原題 My Left Foot 製作国 イギリス 製作年 1989/上映時間 119分 監督 ジム・シェリダン 脚本 ジム・シェリダン、シェーン・コノートン 原作 クリスティ・ブラウン |
評価:★★★☆ 3.5点
生まれながらに脳性小児麻痺を患うクリスティ・ブラウンが、左足一本で描く絵画と、出版した自叙伝によってアイルランドで有名になる実話を描いた作品です。
そのクリスティーをダニエル・デイ=ルイスが演じ、見事アカデミー男優賞に輝く、力のある演技を見せてくれます。
そしてこの映画には、障碍者という存在の本質が描かれているように思います・・・・・・
『マイ・レフトフット』 |
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『マイ・レフトフット』解説 |
この映画の魅力は、奇跡の人「クリスティー・ブラウン」だけにとどまらず、アイルランドの労働者階級の生活が生き生きと描かれている点も、個人的には印象深かったです。
石炭泥棒シーン
クリスティー:ちょっと、置き去りにされた。押して。戻って、ミスター/兄弟:クリスティー、お前の計画上手く行かないぞ。坂道が勝負だ。/近所の主婦:赤ちゃん抱っこしてて。/母:神様、何が起こったんだい?/兄弟:大丈夫だよ母さん。ただの石炭だ。/母:その石炭を盗んだね。盗みは罪だよ。そのお前の罪は神様が見てらっしゃる。その石炭は家には入れないよ。/父:カッカしてないであたれよ。/兄弟:クリスティー洗ってほしいか?/クリスティー:いや。/姉:クリスティじゃあね。/父:遅くなるなよ。(火の中の缶)/兄弟:母さん、クリスティーがおかしい。/クリスティー:暖炉、暖炉/母:ああ、神様!/兄弟:おかあさんどうしたの?/父:水を持って来い。何があったんだ。狂ったのか。この缶の中に何が入ってるんだ。/母:クリスティーのお金さ。/父:何?/母:クリスティーの車椅子のためのお金なの。/父:20ポンドぐらい入ってるじゃないか。/母:28ポンドと7シリング3ペンス/父:俺達がここに座って凍えているのに、麦粥を朝・昼・ティータイムに食べているのに、お前は28ポンド7シリング3ペンスもヘソクリしてたのか?
この上の動画のように、石炭に近所中で群がるバイタリティーが凄い。
そしてまた、この22人を生んだというブレンダ・フリッカー演じる母親の、ダメなものはダメという「肝っ玉かあさん」ぶりが凄い。
またクリスティーの為に必死にお金をためる、母の愛が凄い。
さらには、父親の威勢はいいくせに生活力のない、でもプライドだけは人一倍という、オヤジっぷりもどこか昭和の懐かしさを感じます。
こんな落語の長屋に出てくるような、アイルランドの労働者階級の生活を、実感として感じられたのは貴重でした。
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『マイ・レフトフット』解説 |
何よりこの映画で感動したのは、主人公のクリスティ・ブラウンです。
それは一個の障碍者として、知能障害や身体的な付随意性を医学的に予見されながら、それを覆し、その唯一動く左足で自己表現し得たという奇跡をまずは賞賛したいと思います。
しかし実は個人的に感動を覚えたのは、この主人公がアイルランドの日常の中で、他の子供たちに交じって、間違いなく生きているという姿のリアリティーでした。
そもそも、このクリスティーにとってみれば、生まれた時から左足しか動かないという自分というのは、かれにとっての普通の状態です。
その状態で、子供のころから遊び、思春期に恋をし、健常者がする生活を、健常者の中に交じって生きてきたのです。
こんな健常者と共に生き、日々を過ごしている彼は、いったい障碍者でしょうか。
けっきょく障碍者とは、その障碍者本人が決めることではなく、周囲の人間が決めることではないでしょうか。
仮に、歩けないにしても、口をきけないにしても、それが生まれた時からの日常であれば、本人にとってその日常は健常であり、誰もが持つのと同じ意思と希望をもって生きているのです。
この映画のように、その障碍者が持つ意思や希望を周囲が受け入れ、共に生きるのであれば、彼は障碍者と呼ばれる必要はないのではないでしょうか。
