2021年01月27日

古典映画『七人の侍』はなぜ偉大か?超娯楽アクションの傑作!/感想・解説・黒澤リアリズム・ネタバレなし簡単あらすじ

世界のクロサワの痛快リアリズム活劇!!

英語題 Seven Samurai
製作国 日本
製作年 1954年
上映時間207分
監督 黒澤明
脚本 黒澤明、橋本忍、小国英雄


評価:★★★★★ 5.0



スタートからラストまで面白い。
あまりにも名声が高くなったため、芸術作品のように言われるが、どう見ても西部劇の砦の騎兵隊と、インディアンの闘いを日本に置き換えた娯楽大活劇である。
しかし、この作品におけるリアリティーの見事さは、映画にとって大事な要素が何なのかを教えてくれる。


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<目次>
映画『七人の侍』簡単あらすじ
映画『七人の侍』予告・出演者
映画『七人の侍』感想
映画『七人の侍』解説

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映画『七人の侍』簡単あらすじ


収穫が目前に迫る農村では、農民達が迫る危難に寄合いを持っている。収穫後に去年と同じく野武士が襲来すると知ったからだ。長老の儀作(高堂国典)は侍を傭うと決め、利吉等を侍探しにおくりだした。歴戦の古強者の勘兵衛(志村喬)が村人の願いに応え、五郎兵衛(稲葉義男)、久蔵(宮口精二)、平八(千秋実)、七郎次(加東大介)、勝四郎(木村功)を選抜した。そこに菊千代(三船敏郎)という野武士のような男が付いて来た。その菊千代も仲間に加えて七人の侍は村に向かう。勘兵衛の指揮の下、村の防衛体勢は整えられ、村人の戦闘訓練も始った。いよいよ収穫が終り野武士が村に襲来した。七人の侍と村人の命がけの戦いが始まり、夜討によって、野武士十人を斬ったが、侍側も平八が火縄銃に倒れる。夜が明け野武士は騎馬で村に襲いかかる。侍、村民が手に手に武器を持って応戦した。翌朝激しい驟雨の中、野武士は残った十三騎が村になだれこみ決戦を挑んできた。斬り込んだ侍達と百姓達は死物狂いの闘いをいどむのだった・・・・・・・・・・
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映画『七人の侍』予告


映画『七人の侍』出演者

志村喬 (勘兵衛)/稲葉義男 (五郎兵衛)/宮口精二 (久蔵)/千秋実 (平八)/加東大介 (七郎次)/木村功 (勝四郎)/三船敏郎 (菊千代)/高堂国典 (儀作)/左卜全 (与作)/小杉義男 (茂助)/藤原釜足 (万造)/土屋嘉男 (利吉)/島崎雪子 (利吉女房)/榊田敬治 (伍作)/津島恵子 (志乃)/三好栄子 (久右衛門の妻)/熊谷二良 (儀作の息子)/登山晴子 (儀作の息子の嫁)/清水元 (蹴飛ばす浪人)/多々良純 (人足)/渡辺篤 (饅頭売)/上山草人 (琵琶法師)/小川虎之助 (祖父)/安芸津融 (亭主)/千石規子 (女房)/千葉一郎 (僧侶)/東野英治郎 (盗人)/田崎潤 (大兵の侍)/上田吉二郎 (斥候A)/谷晃 (斥候B)/高原駿雄 (鉄砲の野武士)/山形勲 (鉄扇の浪人)/大村千吉 (逃亡する野武士)/成田孝 (逃亡する野武士)/仲代達矢 (街を歩く浪人/ノークレジット)
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映画『七人の侍』感想


この映画の活劇の、その迫力と激しさは、凡百のアクション映画の比では無い。
白黒画面も相まって、肉弾相撃つという重量感のある格闘は見る者を圧倒する。
戦闘シーンにおける、雨の描写、格闘の激しさ、細部の徹底した作りこみ、そのあくなき黒澤監督の職人的な追及が、一つ一つのシーン、シークエンスに、その場に立ち会うかのような臨場感を与えたのである。

