ぼくのエリ200歳の少女(感想・解説 編)
監督 トーマス・アルフレッドソン 脚本 ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィスト 原題 Lat den ratte komma in 英語題 LET THE RIGHT ONE IN 製作国 スウェーデン 製作年2008/115分 |
評価:★★★★ 4.0点
このスェーデン映画は、漫画『ポーの一族』のようにも、また映画『小さな恋のメロディー』のようにも見える、初々しさとリリカルな詩情が感じられるヴァンパイア映画です。
しかしこの繊細な映画は、ただ美しく可憐なだけではない、深く封された意味が隠されていると思うのです。
『ぼくのエリ200歳の少女』予告
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『ぼくのエリ200歳の少女』感想・解説
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この映画の原題は「 LET THE RIGHT ONE IN=正しき者を入れよ」といいます。
ヨーロッパの吸血鬼伝承の中では、吸血鬼はその家の住人に「入ってよい」という許可を貰わなければ入れないという、言い伝えに拠っているようです。
実際に映画内でもしばしば、入ってよいかと尋ねるシーンが出てきます。
入る許可をくれる? もし許さなかったら?
この映画はそんな、古くから伝わる「民間伝承=民話=フォークロア」の伝統を現代に蘇らせた一本だと感じます。
それらの伝承物語をファンタジーと呼ばせて貰うとすれば、この映画はファンタジーの持つ本来の力を表現した秀作だと思います。
そしてまた、この少年がエリという存在に惹かれ、そして分かち難く結びつく過程こそ、ファンタジーがなぜ現実世界に必要とされるかの具体的な例証だと感じます。
この映画を、子細に見てみれば、実は禍々しいディテールが全編を覆っていることに驚きます。
しかし、西洋の「童話」日本の「おとぎ話」というような「ファンタジー」とは本来、邪悪で反社会的な刺激に満ちていたのです。
シンデレラでは継母が、ガラスの靴に足が入るように娘の指を切り落としますし、白雪姫では姫を苦しめた「実母」が焼けた鉄の靴を履かせられ、死ぬまで踊らされます。
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ギレルモ・デル・トロ 監督
ファンタジーの復権を語った名作
この映画では、現代では弱められたファンタジーの力を呼び戻すかのように、遠慮なく残虐で非道な世界が繰り広げられます。
この物語の主人公オスカーはイジメを受け、そして孤立無援で、苦しんでいます。
さらに、異常性愛も、主人公の父親の同性愛、エリの世話をする男の少女性愛、そして過剰なほど出てくる少年の裸体には、間違いなく少年性愛も秘められているはずです。
こんな異常な現実に追い詰められていく主人公の少年。
しかし、主人公のような「弱き者」を助けてくれる者は、社会も警察も周囲の大人にもいません。
この主人公は、『ヘンデルとグレーテル』のように、社会から捨てられた子供として存在していたのだと思えます。
そんな過酷な現実により追い詰められ、退路を断たれた弱者を救済するのは、幻想世界の力でなければ不可能なように思います。
それは、現実世界が作り出した苦悩である以上、現実以外の存在に仮託して、解消する必要があるからです。
それゆえ、現実を超越した、公序に元ずく「宗教=神」によるか、さもなければ反道徳的な「悪=魔」によって、閉塞した現実の打開を図らなければならないでしょう。
しかし、往々にして宗教は天上の神の名を借りて、社会の安寧と公助良俗を作り出す役割として機能し、むしろ現実社会を管理維持するために「絶対的権威=神」を行使しています。
そう考えれば、現実社会で追い詰められ、落ちこぼれた人間にとって、救われる道とは反社会的な、反道徳的な力に頼るしかないのです。
したがって、社会から捨てられた、この無力な少年は、少女の姿をした「ヴァンパイア」という魔の存在と契りを結ぶのです。
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『ぼくのエリ200歳の少女』去勢の意味
実際この少女の形をしたエリ「ヴァンパイア」は、暴力と血に満ちて破壊し続けます。
このエリは儚げにも虚弱にも見えるかもしれませんが、大の大人を一瞬の内に噛み殺しますし、実は映画の中で老婆の顔を何度か見せます。
そして、決定的なのはエリの世話をずっとしてきたであろう、初老の男ハカンを使い道が無くなれば、情を含みつつも始末する非情さが有ります。
この少年も同じ運命をたどる可能性もあるでしょう。
しかしオスカーにとって、それでも苦しい現実を超克する道は、このスパーパワーを持った「魔物」と共に生きることにしか見いだせないのです。
少年は、エリは去勢された女でも男でもない中性的な存在だと、彼女の着替えを覗き知っています。
少年は、エリがヴァンパイアという「魔の眷属」だという事も知っています。
それでも少年は確かに、このエリに恋していたでしょう。
そんな事から考えれば、この映画が描いた2人はプラトニックなままで、永遠の恋を生きる事を選んだのでしょう。
また同時に「マイノリティー=弱者」のまま生き、戦う決意をした2人だとも思うのです。
マイノリティー映画としての『ぼくのエリ200歳の少女』
この映画のエリは人間の眼を避けて生きており、オスカーはイジメを受けています。
つまり、この二人は世間から虐げられた、マイノリティーとして生きているのです。
この少年オスカーが体験したイジメとは、中世においてキリスト教の抑圧下にあったヨーロッパが、その無意識下に沈殿した不満を「魔女狩り」として解消したのと同じ作用だと思います。
黙っていれば、魔女として抹殺されてしまうことを考えれば、実はエリとはもう一人のオスカーだったようにも思うのです。
この少年は現実世界の冷酷さの犠牲になるより、人間を捨てエリと生きる道を選んだのです。
そしてオスカーは、エリと言う人外の存在を愛することで、自らも生臭いエロスを越えた、永遠の純潔を手にいれたと思います。
そう考えれば、この二人の間にあったものは、すでに恋を越えて…むしろ運命であり、お互いを求めざるを得ない必然の関係だったのではないでしょうか。
この少年が現実の歪みを一身に受けて、魔となって現実世界を超えた姿こそ、真にファンタジーの力を表現したものだと思います。
そしてこの映画は、現代のファンタジーとしてふさわしい、新たなデザインを表現したと感じます。
それは、伝統的なファンタジーとしての「刺激に満ちた異世界」を、叙情性、詩情性によってコーティングしたことです。
見る者は、強い暴力的な刺激と交互に描かれる、潔癖さや純粋性により、かつてのファンタジーが間違いなく持っていた、抑圧された「負の感情」の浄化、「カタルシス」を感じるだろうと思います。
暴力性とイノセント性で効果を上げた作品として、『レオン』を思い浮かべたりもしました
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多分、オスカーも噛みついて、ヴァンパイアにして、二人とも12才にして、一生添い遂げるのではないでしょうか((^^))
ヴァンパイアになって二人で暮らすような展開がいいですね。
追伸:現在サーバー移行で四苦八苦しております。しばらく更新できないかもです。更新できるようになったらまたよろしくお願い致します。
ありがとうございます(^^)ちょっと奇跡的な一本だと思いますね。私はモーリスを見なければ・・・・
Wordpressはサーバー移行作業が有るんですね〜。もしお忙しいようならコメントもご都合に合わせて下さいm(__)m