評価:★★★★ 4.0点
初めて通った道がとても遠く長く感じられたのに、二度目にはさほどにも感じないという経験は無いだろうか。
このジャン・リュック・ゴダールの映画も「初めての道」と同じ迷走感や困惑を、見るものは感じるに違いない。
しかし、この題名の通り「気狂い」じみた混乱も、情報が整理されて慣れ親しんで見れば、二度目の道のように快適に歩む事が可能だと思う。
この映画の中に、個人的には明瞭な「道しるべ」を発見したと感じたので、そのことを書かせて頂きたい。
フェルディナン(J・P・ベルモンド)は妻と娘を持つ家庭人。ある晩妻の付き合いでパーティーに行くことになる。彼はパーティに飽きて帰ったところ、昔馴染の女性マリアンヌ(A・カリーナ)に出会う。彼女の部屋で翌朝目を覚ますと、武器だらけの部屋に首から血を流した男の死体があった。しかしマリアンヌは日常通り、朝食を準備している。そんな部屋にまた別の男が入って来て、マリアンヌとフェルディナンは、ベランダから逃げ出し、車を盗みパリを逃げした。二人はマンガ“ピエ・ニクレ”と銃を持ち、マリアンヌの兄が待つ南仏へと出発した。途中で追っ手を混乱させるため、道端で事故を起こしている車の横に自分たちの車を並べ、火をつけ事故を偽装したが、その車に入っていた5万ドルの大金も一緒に燃やしてしまう。<気狂いピエロ・あらすじ>
それ以降も、金のない逃避行は続き、ギャング団の争いに捲き込まれたり、観光客に物語を語って小銭を稼いだりして二人は旅を続ける。海べリの家では無人島の漂流者のような自給自足の生活を送っていたが、マリアンヌは「こんな生活はイヤ」だと言い出す。そして街に来た時、アメリカの水兵相手に寸劇をして当座の費用を稼ぎ旅立とうかという時、彼女は知人の奇妙な小人に出会いアパートの一室に入り、小人をを鋏で刺し殺すし姿をくらました。フェルディナンがその小人の死体を発見した時、その部屋にギャングが現れ「マリアンヌはどこだ」と拷問される・・・・・・・・
(原題 Pierrot Le Fou/英語題 Pierrot the Madman/フランス/製作年1965/111分/監督・脚本ジャン・リュック・ゴダール/原作ライオネル・ホワイト)
========================================================
気狂いピエロ・感想・解説
========================================================冒頭に書いたこの映画の「道しるべ」の一つは、映画序盤のパーティーシーンにあっただろう。
まずこのパ−ティーシーンには見逃せない、言葉がある。
それはまるで、ゴダール監督のこの映画に対する姿勢を代弁しているかのようだ。
「映画とは何か?」との問いに対し「映画とは、戦場のようなものだ。愛、憎しみ、アクション、暴力、そして死。要するに、エモーションだ」と答えている。
これは、映画をして現実に働きかけをするのだと言う宣言のように思える。
このセリフを言うのが、ヌヴェルバーグ作家達から高く評価されていたアメリカの映画監督サミュエルフラー。
サミュエル・フラー(Samuel Fuller、1912年8月12日 - 1997年10月30日)は、アメリカの映画監督。
マサチューセッツ州ウースター出身。本名はSamuel Michael Fuller。17歳の頃から新聞社の犯罪レポーター、パルプ小説のゴーストライター、脚本家などの職に就いた。第二次世界大戦中、北アフリカからヨーロッパでの厳しい戦闘で勲章を得る。1949年に『地獄への挑戦』で監督デビュー。この時は、わずか10日間で撮影が終了したという。
自らの裏社会での経験、戦争中の困難な体験、そして米国南部での人種差別への取材などから、独特のエキセントリックな作風を生み出している。ほとんどの作品が独立プロダクションの中で低予算で早撮りで作られた。
アメリカではB級映画監督と見なされていたが、フランスなどでは高く評価され、後に米国本土でも再評価された。 晩年は、製作の本拠地をヨーロッパに移し、時にはヴィム・ヴェンダースやアキ・カウリスマキの作品などにゲスト出演した。(wikipediaより引用)
さらにこのパーティーのシークエンスの、変化する色に注目してほしい。
それは赤・白・青と移り変わる。つまりトリコロール、フランス三色旗の色であり、このパーティーは当時のフランス社会を表していると感じられてならない。
彼ら壮年の男女は、車の話や、髪の毛の話を惰性の如く交わすだけだ・・・・
そんなフランス社会に対する、忌避感が主人公フェルディナンにあり、早々に疲れたと中座する。
フェルディナンはフランス社会の保守層を嫌い、フランスの若者達と行動を共にする。
その象徴がマリアンヌであり、
フェルディナンは彼女と共に新たな地平を目指すが、それはフランス社会に背を向ける逃避行とならざるを得なかった。
では、フェルディナンはなぜフランス保守層から離脱しようとしたのだろうか?