結局、障碍者とは、周りの人間がこの子は歩けないとか、この子は喋れないとか、体の一部がないとか、健常者との違いを指して、だから健常者と同じ生活はできないと線を引くところから始まるのだと思えます。
例えば、人間の体、人間の感覚器、人間の能力が、今のように共通項が多くない異世界を想像すると、そもそも健常者と障碍者の線引きなどできないはずです。
ある者には眼がないとか、ある者は口がないといった時に、クリスティーのように、人はその人の持つ可能なコミュニケーション能力を育み、あらゆる人と意思疎通が可能なのではないかと思うのです。
そしてまた、手のないものは足のないものを助け、体が十分動か無いものは、強靭な肉体を持った者が補うでしょう。
つまりは、人が皆違う個性と肢体を持っていることを前提とすれば、そこには健常者と障碍者の区別はないはずです。
そして、このクリスティーのように、その欠落=個性ゆえに、その表現が深く力をもつのではないでしょうか。
例えば、目が見えない人が、目が見える人間よりも広い周波数の音を聞けたり、触感だけの夢を見たりすると言います。
やはり人間の可能性というのは可変性があり、使える部分の能力を最大限に活用するのでしょう。
そういう意味では、クリスティーが示したのは、人の能力の可能性であり、希望だったでしょう。
人は人として、障碍者だろうと健常者だろうと、多かれ少なかれ違う個性をもって生まれながら、皆同じように喜怒哀楽を持ち、欲望が満たされれば喜び、希望が叶わなければ泣く存在なのだと思えてなりません。
しかし、今は健常者側が障碍者を、異なる個性として見ずに、欠落した者として捉えていないでしょうか。
その健常者の意識が、障碍者を障碍者に貶めているのだと思えてなりません。
そんなクリスティーが、障碍者という外部からのレッテルを貼られた時に生じた感情的な歪みが、この映画のクリスティーの姿に垣間見えるように思えます。
その障碍者としての外部評価を自分に突きつけられるのが、異性との失恋のシーンです。
そこには人間性や個性ではごまかしようのない、交際相手、結婚相手、子供の父親としての対象としての、完全さを否が応でも求められ、そして拒絶される瞬間だったはずです。友達なら、身内なら、個性として受け入れサポートが可能でも、恋愛対象に理想の条件を求めるのを打算とも言い難いと思うのです。
そんな恋愛に象徴される、他者の線引きに傷つく姿が、ダニエル・デイ=ルイスの演技力もあり、クリスティーの怒りや、喜び、嫉み、楽しみ、苦しみをぶちまける姿がリアリティーを持って迫ってきます。
ここにあるクリスティーの姿は、他の映画で描かれた、弱く、純粋で、天使的な、イノセントな障碍者の姿とは一線を画すものです。
しかし考えて見れば、それらの美化された障碍者の姿とは、他者からのレッテルを受け入れ、健常人ではない自分を受け入れてしまった悲しい姿のようにも見えます。
そこには、正常である、健常であるのが、「正しい」という世間の価値観に、障碍者自ら従わなければ、世間と衝突し生きずらい現実が。
そんな正常、健常という言葉に秘められた価値判断が、障碍者に無言の圧力を掛け、障碍者自身に健常者と同じ日常を送る気持ちを削ぎ、ついには自己の存在を消す結果になっているのではないかと危惧するのです。
この映画のクリスティーを見て、彼の日常を異常だと見る外部の目に対する怒りを感じ、こんなことを考えました。
もう一度言いますが、クリスティーがその体に体現していたのは、差異であり、個性だったのです。
その差異や個性に応じて、クリスティーは、たとえ健常者と違うライフスタイルだったにせよ、彼の日常を生きたのだと信じます。
ここまで私が語ってきた内容は、理想論、キレイごと、だと言われれば返す言葉はありません。正直机上の空論です。 ご不快に思われた皆様にはお詫び申し上げます。 |
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『マイ・レフトフット』解説 |
この映画では看護婦メリー・カーと出会うところから始まります。
