入れました。」

ゾンビのあのヴィジュアルのリアリティーはベトナム戦争に由来するのだった・・・・・・・・・

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『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』考察

ゾンビの革新性


たとえばフランケンシュタイン的な傷の衝撃を、更にグロテスクにすれば「ゾンビ」の姿となるだろう。
また、人を襲撃し「ゾンビ」に咬まれれば「ゾンビ」という、無限拡大のアイディアは「吸血鬼」う点では「吸血鬼」の遺伝子を引き継ぐものである。


しかし、この「ゾンビ」というキャラクターを分析してみるとユニークな点が明らかにあり、それゆえにホラーの一つのジャンルとして確立し得たと思う。
そのユニークさとは、恐怖をもたらすのが「ゾンビという人間」である(あった?)という事実である。


かつてのホラーの主役たちは、基本的に人間以外の存在であった。
怪物や妖怪や幽霊が生み出す物語は、その基本的なキャラクター設定によって、神の化身であるのか悪魔であるのかの違いはあるにしても、等しく「神」というコインの裏表であった。
そこには「神」を真中において、人間存在の善悪を問うという構図を内包していた。

Night-of.jpgしかしゾンビにおいては、そこに神の介在を見出しづらい。
なぜなら、ゾンビとは「壊れた人間」であって、それは何らかの絶対者の化身というより、「人間のなれの果て」として見るのが素直な解釈だからだ。

すなわち「ゾンビ」によって映画史上初めて、恐怖は「人」それ自体に在るという真実に人類はたどり着いたのだ。
つまりは恐怖が神や悪魔など人間の外部からもたらされるものという、従来の恐れの概念が覆った初めての恐怖キャラクターなのである。

であればこそ「ゾンビ」は集団化し、正常な人間を次から次に襲い続ける。
それは「ゾンビ」が、何らかの「超絶的な力」の発露としてあるのではなく、普遍的な「人の持つ異常」を表しているからに違いない。
人が等しく持つ「異常」であれば、その顕在化は即ち人類全体を覆っていくのが必然であるだろう。


そう考えて来た時、初めて「ゾンビ」を殺す?事に対する、罪悪感の無さが納得できるのだ。
今や、西部劇のインデアンのように絶対的悪者を想定しづらい現代社会にあっては、そのうち「エイリアン」ですら悪役として殺してはいけないと言われる可能性すらある。

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それは、上で述べたように「ゾンビ」が人間自身の「悪の象徴」として存在するが故に、たとえば人体の「ガン細胞」を取り除く事と同様に、むしろ必要な行為と見なされるからではないだろうか。

こう整理してきて始めて、「ゾンビ」が笑いに結びつくのも了解されるのだ。
つまりは人間自身の醜さ滑稽さ異様さという「人間存在の劣悪さ」を「ゾンビ」として目の当たりにする時、人はそのグロテスクなデフォルメされた人間戯画を見て、自らも持つ欠点の表れに苦笑と憐憫と、そして多少のシンパシーを持つに違いない。


そう思えば「まぁ〜身内のやるこったから、大目に見てやんな」という親類的なシンパシーも感じたりもする・・・・・・・

いずれにしても、総括して「ゾンビ」という存在を考えた時、それは「恐怖の人間回帰」、「恐怖の民主化」だと言えるだろう。

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posted by ヒラヒ at 17:00| Comment(0) | アメリカ映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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