その理由は、マリアンヌの部屋に向かう車のカーラジオから流れるニュースが雄弁に語っていると思う。
そのニュースはベトナム戦争のニュースで”駐屯地の攻撃で、べトコンに115人の死者が出た”というものだ。
ここに、この映画のさらなる「道しるべ」が明瞭に提示された。
1965年当時アメリカが戦禍を拡大していた、ベトナム戦争が鍵だ。
ベトナム戦当時の、アメリカ政府とフランス社会に対するジャン・リュック・ゴダール的意思表明の映画だと、考えてみようというものだ。
そう考えて見ると、この映画にはベトナムに関わる記号がそこかしこに出てくる。
マリアンヌの部屋には死体があり、アメリカ軍用ピストル・コルト45が置かれている。
さらに映画の中盤にはそのままずばり、ベトナム戦争の寸劇が繰り広げられる。
アメリカ人にベトナム戦争の劇を見せる二人
ノート:観光客は現代の奴隷だ/アメリカ船員:おいそこで、何やってんだ!/マリアンヌ:チクショウ!アメリカ人だ!/フェルディナン:大丈夫、計画変更だ。簡単な事さ。ドルをくれたくなるような劇を見せてやろう。/マリアンヌ:どんな劇?/フェルディナン:分らないけど、何か奴らがすきそうな物を。/マリアンヌ:分かった、ベトナム戦争よ。/フェルディナン:分った。ベトナム戦争だ。/ノート:アンクル・サムの甥VSアンクル・ホーの姪/アメリカ水兵:ああ好きだね、とってもいいよ、好きだ、いいよ、素晴らしい。/フェルディナン:俳優達に少しばかりドルを。/アメリカ水兵:知ってるかい、ベトナムはハード・・・/マリアンヌ:ピエロ、心配しないで。こうやって取るのよ/アメリカ船員:おい、何するんだ!/マリアンヌ:ケネディー長生きしてね!/フェルディナン:奴等をまいたぞ、裏に行こう/マリアンヌ:嫌よ、踊りに行くのよ。
板に書かれた落書きは、中国の毛沢東とキューバのカストロ議長、反米の二人の顔。
つまりこの映画は、フェルディナンが代表する当時のフランスの中核をなす世代が、ベトナム戦争、アメリカの暴虐に対して「ノン」を言わない状況を憂えた、政治的な作品だと解釈した。
実を言えばフェルディナンはマリアンヌから「ピエロ」と呼ばれる。
そのつど「違う、フェルディナンだ」と答えるクダリが、映画内で十回近く繰り返されるのだが、このピエロという言葉こそ「フェルディナン=フランス保守層」を端的に言い表した言葉ではなかったろうか。
この映画のフェルディナン達=ジャン・リュック・ゴダール世代とは、アメリカ文化にドップリとつかり「アメリカの正義」を信じてきた世代だったはずだ。
それは、ファシズムの圧制からの解放者として登場した、アメリカ合衆国こそ世界に平和と自由をもたらすと世界中が信じたのであるから、一人ジャン・リュック・ゴダールだけの問題ではなかったのだ。
当ブログ関連レビュー:
『勝手にしやがれ』
ヌーヴェルヴァーグ映画の歴史
アメリカ文化に対する愛着と反発を書いています。
そんなゴダール世代が、自らを形成してきたアメリカという国家にベトナム戦争で裏切られ、ここには、まるで己が「ピエロ=道化」ではないかという自嘲があるだろう。
そんなフェルディナンが愛したマリアンヌとは、フランスの若者達であると同時に、すでに不可分にアメリカと結びついた存在として現れてているように感じた。
それは、マリアンヌがしきりに語る「兄」とは、そのまま「アメリカ」を指すものだろう。
つまりは、もうアリアンヌ達若い世代のフランス人にとっては、生れ落ちると同時にアメリカ文化に囲まれ生きてきたのであり自らをアメリカ人と同人視しているという描写ではないか。
そんな、アメリカに裏切られた古いフランス世代と、すでにアメリカ人となってしまったフランス若者世代とに分断された、当時のフランス社会の悲劇の果てに、この映画の壮烈なラストがあったように思われてならない。
さらに個人的に思うのは、「ヌーヴェル・ヴァーグ」とは「ハリウッド映画=アメリカ文化」のフランス的文化変換だったと信じている。
この映画はそんな「ハリウッド=アメリカ文化」に裏切られたジャンリュックゴダールの恨み節であるに違いない。
同時に「ヌーヴェル・ヴァーグ」の反米宣言だと思えてならない。
ま〜イロイロ書きましたが、けっきょく映画を見る醍醐味とは、来た事もない地を歩き「道」を見出す事以上の楽しみはないのではないでしょうか?