しかし、実はこの映画に描かれてないクリスティーの人生も波瀾万丈で、彼が人生をしっかり生きたという姿が見えて感動しました。
クリスティ・ブラウン(Christy Brown 1932年6月5日 – 1981年9月7日) は、ダブリンのロトゥンダ病院で労働者階級のアイルランド人の家庭に生まれた。彼の両親はブリジット(Bridget Fagan 1901-1968)とパトリック・ブラウンだった。彼は22人の兄弟がいた。この22人のうち、13人が生存し、幼児期に9人が死亡した。
彼の誕生後、医師は、彼の手足には痙攣が残り、神経学的に深刻な脳性麻痺障害を有するのを発見した。病院は彼を入院させるよう促したが、ブラウンの両親は従わずその他の子供たちと一緒に家で彼を育て上げると決断した。
ブラウンの思春期に、ソーシャルワーカーKatriona Delahuntは彼の話を知り、ブラウンの家を定期的に訪問し始め、クリスティーに本や絵画画材を数年にわたり与え、彼は芸術と文学に関心を示した。彼は非常に印象的な身体的な器用さを実証し、すぐに、後にいくつかの自家出版となる、文学と絵画をその左足で表現する事を学んだ。
ブラウンはすぐに真のアーティストへと成長した。ブラウンは、公的には、彼が青年になるまで、ほとんど正式な教育を受けていないが、彼は聖ブレンダンの学校、サンディマウント(ダブリン地名)のクリニックに断続的に出席した。聖ブレンダンで、彼は著名な権威者であるロバート・コリス博士と面識を得た。コリスはブラウンが生来の小説家であることを発見し、その後、コリスは自身の知る関係者に働きかけ、長い間温められた自叙伝、ダブリンの活気に満ちた文化の中での日常生活と、ブラウンの闘争について描かれた、マイ・レフト・フットを出版した。
マイ・レフト・フットが文学的な注目を浴びた時、ブラウンに手紙を書いた大勢の中の一人が、アメリカ人既婚女性ベス・ムーアだった。ブラウンとムーアは定期的に往復するようになり、1960年にブラウンは北米で休暇をとり、コネチカットの自宅でムーアと一緒に過ごした。1965年に再び会ったとき、彼らは不倫関係になった。ブラウンはコネチカットに再び旅し、何年も前から書いてきた長大な作品を完成させた。1967年に彼は、最終的にムーアの管理した、厳密な作業計画を導入し、彼(ブラウンが依存していた)アルコールを拒否することによって、仕事を完了させた。
この本は「ダウン・オール・デイ」と題し、1970年に出版され「べスへ・・・・この静かな凶悪さを持つ者は、ついにこの本を完成させた...」とムーアに捧げられた。この間、ブラウンの名声は国際的に広がり続けた。彼は成功した著名人になった。アイルランドに帰国した彼は、彼の姉妹家族と一緒にダブリンの外に特別に設計した家を建設し、移転費用に彼の本の販売の印税を使った。しかしブラウンとベスは、結婚して、新しい家で一緒に住むことを計画していたし、さらにべスは彼女の夫にその計画を告知していたのだが、このころのどの時期かで、英国女性メリー・カーとロンドンのパーティーで会って、ブラウンは恋愛関係になっていたらしい。
ブラウンはムーアとの関係を終え、1972年にダブリンの婚姻登録事務所でカールと結婚した。彼らはダブリン州ラスコーレのストーニー・レーン(現Lisheen Nursing Home所在地)、バリーへイグ、ケリー、そしてサマーセットと転居した。彼は、画業と、小説著作、詩作と戯曲を書き続けた。彼の1974年の「夏の影」はムーアとの関係を元にした小説で、そこでは彼はムーアをまだ友人だと思っていると記されている。(wikipedia英語版より和訳)
クリスティーブラウンのインタビュー映像
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ありがとうございます(^^)この映画で描かれた障碍者の表現にリアリティーを感じましたm(__)m
ありがとうございます(^^)乙武さんの不倫の件、実はちょっと同情的です。勝手な想像ですが、健常者に較べたって、自分はもてるんだと証明したかったんではないかと思えてなりません・・・違ってたら失礼な話ですが・・・・