2017年08月26日

映画『処女の泉』ベルイマンの語る神とクロサワ/ネタバレ・ラスト・結末感想

処女の泉(ネタバレ・ラスト 編)


原題 Jungfrukällan
英語題 The Virgin Spring
製作国 スウェーデン
製作年 1960
公開年月日 1961/3/18
上映時間 89分
監督 イングマール・ベルイマン
脚本 ウラ・イザクソン
撮影 スヴェン・ニクヴィスト


評価:★★★☆  3.5点



この1960年に作られた映画は、スェーデンの世界的映画監督、イングマール・ベルイマンの作品です。
この映画は、古典として歴史的評価も定まった一本かと思いますが、そのラストで語られる神への言葉は、無神論者の私には一種不可思議な響きを持っています・・・・・

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『処女の泉』出演者

マックス・フォン・シドー(テーレ)/ビルギッタ・ヴァルベルイ(メレータ)/グンネル・リンドブロム(インゲリ)/ビルギッタ・ペテルソン(カリン)

ベルイマン 3大傑作選」予告動画


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以降の文章には

『処女の泉』ネタバレ


を含みますので、ご注意下さい。

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(あらすじから)
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テーレは、意を決し娘に乱暴した長男と次男に襲い掛かり剣で斃した。

さらに、怒りに任せて罪の無い末っ子の少年の命をも奪ってしまう。
我に返ったテーレは自らの犯した罪の大きさに茫然とし、その手を見つめ神に許しを乞う。
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そしてテーレは妻に、娘カリンを捜しに行くと告げ、屋敷の使用人を引き連れ出かけた。
現場を見ていた下女インゲリが、森に放置されたカリンの亡骸に案内した。
道中、妻メレータは「私が娘を独占しようとしたから罰が当たった」と夫テーレに懺悔し、テーレは「それは神が決めることだ」と答えた。
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事件の場で変わり果てた娘の姿を見たメレータは、その遺体に泣いて縋り付く。
そしてテーレは娘の死と彼自身の冷酷な復讐を看過した神に「なぜか私には分からない」と詠嘆する。
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しかし「神の救済以外に、己が生きる道を見いだせない」と言うテーレ。
彼は、娘の遺体の側に罪滅ぼしのため、教会を建設することを約束した。

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『処女の泉』ラスト・シーン


そして、テーレとメレータが娘の亡骸を抱きかかえた時、その地から泉が湧き出してきた。


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『処女の泉』結末感想

神への懐疑と絶対神


無神論者、または多神教の文化に育った身からすると、この映画が語る神とは何者かと思う事がある。
罪のない『処女=おとめ』が凌辱され、地に捨てられるのを、神は咎めなかった。
罪のない『幼い少年』がテーレによって殺される時も、神は沈黙していた。
下女のインゲリが邪教オーディンに、カリンが犯されればいいと祈っていても、神は看過していた。
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そのことを受けてテーレは最後に神に問いかける。

「あなたは見ておられた、神よあなたは見ておられた」
「罪のない子供の死と、私の復讐を」
「あなたはそれを、お許しになった」
「私には理解できません・・・・・私にはあなたが分かりません」
「それでも、私はあなたの許しを請わねばなりません」
「自力では救われず、私自身が平穏でいられる方法は、他にないと分かっているのです」
「私は他に生きる道を知りません」
「神よ、私はあなたに約束します・・・・・・我がただ一人の子が死せる肉体のあったここに、約束します。」
「私はあなたの教会を、我が贖罪として、この両手でこの地に打ち建てます。」

ここに語られる「神に対する懐疑」は、しかし「神の放擲」にはつながらない
virg-pos2.jpegなぜなら、この主人公テーレは、神に許しを請い続けること以外に、魂を平静に保つすべを知らないからだ。

つまりは、西洋キリスト教の教義の下「神という絶対者」に人が疑問を差し挟むことは、不遜な行為に他ならない。
それゆえ、この世に起こる全ての出来事を「神の思し召し」だと信じ、そこに疑いを持つこと自体、背信行為であるだろう。
結局、そんな一神教を信奉する人々にとって、この世界の森羅万象を生み、全てを司る根本が神なのだ。
それゆえ、神の不在とはこの世界が根源から消滅したに等しく、それは信者の死をも意味するのだろう。

つまりはデカルト風に言えば「我あり、故に神あり」という絶対的な存在証明を信じている者こそが、一神教の信者であるはずだ。

それゆえこの主人公は、神が答えない事に、神の沈黙を恨みながらも、神が実存する事には疑いを挟まない。

その上で、神がこの世界を人間存在を赦してくれるという、絶対的な信念を持たずして生きていけないと吐露するのだ。

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考えてみれば、この1960年の映画は、哲学者ニーチェが「神は死んだ」と書いた1885年から、80年近く経過している。(右:ニーチェ)

その間に世界中を飢餓や世界規模の戦争が繰り返し起きた。
それでも、まだこの「神の救い」以外に救われる道が無いという映画が、見る者の心を揺さぶるのだとすれば、西洋文明が「神=キリスト」に変わる価値を生み出し得なかったという事を、如実に示すものだといえるだろう。

それは、現代アメリカにおいても50%近くの人間が、聖書に反する学説「ダーウィンの進化論」を信じていないという事実でも裏付けられる。

『処女の泉』と『羅生門』


ベルイマン自身が、この映画を黒澤明の『羅生門』の「出来の悪い模造品」だと語っている。
出来が悪いかどうかは別として、この映画のシュチュエーションも含め、リメイクといっていいほど似ている。
しかし、この映画が『羅生門』を踏襲しているとすれば、その最後の結びのあまりの相違に、東西の価値観の断絶の深淵を見た思いがする。

日本人としての感性で言えば、黒沢『羅生門』の最後「今日という日は、誰も信じられない」という、この世の無常を詠嘆するセリフのほうが、素直に心に添うのだが・・・・・・・・・

関連レビュー:黒澤明の代表作
『羅生門』
真実を巡る裁判劇
戦後日本の混迷を問う



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posted by ヒラヒ・S at 18:59| Comment(0) | スウェーデン映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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