原題 Pulp Fiction 製作国 アメリカ 製作年 1994 上映時間 154分 監督・脚本 クエンティン・タランティーノ |
評価:★★★★★ 5.0点
『パルプ・フイクション』が意味するのは三文週刊誌、つまりはゴシップやギャングの抗争などの、下品なしかし刺激的なニュースを語る雑誌を指すらしい。
考えてみれば、それは映画が誕生して以来担ってきた役割と、同じものではなかったか。
そしてまた、このフイクションという言葉は、人間にとって重要な意味を持つと思うのだ・・・・・・・
『パルプ・フィクション』 |
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これ以降 『パルプ・フィクション』ネタバレがありますご注意ください。 |
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(あらすじから)
ボニーの一件
ビンセントとジュールスは、組織を裏切った若者を殺した時、その部屋に隠れていた3人目の若者から至近距離で銃撃を受けた。
奇跡シーン
【意訳】(ジュールスは聖書のエゼキル書の一説を唱え、発砲する)ヴィンセント:お前の仲間か?/ジュールス:ああ。ヴィンセント、マーヴィンだ。マーヴィン、ヴィンセントだ。/ヴィンセント:コイツに黙りやがれって言ったほうがいいぜ。コイツは俺をイライラさせる。/ジュールス:マーヴィン、マーヴィン。もし俺がお前だったら、黙ってる。/死ね、クソ野郎、死ね!
しかし全ての弾丸が外れ、ビンセントとジュールスは、相手を返り討ちにした。
ジュールスは、これを奇跡だと、神のお告げだと言った。
ジュールスとヴィンセントは、マーヴィンを連れて、自動車で現場を離れた。
車の中でも、ジュールスは神のお告げだ、今日限り足を洗うと宣言し、ヴィンセントがそれをボスに言うのか大笑いされるぞと返した。
そしてヴィンセントはマーヴィンに「どう思う」と振り向いたとき、銃を暴発させマーヴィンの頭部が吹き飛んだ。
車内はマーヴィンの血で赤く染まった。
このままは走れないと言って、ジュールスの友人のジミー(クエンティン・タランティーノ)のガレージに車を隠す。
ジミーは状況を知って激怒。
恐妻家であるジミーは、妻が帰ってくるまでに死体を処理しろと言う。
ジュールスはボスのマーセルスに連絡し善後策を協議する。
ザ・ウルフ(ハーヴェイ・カイテル)という男が解決のために送り込まれた。
始末屋ウルフ
車の死体を始末するため、ウルフがジミー宅を訪問する。挨拶を済ませた後、状況とジミーの妻帰宅時間を確認し、処理計画を説明する。ウルフは車を確認しつつジミーに砂糖とクリームたっぷりのコヒーを頼む。車自体に問題がないか尋ね、キッチンに戻る。
ウルフはジュールスとヴィンセントに死体をトランクに移し、車内の血をキレイにしろと言い、ジミーに洗剤を頼んだ。早く、急いで脳みそまでキレイに拭き取れと指示した。そして、ジミーにシートを隠す布を頼んだ。
ヴィンセントはプリーズと言って欲しいと、ウルフに文句を言った。ウルフは自分の身を守りたければ、指示に従えと答えた。ヴィンセントは「アンタを尊敬しているが命令調はいやだ」と言うと、ウルフは、時間が重要だから、簡潔に素早く指示している。
そしてウルフは「さっさとクソ仕事に取り掛かって頂けますか」と言った。
ヴィンセントは責める目つきのジュールスに「分かってる何も言うな」と仕事に向かった。
車はマーヴィンの遺体ごとスクラップ業者に引き取られた。
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『パルプ・フィクション』 |
車の始末を終えたヴィンセントとジュールスは、レストランで朝食を摂る。
二人は、ジュールスの言う奇跡について話合い、ヴィンセントはトイレに立った。
そのレストランに怒鳴り声が響く。
パンプキンとハニーバニーが店内で強盗を始めたのだ。
パンプキンはジュールスが持っている黒いアタッシュケースを奪おうとする。
ジュールスは一瞬の隙をつき、パンプキンの武器を奪い、ハニーバニーが銃を向け怒鳴り声を上げ、興奮したのを制する。
そして、そこにヴィンセントが戻り、ハニーバニーに銃を向けた。
ジュールスは落ち着くように言い、語りだす。
【大意訳】
ジュールスは、パンプキンに財布を取り出させ、その金1500ドルを与えた。そして、「この金でお前の命を買ったんだ」と言った。
そして、聖書エゼキル書25章17節を唱える。"心正しい者の歩む道は、心悪しき者の利己と暴虐で阻まれる。愛と善意をもって、弱き者を導く者に祝福を。彼こそ兄弟を守り迷い子を救う者なり。私は怒りに満ちた懲罰をもって兄弟を滅ぼす者に復讐をなす。彼等に復讐をなす時、私が主である事を知るだろう。"