例えばこの後リメイクされた「荒野の7人」と見比べてみるといい、アクション・シーンが軽いものだから、派手さはあるものの映画全体にリアリズムが感じられず、結果として表現に強さと迫力がなく、説得力が失われてしまった。


黒澤監督の初期映画で評価が高い作品は、この映画における大活劇のようにエンターティーメント性が高い。

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不思議なこと黒澤監督の初期作品では、娯楽性の追及がテーマの深化に寄与する構造を持っていた。


そもそも黒澤監督の資質は、芸術家というよりは職人として、純文学ではなく大衆文学作家として、優れているように思う。

その、娯楽表現を高めるため、迫真性を追求した結果としてリアリズムに到達したのではないかと想像する。
黒澤監督自身、それまでのチャンバラのような舞踊的表現では目新しさがないと言った言葉に表されるように、新しい娯楽表現、新しい刺激の追及の果てに、この「七人の侍」や「用心棒」のような、「黒澤リアリズム」に到達したように思える。

アクションシーンのリアリティ

複数のカメラによって一シーンを撮影する「マルチカメラ方式」を取ったことで、格段に編集の自由度が上がった。状況説明のカットから、アップの場面への転換のリズムで迫力を生み、観客の目線の誘導をカメラと同調させることで臨場感を高めて、強いリアリティーを生んだと感じる。

そして、その「娯楽性リアリティー=アクション迫真力」の追求の陰に、アメリカの西部劇、特にジョン・フォード監督の影響があるとにらんでいる。
特にこの『七人の侍』は,ジョン・フォード映画『駅馬車』との強い類似を感じる。
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関連レビュー:1939年の西部劇の革新
映画『駅馬車』
ジョン・フォード監督、ジョン・ウェイン主演の西部劇!
アクション映画と感情表現の関係とは?

しかし、黒澤監督はそのオリジンを見事に翻訳、変換を加え、迫力と娯楽性を高め、アクション映画の革新を生んだという事実こそ天才たる由縁なのだ。
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映画『七人の侍』解説

クロサワ・リアリズム

黒澤監督の初期作品は、基本的に娯楽作として卓越した力を持っており、その娯楽性を高める方法として結果的にリアルな表現に達したと見える。

例えば、『椿三十郎』などのラストの殺陣は、その徹底したリアリティー追及のため、出演者すべてを騙すほどの念の入れようだった。
ネタバレを気にされないのであれば、下のレビューで仲代達矢が語るラストシーンの舞台裏を書いているのでお読み下さい。
関連レビュー:1962年
黒澤明監督『椿三十郎』
黒澤時代劇の痛快娯楽作品!黒澤時代劇のルーツとは?
三船敏郎と仲代達矢、その壮絶なラストの決闘を見逃すな!

しかし、たとえ娯楽の追求の結果だとしても「リアリズム」自体が「創作物」にとっては錬金術の役目を果たしうるのである。

なぜならリアリズム=「現実感・本当らしさ」を表現でき得れば、見る者を映画世界に取り込み、その世界に感情移入を促す強い力を持ち得るからである。

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それは日々現実を生きる観客にとって、現実と同様の「ホンモノ」を認識するならば、それを虚構の中に見出したにせよ、その「映画=虚構」は自らが生きる現実と等価となり得る。
そのとき観客は「無から有」を生み出すごとく「映画内を実際に生きる」経験を得るだろう。

これは端的にいえば「オレオレ詐欺」と同じ詐術、構造ではある。
つまり嘘が現実味を帯びて、本当としか思えなければ、現実的に人を動かし得る力を持つということだ。
大事なのは、「本当」として感じさせることであり、黒澤の映画にはそれがあったのである。

このリアリズムに騙された観客は、再度言うが、もう映画内のイカナル出来事も我が身に起きた事件としなければならない。
そしてつまるところ、物語の成功とは観客を物語内に参加させることに尽きるであろう。