モチロンこの映画を「愛」で再構築することもできるだろうし「自然と文明」でも「戦争と平和」でも、見るものが自由に「道」を作れば良いと思うのです・・・・・・物語世界は無限の可能性を秘めて、目の前に広がっているのです。
その物語は、もはや自立的な「実存」を成しているのであり、よしんば作者であってもその世界を完全に読み取る事など出来ないし、たとえ作者がその世界の意味をどう語ろうと、それは作者の感じた一面に過ぎないと言い切っちゃいます。
だから映画ファン達よ、人の言葉にも作者の言葉にも惑わされず、迷わず物語世界に足を踏み入れよう!
そこに必ず、自分だけの道が、自分だけの映画が、発見されるに違いないのだから!
アンナ・カリーナの歌う「私の運命線」がカワイイ
========================================================
スポンサーリンク
========================================================
========================================================
以降
気狂いピエロ・ネタバレ
を含みますので、ご注意下さい。========================================================
========================================================
========================================================
フェルディナンを拷問したギャング達が言うには、マリアンヌが仲間を殺し五万ドル持ち逃げしたという。
居所を知らない彼は解放されて、マリアンヌを探し歩いた。
やっと探しあててみると彼女は密輸団のボス、兄フレッドと一緒にいた。
彼女は、ギャングとの戦いにフェルディナンを巻き込んだ。
ギャングとの戦いの末奪い取った金を、マリアンヌと兄フレッドは持ち逃げした。
フェルディナンは二人がいる島へ、海を越え乗り込み二人を拳銃で射ち殺す。
========================================================気狂がいピエロ・ラストシーン
========================================================
フェルディナンは顔を青く塗り、赤と黄のダイナマイトを持って死へと向かう。
赤青黄とは色の三原色であり、全てを重ねれば太陽の光の色となる。
つまり、もともと自然の存在であったはずの人間が、思想や政治体制により分断される事で世界に戦いが生まれるのだという自嘲と悲劇を象徴するシーンだ。
ノート:芸術・死/フェルディナン:何と言うか・・・・気に病むこともない。(火をつける)俺はバカだ、クソ、クソ、死だ・・・・
上記のセリフに含まれた、矛盾と逡巡と狼狽は、人間存在が世界に不要だと達観しても、「死=人間の消滅」が本当に正しいのかと言う反問ではないだろうか・・・・・・
そしてフェルディナンの去った、静かな海にアルチュール・ランボーの詩『永遠』が、2人のセリフとして発せられる。
また見つかった
何が
永遠が
海ととけあう
太陽が
人がいなくなった跡には、分断や争いが消え、永遠の自然調和が広がっている・・・・・
スポンサーリンク
【関連する記事】
ありがとうございます(^^)勝手なこと言ってますが・・・・ワケワカランという意見が多かったようなので、一例を上げてみましたm(_)m
しかし『気狂いピエロ』という題名には惹かれますね〜。
「勝手にしやがれ」も気になります。
ありがとうございます(^^)フランス・ヌーヴェルバーグ映画の一本ですが・・・・・・楽しい映画というよりは、楽しみを探し出す類の映画だと感じます。しかし、好みが分かれるかもしれませんm(__)m