今までは冷血な文句として殺す場で使っていた。今朝いろいろあって、その意味を考えた。
貴様が心悪しき者で俺が正しい者。銃を構えているアイツが悪の谷間で俺を守る羊飼い。あるいは貴様が心正しい者で俺が羊飼い、世の中が悪で利己的なのかも。そう思いたい。
しかし真実じゃない。真実は貴様が弱き者、俺が心悪しき暴虐者だ。だが努力はしている。羊飼いになろうと一生懸命努力している。
そしてジュールスは、パンプキンとハニーバニーを帰した。
そして、ジユールスとヴィンセントもレストランを後にした。END
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『パルプ・フィクション』 |
このラストの静謐さは何事かと思う。
しかし、丹念に見れば、ここで描写されたシーンこそが、この作品の解釈の鍵だと感じる。
「感想・解説編」で、この映画にある刺激的なフイクションの重なりが、現実世界の不条理を描いていると書いた。
そして、現実世界が不条理であるがゆえに、フィクションによって現実を条理のある形に整理するのだとも。
その現実世界から「フイクション=人間的理解への変換」が象徴的に描かれたのが、ジュールスが奇跡を感じた瞬間だった。
実際に起きた事実は、至近距離で放たれた銃弾が全弾外れたという現象だ。
それに対し、ジュールスは意味を見出した。
つまりは現実世界の現象に「神という条理=フィクション」を導入することで、彼に取って理解可能な形に変換し得たのだ。
しかし、もう一人のヴィンセントは違う。
彼は、それが偶然で、そこに意味はないと言う。
結局、彼は現実世界の現象に「フィクション」を導き出さなかったがゆえに、このラストシーン以後も、ギャングとして働き、命を落とす。
このラストでは、ジュールスの言葉で、現実世界に見出したフイクションをこう語らせている。"貴様が心正しい者で俺が羊飼い、世の中が悪で利己的なのかも。そう思いたい。"
この一節は、現実世界が汚濁と悪逆であるがゆえに、人は悪に走るのが正義であり、その悪を徹底的に追求するジュールスこそ神の代弁者だという認識だ。
"しかし真実じゃない。真実は貴様が弱き者、俺が心悪しき暴虐者だ。"
ここでは前文を否定して、悪いのは現実世界ではなく、人間存在なのだと言い、パンプキンを弱さから悪に走り、ジュールスは利己と暴虐により人々を苦しめている存在だと語る。
"だが努力はしている。羊飼いになろうと一生懸命努力している。"
その上でジュールスは、自分が利己的で暴力によって、現実世界と関わろうとしてきたと告戒する。しかしその上で、神の言葉を伝えるものとして日々努力をすると宣言している。
そして、この言葉を聞いた後で、パンプキンとハニーバニーはそれ以上の悪を成さずに立ち去る。
対して、この朝のシーン以後の、ヴィンセントの死までの一日は、なんと狂騒的で、混乱に満ちて、無様で、愚かな時間だったか。
ここに、ある種の「勧善懲悪」のドラマを見出すことは容易だ。
さらにこの「勧善懲悪」に、ブルース・ウィリス演じるボクサー、ブッチ・クリッジの八百長からの危機を、敵マーセルを助けに戻るという事で救われるというエピソードを、追加しても良い。
それでも、この映画が語るのは、決して単純な「勧善懲悪」ではないだろう。
確かにジュールズの最後の言葉を元にすれば、そのような解釈も可能ではあると思う。
しかし、そのジュールズの見い出した「勧善懲悪=神の正義」というフィクションは、彼だけのものだ。
そのフイクションの力強さゆえに、パンプキン等を感化するほどの影響力も持つかもしれない。
しかし、現実世界に対し富と快楽を求めるため「心悪しき暴虐者」となろうとする、ヴィンセントのフィクションを打ち崩すことはできなかったのである。そしてまた、ジミーのように自らの迷惑だけを考えて、人の死を一顧だにしない、利己主義的なフィクションもある。
つまりは、この映画の登場人物の数だけ、違うフィクションが成立しているのである。そして人間存在が「現実世界」の一部である以上、人間の持つ「フイクション世界」は「現実世界」に影響を及ぼし得るのである。
つまり、この世界は「現実世界」と、それを解釈する人間の数だけの「フイクション世界」が、重なり合い、相互に影響を与えつつ、成立しているのだと考えるべきだろう。
そう考えた時、フイクションを積み重ね「現実世界」を再現しようとする、この映画の方法論こそ理想の姿ではないだろうか。
それゆえこの映画は、近代を通じて到達した「世界と人間との関係」を、真に映画として定着した奇跡の一本だと信じる。
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ありがとうございます(^^)私はやっぱり、ザ・ウルフがスキ(笑)
ただ謎なのは、黒人小僧とジュールスの関係が何なのかという・・・タランティーノとジュールスの関係も謎だ(^^;