なぜなら、強い感情移入が促されれば、たとえ宇宙人が宇宙に帰るというドラマであっても、人はその運命に涙するのだ。

いずれにせよ、この「七人の侍」は細部に対する徹底した作りこみによって、リアリズムを構築するための教科書とも言うべき一本だと思う。
その結果として感情移入を促された観客にとって、この映画の娯楽としての力が増したことは、間違いないはずである。

同時にこの「リアリズム」という錬金術は、例えばイタリアの「ネオ・リアリズム」でも判るとおり、現実を映す強い力が有るがゆえに、その表現自体が社会的・芸術的な力を保持する。
関連レビュー:1948年のネオ・リアリズモの古典
『自転車泥棒』
イタリア・ネオ・リアリズモの代表作!
第二次大戦後の貧窮のイタリア社会描いた古典

芸術というものの属性に、未だ知りえない新しい世界を切り取る力を想定するとき、「リアリズム=現実描写」以外に近代に至って否応なく直面させられた「神の不在」という、現実の世界を映し出す方法を持ち得なかった。
それゆえ、神に頼れないという無慈悲な現実世界を生きる近代人が、その救済を求めて物語を構築するためには、リアリズムに寄らざるを得なかったのである。

従って、この『七人の侍』におけるリアリズムが仮に娯楽に奉仕するためのそれであっても、同時に芸術性を保持することが可能であったのは、その映像表現のリアリズムが、近代に有ってはそのまま芸術表現と同義であるという事情によるものだったというのは言い過ぎだろうか。
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更に邪推をすれば『羅生門』『七人の侍』に向けられた評価に、海外から芸術としての言及が増えるにつれ、黒澤監督本人にも芸術志向が生まれ、強まっていくように思うのである。
だがそこに、黒澤監督の混乱を個人的には感じてしまう。
黒澤作品で評価された芸術性が『羅生門』『七人の侍』の持つ、映像のリアリズム表現という「美術的な力」に在ったにも関わらず、黒澤自身は人文学的な「理念」こそが芸術性だと、考えてはいなかったろうか・・・

だが、黒沢が表現したかった人文学的な「理念=黒澤ヒューマニズム」は、生硬な「理想主義」を掲げた作品となって、往々にして陰惨な硬直性を持ってしまうと、個人的には感じられるのである。
その芸術志向が、作品の映像として消化され違和感なく表出されるには『デルス・ウザーラ』まで待たねばならないだろう。

いずれにせよ、この映画『七人の侍』は観客と評論家の両方の支持を得て、不朽の名声を勝ち得た。
映画史に永遠に刻まれた古典として、語り継がれる傑作である。

関連レビュー:黒澤監督のもう一つの傑作
『羅生門』
戦後日本の真実を問う黒澤映画の傑作
各国の賞に輝く世界的に高評価の古典




posted by ヒラヒ at 17:00| Comment(4) | TrackBack(0) | 日本映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
こんばんは( ̄▽ ̄)おお〜「荒野の七人」の・・・何か真面目な感じが強いですね。やはり日本人のほうが真摯?な戦い方ですかね・・観る機会はあるのだろうか(笑)
Posted by ともちん at 2016年12月31日 17:10
>ともちんさん

>ありがとうございます((^^))この当時は、戦い=戦争で軽くは書けなかったかも知れないですねぇ。前後編のながーい映画ですので、年末年始位しか見れないんじゃないかと思いご紹介しています。
Posted by ヒラヒ・S at 2016年12月31日 18:07
今年の締めに相応しい作品ですね!
これは名作ですよ!
さすが黒澤明監督です。
今年は大変お世話になりました。来年もよろしくお願いできたらと思っております。
では良いお年を〜
Posted by いごっそ612 at 2016年12月31日 20:11
>いごっそ612さん
ありがとうございます(^^)名作ですよねぇ〜
こちらこそ大変お世話になりました。
来年もいろいろ教えてください。よろしくお願いします。
良いお年をm(__)m
Posted by ヒラヒ・S at 2016年12月31日 21:23
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